「オーバーオールの英雄」先生+モーガンぱちんと木のはぜる音に目を覚ます。
周囲は暗い。アパラチアの原野に夜が来たらしい。
死ねなかった、そう判断し身を起こす。
違和感に頭をさする。頭と腕には包帯が巻かれていた。あちこちにズレた巻き具合から、手当した人間の苦労が見て取れる。不思議と痛みは無い。
「気がついたかい?」
焚き火の向こうから優し気な声が届く。
肩幅の狭い男性だ。アジア人らしい。
眼鏡の奥の琥珀色が俺をじっと見つめている。
「君がこれを…」
こくりと頷く。彼は笑っていた。
「君はモーガン・スミスだろう?
俺だよ、同じボルト76のシュウ・ミナモトだ。君に戦闘訓練をして貰ったんだけど、覚えてはいないかな?」
思い出した。
そんな名前の少年に訓練をつけた覚えがある。教えた分だけ身につけて、あっという間に終了過程まで終わらせた者が1人だけいた。
功績こそ華々しいがあまりにも手が掛からず、印象もその分薄い。
月日とは恐ろしいものだ。
いつかの少年は、今では30代になっている筈だ。ボルトの中で奪われた時間の長さを突きつけられたような気がして目眩がした。
「俺は…死ぬ気でいたんだ。生き残ってしまった」
投げやりに言い放つ。
もはや保つ体裁も、誰かを気にかける気力もない。
妻はとうの昔に死んでいた、手放してしまった恋人は既に次の相手を見つけていた。
ボルトの扉は固く閉ざされ、俺に戻る場所は無い。
瞬く間にすべてを失い、元から患っていた精神疾患がいとも容易く再発した。
曖昧な意識の中、フェラルの様に体を引きずり野山を彷徨った。血と泥に塗れ、目にしたアボミネーションを次々に殺し、殺されるのを待ち、弾切れの後に名前の無い屍になる筈だった。
全てがもう、どうでもよくなってしまっていた。
彼の善意にも、感想を抱く程の感情が湧かない。シュウはそんな俺を見て眉を下げた。
「君の覚悟を無碍にして、すまなかった」
意外な言葉だった。アジア文化圏の挨拶なのだろう、深々と頭が下げられる。
「でも、倒れている者を捨て置くことはできなかったんだ。同じボルト出身者ならば尚更だ。」
未だにこんなお人好しがアパラチアにいるとは。農夫のようなオーバーオールが、薄闇に馴染めず浮かんでいる。
「…気まぐれで助けた訳じゃない。
これでも覚悟の上のつもりだよ」
低くはっきりとした声。
視線がかち合った。瞬きすらない。
頼りない体躯からは考えられない程の意志を感じ、息を飲む。
「目にしたものを無視は出来ない。
俺が気にかけ無ければ、それは最初からなかった事になってしまう。」
そうだろう?とシュウは焚き火の灯りに照らされた先を指差した。
土が盛られ一輪のアザミが置かれている。即席の墓地だった。お人好しもここまでくると徹底している。何かの敬虔な信者かとも思ったが、彼の口からは神の1文字も聞いていない。
「モーガンさん。
君はまだ自分の命を終わらせたいと思っているのかな…」
沈黙し、墓を見たまま考える。
あれは運が悪かった方の俺なのか。
それとも運が良かった方なのか。
シュウとの会話が続き、俺は自分の処遇をどうするべきか分からなくなっていた。
「俺は…」
シュウは自らの胸に手を置き、大丈夫だと言わんばかりに不敵に微笑んだ。
「もし迷いがあるなら、その命。
俺に預けてくれないか。」
「え…」
「君の戦闘技術の高さはよく知っている。
その力、みすみす失うには惜しいんだ。」
認められ、必要とされている。不思議と心が擽られるのがわかった。
「俺と共に戦ってくれないか?
アパラチアの生物全体に危機が迫っている。
スコーチ病は人間だけの問題ではないんだ、俺は生物学者としてこの状況を見過ごせない。」
緑色の片鱗。
スコーチ病を患うヤオ・グアイを見かけた事がある。人間同様、赤くただれた皮膚に結晶化した片鱗を生やしていた。
あれを気にかけているというのだろうか。
おかしな男だと思った。
今日を生きる事で必死な者が他者から奪い殺し合う。それがアパラチアの現状だ。
それなのにこの男は他の人間を、ましてや生物全体を救いたいという。
他の人間とは、俺とは視点がまるで違う。それは狂人だからでは無い。
俺とは持ち得る視点と、知識がまるで違うのだろう。語り口から伺える。
捨てようとした命だ。
最後に、この変わったお人好しに賭けてみるのも悪くは無いだろう。
何より、彼が何をしようとするのか見てみたい。
「…どれだけ君の力になれるかわからないし、約束も出来ない。それで良いなら手を貸すよ。」
シュウの表情がぱあっと明るくなった。
「ありがとう…!」
身を乗り出し、ぐっと拳を握る。よほど嬉しいらしい。
「こんな話だ、協力者を募る事もままならなくてね。人を雇う資金も無いし…」
はは…と情けない笑いを溢し頭を掻く。
気づけば俺も笑っていた。
「モーガンさん。
生きていてくれて、ありがとう。」
穏やかな眼差しが注がれる。
すっかり冷え切った体に、頑なな心に。
彼の言葉がじんと響いた。
「…こちらこそ」
彼にならい会釈をしてみせた。
シュウは焚き火に炙らせていた串焼きを引き抜き、笑いながら手渡す。
「なら、2人の生存に乾杯しようか。
ビールは飲めるかい?」
「ああ」
久しぶりの飲料を喉に通す。
活力が戻るのがわかった。
串焼きを噛むと、口内に炭化した苦味がじわりと溢れ出す。
「苦いね…」
「すまない。どうにも苦手なんだ、料理が…」
シュウが、がくりと肩を落とす。
思わず笑いが溢れた、明日からは俺が焼いてやろうと考えた。
東の空を仰ぐ。戦前と変わらない星空が、果てしなく広がっていた。