「俺のこと、ただの酔っ払いだと思ってたんだろ?」
陶酔した笑みを浮かべた男は潤んだ瞳を細める。赤く色づいた目尻から一筋、透明な水滴が滑り落ちた。
「勇に避けられてる気がする」
いつもの飲み仲間が集まった酒の席で啄木が呟いた言葉に、反応をみせたのはとろんとした目つきだが実際には一番酔いの回っていない牧水だった。
「んん?勇がどうかしたかい?」
「俺様、避けられてる気がするんだよ!この飲み会にも来てないじゃねぇか」
「誘ったんだがなぁ、気分じゃないそうだ」
「勇の奴が酒飲む気分じゃない時なんかあるかよ!」
勢いよく言い返した啄木の手元でガチャンと音をたてて皿から箸が落ちた。手にした猪口を一息で飲み干した牧水は呆れた口調で答え返す。
「そりゃ、あるだろうよ」
この図書館における文豪の精神判定がどの様な基準で行われているのかはわからないが、この場にいない『やや安定』と評された歌人の涙目を牧水は思い浮かべる。ゆらゆらと揺れる夜の水面のような瞳はちっとも安定などしておらず、落ち着きなどからは程遠い気もする。いや、常に揺蕩う水の流れはそれ自体が乱れのないものなのだと考えれば、かの男の判定にも納得が出来るような。
「そうさなぁ、アイツはおめえさんには素直に甘えちまうみたいだからな」
「顔も合わせないのが甘えかよ?」
「だから会ったら甘えちまうからイヤなんだろ?秘め事抱えた乙女の心を暴きたてるもんじゃねぇよ、詩人さん」
手酌で注いだそばから猪口の中身をくいと空にし、牧水は緩い笑みのまま隣人の肩を軽く叩く。仏頂面の啄木は叩いた相手の方を見向きもせずに、そっと呟くだけだった。
「……相手がか弱い乙女なら力ずくには敵わないよな」
押し倒された状態になってもなお、勇の往生際はすこぶる悪かった。ちがう、ちがうと言い訳にもならない言葉を酔いに任せてだらだらと零し続ける。迫る啄木は完全なる素面で、攻め手を緩める様子は微塵もなかった。
「酒に誘っても来ない。話しかけても上の空。おかしいじゃねぇか」
「別に、何もねぇよ。……酒のことも、俺がたまにそうなっちまうって石川、知ってるだろ?」
流石に幾分か気まずそうに目をそらす仕草に、啄木の頭にカッと血がのぼる。
「じゃあ、なんで俺様のことだけ避けるんだよ!?」
着物の衿を掴み、勢いをつけて怒鳴りつける。怯えたように身をすくませた勇に構わず、さらに詰め寄る啄木の目は真っ直ぐと鋭い。気圧されたように見つめ返す、酒にも哀しみにも酔った群青は色を濃くして潤みだしていく。薄い無精髭の生えた口元を歪ませて小さく呟く。
「お、怒るなよ……。石川、俺」
自分よりもずっと長身の男が涙目でびくびくと縮こまる姿に、啄木は些か馬鹿らしくなってきて怒りも萎むような溜息をついた。掴んでいた相手の衿を手放すと、ぞんざいに撫で付けて皺をのばそうとでもしてみる。
「ったく、お前は何がしてーんだよ?」
まともな返答など期待せずに放り投げた言葉に、意外な方向から答えが示された。元々酒精と涙で色付いていた目元だけでなく、勇の頬が一気に朱に染まったのだ。咄嗟にそれまで碌な抵抗も出来ずにだらりと垂れ下がっていただけの両腕で顔を隠したが、啄木の目に映った光景はそのまましっかりと脳に刻まれる。何かを悟るには十分過ぎた。
「……勇」
「うぅ……何も言うなよ」
「お前なぁ、」
「何も言うなって、ゆってるだろぉ……」
腕の下からぐずぐずと鼻声で抗議する勇の言動はもはや駄々をこねる稚児と大差ない。普段からちょっとしたことで、しかも当事者でもないのに洟をすすりがちな男は、啄木を含めた周りの人々をうんざりさせながらも不思議と人々の中心にいた。存外、何くれとなく世話を焼いてくれる者達がいなくなっても、嘆きつつ自分のことくらい器用にこなすだろう。そうと察してしまう程に付き合いが深くなっても、放っておけない気にさせるのがこの吉井勇という人間の凄いところだった。
