原稿2ある日、私の順番が来たわ。綺麗に肌を磨かれて、髪を梳られた。白い絹を身に纏い、黄金の刺繍がされた飾り帯を腰に巻かれる。肩にはフレッシュなブルーロータスが飾られたわ。まるでギリシャ神話の女神のようなドーリス風キトーンを着せられたの。綺麗に化粧をされて、何人かの女と共に部屋を出た。
「何で、こんな服を着せるの?」
世話役の男は私に振り向き、ひと言だけ言ったの。
「美しくラッピングして差し上げたんですよ。感謝なさい。それに、あの御方のお手を必要以上に煩わせることもないでしょう」
この部屋を出てから、一夜で消える女もいたし数日後に消える女もいた。私はどうなるのか。不安がないと言ったら嘘になるでしょう。でも、周囲の女たちの足取りは軽かったの。私も従うしかなかったわ。
地下室から出され、階段を上がっていく。案内された部屋は、大きな窓から輝く星が見えた。広くて豪華な部屋の中央には、大きなベッドが置かれていたの。金色の美しい髪の一人の男が、そのベッドに横たわっているのが見えた。その肌は冷たいほどに白く透き通り、陽の光を知らないようだったわ。
エジプトの夜空に輝く闇夜の月。瞬く星々は彼を見ると、皆消え去ってしまう。そんな怪しげな美しさだった。赤く濡れた唇の奥からは、真っ白な犬歯が見えていた。まるで、吸血鬼のような……。
その瞳は血のように赤かった。全てのものを見透かすような視線が、私をじっと見つめる。私は理解したわ。彼に会うためにこの地へ来たのだと。
「お前、珍しい病いを持っているな」
甘さを纏う低い声が、不意に耳元から聞こえて来る。いつの間にか、神と呼ばれる男は私の隣に立っていたの。冷たい吐息が首筋を撫でていく。本当ならば、恐怖に怯えてもいいはずなのに、私の口から出た言葉は違っていた。
「神よ……貴方様のお名前は?」
室内にいた世話係の男が不機嫌な顔で、私をじっと睨んでいた。
「チッ――不躾な女ですね」
世話係の男は一歩前へ出て、私と神の間に割り込もうとする。でも神はゆっくりと私の手を取り、そっと口づけた。
「DIOだ。女よ――」
その瞬間、唇から花びらが零れ落ちた。私は生まれて初めて花を吐いたの。薔薇の香りが周囲に撒き散らされる。私は自然に跪いてしまった。
――ああ、私……今、恋に落ちたんだわ――
何故かそう確信したわ。ベッドの向こう側から流れる血の匂いをかき消すように、口から溢れ出るのは色とりどりの薔薇の花びら。DIO様の顔を見上げると、再び吐き気が込み上げた。隣に立つ神が、楽しそうに笑う声が聞こえる。
口から溢れ出る花は、床に散らばっていったわ。高貴なるその御方の足元に、広がる薔薇の海。
「お前、花を吐くのか。なかなか面白い女だ。……お前には時間をやろう。せいぜい俺を楽しませろ」
世話係の男に手を引かれ、私は地下室に戻されたわ。その日から、私には重要な役割が与えられた。神を楽しませること。
花を吐く病の私が、初めて恋した相手は神だった。今まで、片思いなんてしたことはなかった。誰かを想い、眠れぬ夜を過ごすなんて……まさか、この私が。
「神と呼ばれていますが、あの御方は吸血鬼なのですよ。本来ならば、あなたの役目は食料であること、そして神を慰めることですが……退屈しのぎになることが、今の務めのようです」
世話役の男は大きな溜め息を吐いたけど、私の勝ちだった。私の部屋は地下室から陽の差す二階へと代わり、短時間なら屋敷の庭に出ることを許されたわ。隼は威嚇するけれど、私を襲う事はしなかった。
この髪は夜よりも黒く輝き、肌はきめが細やかになり健康的に水を弾く。彼の部屋の大きなベッドの上に私は横たわる。ベッドの下に投げ捨てられたその他大勢の女たちとは違うのよ。
