彼のために 森の中に、ぽっかりと開けた場所がある。朝の陽射しが降り注ぎ、ぽつりぽつりと咲いた白く可憐な花たちの、清涼な香りが立ち上る。その甘み。花の姿をよく見ようとしゃがみ込めば、肥沃な腐葉土がふわりと足を受け止める。その大地の力強さ。ちっぽけな自分が世界に一人きりのような気分になって、顔を上げる。あたたかな匂い。振り返る、けれど、木立に取り囲まれたそこは、さんさんと照らされて、一人きり。
——そんな空想が、いちどきにフェイスの脳裡を駆け巡った。口から息を吐いて、瞼を持ち上げる。見慣れた自分の部屋の壁。手には古い香水瓶。深緑色の硝子は少しくすんで、中に三分の一ほど残った液体を曖昧に透かしている。
パトロールの帰り、ふらりと立ち寄った骨董品店に、それはあった。二十年前のヴィンテージパルファム、いつかブラッドが父から譲り受けた、今はもう市場にない、それ。
フェイスは、ショーケースの中にあったそれを、じっと見た。暗い店内の、さらに奥まった位置にあるケースは秘密めいている。じっと見て、それから、店員を呼んだ。小さな鍵で開けられた引戸から、その縦長の瓶を取り出すと、胸の内を高揚感と罪悪感がないまぜになったようなものが駆け巡った。遠い昔に、ブラッドの部屋でそれを手に取ったときと、同じ感情。蓋をしていても微かに感じる、あの森の気配に足を踏み入れたくて、フェイスはそれをレジに運んだ。いまのフェイスからすれば拍子抜けするくらいの値段だけれど、当時の自分が払うような心地で、現金を出した。瓶は新聞紙に包まれて、フェイスの小脇に収まった。森をかかえて、何気ない顔を装いながら、フェイスはタワーに帰ってきた。デスクで包みを開き、黒く丸い蓋を外して、鼻から息を吸う。口から吐く。その一瞬で、フェイスは幼い自分を森の中へと送り込んだ。そして、瞼を持ち上げれば、見慣れた自分の部屋の景色が、フェイスを森から掬い上げる。
(……こんな香りだったかな)
確かに、懐かしさを感じる。似た別のものということはない、確実に同じ商品ではある。けれど、何となく印象が違うというか、ショーケースの中に見つけた時に期待した、自分自身をも当時に引き戻すような香りでは、なかった。香水は劣化する。当時既に父の使い古しだったそれは、もうとっくに揮発しきっていてもおかしくない。香水には詳しくないけれど、何か、無意識の中にある記憶を呼び起こすような香りは、長い時を経て変質してしまったんだろう。フェイスは瓶に蓋を押し込んだ。きっちりと密閉されたのを確認して、どこに置こうかと周囲を見渡す。
「あ……」
ふと、ある文字列が目に飛び込んできた。香水を包んでいた、くしゃくしゃの新聞紙に目を凝らす。訃報欄。とある名前。偶然とは思えない、フェイスだけが知るその人の、名前がある。
(あいつだ。あの、光る眼をした――)
科学者。数年前、ブラッドが倒れたあのとき、一か月間のブラッドを演じた、クロック。その責任者の名前が、そこにはあった。二行にまたがった一連の文字列、名前と、J科学大学特命教授、何某工業開発部、齢六十九。それだけだった。
フェイスは、震える手で新聞紙を伸ばした。香りが移って、二日前の新聞は、インクと土の混ざり合った不思議な匂いを漂わせた。
あれから、もう、長い時が経っていた。フェイスとブラッドは、今や行動を共にすることも少ない。フェイスはルーキーを持っていて、ブラッドには渉外の仕事があった。同じ部屋で過ごした日々など、はるか昔のことのようで、感覚は実家での日々に近いような気さえする。
結局、数年が経っても、クロックが世界を席巻するようなことは無かった。フェイスは訃報欄の名前を検索した。隣の州の研究施設の、大元となる機関のページが出てきて、そこにごく短い訃報があった。物理学者、開発職、エンジニア。きっと、公にできる功績は少なかったんだろう。
フェイスは、香水をブラッドにあげてしまった。それが自分のものになるのは、何となく違う気がした。ブラッドは驚いたような顔でそれを受け取ると、大切に使わせてもらう、と目を細めた。その顔はどこか、父に似ていた。
あのクロックは、どうなったんだろう、と考える。ブラッドの記憶を失ったあと、彼はどうなったんだろう。また別の誰かになっただろうか。それとも、欠陥品として、機械人間の役目を解かれただろうか。
三週間の兄は、あのときのブラッドそのものであり、同時に、ブラッドではなかった。あのときのブラッドも、きっとこの香水のことを知っていただろう。けれど、クロックにとってのそれは、遠い香りの記憶ではなく平面的な知識に過ぎなかったはずだ。彼は、あの森に入り込んだことは無い。父の懐かしさを感じることも無い。——彼の父は、あの責任者ということになるんだろうか。彼の、あの身体、何で出来ているやら分からない人間そっくりの肉体と、心臓の部分にはまっていた機械とは、あの人によって形づくられているはずだから。彼にも、父の記憶はあっただろうか——と、フェイスはたまに取り留めもなく考える。
