ロマンチックには程遠い 秋も終わる頃、夜の空気はしんと冷えていて、深く息を吸えば鼻がツンと痛くなる。暖を取ろうと帰路を急ぎアパートに辿り着いたのは七時を回ったところだった。階段を静かに足早に上り廊下の先を見れば、部屋の扉の前に座り込んでいる人影が見えた。
「月島ぁ、遅いぞ」
「…来るときは連絡してくださいって言ったでしょう」
眉を顰める月島とは違い、彼女は少し拗ねた表情をして腕を絡めてくる。鼻を赤くして見上げてくる彼女、鯉登は素直な性格であったが向こう見ずな一面もあった。寒空の下、制服一枚で風邪でも引いたらどうするんだと小言を口にしそうになったが、其れは部屋の中に入ってからだと思い止まる。
「いつから待ってたんですか」
「つい先程だ。家に一度帰ってから此処に来たからな。ほら触ってみろ、温けじゃろう?」
玄関先で靴を脱いだ鯉登は手にぶら下げていたビニール袋を差し出した。断る理由もなく受け取って中身を見てみれば蓋は真っ白になって何の具材かは分からないものの漂う匂いとパッケージの文字に今日の晩御飯だと理解した。
「はぁ、おでんですか」
「コンビニで買ってきたんだ。たまにはこういうのも良いと思ってな」
私の手作りばかりじゃ飽きも来るだろうと笑って横を通り過ぎる鯉登にあらぬ事を口走りそうになったが、ぐっと堪えた。月島の心の内を鯉登は知るはずもない。リビングから何度も名前を呼ぶ声に一言だけ返事をして玄関の鍵を閉めた。
「そうだ月島、今夜は泊まらせてもらうぞ」
その言葉に咀嚼していた大根を喉に詰まらせなかったのは幸運だと思う。その代わりに唇の端から、たらりと涎が垂れてしまった。拭うことも忘れて何やら浮かれている鯉登を凝視する。
妙齢の女性が三十路のおっさんの部屋で寝泊まり……?世間一般的にはアウトだろう。まして恋人同士でも無いのに。しかし信頼されてると思って良いのか、それでも……。
思考が渦を巻いている間、鯉登は月島の口元をハンカチで拭っていた。されるがままの月島に鯉登は、ふふっと小さく笑う。
「は……?いや……、着替えはどうするんですか」
不意に正気を取り戻し、説教をするつもりだったのに外泊を受け入れるような質問をしてしまったのは無意識だった。その所為で鯉登は嬉々として目を輝かせている。冷や汗を流しながら、親御さんが心配しますよと帰宅を促しても承認済みだと携帯の画面を見せられる。選択を誤った、と月島は内心頭を抱えた。鯉登の笑顔に弱いことは以前から自覚していた。
「着替えは持ってるから心配するな。まぁ私は月島の服を借りても構わんが」
「それはやめてください」
「ないごてっ!?」
私のことが嫌いなのか、と見当違いなことを叫ぶ鯉登に深く溜め息を吐き出す。いつものように軽く抱きしめて宥めると徐々に大人しくなって胸に頬を擦り寄せてくる。あまり密着しないで欲しいが此方から抱き締めたのだから何も言えない。満足したであろう鯉登は腕から抜け出して傍らに置いていた鞄を手に取った。
「じゃあ、先に入らせてもらうぞ!あ、月島は一番風呂の方が良いか?それなら譲るが」
「いえ……」
軽い足取りで浴室に向かう鯉登を虚ろな表情で見ていたように思う。その後すぐにシャワーの音が聞こえてきて、何もする事が出来ない月島はふらふらとテーブルの前に座る。点けっぱなしのテレビではクイズ番組が放送されていたが何も頭に入ってこなかった。
「月島ぁ、ドライヤーは無かとな?」
「そんなの有りませんよ。タオルでよく拭いてください」
引き出しから新しいタオルを出して渡そうとすると鯉登は背を向けて座り込んだ。そして、ちらりと振り向いて期待の眼差しを向ける彼女の意を汲んだ月島は膝をついてやや荒っぽく濡羽色の髪の毛を拭き始めた。髪が痛むと文句を言うが声色は明るかったので怒ってはいないことを察する。しかし意地が悪いことを続けるのも大人気ないと優しく撫でるように手を動かした。指通りも良く艶のある美しい髪の毛先から水滴が落ちて項を濡らす。肌に触れてしまわぬように、タオルの端で吸い上げた。
髪を梳かしていると次第に鯉登は眠たくなってきたのか目元を擦ったり頬を抓ったりしている。まだ少し湿ってはいるが直に乾くだろう。ベッドに運ぼうと抱え上げようとすると鯉登はハッと目を覚まして月島の身体にしがみついた。
「……何をしてるんですか」
「まだ寝らん、起きちょっ」
抵抗する鯉登を引き剥がして横抱きにすると、キエェと情けない猿叫が部屋に響き渡る。ぐにゃりと力が抜けた鯉登をベッドに寝かせたその瞬間、突然強い力で腕を引っ張られてバランスを崩してしまった。その格好は傍から見れば月島が鯉登を組み敷いているようにしか思えない。
「ふふっ、油断したな月島ぁ……!」