「ああ!……っとに!」
がしがしと頭を掻き毟った啄木がそのまま身体の力を抜いて倒れている相手に圧し掛かる。驚いた勇が喉を鳴らして息を吸い込んだが、無視をした。
「……石川、怒ってないのか?」
「怒ってねぇよ」
「俺が、お前を好きでも?」
「だいじょーぶに決まってんだろ。俺様も勇のこと好きだし」
「え」
吃驚した様子で固まった勇の気配に呆れながら、啄木は頭を相手の胸元にぐりぐりと擦りつける。
「顔が見れなきゃ寂しいし、相手にされなきゃ悔しいし、泣かれりゃ困るし、好かれりゃ可愛いんだ。どう考えてもお前のこと、好きだろ」
心音がうるさい。それがどちらのものであるかなどわからないくらいに互いの距離は近い。ふわりと酒の匂いが漂ったのは、体温の上昇と共に普段から身に纏っている香が強まったせいだろうか。好みの香りに誘われて自然と着物の合わせ目から覗く白い肌に吸い付くと、はっきりとした跡が残った。啄木の胸は満足感でいっぱいになる。面白い程にわかりやすく独占欲を満たす証拠だ。大勢に囲まれていてもそこにいない人間のことを想っては泣くような人間には、本人にもわかりやすい目印をつけてやるくらいで丁度良いだろう。
「ふっ、……石川……、」
勇は両手をどこへもっていけばいいのかとふらふら彷徨わせたあと、結局弛くうねる自分の髪をかき交ぜただけだった。その手がまだ自分の方へと伸ばされなかったことに啄木はニヤリとして、汗ばんだそのこめかみに唇を寄せる。
「好きか?」
何を、とは聞かない。少し驚いたように瞬きした拍子にまた勇の両眼から涙が流れ落ちた。
「う、ん……。好きだ、だから……」
ぼんやりした様子で答える勇は、隠しきれない色香を漂わせている。己の髪から手を離し、今度こそ長い指を伸ばして啄木の首筋へと触れる。
「ん、」
求められるまま口付けを繰り返す。とろりとした部屋の空気が手に取れそうな程濃密さを増していった。露になった白い肌をなぞる手が、先程付けた赤い跡を擽る。口を開けて息をする合間に掠れ声をあげ、勇は縋るように腕を動かして朱の交じる金色の髪を乱した。
「じゃれつくなって」
そう言いながらも啄木はどこか嬉しそうに笑う。この甘ったれでロマンチストなべそかきが、愛おしい。啄木自身もままならない現実に意地が妬けてしまうことがあるが、目の前の人物は悔しさも寂しさもそして嬉しさも触れることの出来る涙という形で表現してくれる。もちろん互いに言葉で気持ちを表すことを生業としてる人間同士だ、文字を連ねることの強さを知っている。それでも目に見える感情表現に心を動かされないわけがない。しっとりとした勇の身体を柔く触れ続けていると、反応する度に血ののぼった顔をゆるゆると左右に振った。勇は左足を立てて啄木の脇腹をつつく。その拍子に着物の裾がめくれあがって内腿まで垣間見えた。思わず喉を鳴らした啄木に勇は嬉しそうに微笑み、自分の足をゆっくりと撫でる。
ぐるり、と金の瞳の視界が回った。
「は?」
理解出来ない一瞬のうちに、啄木は自分の腹を両腿で跨ぐ勇を見上げる体勢へと入れ替わっていた。その頭上で眇めてみせた涙目はまだ赤く充血しているのに、その口元はうっとりと不敵な笑みを湛える。対照的に大きく口を開けた啄木が言葉を失っている間に、勇の掌は相手の喉から胸、腹を辿っていく。
「俺のこと、」
そう、男はただの酔っ払いではない。酒にも恋にも自らの意志を以て溺れてみせる“酷い”酔っ払いだった。それを啄木が否という程思い知らされるのはすぐ後のことである。