「フェイス!」
突如、エントランスホールに声が響き、フェイスは驚いて足を止めた。吹き抜けを見渡し、階下を覗くと、今しがた外から帰ってきた風のブラッドが小走りに近づいてくる。何やら急いでいるらしい。面倒なことじゃないといいけど、と思いながら、フェイスは階段を降りて行った。二階から一階までの間に二つある踊り場の、一階に近い方で、二人は落ち合った。
「すまない、これを、七階の研修室Bに置いてきてくれないか」
走りしなに脱いでいたジャケットを押し付けられる。あたたかい。フェイスはそれを受け取りながら、上下するブラッドの胸元を見るでもなく見ていた。
「いいけど、これだけ置いてきちゃっていいの?」
「ロッカーに荷物があるんだが、これだけならその辺りに置いておいても平気だろう。それか、しばらく使わないから、寄るのが面倒であればそのうち返してもらえれば構わない」
悪いが次の予定がある、と、ブラッドはすぐに踵を返した。高層用のエレベーターホールに向かっている。お忙しいことで、と、フェイスもまた階段を降り、低層用のそれを目指した。尻ポケットでスマートフォンが震える。この後の会議が三十分後ろ倒しになるらしい。
エレベーターの扉が閉まると、世界から遮断されたような心地になる。小さな箱に閉じ込められて、フェイスは改めて手の中のジャケットを見た。チャコールグレーにシャドウストライプが入ったスーツ。見たことのないものだけれど、背中の裏地にレッドサウスの馴染みのテーラーのタグが縫い付けられている。肩の薄いイタリアンクラシコは、角ばったブリティッシュよりも大人らしい落ち着きを与える。思えば、父はこの形のスーツをよく着ていた—―そう思った次の瞬間、フェイスは全く別の場所にいた、
森の中。ぽっかりと開けた場所がある。朝の陽射しが降り注ぎ、ぽつりぽつりと咲いた白く可憐な花たちの、清涼な香りが立ち上る。その甘み。花の姿をよく見ようとしゃがみ込めば、肥沃な腐葉土がふわりと足を受け止める。その大地の力強さ。ちっぽけな自分が世界に一人きりのような気分になって、顔を上げる。あたたかな匂い。
——小さな箱は、世界に開けている。七階の廊下が、開いた扉の向こうにある。
フェイスはエレベーターを降りた。研修室はこの角を右に曲がって、ゲートを通った先に並んでいる。けれど、フェイスは、そこから動かなかった。上行きのボタンを押す。同じ扉が開いて、乗り込み、二十階へ行く。二十階からは高層用のそれに乗ることができて、今度は、ずっと上に向かった。研修チームのフロアを目指した。
腕の中に、森がある。陽だまりのあたたかさを逃さないように、やさしく運ぶ。急いで。昼下がりの居住フロアは静まり返っている。部屋に戻った。なぜか一度ルーキーの部屋に入ろうとした。きちんと自室に戻り、ベッドに腰かける。抱いていた熱を、そっと持ち上げた。光沢のある臙脂色の裏地の、うなじのあたりに、顔をうずめた。
森の匂い。陽だまりの匂い。可憐なリンドウの花、肥沃な腐葉土、そのさわやかで落ち着いた、けれど世界の大きさに圧倒されてしまうような不安を煽る、匂い。その奥に。
あたたかな、ブラッドの肌の匂いが。
ああ、これだ。この匂いだ、かつて俺たちを包んでいた香りは。
そうすると、森の空想からさらに別の場所へ、フェイスは連れてゆかれる。父の腕に遊んだ景色。兄の胸に甘えた記憶。あの深緑色の瓶が父の手からブラッドに渡ったときの羨望や、兄の棚からそれを取り出すときの緊張、飛沫の芳香と背伸びをする優越感、それでも、兄に纏われたその香りこそ、その香りの中にひそむブラッドの気配こそ、俺が求めていたものであり、それがいま、ここにある。
「——ああ」
あのときのブラッドが、ここにいるような気が、した。
幼いブラッド。何も知らないブラッド。それは、あのクロックと同じブラッドだ。何も知らない、俺を突き放す理由を、俺を遠ざける理由を知らない、ブラッド。
そのブラッドが、抜け殻になって、ここにいる。心臓に美しい機械を隠し持った兄。その幾何学を思い浮かべた。硬直した姿を思い浮かべた。フェイスとの思い出を忘れていく彼の姿を、思い浮かべた。
きっと、クロックも死んだのだ。あの責任者と一緒に死んだのだ。きっと、ぜんまいの巻きが終わって、そっと瞼を下ろすんだろう。身体は固くなり、記憶は消し去られ、心臓の波紋はゆるやかに停止する。そうして、彼は命を終える。そうやって死ぬのは、彼だけだ。その姿を知っているのは、きっと、あの責任者だけだ。
クロックが、クロックとして死ねたらいい。他の誰でもない、彼自身として。そうすれば、彼は彼の父と、また出会えるだろうから。
フェイスは、ベッドに横たわって、ブラッドの抜け殻を抱き続けていた。不意に零れ落ちた雫が、チャコールグレーに染みをつくって、そのあたたかさになつかしい記憶が、ふわりと立ち上って残り香に溶けた。
【彼のために 完】
二〇二五年一月一二日 書き下ろし