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    かんざキッ

    @kan_za_

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    かんざキッ

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    0真桐(サブストネタ)

    薄暗いだけ「治験。ちけん?」

     裏路地にひっそりと貼ってある、汚れたポスターが目についた。
     キャバレーグランドの支配人をしている真島の帰りは決して早くない。まして月末ともなれば尚更だ。
     殆どの数字が並ぶややこしい業務を秘書と山野井にこなしてもらっている桐生だからこそ、月末という忙しいはずの時期に大阪までやってくることが許されていた。
     腕時計で時刻を確かめると、真島に予告された待ち合わせまではまだ二時間近くある。
     何処か店に入っていようとも思ったが、この後の予定を考えると腹を膨らませることは得策でない。ゲームセンターや映画館も一人で行くより、真島と共に楽しむ方が良い。
     そうして暇を持て余しながら、蒼天堀をふらふらと歩いていたところ、いつも通りに喧しい男達に喧嘩を売られ買い、途中から面倒になって逃げ込んだ裏路地が今いるこの場所だった。
     表から響く声が遠ざかるまで、周囲を見渡していたところ謎の張り紙が目についた。
     そこには治験と書かれている。
     治験について詳しいことは知らなかったが、張り紙の内容から察するに薬の実験台にされるらしい。その代わりなのか、報酬は三百万と書かれていた。誰でも簡単にすぐできる、という胡散臭い文言まであり、どの文章も信用に足らないことは分かるが、いかんせん興味が湧く。
     ポスターに書かれた治験場所は、蒼天堀に唯一ある公園近くの雑居ビルだ。
     もう一度、時刻を確認する。真島との待ち合わせには余裕がある。
     男達は桐生の姿を見失い、既に何処かへいなくなっているようだった。表へゆっくりと顔を覗かせれば、平和的な一般市民しか歩いていない。
     改めて雑居ビルの名前を確認し、桐生は裏路地を後にした。

    「もしかして、治験希望の方?」
    「あ、ああ」

     白衣に身を包んだ、如何にも医療関係者と言わんばかりの若い男に声をかけられた。
     記憶した雑居ビルを探して、辺りをキョロキョロと見回していれば、分かりやすかったらしい。
     桐生が肯定の意を表すと、男は上から下までゆっくりと視線を滑らす。あまり居心地は良くなかったが、どうやら男のお眼鏡にかかったらしい。親指を立て、謎に喜ばれる。

    「いやぁ、とても健康そうな方で良い。有難いことです。詳しいことは中で説明するので、どうぞどうぞ」

     男に言われるがまま、雑居ビル内のとある一室に入る。
     妙に広い、想像とは違う空間に首を傾げた。しかし、これまで治験などやったこともなければ、誰かの体験談を耳にしたこともない。
     桐生の知識が足らないだけで、実際はこういうものなのかもしれない、と考えを改めて一人で勝手に喋り続けている男に目を向けた。

    「というわけでして、少し前に一度とある方に協力して頂いた結果に基づいて改良し、なんとか三種類のうち二種類はまぁ売れなくもない、形になりそうなんですよ」
    「売れなくもない、っていうのはどうなんだ」
    「それで、残り一つも早く進めたいんですが、これが全然」

     矢継ぎ早に不穏な言葉が続々と飛び出す。
     此処に案内される前、何枚か契約書にサインさせられたが、あれはやはり間違いだったかもしれない。
     眉間の皺が深くなり、桐生の表情が徐々に曇っていくものの、男は一切此方へのリアクションを取らずに口を動かす。

    「…その進みがよくねぇ最後の一つを治験するってことか」
    「そうです、そうなんです。これさえできれば、世界中の人が救われるはずです。間違いなくッ」

     大袈裟な意気込みと息遣いに、どうにも気が引ける。
     しかし、少なくともその意気込み自体に不審点はなさそうに思えた。桐生が聞かずとも、べらべらと薬の効果が説明され、内容を理解すれば確かにそれは世界を変えられるかもしれない。いつしか桐生自身が世話になることもあるだろう。

    「さ、どうぞ」
    「ん」

     市販薬と比べ、無駄に濃い色合いだったが今更突っ込んでも仕方がない。
     一緒に渡された水と共に、その錠剤を一粒飲み込んだ。喉奥へ流れていき、内臓の中にぽとりと落ちたはずだ。

