猫になった蛍と魈の話「……蛍?」
望舒旅館の最上階。しん、と静まり返ったこの場所で、魈は目を瞬かせる。目の前には顔を真っ赤にして涙目になった蛍がいた。特筆すべきは、その姿。
白金色の髪から伸びるのは柔らかそうな猫の耳。尻の方からはゆらゆらとしっぽが揺れている。
「ど、どうしよう魈……っ」
魈の姿を確認した蛍は、感極まったように魈の元へと抱き着く。感情がリンクしているのか、蛍の頭についている耳がへにょ、と萎れた。
魈はというと、心底面倒くさそうな表情を浮かべながら蛍を頭のてっぺんからつま先まで観察すると、危険なものでは無いと判断したのかみゃーみゃーと騒ぐ蛍の背をとんとんと優しく叩いた。
仮にも恋人に向ける顔では無いと思う、と少し唇を尖らせながら蛍はぎゅっと魈に抱き着く。
「落ち着け。順を追って話せ」
「あのね……」
場所は移り、自由の国・モンド。
「ハロウィン?」
ぱちくりと目を瞬かせ、いつもとは一風変わった服に身を包んだ少女──クレーを見つめる。
「そうだよ!ママが教えてくれたんだ、遠い国にはね、ハロウィンってお祭りがあるんだよ。仮装してお菓子をくれないと悪戯するぞ〜って言うとね、お菓子が貰えるんだって!」
「なんだそのお祭り!最高じゃないか!」
うひゃあ、とパイモンが歓喜の声をあげた。よく見るとその口にはヨダレが垂れている。本当に食いしん坊なんだから、と口元をハンカチで拭いてあげた。
「だから今日はシスターの格好をしてるんだね。本当にそんなお祭りがあるの……?」
「うん!この服はバーバラお姉ちゃんが作ってくれたの!ママは嘘つかないよ!だからね、栄誉騎士のお姉ちゃん!お菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうよ!」
両手を差し出す可愛らしいシスタークレーに、先程作ったばかりのパンケーキを渡す。はたして何を祝しての祭りなのかは検討もつかないが、クレーが楽しそうなので良しとしよう。
「お姉ちゃんもハロウィンしようよ」
「うーん、楽しそうだけどこの後璃月に行かなきゃいけないの」
「そっかぁ、クレーもついて行きたいけど、この後ガイアお兄ちゃんと約束してるから……」
「楽しんでおいで」
しゅんとしたクレーの頭を撫で、蛍は微笑む。パイモンはお菓子に思いを馳せているのだろう、よだれを垂らしてくるくると周りを回っていた。
「そうだ!これあげるね。アルベドお兄ちゃんが作ったの。よくわかんないんだけど、これを飲むと感覚が研ぎ澄まされる、って言ってたよ。また一緒に冒険に行こうね!約束だよ!」
ころりと猫の形をした錠剤のようなものを渡され、蛍は困惑しながらも受け取る。ばいばいと元気よく手を振るクレーに手を振り返し、璃月に続く道を急いだ。
*
「それで、璃月での依頼も終わって、魈に会いに行こうと思って歩いていたんだけど、途中で犬探しを頼まれて 」
「使ってみようとその怪しい薬を飲んだと?」
「……はい、ごめんなさい」
魈の表情は険しい。それもそのはず。知り合いから貰ったものとはいえ、得体の知れないものを飲むなど愚の骨頂だ。
「その、薬を飲んだら……耳としっぽが生えて……犬探しはパイモンに任せて、隠れるようにここに来たの。」
「……見たところ、悪いものは感じない。時間が経てば治るだろうな」
「どのくらい……?」
「それはわからん。そもそも、その錬金術師に聞けばいいのではないか」
「だって、こんなの誰かに見られたくないよ。」
この格好のままモンドに戻るのは無理だ。耳はどうにか隠せても、しっぽが隠せない。スカートの下になんとか隠そうと試みたが、しっかりと感覚もあるようで、耳やしっぽがなにかに触れる度くすぐったくて敵わない。
「洞天は」
「他の人に見られるのは嫌なの。だからその、魈には迷惑かけちゃうんだけど」
「……構わん。」
みなまで言わずとも理解したらしい魈が、最上階の部屋──魈のために用意されている部屋の扉を
きぃ、と音を立てて開く。お邪魔しますと声をかけて部屋に入ると、魈は用は済んだとばかりに出ていこうとした。
「えっ」
一緒にいてくれないのかと目を見開くより早く、蛍のしっぽが魈の腕にしゅる、とまとわりつく。
「…………」
言葉よりも何よりも素直なその行動。
「あ、待って、違うの、ごめん、」
慌てて離すも、もう遅い。魈は深く溜息をつくと、慌てる蛍を椅子に座らせる。どうしようどうしようと落ち着きのない蛍の頬を手の甲で撫でれば、みぃ、と鳴きながら蛍は魈の手にすりすりと頬を寄せた。
「……思考まで猫に近付いているのか」
「んっ」
すり、と蛍の顎下を魈の指が撫でただけで、ゴロゴロと喉が鳴る。こんなの恥ずかしいのに、体がふわふわとして言うことを聞かない。
「恥ずかしい、なにこれ」
くすぐったいだけのはずなのに、気持ちいい。感覚も猫になっているんだろう。
顎下を撫でていた指が鎖骨を通り、背中へと回る。やがてしっぽの付け根のあたりへと滑ると、とんとんと一定のリズムで叩かれた。
「みっ」
「……洞天にいる猫と変わらんな」
「魈、やだ……っ」
叩かれる度、気持ちよくて腰が浮く。たしかに彼は洞天の猫に好かれていて、猫と戯れているのも見たことはあるが、こうも猫の好きなポイントを熟知しているとは。
魈が触れる度、身体の奥がむずむずとする。必死に抑えようとするが、腑抜けた声が唇からこぼれ落ち、その声を聞いた魈は満足そうに笑みを浮かべた。
一頻り、普段猫にしているようなことを試し終えた頃には、薬の効果が切れてきたのか、耳やしっぽに触れられても何も感じなくなっていく。
「魈、いつもああやって猫に触れてるんだ……?」
くたりと寝台に横たわり、蛍はじとりと魈を睨む。やたら優しく、焦れったいような触れ合いだった。
「何が言いたい」
「私に触れる時はもっと、」
強引というか、性急と言うべきか。どちらにせよ恥ずかしいことを言うことになると、ハッとした蛍は口を噤む。
「もっと?」
「……なんでもない」
「お前がああいった触れ方の方が好みなら、次からそうするが」
「そんなこと言ってない……」
ぎ、と寝台が音を立て、魈が覆い被さる。
その目は獲物を逃がさないとでもいうような、猫のようなギラギラとした何かを孕んでいた。