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    bin_tumetume

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    bin_tumetume

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    『もう少しだけ悪い子でいさせて』「ただいま」
     灯りの消えた玄関に、ぽつりと零した自分自身の声が反響する。きっとこの音量ではキッチンまでは届いていないだろう。格子にすりガラスの嵌った木製のドアの向こうから漏れる光が、じゅうじゅうと食材の焼ける音が、同居人である彰人の居場所を俺に教えてくれていた。
     体ごと振り向いて、なるべく音を立てないように気をつけながらドアを閉めて施錠をする。緩慢に行ったそれだけの動作でも酷くくたびれてしまって、口からは知らず溜め息が漏れていた。
    「おかえり、冬弥」
     どきり。名前を呼ばれて、鼓動が跳ねた。別に悪いことなど何もしていないのだけれど、突然背後に立たれれば誰だって驚く。いつの間にか、料理の音は止んでいた。
    「た、ただいま……」
     振り返ると、世界で一番愛おしい人がエプロン姿で立っている。なぜだか無性に体が重くて、靴を脱いで玄関の段差を上がるだけの簡単なことが出来ずに幼い迷い子のようにその場で立ち尽くす。どちらも動かず、それ以上は何にも言わないでただ見つめ合うだけの不思議な時間が流れた。彰人に出迎えのお礼を言わなければ。そう思うのに、口は真一文字に引き結ばれたまま動いてくれない。
    「ん」
     たったの一音。鼻を鳴らすようにして、彰人が口にする。両手を広げて、俺を迎え入れようとしてくれる。その姿に、花を求める蝶々のようにふらりと一歩を踏み出して、あとはなし崩しに誘われる。行儀が悪いのに、足だけで靴をその場に脱ぎ捨てて三和土の段差を上がる。靴を揃え直さないと。ああ、でも今はそんなことよりも。
     彰人の正面までやってくると、その長い腕がしっかりと俺の体を包み込んでくれる。おそるおそる彰人の肩に顎を乗せると、彰人の香りが鼻腔をくすぐる。たっぷりと吸い込んで、ゆっくりと吐き出せば、強ばっていた自分の体がほどけていくのがわかる。
     重くはないだろうかと心配は頭の片隅にあるけれど、どうもこの眠気のような誘惑には抗いがたい。とろりと溶けだすみたいに、彰人に体を預ける。柳腰にそっと両腕を回すと、背中をあやすようにぽんぽんと叩かれた。
    「おつかれさま」
    「……うん」
     そうか、疲れていたんだな。と、ここに来てようやく自分の状態を理解する。確かにここ数日は、音楽活動にバイトに授業に課題にとたくさんのタスクがスケジュールに組み込まれていて休む間もなかった。
     耳元でひそめられる囁き声が、心地よく耳をくすぐる。ああ、彰人の声だ。
    「明日は休みなんだろ?」
    「うん」
    「もう少しでメシもできるし、冬弥は先にシャワー浴びて、あとは寝るだけにしとけばいい」
    「……うん」
     彰人の手は背中から頭に伸びて、髪を梳くように俺の後頭部をゆっくりと撫でていく。そういえば、彰人とこうして触れ合うこともずいぶんと久しぶりだ。自覚してしまえばどうにも離れがたくて、ぐり、と肩口に頭を擦り付ける。
    「冬弥?」
    「うん」
    「夕飯、作れねえんだけど」
     そんな苦情も、声が笑っている。文句を言うわりに、全く困っているように聞こえない。何故だか分からないが、彰人は今のこの状況がどうにも面白いように感じるらしい。
    「うん」
     彰人の迷惑でないのならば、もう少しだけこのままでいたい。返事ばかりは良い子のままで、腕の中に収まった温もりを堪能する。
    「とうや」
    「……うん」
     つんつん、と人差し指が後ろから肩をつっつく。
    「離してくれない悪い子には、キスするけど」
     言うが早いか、こめかみにちゅっとキスを落とされた気配がする。いや、俺が鼻筋を彰人の肩に埋めているせいで、こめかみを狙ったのだろうが側頭部に着地したのが正しい。
    「それは……、ご褒美じゃないか?」
     のそり、と頭を持ち上げる。そんなの取引にならない。彰人からキスしてくれると言うのならば、俺は喜んで悪い子になってしまう。
    「お前はいつもはいい子だから、ちょっとくらいいいんだよ」
    「そういう、ものか……?」
    「そ。そういうもん」
     今度は頬に。俺のものより肉厚な唇が、今度は頬に触れた。彰人が言うのならば、そうなのだろうといつもより怠惰な思考回路が納得する。
     きっと今日は、夕飯が夜食の時間になってしまっても、脱ぎ散らされた靴が不揃いのままでも、構わないのだ。彰人がそう言うのだから。
     だから今だけ、もう少しだけと欲張ってみる。俺が良い子に戻れるようになるまで、この愛しい人と抱き合って、優しい口付けを享受していたかった。
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