秘密のマドリガル 2 この道は右側から西日が差し込むから、まぶしいし、逆光だし、目が痛い。あそこの交差点で引っ掛かりませんようにと願ったら、バスはスムーズに左折した。ほっと息をついて、また、前方を盗み見る。
万南生でぎゅうぎゅう詰めのバスのいちばん後ろの左隅に、わたしは身を縮こまらせている。積載量オーバーとしか思えない空間の、ちょうど真ん中あたりに立っている、ウィル先輩。
(ああ、今日はラッキー……顔を拝める位置なんて)
先輩を待って、二、三本バスを見送るくらいは当たり前。そのたびに忘れ物をするふりをして、そのたびに先頭に並ぶから、わたしの定位置は大体ここ。あとからやってくるウィル先輩の位置によって、後頭部が見えたり、後ろ姿が見えたり、何も見えなかったり、運がよければ顔が見える。今日は優先席の前に立ってくれたおかげで、その表情から上半身までばっちりだ。ありがとう、優先席とかいう文化と、優先席に座りはしないウィル先輩の人間性。
わたしがウィル先輩に夢中になのは、入学して少ししたころ、屋上でその姿を見かけたときからだ。ベンチでお弁当を食べていたら、花壇にとつぜん長身の影が立ち上がって、思わず大声を出しそうなほど驚いたのを覚えている。それをなんとかこらえて、手で口を塞ぎながら見ていると、その花壇の花の株一つひとつに目を向けて、土を盛ったり、肥料を与えたりしているらしかった。その優しい手つき。慈愛のまなざし。最後にホースで水を撒く、飛沫のキラキラの中に彼の姿が、あまりにも“良”くって、わたしの鼓動は暴れたままだった。わたしはあわててお弁当を掻き込み、彼に見つからないように屋上を後にすると、その正体を探りにかかった。数日後の放課後に、それは判明した。部活動紹介を巡っていたら、姿があったのだ。園芸部の部長の、ウィル・スプラウト先輩。
ところで、わたしは先輩と話したことがない。屋上で見かけたときも、部活動紹介でも、家が同じ方向だとわかってからも、先輩の視界にまともに入ったことすら無いはずだ。
だって、わたし、遠くから見ていたいの。絶対にバレたくはない。恋に落ちても付き合うなんてもってのほか、認知はいらないの。ウィル先輩ってなんだか“尊い”って感じで、“好きな人”より“推し”なのよ。先輩はその後、六月の生徒会選挙に出馬して、みごと生徒会長に就任した。わたしの周りにも、ウィル先輩をかっこいいと言う声は後を絶たなくて、わたしはミーハーの彼らより多少はガチ勢だけれど、みんなで愛でていきたいの。今や万南の顔とも言える、優しくてかっこいい、品行方正で成績優秀な、わたしのじゃない、みんなのウィル先輩。
(やっぱり、ここで降りるってことは、ブルーミング・スプラウトの息子に違いない。でも、わたしは行けないわ……誰か、行ってレポとか上げてくれないかしら)
ウィル先輩は、わたしの最寄りの五つ前のバス停で降りる。そこから徒歩十分くらいのところに、彼の苗字と同じ名前の花屋があるのをわたしは発見した。家を突き止められたのは偶然わかりやすい自営業だったからで、サラリーマンの家庭だとしても特定したなんてことは、断じてない、はず。
今日も懲りずに百万チャンネルを開く。狭いコミュニティなら地域の情報を探しやすい。先輩が家に着くのはいまから八分後、そのころブルーミング・スプラウトにこのコミュニティのユーザーがいれば、かっこいい息子さんの目撃情報が上がるかも。
急いてタイムラインを更新したところで、時間も進まなければ、画面には無為な投稿が表示されるばかり。百万市の女子高生のトレンドは、最新スイーツ、楽なダイエット、誰かが飼ってるチンチラに、フェイスさま。暗がりに鮮烈なスポットライトを浴びて、憂い気な微笑みとともに皿を回す男の写真が表示される。
(まったく。こんな男のどこがいいんだか)
フェイスさまというのは、現実でもSNSでも話題の、イケメン高校生DJだ。西地区のクラブに出演しているそうだが、高校生がそんなところに出入りしていいはずもなく、つまりは、不良の文化。不良のスター。そんなものにわたしは、これっぽっちも興味が無い。
わたしは、ウィル先輩みたいな男が好きなんだ、男に限らず、下品でワルいものは肌が受け付けない。ウィル先輩のことを生真面目で垢抜けないと言う人が居るけれど、それが良いんじゃない。こんなふうに胸元をはだけてスカした男の、一体どこがいいんだか。
そんなふうに悪態をついていたら、そろそろウィル先輩がバスを降りてから十分が経とうとしていて、わたしは慌てて検索窓を叩いた。ブルーミング・スプラウト、南地区の花屋、と次々サーチしたけれど、ネットサーフィンはこの日も結局徒労に終わった。
⁂
ある週末、わたしは外出の帰りに好きなミステリ本の最新刊を買い求め、帰りの電車で夢中になって読んでいた。時刻は午後五時過ぎ、ビル街を抜けた窓から強い西日が射し込んでくる。思わず顔を上げて景色を確認しようとすると、向かい合った列の進行方向側の端に、見覚えがありすぎるほどにある、金髪の男性が座っているのが目に入った。
(う、ウィル先輩……!?)
