月明かり何でもない桃色ふと目が冷めた。
家でも職場の自室でも訓練施設でもない寝具の感触に、一瞬身を固くする。辺りは暗く、開けたばかりの目には暗闇しか映らない。
ここはどこだと考えるが、起き抜けの頭はなかなか回らず、先程まで深い眠りについていたことを感じさせた。
同じ部屋の中に人の気配がし、咄嗟に顔を向けると自分の周りの空気が動き、かぎ馴れた部屋の匂いがした。
あぁ、トーマの家に泊まったんだったか。
じわじわと明るさを取り戻してきた視界には、隣の盛り上がった寝具から覗く金色の頭が映った。上掛けに潜っていて顔は見えないものの、よく眠っているのだろう。すーすーと穏やかな寝息が静かな部屋に響く。警戒態勢を取っていた体から力を抜いて、ため息を一つついた。
自分にしては珍しく、深く眠り込んでいたらしい。
立場上敵も多く、仲間も油断ならない面々に囲まれているため、いつでも動けるよう浅く眠る癖付けをしてあるのだが、どうにも恋仲であるこの男の前では調子を狂わされる。
次の派遣先への移動をかねて、稲妻に着いたのが昨日の夕方のこと。
面倒ごとの多い任務を立て続けにこなし疲れ気味でもあったので、二泊分の休暇を確保した。思いつきで急遽決めた滞在であったし、少し顔を見れれば御の字くらいに考えながら、愛しの恋人の家へ手土産を片手に向かった。
階段が多く入り組んだ稲妻の町並みの中、賑やかな通りから外れるようにジグザクと進む細い路地。その突き当りにある小さな一軒家がトーマの家だ。
もう空が暗くなり始める時間帯だが、家主は帰ってきているだろうか。連絡もなしに来てしまったが、不在だったらどうしようかと今更ながらの不安が湧き上がる。宿を取って翌日また来ればいいのだが、どうせなら一緒に過ごす時間は長く取りたい。贅沢を言えば久しぶりに甘い時間を過ごしたい。
夕焼けの光が両壁に遮られる薄暗い路地を進む。
家が近づくと温まった油の匂いとともに、裏口に近い方の窓が開いているのが見えた。確かあそこは間取り的に台所であったか。
どうやら在宅のようだ。しかも料理中。
あわよくば手料理にありつけるかもしれないと先程までの不安から一転、期待に心が弾んだ。料亭や屋台でプロの料理を食べるのも好きだが、家庭料理はまた別物である。自分のために作られたとなったら尚更。
まあ、今日はトーマ自身の為に作ったものであろうが、好きな人の手料理には違いない。
声をかけようと窓に近づき、ふとイタズラ心が湧く。
少し驚かせてみようか。
あの鮮やかな若葉色の瞳が、驚きから喜びの色に変わるのを見るのも悪くない。トーマの柔らかくほころんだ顔は、贔屓目に見てもとにかく可愛らしいのだ。
そうと決めたら善は急げと窓から離れ、裏口に回り込む。
扉は簡素なタイプの鍵がかかっているがそこは現役執行官、少し弄ればすぐに開いた。
驚かすよう声をかけようか、それとも不意打ちで後から抱きついてみようか。目隠し…は火があるから危ないか。水元素を首に当てるのもいいな。
音をたてないよう開けた隙間から、するりと部屋の中へ侵入を果たす。彼らしく綺麗に整理整頓された台所は竈門に火が入り、暖かい空気と食材の匂いに満たされていた。
しかし、そこに期待した姿は無い。
くつくつと何かを煮込んでいる音のする鍋はあるものの、調理中であったはずの当人が見あたらなかった。先程まで居たのは間違いないのだが、いったいどこに
「いらっしゃい。侵入者さん」
くすくすとした笑い声とともに、後ろから声をかけられる。
目当ての人物の声に振り返ると、トーマが入り口から見えない位置の壁に寄り掛かっていた。
「なんだ、気づかれていたのか」
「それはまあ、自分の家だからね?これくらいわかるさ」
イタズラが失敗し憮然とした顔をした自分に対し、トーマは楽しくて仕方ないというように片手を口元にあて、目を細めて笑っている。
「君が稲妻に来たと聞いてね。楽しみに待っていたんだ」
壁から背を離し、こちらに向かって両手を広げてきた。
「おかえり」
少しの照れと喜びの混じった顔。
「…ただいま」
なんだか負けたような気がして悔しかったので、ガバリと抱きついて体重をかけてやった。自分の服の装飾金具が食い込むのか、身じろぎしながらも抱き返してくる。
「あ、痛たた、、、、こら!自分の足で立って!重いって」
久しぶりに感じる体温と、耳元で響く声にほっとした。
「あー、、、、落ち着く」
息を吐いて腕の力を強くすると、後頭部をわしゃわしゃと撫でられこめかみに頬ずりされた。小さい子どもか犬猫にするような仕草だとおもったが、気持ちいいことに違いはないので黙って受け入れる。
「よしよし!お疲れ様」