    「すぐ効果が出るのか?」
    「ええ、即効性なので。大体、十分かからずに」
    「ふぅん」
    「というわけで、桐生さん」
    「なんだ」
    「此処にいるアルバイトの皆さんと戦ってください」
    「は?」

     どかどかと足音を立てて数人の男達が部屋に入ってきた。どの男も体格が良く、その目つきからして単なるアルバイトではないことを全身で表している。
     流石、三百万もの金がかかった治験だ。

    「戦っている最中、戦った後、どのような効果が出ているのか教えてください」
    「手加減はいらねぇな」
    「それでは皆さん前と同じく、この被験者さんと戦ってもらいますので、全力でぶちのめしたれぇいッ!」

     即効性という言葉に嘘はなかったらしい。
     桐生自身が薬の効きやすい体質かどうかはさておきとして、確実に一人を叩きのめしたところで視界に影響が出た。
     薬を渡された際の説明では、何やら細胞を刺激して物事に対する集中力が上がるらしい。それは、視界にも影響が出るようで、眼前に広がる動作全てが遅く見える可能性もあると言っていた。
     顔の前で振られた拳は、あまりにも緩慢な動きで逆にやりづらい。通常時ならば、相手の動きをある程度予測し、この体勢なら次に右手が出るから身を引く、といったように動く。
     だが、今はその全てが遅れている為、当たりはしないものの次の自分の動きに支障が出る。
     兎にも角にも、五分程度で男達との勝敗は喫した。
     白衣の男が合図すると、あっさりと退場していく。

    「とりあえず、お疲れ様でした。お水どうぞ」
    「ああ」

     薬の効果もあっさりと切れ、男の言葉がゆっくり聞こえるという気持ち悪い事態は免れたらしい。
     渡された水を一気に飲み干して、一息つく。

    「それで、効果の程はどうでしたか」
    「確かに相手の動きは遅く見えた。が、やりづらかったな」
    「やりづらい、とは?」
    「遅すぎてタイミングが測りづらいんだ。遅い分、集中して次の動きを見るってことはできるかもしれねぇが、俺みたいに経験がある人間からすると自分の思うタイミングとズレるからな」
    「ああ、なるほど。確かにそれはそうですね。ふむ」
    「だが、元々アンタらが求めていた効果ってのは間違いなかったんだ。成功で良いんじゃねぇのか。今のところ、それ以外の副作用ってのも出てきてねぇし」

     桐生の言葉に偽りはない。
     効果時間が短いという懸念点はあるものの、重篤な副作用が現れていないことを考えれば、十分に成功したと言える。
     それでもまだ、科学者である男は納得しきれていないようで唸っていた。
     ただ、当初約束された役目はここまでである。
     段々と桐生の方が困り顔を浮かべるようになった。何と声かけてやれば良いか、と考えても何も思いつかない。
     そのような桐生の様子に漸く気づいたか、男は頭を下げた。

    「すみません。ご協力頂き、ありがとうございました」
    「本当にこれで良かったのか」
    「ええ。契約違反は何もありませんから。此方、報酬の三百万です」
    「薬飲んで喧嘩するだけで」
    「いいえ。この薬が本当に成功すれば、こんな金額なんて」

