人妻になった元推しを久々に拝んだモブくんの話「あ~~なんか緊張するな……なんせ一年ぶりだしな……わ、あと五分だ、トイレ行っとこ」
今日は残業も断り慌てて帰宅し、飯はカップラーメン、風呂はシャワーで済まし後はその時を待つだけだった。
俺が待っているのは某番組内の企画である「芸能人のお宅にお邪魔します!」というやつだった。
今日お邪魔されるのは、今大ブレイクしている祓ったれ本舗の五条悟のお宅らしい。
祓ったれ本舗は数年前にデビューしてからというもの、その話術にルックスにたちまち人気はうなぎ登り、今やその顔を見ない日は無い、とも言えるコンビのお笑い芸人だ。
ちなみに俺はどちらかと言えば夏油派なわけだけれど、何故その五条悟のお宅に興味深々なのかと言えば、彼の奥さんにその理由があった。
祓ったれ本舗(長いので以下祓本と略させて頂く)の五条悟は、人気絶頂の最中な去年、突然の婚約宣言からの既婚者となった。
しかも相手は同じく人気アイドルグループのリーダーだった虎杖悠仁君。そう、俺の元推しだ。
いや、今も推してはいるのだけれど、悠仁君は結婚を機にアイドル……芸能界を引退し家庭に入ってしまったので推したくても推せない、のが悲しき現実というわけで。
彼らが結婚に至るまでの道のりは中々に波乱でお涙無しには語れないらしいが、正直推しを失った俺には傷口に塩でしか無いため割愛させて頂く。
と言うわけで、今日は五条悟のお宅にお邪魔してもらえるお陰で久しぶりに推しの生存が確認出来る日なのだから、そりゃあシャワーを浴びて身を清めたくもなる。
CMで「虎杖悠仁」の四文字を見た時には数分間思考は停止したし歯磨き粉は飲み込んだ。
「っあ~~……始まった。早く……早く……」
番組が始まったとは言えすぐに推しが登場するわけではない。
興味の無い俳優やミュージシャンなんかのお宅もまぁそれなりに楽しめるけれど、今はただ五条悟のお宅が見たい、推しの気配を感じたい。
それなりの芸能人たちの家にレギュラーメンバーが訪問し、冷蔵庫を開けてみたりワインセラーすげーなって緊張も溶けた時、その時はきた。
『お次はあの祓本、五条悟さんのお宅にお邪魔!と、言いたい所なのですが、まさかのお邪魔NGとなりまして……』
「は? 何!? どういう事!? 悠仁君は?」
『ですが! 交渉の末、新婚の住居に他人が入るのは許せない、という五条さん本人に家庭用のカメラで撮影して頂く事になりました!』
「まじか……いや、それでもいい、どうかお願いします神様五条様、チラリとでも良いので嫁を……貴方様の嫁を御恵み下さい……」
思わずテレビに向かって両手を合わせていると、映像が切り替わり、ザッザッと歩くような音と共に声が聞こえ始める。
『あーー、祓本の五条です。今日は早めに帰宅出来て嬉しいので愛する奥さんに出迎えて貰います。はいピンポーーン』
緩すぎるトークと共に画面にはイケメンのどアップが手ぶれと共に映し出され、映像を観ている会場が色めき立つ声がする。イケメンはあんなどアップでも耐えられるのが羨ましい。
インターホンを鳴らす音がして、暫くすると玄関の明かりが灯され、ガチャ!とドアが開き、ピンクがかった茶髪と変わらない笑顔が覗く。
『悟さんおかえり! あ、今日だっけ撮るって言ってたの! こんばんは~~虎杖悠仁でっす!』
「う、ああああ~~~~!!!! 悠仁だ!! い、生きてる~~!!」
『そうだよ~朝言ったの忘れちゃった? まぁいいけど! はい、ギュ~~』
『えっ撮ってるのにすんの? まぁいいけど……ぎゅ!』
悠仁君の少し照れた顔が見えたかと思うと、映像は床と思わしきものを映し出し、一瞬の暗転ののち場面が変わる。
『今日は早く帰れるって言ってたから悟さんの好きな物作ったんよ。カツカレーとポテトサラダ、デザートは苺のババロアね』
『うわぁ~~美味しそう! ありがとね、早く食べよ!』
『も~~焦らなくても逃げんから……はい、らっきょう』
『あ、これも悠仁の自家製なんだよ、らっきょう~~』
何処かに固定されたカメラに向かって映し出されたらっきょうは美味しそうだけれど、いや、カレーの方を見せてくれ……と思わずにはいられない。
けれど、二人で向かい合ってご飯を食べ始めた様子はまさに仲睦まじく、といった様子で、少し前までの推しの事を思い出し切なくなってしまった。
俺の推しである虎杖悠仁君は、それはもう文句なしの「アイドル」だった。
いつだって天真爛漫元気いっぱい、病気も怪我も気合で治す!というパワフルさで、テレビで初めてその姿を見た瞬間から夢中になってしまったくらいだ。
元々は女性アイドルを推し、日々を充実させてきた俺にとって男性アイドルに沼るというのは中々に新鮮で、それがまた良かったのかもしれない。
彼が婚約&結婚からの引退宣言をするまでの数年間は俺にとっても宝物だ。
そんな、俺達オタクを元気いっぱいにしてくれた笑顔は今、一人の男にだけ捧げられている。
『このキッチンはね~悟さんが俺に合わせて作ってくれたからめちゃくちゃ使いやすいんだけど、洗い物とか料理も結構やってくれるんよね』
『そりゃそうでしょ、水仕事ばっかりやってたら僕の悠仁の手が荒れちゃうし』
どうやら悠仁君に撮影係が変わったらしく、また画面が変わったかと思えばキッチンで洗い物をしている旦那である五条悟の姿があった。
普段はあんなに傍若無人でワガママ放題、といった風なのに、家で悠仁君と話している時はこんなに落ち着いているんだな、と思うと二人の関係が伺えてくる。
『旦那がいつもお世話になってまーす! 悟さんは洗い物にこだわりがあるので食洗器は付けてくれませんでした!』
五条悟を映していたカメラが、今度は悠仁君のどアップを映し出し、俺の心臓が痛いほどに脈打つのが分かる。
あの頃と同じ笑顔と、ヒヒヒ、という悪戯っ子のような笑い声。
だけど、だけど。
「悠仁君……本当に人妻になっちゃったんだなぁ……」
その後に映し出された、風呂上りに並んでアイスを食べる姿とか、寝る前に旦那の腰を揉んでやる姿とか、次の日に用意された美味しそうな朝食とか。
映る物全てに二人が手に入れた幸せとか、愛情みたいなものが感じられるのだ。
もう昔みたいな無邪気で明るい、「みんなのアイドル虎杖悠仁くん」はもう、この世には居ない。
いま映っているのは「五条悟の妻、虎杖悠仁くん」で、その心が俺達に向けられる事はもう無いのだ。
けれど。
けれど。
「これはこれで……推せる」
何と言うか、人妻ならではの落ち着きというか、知らなかった事を知ってしまいましたみたいな雰囲気が、良い。
『じゃあ五条家にお邪魔はこれでおしまい』
『ばいば~い! またね!』
『もう二度と引き受けないよ!?』
旦那の叫び声と共にプチリと映像は終り、再び司会やゲストのトークが始まる。
俺はごろりと床に寝転がると、『またね』はいったいいつになるのだろうかと考え、とりあえずは寝る事にした。
久々に浴びる推しの供給はなかなかに体力を使うものだった。
END