昼の娘と夜の王3「——お嬢様?」
「え? あ、ごめん! 聞いてなかった」
「お顔の色が良くありませんね。どこかお体の具合でも」
「ううん、昨日夜更かししてしまって、もう眠いんだ」
優しい子。僕のドレスを売りに行ってくれたのも、本を買ってきてくれたのも、男装の採寸や裁縫を手伝ってくれたのも彼女だった。……今日で、彼女ともお別れなんだ。
僕は今日、誰にも伝えずにこの家を出る。そう決めた。あれから、僕はこっそりと身支度を進めた。路銀と、動きやすい服と、数冊の本と、日用品。聖書は……持っていくことにした。お祖母様が僕にくれた形見だもの。
「私も、少女の頃は冒険を夢見ていたの」
僕とお祖母様だけの秘密の話。お祖母様は昔、王女の護衛を務めた姫騎士だった。でも、この家との婚姻で全ての運命は変わった。
「せっかく聖剣を抜くことが出来るのに」
「いいのよ。……あれは人間には過ぎたものですからね」
僕の家に下賜された聖剣。あれを抜くことが出来たのは、三年前に亡くなったお祖父様——先代当主と、去年に亡くなったお祖母様。おかしなことに、現当主であるお父様も次期当主であるお兄様も、あの剣を抜くことは叶わなかった。それを隠しているから、聖剣はずっと宝物庫で眠っている。
『聖剣は来るべき時に再び目覚める』
なんてもっともらしい預言まで捏造して。
「……何だか外が騒がしいね」
「はい。今夜は旦那様と若様が、黒の森に討伐に向かわれます。なんでも、洞窟で大きなチスイコウモリの巣が見つかったそうで」
「ふぅん」
体面を保つのも大変だ。ただのチスイコウモリを討伐だなんて大袈裟な。
「……お母様は?」
「本日はご実家へご親族のお見舞いに」
「そう。わかった」
夕食の食器を元に戻して、僕は興味のないフリをした。だって、みんな知っていたもの。
「ご馳走様。今日はもう下がっていいよ」
「はい。それでは、おやすみなさいませ」
「——おやすみ」
僕は、心の中でそっと「ありがとう」「ごめんなさい」と伝えた。彼女はきっと僕が家を出ることを反対しないだろう。でも、今夜ここに来るのは人間じゃない。だから、何も言えなかった。
ベッドの下に隠しておいた古びたトランクと、トランクの上に乗せていたものを一緒に引っ張り出す。重厚な装飾でありながら女の僕でも持ち上げられるそれは、奇妙なほどに掌に馴染んだ。だから、少し力を入れただけでスラリと刀身が露わになる。聖水で磨き抜かれた銀が、蝋燭の灯りを照り返していた。
聖剣バンパイアキラー。
お祖母様とのもう一つの秘密は、僕が聖剣が抜けるということだった。
これが『人間には過ぎたもの』だと、今ならわかる。あの男を、夜の帳を切り取ったような強大で美しい夜の王を目の当たりにしたら、人間の浅はかな思い上がりが分かろうというものだ。僕は聖剣を清浄な布でぐるぐると包み、紐で縛った。人間に過ぎたものなら、吸血鬼に渡してしまえばいい。
時計の音がやけに耳に響く。
約束の時間が近づいてきた。僕は履いていたスカートを腰の辺りから引き裂き、用意していた乗馬用のズボンとブーツに履き替えた。上衣はあとで繕えば使えると思う。不恰好だけど仕方ない。
引き裂いたスカートを床に置いて、蝋燭で炙ったナイフで掌を切った。赤黒い血がボタボタと落ちて、スカートの生地を汚していく。あの男に血を吸われた時、牙に残った僕の血はとても綺麗に見えた。でも、今滴ってるそれはとてもそうは見えない。こんなものが美味しいだなんて、あいつは絶対味覚が変に違いない。
スカートの切れ端で掌を強く縛って止血をする。ちょっと痛いな。早く止まってくれるといいけど——
「うーん、すごく血の匂いがするね。大丈夫?」
「⁉︎」
振り返ると、夜の王が——Dが、窓辺からこちらをじっと見つめていた。