     男が急に閉口する。続く筈の言葉が何であったかを桐生は察することができなかった。
     渡された三百万を懐にしまい、男に向き直る。

    「無事に完成することを願ってるぜ」
    「ありがとうございます」

     緩く手を振ってから、雑居ビルを後にした。
     あれから時刻はさして進んでいない。まだ約束まで一時間以上残されており、どうしたものかと目的なくふらふらと街を歩く。
     合鍵は貰っている為、一度真島の家に戻っても良いかもしれない。
     元々、何もなかった真島の家には桐生が勝手に持ち込んだ私物で溢れかえっていた。布団や大量のカップ麺、ゲーム機、漫画本の数々、とある程度の時間を潰すには困らない。
     そもそも、今回の滞在は真島の家を宿代わりにすると決まっていた。殆ど荷物を持ってきていない桐生は蒼天堀に着いてから、ただ街をふらついていただけで、まだ一度も家に寄っていなかった。
     そう目的が決まれば、自然と足取りも軽くなる。
     性懲りも無く絡んできたガラの悪い男達の品性のない決まり文句を機嫌の良さから全て聞いてやり、最後の一人を壁に叩きつけようとした瞬間、ザザッと視界が乱れた。
     まるでテレビの砂嵐のように、視界に靄に近い不気味な線が何度も入る。
     経験則からの無意識的な動作により、男達は無事に叩きのめしたが、不明瞭な視界は一向に改善の兆しが見えない。塵でも入ったか、と目を擦ってみても変わらず、コンビニで買った軽く洗ってみても顔が濡れるだけの徒労に終わる。
     何もそれは片目だけではなく、両目とも様子がおかしかった。公衆トイレに入り、鏡を覗き込んでみたが、やはり眼球に不審点はなく、それどころか単に視野が狭まっていく様をありありと感じてしまった。
     時間が経つにつれ、その不可解な現象は悪化の一途を辿る。
     原因はひとつしか無いものの、この視界で雑居ビルに戻ることはできない。今の現在地から考えると、真島の家に向かった方が早かった。
     一瞬、グランドに行って真島に事の次第を伝えるべきか、とも考えた。しかし、そう思い立った時点で視界は殆ど黒く塗りつぶされており公衆電話を操作できる自信がなかった。
     当初は焦りから走っていたが、視界が潰れていくにつれ真っ直ぐ走ることが困難になり、徐々に歩行速度は落ちた。今では建物伝いに歩くことで精一杯だ。周囲の人間から向けられる怪訝そうな視線に気づきながらも、そうすることしかできない。
     記憶を頼りに真島のアパート前まで着いた時には、完全に両目の視力は失われ、階段を登ることさえ恐怖の対象となった。
     ポケベルを取り出し、震える指で"1214"と打ち込んで送った。

    「一馬ッ!」

     あれからどれぐらいの時間が過ぎたか分からない。
     視力は戻らず、頼りになる筈の聴力も何時からか降り出した雨で使い物にならなかった。表の通りから聞こえてくる人々の喧騒を頼りにしたかったが、それも全て雨音が潰してしまっていた。
     ふいにバシャバシャと雨の中を走ってくる音が聞こえてきた。その方向に顔を向けてみると、音は止み、代わりに荒い息遣いと自身の名が耳に届く。

    「どないしたんや、あのポケベル。鍵でも失くしたんかっ」
    「真島、さん」
    「…一馬、何処見とるんや」
    「真島さん、どこにいるんだっ」

     雨音が煩わし過ぎてどうしようもなく、音が聞こえてくる方向を予想して手を伸ばすしかない。
     歪な動作で此方に向けられる彷徨う両手を握り、真島は桐生の双眸を覗き込んだ。冷えた手と同じか、それよりも不安定に揺れる二つの瞳は視線が全く安定せず、何方も不安の色を堪えたまま真島の姿を探し続けていた。
     不可思議なメッセージを受け取り、返信しても何ら応答がなかった。傘も差さずに大急ぎで家に戻ってきた真島の身体も、外で真島の帰りを待つしかできなかった桐生も同じかそれ以上に濡れている。
     躊躇する理由などなく、真島は地に膝をつけて桐生を抱き締めた。肩口に埋められた冷たい息からは僅かな泣き声が漏れ、雨にかき消されていく。

    「そのままちょお待っとれ。タオル持ってくるわ」

     扉にもたれかかったまま、桐生は小さく頷く。
     冷えた身体を考えると風呂に入れてやった方が良いとは分かっているが、真島の家には風呂がない。行きつけの銭湯はあるものの、今の桐生を連れて行ける自信はない。
     タオルを何枚か手にとってから、ヤカンで湯を沸かし、桐生の元に戻る。
     真島が戻ってくるまでの間、桐生の顔は音が聞こえてくる方向へ向けられ、鳴り響く小さな音の全てを拾おうと必死であった。それがあまりにも恐怖を滲ませているものだから、真島は思わず自身の表情も歪めた。

    「真島さんっ?」

     此方の焦りが悟られぬよう、首を振ってから声をかける。

    「手ぇ掴むで。目の前にタオル敷いてるから、そこでとりあえず足裏拭き」

     おずおずと靴を脱いだ。
     両手を握る真島を支えに狭い歩幅で進み、玄関前に用意されたタオルの上で足を拭く。しかし、見えてないが故にその動作は酷く拙い。

    「一馬、そのまましゃがめるか」
    「しゃがむ、」
    「ゆっくりでええ。俺が手握っとるから」

     こくりと首を縦に振り、言われた通りに腰を下ろす。

    「右手ちょい離すで。このまま腰に手回すけど、ええか」
    「あ、ああ」
    「じゃあ、そのままゆっくりと座りぃ」
    「で、でも、それじゃ」
    「気にせんでええ」

