セブンスコード 眠りから醒めると、それまで意識していなかったものをいやに意識してしまう。ぶぉぉぉん、という耳障りな扇風機のモーター音。肌を撫でる生ぬるい風。寝汗を吸ってすこし湿ったシーツ。夏の朝にすっきりした気持ちで起きるなんて、現代日本じゃ土台無理な話だ。
寝転がったまま、スマートフォンをたぐり寄せる。画面には5:47と表示されている。設定したアラームは6:45。ここのところずっとそうだ。ここのところというか、毎年この季節はこうだ。暑さからくる寝苦しさと、古びた扇風機の稼働音に無理やり起こされる。一度覚醒してまうと、二度寝もいまいちできない。こんな環境じゃ尚更だ。
固まった身体をすこしずつ解すように、ゆっくりと上体を起こす。いちにのさん、で立ち上がると、ぺらぺらの敷布団と枕、それからくたびれたタオルケットを片付けていく。
狭い洗面所で顔を洗いおわると、水道をひねり、薄いタオルで水分を拭う。百均で買ったブラシで髪をとき、物心ついたときから愛用しているオレンジ色のシュシュで一房くくる。慣れたもので、十分もかからない。クラスの女子は皆もっと時間をかけると言っていた。スキンケアにヘアケア、そんなものに割ける時間もお金もない。生きていくだけで精一杯。
なけなしのキッチンで、朝食の準備をする。今日もメニューはパン(・・)と水。メラミン製のプレートにテキトーに盛り付け、ちゃぶ台の上に載せる。
さっきまで布団を敷いていた場所に座り、両手をパン! と勢いよく合わせる。どんな状況下でも、これだけは欠かさない儀式。
「いただきます」
古びた扇風機の風だけが、部屋に響いていた。この部屋にはテレビもない。
「ごちそうさまでした」
食器を薄めに薄めた洗剤で洗い、水切りカゴに入れる。安売りパックのミニタオルで手を拭くと、ハンガーにかけていたセーラー服を外す。袖を通し、再び洗面所で軽く身だしなみを整える。
「よし」
部屋の片隅にある使い古したリュックサックを背負い、家を出る。建て付けの悪いドアは、開ける時に少しコツがいる。
「いってきます」
がたん、と音を立てたドアの施錠はしっかりと。取られるようなお金はないけれど、この場所に何かあったら本当に、生きることすらできない。
***
気がついた頃には天涯孤独というやつだった。
自分もあまりよく覚えていないが、どうやら親という生き物に虐待を受けていたらしい。点数稼ぎ目当ての職員に救出された後は、自分と同じような経緯をたどったこどもがたくさんいる施設に入った。
施設の大人たちはあまり頼りにならず、中学卒業と共に立香は一人暮らしを始めた。学費は免除制度のあるところを選んで入学した。
生活費のためのバイトと、成績上位維持のための勉強。立香の日々は、ほとんどそれだけで回っている。同じことの繰り返し。
まあひとまず高校卒業までは、こんな日々が続くんだろうな、と思っていた。
***
バイトを終え、裏口から外に出る。ドアを開けた瞬間、熱気がむわりと流れ込んでくる。湿気を含んでべたつく空気が、とにかく不快だった。
早く帰って、扇風機の風に当たりたい。バイト先のクーラーは最高だった。あの家にクーラーはないけど、何も無いよりはマシだ。防犯上日中は窓を閉めているが、日当たりが良くないのでそこまで熱は篭らない。
色々と考えているうちに、アパートに到着する。あちこちが錆びついた階段を一歩一歩登っていくと、立香はとあることに気がついた。
立香が住む部屋の隣室。彼女が引っ越してきた時から空き部屋だったはずだ。しかし、その部屋の前に人影がある。雲が月を覆っているからか、暗くて、とにかく人であるということしか分からない。もしかして、不審者だろうか。今はまだ、気づいていない? ならこのまま引き返して、近くの交番に行くべきか。緊急通報モードってどうやるんだっけ。立香がスマートフォンを握りしめた、その時だった。
「やっと見つけたよ」
雲が流れ、隠れていた月が姿を現す。月光がまるでスポットライトのように、その人を照らした。
紅唐色の綺麗な髪に、長身痩躯の青年だった。細められた切れ長の目に、通った鼻筋。口元は弧を描いていて、なんだか嬉しそうにしている。
思わず見惚れてしまう。それは容姿だけではなく、なんかこう、この世のものとは思えない不思議な雰囲気も原因だった。が。
「あの……誰ですか」
立香はこの青年に、まったく見覚えがなかった。
***
立香の言葉に、青年は目を白黒させた。さっきまで、弧を描いていた口元がゆっくりと開かれる。凪いだような声で、彼は言った。
「君、何も覚えていないのかい」
「……はい。あなたみたいに綺麗な人、会ったら絶対覚えてると思うんですけど……ごめんなさい、なるべくはやく――」
「いい」
「え?」
「いいと言ったんだ。確かに君と僕は知り合いだった。でもものすごく昔にあった、ものすごく一瞬のことだ。無理に思い出す必要はない」
「は、はあ……」
ものすごく昔、ものすごく一瞬。いったいいつ、どこでこんな美丈夫と知り合ったというのだろうか。うんうん唸る立香を目の前に、彼はどこか哀しそうな表情をした。だが、少しすると彼は再び口角を上げて言った。
「でもその代わり、僕は君とこれから関わっていきたいと思っている。僕と君は焼山葛のようなものだからな」
その場から動けない立香に、青年はだんだん距離を詰めてくる。近くなればなるほど、彼の容姿の美しさに魅入ってしまう。まるで精巧に造られた彫刻のようだ。
「今日から君の隣に住む高杉晋作だ。よろしくな」
瞳に嵌め込まれた柘榴石が、月光を反射している。立香はそれを素直に綺麗だ、と感じた。この世で最も美しい宝石があるとすれば、それは彼の瞳ではないか。立香は柄にもなく、そんなことを思った。