その一言で疲れが吹き飛ぶ気がした。任務をさっさとこなし、滞在日程を確保した甲斐があった。よくやった俺。
しばらくくっついていると、次第に欲が出てきた。
背中に回していた手で背骨をなぞり、首筋に顔を埋めて鼻をすりつける。そのまま熱い息を吹きかけてから舌を出してひと舐めすると、流石に慌てたのか両肩を掴んで引き剥がされた。
「気持ちいいことしないの?」
わざと甘めの声を出して聞くと、瞳を潤ませ頬を桃色に染めたトーマに睨まれた。全く怖くないし、むしろ可愛さに拍車がかかっている。
「、、、、まだしない」
耳まで赤くしたくせに、ストップをかけられた。
嫌がってはいないからと前回このまま押し進めたら、後でとても怒られたので今回は引くことにする。頬に唇を押し当てリップ音を立ててから一歩分離れ、両手を軽く上げ降参のポーズを取った。
「ははっ、また後でね」
ぐぅと喉を鳴らすトーマを見ているとまた変な気分になりそうだったので、いい匂いのする鍋の方へ意識を逸らすことにする。
蓋をずらして中身を見ると、色とりどりの具材の入った煮物、その隣の鍋は確かおでんという料理だったか。テーブルの上で鍋敷きに鎮座する土鍋は米を炊いたのか、火から外されても緩やかな湯気を立てている。その他に味噌汁や卵焼き、串焼きまであり、一人分にしては随分と量がある。
「もしかして俺の分もあったりする?」
「あぁ、今日若から君が来るようだと聞かされてね。オレの仕事も急ぎの内容じゃないって取り上げられたんだ。早めに帰ってきたから、料理して待ってようと思ったら、、、作り過ぎたかな」
相変わらずトーマの上司の若様は情報が早い。特に隠れて来たわけでもないが、夕方に港に着いたのにその前には来訪が伝わっていたのか。
「普段働きすぎだからって、明後日まで休みを言いつけられたよ」
日程までバレているのはどうかと思う。
残りの料理を二人で仕上げ、暖かい食卓を囲む。
土産を渡して近況を話し、稲妻で評判だという酒を嗜んだ。トーマは基本的に飲まないので、これも自分のために用意されたのかと思うと余計に美味しい。度数が強いのに口当たりが良くて、ついもう一杯もう一杯と杯を重ねた。
ふわふわとした感覚がするくらいには軽く酔い、お茶を片手に話すトーマを机に頬杖を付きながら眺める。
あー、今日も可愛いな。成人男性に可愛いっていうのもあれだけど、実際可愛いから仕方がないな。若葉色の目がランプの光のせいで余計にキラキラして見える。上着を脱いでインナーで寛ぐ姿はとても色気があるし、ちょっとギュッとしてくれないかな。体温高いから気持ちいいんだよね。
伝わらないかと目線に少し熱を込めると、目が合ったトーマの顔が一瞬真顔になった。あ、その顔も好き。
布団と風呂を用意してくると言ってトーマは、部屋を出ていった。いつ以来だったか、久しぶりの甘い時間の予感にそわそわする。
ひとまず顔に溜まった熱を逃そうと、部屋の窓を開けた。もうすっかり夜もふけ、月明かりのもと空気が冷たくなってきて気持ちがいい。稲妻特有の桜の香りのする風を肴に、残り少しになった酒をちびりちびりと舐めていると、トーマが戻ってきた。
「お客様からどうぞ。酒が入ってるんだから、余り長湯しないように気をつけて」
「はいはい、、、一緒に入る?」
「はいりません!」
にやりと笑いながらわざと聞くと、即答された。
顔を赤くしながら断る姿に気分をよくし、風呂へ向かった。
汗を流し、用意されていた稲妻式の寝間着に袖を通して部屋へ戻ると、布団が二組用意されていた。
最初から一組は恥ずかしかったのか照れ屋さんめ。交代で風呂へ行ったトーマを待つ間、布団へ寝そべった。
ひんやりとした生地が風呂の熱と酔いの残る体に心地いい。うっすらトーマの匂いもする。こちら側は客用の布団ではなかったかと、もう一つの布団へ転がって移動した。危ない、匂いにつられて一人盛り上がりそうだった。
また冷たい布団に体温を移しながら部屋に転がっていると、外の音が遠くに聞こえてくる。
木の葉の揺れる音、海の波の音、
これらも最初は耳に残ったが、何回か聞いているうちにだいぶ慣れてきた。目を閉じて聞いているうちに知らぬ間に時間が過ぎていたのか、床のきしむ音に目を開けると寝間着になったトーマが戻ってきていて、部屋の明かりを消そうとしていた。
「あ、トーマだ、、、」
転がったまま声をかけると、近づいてきて足元に追いやっていた上掛けを肩までかけられた。
「ん?」
そのまま布団の上からポンポンとゆっくりリズムを取ってたたいてくる。
「んん?」
酔った頭でもわかる。明らかに寝かしつけようとしている。
「待った待った。何でだ。さっきまた後でって言ったくせに、寝かしつけようとしないでよ」