     はっきりと言い放たれた言葉に反論できる余裕も理由もなく、先程と同じく黙って従った。
     完全に桐生が床に座ると、ひとつ詫びを入れてから手が離れる。
     ぶわりと恐怖心が花開く。

    「ま、真島さんっ」
    「大丈夫や。目の前におる」

     見えないと知っていながら、それでも言葉の色を柔らかくする為に微笑んだ。
     それは桐生にとって救いとなったようで、静かに息を吐いた。
     若干の落ち着きが訪れたことを察し、真島は一声かけてから桐生の濡れた脚に触れた。靴下を脱がし、顕になった素足をタオルで丁寧に拭う。足裏から指の一本一本、その間、爪先、くるぶしも濡れている箇所がひとつも残らないように優しく拭きあげる。

    「よし。また手握るで」
    「真島さん」
    「なんや」
    「…すまねぇ」
    「それは、……また後で聞くわ。今はとりあえずあったまることが優先や」

     もう一度、桐生の手をとって立ち上がらせ、狭い部屋の奥に進む。
     先導する真島の脚で小さなちゃぶ台や床に転がる灰皿などを、桐生の動線を妨げないであろう位置に押しやった。

    「着いたで」
    「布団…布団の上?」
    「そうや。一馬、このまま少し立っとってくれ」
    「なにするんだ」
    「湯沸かしてんねん。まだそない時間経ってへんから、風呂よりちょお熱いぐらいやろ」

     手を離すと、また不安げな声で呼ばれる。
     だが、このまま単純に身体を拭っても冷えは治らない。
     火を止めてからコップに湯を注ぐ。立ち上る湯気と熱気、少しばかり水を注ぎ、温度を調整してからまた桐生の側に行く。

    「すまんけど、全部脱がすで」
    「え、」
    「身体拭くだけや。温度は下げたけど、もし熱かったら言うてくれ」
    「自分で、」
    「…俺がしたいんや。アカンか」

     羞恥心と罪悪感で飛び出しかけた言葉を遮れば、桐生は口を閉ざした。肯定も否定もしない代わりに、かたく瞼を閉ざす。
     逐一声をかけながら、衣服を脱がして湯で濡らしたタオルを使い身体を拭いていく。
     何度か性交していながらも未だ裸を見られることに慣れない桐生だったが、今ばかりは顔を青くしたままだ。真島の心を躍らせる幼くも妖艶な赤みは差さず、言い知れない不安と苛立ちが募った。
     拭き終わった箇所から、桐生が持ち込んだままの予備の服を取り出して着させていく。濡れた衣服達は少し悪いと思いながらもまとめて近くに転がっていたビニル袋に突っ込んだ。

    「他、寒いとこないか」
    「ない。ない、大丈夫」

     ぶんぶんと首を振る。
     玄関前と同じ様に、片手をとって腰に手を回し、布団に座らせた。
     ふと気づく。飲み物のひとつでも用意してやれば良かった。しかし、この家には缶ビールぐらいしか置いていない。外に買いに行きたくとも、桐生の側から離れるわけにもいかない。
     真島よりも桐生の方が嫌がるであろうことは容易に想像がつく。

    「酒しか無いわ、」

     無意識に独り言が溢れた。
     俯いていた桐生の顔が上がり、掴んだままの手をそっと握り込む。

    「すまんな、一馬」
    「え、いや…俺の方こそ、迷惑かけてる、から」
    「ほなら、詳しい話聞こか。喉乾いたら言うてくれ。まずい水道水なら出せる」

     真島の面白くない冗談に言い返すこともできない程、桐生は憔悴しているようだった。
     今すぐにでも問いただしたい気持ちはあったが、焦ったところで桐生の口をさらに閉ざしてしまうことだろう。本人が自らの口で話せるようになるまで、真島は辛抱強くその時を待つ。

    「治験を、した」
    「……治験? 薬のか?」
    「ああ。ポスターを見かけて、真島さんを待っている間の暇つぶしになると思ったんだ」

     桐生がぽつぽつと話し始めた。
     裏路地に貼ってあったポスターから始まり、公園近くの雑居ビルで治験をしたこと、たった一粒の薬であったこと、それが眼に対して効果を齎すものだったこと、治験を終えてビルから出て暫くしたら今の状態になってしまったこと。
     桐生の話す内容に真島は覚えがあった。
     ただ、真島の時と幾つか違いがある。治験した薬の数は兎も角、副作用の出たタイミングがあまりにも遅い。また、効果時間が長過ぎる。
     今すぐにでも殴り込みに行きたいが、そうもいかない。
     大人しく、副作用が無くなるまで待っているしかないだろう。歯痒さによる苛立ちが募って仕方がない。

