私の右腕の様子が何だかおかしい 傷跡に触れられている。指先で掠めるようになぞられて少し擽ったい。
微睡む意識から抜け出して重い目蓋を開いて何度か瞬きを繰り返す。いつの間にか眠っていたらしい。執務室の窓からは西日が射し込んでいる。ふと顔を上げれば真正面で顰め面をしている月島と目が合った。姿勢を正して誤魔化すように咳払いをすると、月島の眉がぴくりと動いた。
「……すまない。待たせたか」
「いえ、今し方来たところです」
「そうか、ご苦労だった。今日はゆっくり休め」
差し出された書類を受け取って労いの言葉をかける。月島は返事をして直ぐに出ていくかと思いきや目の前で佇んだままだ。集中したいのに探るような視線が些か煩わしい。放っておくのも一つの手だが月島相手に持久戦はやるだけ無駄だ。
「なんだ、用があるならはっきりと言え」
「顔色があまり良くないですよ、鯉登少尉殿もお帰りになられては」
職務中に居眠りをしていたことを咎められるのだろうと心構えをしていたのに、身体のことを心配されるとは拍子抜けだった。
「平気だ。これが終われば私も帰る」
「それは明日でも十分間に合うものでしょう」
「くどい。大丈夫だと言っているだろう。お前こそ宿舎に戻ってさっさと寝ろ」
確かに頭痛と怠さはあったが微々たるものだった。眠れば回復する程度である。それよりも月島の目の下にうっすらと隈が出来ていることの方が問題だ。支えになってくれとは言ったが無理をしろとは言っていない。それを月島に伝えたところで「当然のことをしているだけです」と毅然と答えるのだろう。
「……分かりました」
月島は渋々といった様子だったが引き下がってくれたようだ。背中を向けた月島を見て、さて書類に目を通すかと視線を下げれば足音が左隣ではたと止まった。
「失礼します」
視線が向く前に膝裏と、椅子と腰の隙間に腕を入れられ、ひょいと軽々しく持ち上げられる。
「キエッ!何をするか月島ぁ!」
「言葉だけでは分かって頂けないようでしたので」
このまま私邸までお送りします、と続ける月島にさっと血の気が引く。腕の中で散々暴れようともびくともしない。
「ま、待て!この格好じゃ部下に示しがつかんだろうが!」
「大変宜しいじゃありませんか。部下達への牽制になります」
何のことだと首を傾げれば、やはり自覚が無いんですねと溜め息を吐かれた。失礼な奴だと威嚇するように歯軋りをする。月島はふいと顔を逸らしてずんずんと歩を進め始めた。
「分かった、分かったから下ろせ月島ぁ!」
「喚かんでくださいよ」
抵抗も虚しく兵営の外まで連行され、私邸までは歩いて帰れると主張すると月島は案外あっさりと離してくれた。明日覚えてろよという気持ちを込めて睨みを利かせると、月島は「では、また明日」と表情を緩める。それを見て途端に怒りや羞恥は瞬く間に小さくなって消えてしまう。その代わりに胸の鼓動が激しくなって、体温が上がったような気がした。体調が悪化したのかもしれないと思い「……もう帰る」と、ただ一言だけ返して帰路についた。
あれ以来、目に見えて月島の様子がおかしい。例えば報告を受けるとき距離が近すぎるし、さらっと妙なことを口走ったりもする。どぎまぎしている鯉登とは違って月島は至極当然といったような顔で傍にいるものだから気がおかしくなりそうだった。
「見てみろ!珍しい犬がいるぞ」
与えられた任務が終わり、外で食事を済ませた後にふらりと町中を歩いているとふわふわの毛玉のような犬が散歩していて思わず隣にいる月島の腕をぐいと引っ張った。
「なんとも愛くるしい……!そう思わんか月島ぁ」
「…そうですね、とても可愛らしいです」
月島はそう言ってうっすらと微笑むと鯉登の左頬を優しく撫でる。まっすぐに見つめてくる月島から逃げ出したくなるが気付けば右手を月島の左手に包み込むように握られていて退路は断たれていた。
「あぁ、いや私ではなくてだな……もしかして、からかっているのか」
「そんな訳ないでしょう。心からそう思っていますよ」
やっぱり変だと呟けばそれが聞こえていたようで月島は顔を近付けてきて、何がですか、と指を絡めてくる。
「うっ……ほら、そうやって距離を縮めてくるし、やたらと私のことを可愛いと言うし無遠慮に触れてくるだろう」
「それが変だと?」
「あぁ、だって以前はそんなこと無かっただろう」
「そうかもしれませんね。しかし今は色々と吹っ切れたんですよ。あなたのお陰です」
月島の晴れやかな顔を見て、健康的な考えをするようになったのだなと察するが何か特別なことをした覚えは無かった。そうやって思考を巡らせている間にも月島は傷跡をなぞり、風で崩れた前髪を丁寧に撫でつける。
そして突然強く腕を引っ張られて、耳元で囁かれた言葉に狼狽えて仰け反るも容易く腰を支えられ熱を帯びた瞳が貫いた。
「貴方をお慕いしています。鯉登少尉殿」
咄嗟に掌でみっともなく赤くなっているであろう顔を覆い隠すが、それは月島の手によってあっさりと剥がされた。恥ずかしさに目を閉じれば柔らかいものが唇に触れて、あ、と思ったときには深い口付けに変わっていた。