「あんたって人は……どうしてそう考え無しなんですか」
誇らしげに笑みを浮かべている鯉登を見下ろしながら今日一番の深く重い溜め息を吐き出した。
──後先考えずに行動する鯉登は時に危うく感じる。
鯉登は所謂お嬢様と呼ばれる立場である。裕福で身なりも顔立ちも良く、学校も県内で有名な女子高に通っている。つまり、良くも悪くも目立つ存在だ。初めて出会ったときも、駅の構内で柄の悪い男達に絡まれていた。止めに入ろうと一歩踏み出したとき、鯉登は華奢な身体で一人の男性を投げ飛ばした。
『下衆な男じゃな、触っな』
恨み言を吐いて逃げ出す男達を鋭く睨みつける彼女に唖然とした。男達が去った後で振り返った鯉登と目が合う。不自然に立ち止まっている自分は不審者に映っているらしい。鯉登は怪訝そうな顔をしながらも立ち止まって月島の言葉を待っていた。
『……止めようと思ったんですが、余計なお世話でしたね。何処か痛いところは?』
『怪我は無か。……助けようとしてくれたと?』
『はい、そうです』
『……良か男だな、あいがと』
あどけない眩しい笑顔に、電気が走ったような衝撃が身体を貫いた。動けないでいる月島を置いて鯉登は改札口に向かう。しかし最後にもう一言だけ言っておかねばならないことがあった。月島は息を吸い込んで呼び止めるように声を張り上げた。
『あの!質の悪い男とはいえ、あのように投げ飛ばすのはおすすめしません!報復に来るやもしれませんから気を付けるように!』
『やっぱり優しか男じゃな、月島さんは!』
何故名前を?と眉を寄せると鯉登は左下の方を指で差した。持っている通勤鞄から社員証がはみ出している。顔を上げると鯉登は悪戯が成功した子どものように笑って、またな!と手を振って改札口を出て行く。生活圏内であればいつかまた会うかもしれないなと黙って見送った。その“いつか”が一週間後になるとはその時は知る由も無かった。
「鯉登さん、あなたは無防備すぎるんですよ」
月島は仰向けに寝転んでいる鯉登の手首を掴んで顔を近付ける。鯉登は予想していなかった状況だろう。その証拠に彼女は唇を引き結び、緊張した面持ちをしている。
「私は、あなたが思うような男じゃありません」
鯉登は優しい男だと褒め称えるがそんなことは無い。初めこそ妹のようなものだと思い接していたが共に過ごす時間が増えていき、そして自覚してしまった。気付いたときには離れがたく、鯉登から別れを告げられる日をただ怯えて待っていた。好きな人が出来たんだと微笑む彼女を祝福する日がきっと来る。だから自らは触れないように、鯉登の思い描く自分でありたいと思っていた。
「……俺にだって、下心はあるんですよ。あなたに触れたいし、あなたを抱きたい欲だってあるんですから」
しかし、それも今日で終いだ。自分も有象無象の男であることを耳元で囁いた。鯉登は何も答えず身動ぎ一つしない。怖がらせてしまっただろうか。傷付けるつもりは毛頭無かったが、信頼している男に裏切られて心中穏やかでは無いだろう。もしかしたら泣いているのかもしれない、と胸を痛めながら顔を上げる。
「まこち……?」
されど目に映ったのは頬を赤らめて目を潤ませている鯉登の姿だった。小さな声は震えていて、よく見れば耳まで赤く色付いている。自分の心臓が耳の隣にあるんじゃないかと錯覚するくらいに煩く鳴っている。想定外のことに動揺して掴んでいた腕を放してしまった。すると、自由になった鯉登は掌で月島の頬を優しく包み込んで扇情的な表情を浮かべる。
「月島ぁ……私も……」
その続きを遮るように柔らかな唇を親指でなぞり、捕食者のように覆い被さる。そうして唇が重なり合う直前、運良く理性を取り戻した月島は片手で枕を引っ掴んで鯉登の顔に押しつけた。次いで素早く掛け布団で俵巻きにして拘束する。
「むぐっ……なっ、なんでだ月島ぁ!」
「良い子はもう寝る時間です!私は風呂に入ってくるので先に寝ていてください!夜更かしは厳禁ですからね!」
「母親のようなことを言うんじゃなか!」
ぎゃあぎゃあと喚いている鯉登を置き去りにして月島は浴室に向かった。扉を勢いよく閉めて、ずるずるとその場に座り込んだ。顔を覆って長い呻き声を発する。こんな情けない格好は誰にも見られたくない。
触れずとも顔に熱が集まっているのが分かった。心臓も変わらずドクドクと早鐘を打っている。心臓が鼓動する速さで寿命は決まっているという説を聞いたことがある。もしそれが正しいならば寿命を縮めているのではないだろうか。
「……水風呂に入ろう」
晩秋に冷たい水を浴びるなど正気の沙汰ではない。だがそれを止められる者は誰一人居なかった。
「はあぁぁ……いとしげら……」
頭を占めるのは鯉登のことばかりで、月島は文字通り頭を抱えた。