空腹を満たすただの食料ではなく、彼に純粋な楽しみを与える唯一の女。私は真っ白いシーツの海に、血よりも鮮やかな赤い花びらを撒く。黒い爪が肌を掠める度に、華やかに香り立つ白い花びらを吐き出す。
でも、どんなに私が想っても、神は振り向きはしない。私の吐く薔薇の花びらの中で、密やかに激しく私を抱くだけ。冷たい躰にこの身を沿わせ、私たちは愛を交わす。いえ、そこには愛なんてない。私はただ、冷ややかな視線に晒されるだけの存在。それでもよかった。あの御方の身近にいられるだけで、私は幸せだと思っていたの。
いいえ、私はあの御方の心が欲しい。生まれて初めての花を吐くような恋心。燃え上がる炎のような想いは、私に花を吐かせ続ける。花吐き病の私は、ただ花を吐き続けるだけ。届かぬ想いに身を焦がしながら。涙とともに血を流しながら。
私は言葉を紡ぐことが許されない。あの御方に愛の言葉を捧げることは、許されなかったの。いえ、愛の言葉を紡いでも、あの方には届かなかったでしょう。
――昔むかしのお話……シェヘラザードは王のために物語を捧げる。恐ろしい人殺しの王へと、殺されぬように言葉を紡ぐ――
ーー私はあの御方のために、花びらを吐く。あの御方に殺されないように……いえ、あの御方に恋をして花を吐くのーー
食糧である床に捨てられた女たちと私は違う。そう何度も何度も、自分自身に言い聞かせる。それなのに、心を乱すのは敗北感。この想いに応える言葉は与えられない。
床に横たわる女たちは、至福といえる表情を浮べている。血を吸われ、快感の中でその命の火は消されている。なのに、何故こんなに苦しいのかしら。こんなに悲しいのかしら。
何故、彼女たちに負けたような気がするのかしら。
百日の間、私は花を吐き続けたわ。時が満ちたときに、私は花を吐けなくなったの。
「お前……そうか、身籠もったのか」
神の言葉が遠くから聞こえてくるようだったわ。私が……身籠もった? 神の子を?
それでは、私は勝ったのだわ。床に横たわる女たちに。愛が与えられ、私は花を吐かなくなったのだわ。きっと、神も喜んで下さるはずだわ。
「ジョースターの血を引く嬰児(みどりご)か……これで、この女を殺すことは出来なくなった」
神は私に飽きたら殺すおつもりだったのだわ。それなのに、涙も出ない惨めな私。花を吐かない私には、何の価値もないのでしょうか。
「つまらん。肩にジョースターの星を持つ赤ん坊か……」
「待って! 私、花を吐くわ。待って! 妊娠なんてしてないわ」
神は振り向きもしなかった。世話役の男が私に目隠しをしたわ。そのまま引き摺って部屋から運び出された。いつの間にか気を失っていた私は――気付くと、汚い路地裏に倒れていたの。攫われた時と同じ服装で、荷物も金もなくなったものはなかった。
攫われた時と、寸分違わぬ姿で私は目を覚ました。
――シエヘラザードは千日後に王の子を産んだ。二人の愛の結晶として――
――百日後に、私は神の子を身籠もった。愛のない子をこの身に宿し、私は神に捨てられたの。殺す事さえもせずに――
「やれやれ、厄介な女でしたよ。花吐き病? 花も吐けないあなたに、あの御方は興味を失ったようです。それに、ジョースターの血を引く赤ん坊……あの御方の気まぐれにも困ったものです。こんな女、殺してしまえばよろしかったのに」
お前を産んでから、私はまた花を吐くの。せめてお前が、神のように燃えるような金髪ならば。血のような赤い瞳を持っていれば。あの御方は私とお前を迎えに来たかしら。
でも、黒髪のお前じゃあ、あの御方は迎えに来ないわ。今でも私は花を吐けるのに。あの御方を恋い慕っているのに。
「だから、初流乃。お前は恋なんてしちゃあ駄目よ。お前の恋なんて叶う筈がないんだから。金髪じゃあないお前なんて、誰も愛しちゃあくれないわ」
だから、忘れないで。ちょっとだけ昔の百夜物語を。シエヘラザードになれなかった女の物語を――