    「こんな、ことになるなんて、分かってなかった。真島さんに、迷惑かけちまって、俺はこんなことがしたかったんじゃないっ」

     遂に桐生の目からぼろぼろと涙が落ちた。布団に小さなシミができていく。
     隠したい気持ちがあるらしく、何度も目を擦るが、隠し切れる量ではなく、一向に止まる気配もない。
     同じような治験を受けた身として、桐生を責めることなどできるはずもなかった。何かひとつでもボタンの掛け違えがあれば、真島もこうなっていただろう。
     真島の表情を見ることのできない桐生を怖がらせないよう、小さく小さく息を吐いてから口を開く。

    「ほっぺた、触るで」
    「まじまさん、」

     ふるり、と濡れたまつ毛が揺れる。

    「起きてしまったことはしゃあない。これからのことを考えようや、一馬」
    「これから、ってそんなこと」
    「帰るんは明後日やったな。とりあえず、それ引き伸ばせんか」
    「聞いて、みねぇと」
    「せやな。今日はもう遅いから、明日聞いてみよか。電話ボックスは少し離れとるし、番号教えてくれたら」
    「い、いやだッ」

     頬へ伸ばしていた腕を掴まれる。
     その手が微かながらも震えていることに気づき、真島は口を噤む。
     何気なく提案したことではあったが、今の桐生にとって独りになることは何事にも耐え難い恐怖心を生むようだった。
     一晩も経てば、と軽く考えていたことが過ちだと知る。
     飛び出しそうになった舌打ちを飲み込み、震える手を握った。

    「大丈夫や。一緒におる。外に出えへんとアカンときもや。一馬こそ俺から離れんなや」

     安心させようと口にしたが、実際外出するとなると問題がある。
     過去に見た白杖が何処で手にいれられるか、真島は知らなかった。役所などに行って手続きをすれば、購入できるかもしれないが、蒼天堀に役所はない。桐生のことを考えると、あまり遠出もしたくなかった。
     ドンキホーテにでも売っている老人用の杖を代理で使うしかないだろうか。平日の午前中なら人通りは然程多くない筈だ。そこの時間帯を狙えば、桐生を連れて行くこともできるかもしれない。

    「……ぁ、」

     明日の計画を脳内で組み立てていると、突然目の前から小さく腹の音が聞こえた。
     元々はこの後、外で飯屋を回る予定だったのだから自然なことで何ら恥じることも悪く思うこともない。
     だが、桐生はいつものようにあっけらかんとすることもなければ照れることもなく、ただバツの悪そうな、もしくは酷い失敗をした子供のような顔をした。
     恐らく、もう今日の桐生は何をしても真島に対しての罪悪感が募るだろう。自分自身に向けた後悔と憤怒を潰せない上に、隠すこともままならない。真島がどう慰めようと何も変わらないように思えた。
     たかが四つ、されど四つ。
     ならば、年上の自分が愛らしい年下の恋人を抱き締めといてやればいい。感情全てを見て見ぬ振りできる程、真島自身も余裕のある大人ではなかったが、今は守ってやることだけが唯一の使命として脳内タスクを整理していた。

    「腹減ったわ。カップ麺でええか」
    「あ、…うん」

     多少落ち着きを取り戻したようで、真島が必ず一声かければ露骨に不安げな表情を見せることはなくなった。
     とはいえ、するりと離れる手の感触自体はまだ名残惜しく感じるようで、意味ありげに緩く握られる。

    「お前が仰山置いてったからなぁ。味噌と醤油と塩、とんこつもあんで。何がええ」
    「……醤油」
    「俺は塩にしよ」

     しかし、努めて明るく振る舞わなければいけない。無言の時間を作ることも憚られる。
     今日のグランドであった、くだらない客の話やキャスト達の小競り合いなんかを話して間を繋げた。
     湯を注いだカップラーメンを、再度引き寄せたちゃぶ台に置き、桐生の隣に座る。妙に寂しげに膝の上に落ちてた手を握った。

    「ま、真島さん?」
    「ええか、ちゃんと覚えるんやで。此処がちゃぶ台。自分との距離、忘れたらアカンで。ほんで、その上にカップラーメンがある。一馬の位置から、…此処や。こんぐらい離れとる。覚えたか」
    「……あぁ、大丈夫だ」
    「いつもよりゆっくり食わんとアカンからな」

