取るに足りない「月島の馬鹿すったれ!もう知らん!」
傍らに置いていたバッグを引っ掴んで、振り返らずに部屋を飛び出した。そして月島の住んでいるアパートから出た後、追いかけてきてはくれないだろうか、とほんの少しだけ期待を込めて見上げてみたものの扉が開かれることは無かった。当たり前だ、私が悪い。言葉の代わりに、じわりと涙が滲みそれを袖口で拭った。
喧嘩のきっかけは些細なことだった。月島と恋人同士になってから半年。告白したのは鯉登からだった。月島は社会人で、鯉登は大学生。時間の許す限り鯉登は月島のアパートに入り浸った。月島は当初それに渋い顔をしたものの、満更でも無い様子でいつの間にか合鍵を渡されるまでになった。卒業したら同棲することも考えてくれているのだろうか、と待望していたが今回のことを踏まえれば望みは薄いかもしれない。嫌われている訳ではない、好かれている。それはきちんと理解している。それでも、鯉登から月島に向ける感情と、月島から向けられるものとは差があるように思えた。
「…月島と、別れるかもしれん」
講義が始まる前、余程酷い顔をしていたのか友人が話し掛けてきた。詳細を話す気力もなく、ただ一言呟けば大袈裟に声を上げるので鯉登は「杉元煩いぞ」と言って机に突っ伏した。他の生徒達は何事かと此方を見てきたが、大したことではないと分かるとすぐに友人達との会話に戻っていった。
「あ、ごめん。……それで、月島さんと喧嘩でもしたのかよ」
「そうだ。もう一週間も連絡していない」
のそりと顔を上げてポケットから携帯を取り出す。相変わらず通知は一件も来ていなかった。月島とのトーク画面を開くと鯉登のお気に入りのスタンプで会話は終わっていた。一週間前の、喧嘩する前日の夜。
「何が原因か知らないけど、お互い謝るタイミングを見失ってるだけだろ。別れるなんて時期尚早だと思うぜ」
「…月島は優しいから、」
私に付き合ってくれていたのかもしれない、とぽつりと弱音を溢すと杉元は大きな溜め息を吐き出して見つめていた携帯を奪い取った。突然のことに反応が遅れて、奪い返したときには既にメッセージが送られた後だった。
「勝手に何すっど!?」
「うるせえ!うだうだ悩んでないでさっさと話してこい!」
反論しようとしたが始業のチャイムが鳴ってそれは叶わなかった。教授の話を聞きながら机の下で未だ開かれたままのトーク画面を見る。“会いたい”の一言にまだ既読がついていないことに一先ず安心して、迷いながらも電源を切った。
◇
全ての講義が終わって、友人達と別れ帰路についた。今日はバイトが休みなので何の予定も無かった。本来であればきっと月島のアパートに転がり込んでいたことだろう。
最寄りの駅に着いて定期券を取り出そうとしたとき、突然背後から腕を掴まれた。反射的に振り返り思わず目を見開く。
「…っ……鯉登さん、待ってください」
「月島……?どうして此処に居るんだ」
放さない、と言わんばかりに腕に力を込められて痛みより戸惑いの方が大きかった。呼吸は乱れ、額にはうっすらと汗が浮かんでいて急いで走ってきたことが窺える。
「どうしてって、あなたが会いたいって言うから……電話もしたのに、何で出てくれないんですか」
「あ……あぁ、すまない。講義中に電源を切って、そのままだった」
講義を終えてから電源を入れていたら着信にも気が付いていただろう。そうしなかったのは月島からの返信を見たくなかったからに他ならない。会いたがっているのは鯉登だけで、月島は一人の時間を満喫していたら?と、根拠のない不安に襲われてポケットに手が伸びなかった。
「……いや、すみません。そもそも俺が悪かったんです。喧嘩の原因を作ったのは俺ですし、鯉登さんは何も…」
「わ、私も……月島の言い分を聞かずに酷いことを言ってしまった。悪かったと思ってる」
ふ、と拘束していた手が緩んで、次いで指先が目の縁を優しくなぞる。
「泣かないでください」
「…泣いちょらん」
「……ねぇ鯉登さん、俺も会いたかったです。あなたが思うよりずっと前から。俺が先に言うべきでしたよね、情けなくてすみません」
「もう謝らんで良か」
ずびっ、と鼻を啜って目の前の男を抱きしめる。汗くさいですよと言いながらも慰めるように背中を撫でられる。抱きしめる力を強くすれば月島は何も言わずにそれに応えてくれた。
「今夜は月島の部屋に泊まりたい」
「えっ」
無事に仲直りをした後、家まで送り届けるという月島にそう返せば月島は焦ったように声を上げた。
「この後、予定でもあるのか?私は月島と一緒にいたい」
「ぐっ……分かりましたよ」
渋々、といった様子の月島に疑問を抱いたがそれ以上聞くことはしなかった。問い詰めることでまた喧嘩になるのも嫌だったからだ。行きましょうか、と差し出された手を握って久しぶりに二人で並んで歩いた。
──────··························
「そこに座って待っていてください」
鯉登は部屋に通されて、一週間前とは全く違う光景に呆気にとられた。服は脱ぎ散らかされているし、シーツも畳まれていないしゴミ箱の中身はカップ麺ばかり。月島は綺麗好きとまではいかなくとも部屋は最低限の清潔さを保っていたし食事だって凝ったものは作らないが自炊するタイプだ。
「忙しかったのか?随分と……あれだな、不健康な生活だ」
「……あなたが出て行ってから何も手につかなくて……引かないでください。すぐに片付けますから」
月島は放置してある服をかき集めて洗濯機に放り込む。座れと言われたが鯉登は立ち尽くしたままだった。テーブルの上を片付ける姿を見ながら、茫然と思ったことがぽろりと口から零れ落ちた。
「月島……お前、私のことが好きだったんだな」
鯉登が思っていたよりも月島に想われていたことを初めて知った。喧嘩をしたって、いつも通りに生活していると思い込んでいたが実際にはこの部屋の有り様だ。何だか嬉しくなって徐々に頬が緩んでいく。しかし、月島は青筋を立てて低い声を吐き出した。
「はぁ?俺がどんなに………いや、言葉にしなかった俺に責任がありますね」
「つ、月島ぁ?顔が怖いぞ」
じりじりと後ずさるがあっという間に距離を詰められて退路を断たれる。これが世にいう壁ドンか、と心臓がドキドキするがこの場合はときめきとやらではなく恐怖に違いない。
「俺がどれだけ鯉登さんのことを愛しているか、今すぐ教えて差し上げますよ」
制止する間も無く唇を押し付けられ、あれよあれよという間に寝室に運ばれて月島の愛の重さと深さを分からせられた鯉登は、早朝に晴れやかな顔をして「身体はどうですか。ちなみに俺はまだ足りないんですが」と言う月島の顔面に枕を投げつけた。