慌てて起き上がろうとするが、上掛けを上手く巻き付けられてしまい、転がるしかできない。ジタバタもがくが、腕さえ抜け出せなかった。
「また後でって言ったのはオレじゃないよ。君は今日とても疲れている。普段は全然酒に酔わないのに、だいぶ効いてるじゃないか」
薄暗くなった部屋の中、布団の横に転がるトーマの声は静かだが、こうなった彼は頑固なのを嫌というほどよく知っている。
二人で喧嘩になるときは大抵この状態のトーマに自分が突っかかる構図になるし、こちらを思いやるが故の行動の場合、彼は絶対引いてくれないのだ。
こんなことなら美味しい酒は惜しいが控えればよかったとか、疲れをもう少し隠せばよかったとか色々思うが、後の祭りである。
「じゃ、一回だけ!それで満足して寝るから!」
諦めがつかず、芋虫状態で格好がつかないまま上目遣いで誘ってみる。
「、、、一回じゃオレが止まらなくなるから駄目」
一瞬の間があいたものの、断られてしまった。これはもう駄目なやつだ。頑ななモードに入っている。まあ、絶対自分も一回じゃ済まないし、済ませる気もないけども。
「大人しく今日は寝てくれ。その代わり明日は覚えててよ」
こちらを見つめる熱をたたえながらも落ち着いた瞳に、もがいていた体の力を抜いてため息をついた。その姿に満足したのか、頭を撫で、乱れた髪を直される。
「楽しみにしていたのは自分だけと思わないように」
そう言うと前髪を除けたおでこに小さい子にするようにおやすみのキスをされた。
「こっちにはしてくれないの?」
まだ腕は取り出せていなかったので、唇を突き出してアピールする。チュチュっと音を出して誘ってみると、耐えきれなかったのかフハッと笑ってから頬に手を当てて顔を寄せてきた。
かかったな。
トーマが目を閉じているのをいいことに、舌を出して目の前の唇をべろりと舐めてやった。
驚いてビクッとして目を開けたトーマと近距離で目が合う。にーっと笑いながら成功したと言うと、おでこを思わずといった感じにベチっと叩かれた。
「いだっ!」
「あ、ごめっ、、じゃなくてあーっ!もう!我慢してるのに煽るな!」
「何で我慢するんだ!久しぶりだしいいだろ!、、、、あっ、重い重い!腹に全体重かけないで夕飯が出る!」
甘い空気が霧散した寝床でぎゃいぎゃい騒いでいたが、その後知らぬ間に寝付いたのだろう。あの後上掛けは直されたようで、目覚めると芋虫状態からは脱出していた。
結局別の布団で寝たのかと思いながら上半身を起こし、隣で眠る想い人をジト目で見る。
甘い時間を期待して風呂でも色々準備をしたというのに無駄になってしまった虚しさと、自分を気遣って我慢してくれる優しさへの気持ちがないまぜになっていた。本人が良いと言ってるのに、本当に頑固者だ。
寝ているトーマを起こさないよう静かに布団を抜け出し、手洗いを済ませて戻ってくると、枕元に寝てる間に用意されていたらしい水差しと硝子の器が目についた。
いつもはさんざん鳴かされた喉を癒やすそれらも、今日はお役御免になっている。少し自分と重ねながら、せっかくだからと一杯注いだ。
中の水には柑橘類を数滴入れてあったのか、冷たい温度とは別に爽やかな香りがした。つくづく細かいところに気の回る男だ。体の中を通るヒヤリとした感覚に少し気分がよくなった。
寝付いたのは普段よりは早目の時間だったし、酒のせいもあってか深い眠りに入り、まだ月の高い時間で目が冷めてしまった。部屋も起きてからしばらく経つが、依然として薄暗いままだ。
眠気が帰ってくる気もしなかったので布団に座り直し、隣の気持ちよく寝息を立てているトーマを見つめることにした。
視線を感じたのか、「ーぅ?」と寝返りをうって、布団の中に埋まっていた顔が出てきた。柔らかそうな頬に誘われたように手を伸ばし、ふにふにと揉んでみる。
まだ目は開かないものの、少し覚醒したのか「ぅ、たる、、、、なに?あさ?」と手のひらにすり寄ってきた。
あまりの可愛らしさに喉がぐぅと鳴る。
「、、、何でもない。まだ寝てていいよ」
頬に手を滑らせ、そのまま乱れた前髪を除けておでこに口づけた。
そのまま起きることなくまた寝息をたて始めたが、離れたぬくもりを探してか、半分眠った状態のまま腕を動かしていたので、上掛けを少しずらして隣に潜り込んでみる。
水も飲んだせいで思ったより体が冷えていたのか、トーマの高い体温が心地いい。ほっと息を吐いてすり寄ると、見つけたというように背中に腕を回して抱きつかれた。
思わず起きていたのかと顔を上げるが、まだ若葉色は隠されたままだ。
消化不良の体が反応しそうになるが、それは相手も同じことだろう。目が冷めたときの反応が楽しみだと思いつつ、眠気を迎えに行くために目を閉じた。
今夜覚えていろよ。