     数分待てば、カップラーメンの出来上がりだ。
     蓋を捲ったことを伝えれば、真島の言葉もしかと届いていたようで、恐る恐る手を伸ばした。
     ぺたぺたとちゃぶ台に触れ、その上を滑るように一歩一歩動かしてカップラーメンの前に辿り着く。

    「そこやで」

     普段は気にならない熱さも視界が伴ってないと、過敏に感じられる。真島の口頭案内で触れた容器に少し肩を震わせた。
     本当なら食べさせてやるべきかもしれないが、それは桐生のプライドが許せないだろう。
     真島は成り行きを見守ることしかできない。

    「…真島さん」
    「ん?」
    「悪い、箸が」
    「あ、すまんすまんっ。ちょお待っとれ」

     ぱきん、と小気味いい音を立てて割れた。
     桐生の指に刺さってしまわないか、飛び出した木片を探すが特に見当たらない。大丈夫そうだ。
     右手に箸を握らせる。

    「片手で持てるか」
    「ああ」
    「置きたくなったら言うんやで。補助したるから」

     真島が教えた距離感を桐生はきちんと覚えていた。
     隣で見守っていたが、普段よりも緩慢な動きであったものの、初手で火傷することは回避できた。恐る恐るでありながらも、問題なく食べられているようだ。
     もっと簡単に食べやすいものを用意すれば良かったことは十分に理解している。
     しかし、この閑散とした家にそのようなものが常設されている訳がない。
     今回ばかりは真島も後悔を覚えた。

    「…気分でも悪なったか」
    「そうじゃ、ねぇんだが」

     真島が先に食べ終わってから幾分経った頃、桐生の手が止まった。
     先に伝えた通り、落としてしまわぬように横から手を差し伸べて一緒にちゃぶ台の上にカップラーメンを置く。容器の中には半分近くが残されている。
     腹の虫が鳴ったとて、感情が食欲について来れなくなっていたらしい。
     また失敗した、と思った。

    「ええ、気にすんなや。残りは俺が食うたるから」
    「せっかく、作ってくれたのに、…すまねぇ」
    「俺は湯入れただけや。それより、お前は気分悪なってないか」
    「…大丈夫だ」
    「無理したらアカンからな。すぐ言うんやで」

     時間が経った麺は伸び、スープは冷め、不味かった。
     片付けを終えた後、座ったままだった桐生の身体を布団の上に倒した。一声かけていたこともあってか、何の抵抗もなく、仰向けのまま映らない瞳で天井を見つめている。
     真島はその横に寝転がった。

    「明日、ドンキ行くで」
    「ドンキ?」
    「何するにも杖、必要やろ」
    「…ああ、そうか」

     何処か他人事のような返答だった。

    「一馬」

     次の返事はない。
     だが、そのまま口をつぐむ理由もない。

    「ええか、これだけは分かっといてくれ。お前は何も悪ない」

     びくり、と肩が震えた。

    「頼まれた薬を飲んだだけや。頼まれたことを頼まれた通りにやっただけや。それがこないな結果になるなんぞ、お前は予想できんくて当たり前なんや。せやから、俺に申し訳なく思う理由は何処にもない」
    「それでもッ」

     やっと真島の方に顔が向けられた。
     それは、今にも泣きそうな顔だった。

    「お前が俺に悪う思う気持ちを、どうしても捨てれん言うんやったら、その分を俺に頼ってくれ」
    「そんなの、今だって、十分アンタに頼って、」
    「もっとや。こんなん全然足りひん。ああしてくれ、こうしてくれ、もっと言わんかい。俺にできる範囲のことやったら、なんぼでも叶えたるから」

     ひとつの断りもなく、桐生を腕の中に引き寄せて壊れんばかりに抱き締めた。
     恐らくまだ桐生は食い下がろうとしていた筈だ。ずっと唇が震えていたことを、真島の眼には映っていた。
     しかし、それを真島が許す気がないと理解したことだろう。
     もう桐生は何も言わず、そのまま肩を震わせて小さく小さく声を押し殺しながら泣いた。
     胸元が徐々に濡れていっても、気にはならなかった。それ以上のことは何も言わず、無言で頭を撫で続けた。
     それから約二時間後、桐生は泣き疲れたかのように漸く眠りについた。
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