秘密のマドリガル 1 不愉快なんだよなぁ。もうかれこれ十分はこの状態だ。
彼女の好きなドーナツショップの、限定フレーバーを求めて、行列に並んでいる。それは別にいい、ぼーっとするのは嫌いじゃないし、心を無にするのは得意な性分だ。そんなんだから勉強はちっともできず、むさくるしい男子校の光学園なんかに通うはめになったんだが。
そんな俺が、イライラしている。よっぽどのことだ。理由は明らかで、さっきから遠巻きに、数え切れないほどの女子たちがチラチラ目線を向けてくるからだ。俺に、ではない、俺の目の前の男に。モテたいだの俺を見ろだの、そんなことは間違っても思わないが、こんな衆目にさらされちゃぼーっとするのも気が引けて、早く列が進みやしないかと眉根を寄せる。目の前の男の遊ばせた黒い髪が邪魔だ。
やっとのことで、目の前の男がショーケースの正面に立った。店員の目にハートが浮かぶのがはっきり見えて、舌打ちをしたくなる。男は気だるげに数個のドーナツを指定しながら、スマートフォンを覗いて、ショーケースの向こうに話しかけた。
「ねえ、ちょっといい」
「ひゃい! な、なんでしょう!?」
「この、限定のピーカンナッツ・キャラメルショコラって、もう無いの?」
そうだ、ちょっと前に俺もそれに気づいて、思わず天を仰いだんだ。ほとんどそれ狙いで来たようなモンなのに、空になったその棚は、一向に補充される様子がない。けれど、目の前のコイツも品切れの憂い目に遭うなら、ちょっとは俺の心も晴れるか――と思った瞬間、ショーケース越しのハートの目は、彼を見据えて力強く燃えた。
「いえ、ご用意します!」
「え、いいの?」
「はい、もちろん! いくつでも!」
「そう? じゃ、それ二つ」
唖然とする間に、彼は脇によけられて、俺の注文の番が来た。なんだ、言えば出てくるってことか。教えてくれてありがとな。
「あー、俺もピーカンナッツ・キャラメルショコラを……」
「そちらの商品は売り切れでございます」
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「それは、絶対フェイスくんだって! イエローウエストにそんな人、フェイスくんしかいない、絶対」
ストロベリー・クリームチーズのドーナツを頬張りながら、彼女は息巻く。俺はうっそりとコーヒーを啜った。
「そーかよ。知らねぇんだよな、そいつ」
「もう、なんで知らないの。せっかく光学園に通ってるんだから、ちょっとは情報集めてきてよね」
コイツ、俺と付き合ってるんじゃないのかよ。前々から話には聞いていたフェイスくんとかいうヤツは、芸能人でもなんでもないのに、イエローウエスト近郊でとんでもない人気を集めているイケメン、らしい。それも、光学園に通っている、らしい。噂は彼女をはじめ、学校でも聞いたことが無くはないが、都市伝説みたいなモンかと思っていた。けれど、目の前のアイツがそうだったとしたら、あの目立ちっぷりは噂通りと言えるだろう。顔を確認しなかったのが悔やまれる。……悔やまれる?
「んもう、役立たず。で、どうだった? かっこよかった? 一人でいたの? まさか、女の子といたんじゃ!」
「うるせ、そんなに見てねえよ。けど、なんか男友達っぽいのと一緒だった」
「男友達?」
限定フレーバーを断られた俺はスムーズに渡し口に流されて、結局、ヤツと同じくらいのタイミングで商品が手渡された。店員は隣にばっかり夢中で、俺の方など見もしない。ツバでも吐き掛けてやろうかなと思いながらレジに背を向け、女子の垣根を肩身狭くすり抜けようとすると、その波を堂々と抜け出してヤツの方へと歩いていく影があった。ちょうどすれ違ったそいつは男で、思わず振り返ると、気安い雰囲気でヤツに話しかけている。
「そいつもケーキかなんかの箱っぽいの持ってたな。甘党の男とか……」
「そんなことはどうでもいい! フェイスくん、男とはほとんどつるまないのに、誰だろう。どんな人だった? 光学園の人かな」
「知らねえよ。金髪で俺より背が高くて、けど、光学園の生徒じゃなさそうだな。もっと、なんつうか、イイ子ちゃんっぽい感じの男だった」
彼女はドーナツを食べ終えた指を、口に含んで行儀悪く舐める。それをぼーっと眺める俺より、ヤツのことを考える彼女の目はよっぽど真剣だ。
「イイ子ちゃん……? ますます分からない。クラブ仲間でもないってこと? 一体誰なの……?」
俺は箱の中からチョコレート味のドーナツを取り出して、穴を割らない程度にちぎり、口に運んだ。真っ黒いそれは胸焼けしそうなほどに甘くて、ここにキャラメルまで合わさったらたまったもんじゃないと、俺はぬるくなったコーヒーで口の中を洗い流した。
【秘密のマドリガル つづく】