まさか、休日に遭遇できるなんて! 心臓が暴れ出す。電車の最寄り駅は同じはず、あと数分だ。ほんのわずかな時間だけれど、まさか休日の姿を見られるとは思わずに、わたしは本に目を落とすふりをしながら、先輩の姿をくまなく観察した。
髪のセットは普段と同じ。服装はブラウンのピーコートで、中にはブラウスの襟が見える。セーターか何かを着ているようだけれど、残念ながら形や柄はわからない。下はベージュ色のチノパンツで、普段のローファーとはひと味違う編み上げの革靴、膝には温かみのあるグリーンのマフラーがきちんと畳まれて鎮座している。
良い、良い。ウィル先輩の私服! 予想を裏切らない、上品でシンプルなコーディネート。暖色がベースの出で立ちは新鮮で、けれどとても良く似合っている。コートを脱いだら明るめの色だろう。どうにかして見てみたい。
最寄り駅のホームに電車が滑り込む。ああ、至福の時間もこれでおしまい。それでも最後までウィル先輩の姿を視界に収めていたくて、視界の片隅で伺っても、彼は座ったままで微動だにしなかった。
ここで降りるんじゃないのか。一体、どこへ行くんだろう。
「……」
どうしよう。どうしよう。ドアはもう閉まってしまう。わたしは家に帰る予定で、わたしはウィル先輩に恋していても、決してストーカーなんかじゃない。認知はいらないの。みんなの彼を眺めていたいの。普段のあれはたまたま帰り道が一緒だから致し方ないことで、行き先も違うのにみずから後をつけるなんてことは、信条に反する。
一瞬の逡巡、それでも、わたしは立ち上がることをしなかった。中途半端な前傾姿勢のまま、電車はふたたび速度を上げていき、わたしたちの家からどんどん遠ざかっていった。
百万市をぐるりと回る環状線。外回りのこの電車は、南地区から西地区へとゆるいカーブを描いていく。繁華街から工場エリアを抜け、ふたたび繫華街へ。南地区じゃないなら、ウィル先輩に似合うのは自然の多い東地区じゃないか、でも、こちら回りに乗っているのならせめて北地区か……。治安の悪いとされるエリアの付近、視界の左端だけに集中して思考を巡らせていたら、不意にウィル先輩が立ち上がった。慌ててわたしも腰を上げる。窓の外は薄暗く、ホームの外にはギラギラと目にうるさいネオン街が広がっていた。本当に、ここで降りるの?光の中に、上品なウィル先輩のコートが溶け込んでゆく。目立たないよう、見逃さないよう、わたしは後を追ってゆく。
夕焼けを丸無視した街灯の下には、いかにもな恰好の人々、観光客の群れ、着崩した制服の甲高い声。背中を丸めて歩いていたら、調子の良い男に話しかけられる。そんなものに構っているひまはない。背後で響く笑い声に不快感を覚えていると、ウィル先輩は大通りから逸れて小路へと入った。地図を見ながらどこかへ向かっているらしいけれど、果たして合っているんだろうか。ネオンの色もなんだかいかがわしく、とてもじゃないけれどウィル先輩の行っていい場所ではない。何か、悪いことに巻き込まれてはいないかしら。黒服の男が通り過ぎていく。色んなはらはらを抱えながら尾行を続けていくと、小さなビルを回り込んだ向こうで、ウィル先輩の声が発された。
「あ!――」
続いて、誰か別の男の声。話している内容までは聞き取れない。が、知り合いと待ち合わせていたらしいことは明確だ。やっぱり、ここが目的地なのね。一体、彼はなんのために、こんなところに来たんだろう。生徒会長の裏の顔。心臓が暴れている。
わたしから彼らのいる通りを覗くのに、ちょうど良く非常階段の陰があった。わたしは息を潜めて、恐る恐るビルの角から顔を出した。
「それじゃ、こっち。今日はスペシャルゲストが来るって言ってあるから」
「え! 俺、何もできないけど……」
「アハ、冗談。まあリラックスして、楽しんでよ」
薄暗い路地裏に、追い続けたウィル先輩の後ろ姿。それに並び立つのは、黒髪にショッキングピンクのヘッドフォンの男、ちらりと見えるその横顔は。
(えっ……、フェイス、さま……?)
画面越しに目に入る、いけ好かない美貌。それが、ウィル先輩と並んで、SNSの姿とも違う和やかな雰囲気、そして、ふたりは連れ立って隣の建物の地下へと続く階段を降りて行く。
わたしは思わず陰から飛び出して、建物の前に走った。階段の付近には店名も看板も無く、覗き込めば、踊り場の折り返しの先から、地を揺らすようなダンスミュージックが響いてくる。
ウィル先輩は、お休みの日、こんなところに。それも、あんな不良めいた、SNSのカリスマと親し気に。それを知っても、幻滅するどころか、わたしの中でウィル先輩への興味はどんどん膨らんでゆく。一体、彼はどんな人なんだろう。あのフェイスさまと、どんな関係性なんだろう
わたしは踵を返して、元来た道を戻っていった。どんなはしゃぎ声にも、軽薄なナンパ男にも、嫌だとすら思わなかった。そんなことに回す気を、わたしは持ち合わせていない。
内回りの電車に乗り込んで、思考に取り憑かれたままのわたしは、無意識のままに本を開く。物語の中では、探偵の追尾が捜査の進展に実を結んでいて、わたしはますます頭の中で彼らの妄想を繰り広げるのだった。
【秘密のマドリガル つづく】