🦋愛され「コイツがこんなに酔っ払ってんの、初めて見た」
向かいの席に座る鶴蝶に視線を注ぎながら三途春千夜は言葉を落とす。見慣れない姿は物珍しく映り目が離せないが、隣でなかったことに心底安堵もしている。鶴蝶の隣に座っていたがために絡まれることとなった灰谷竜胆に嫌がる様子は見て取れないが、それは彼らの十余年に及ぶ付き合いあってこそのもので自分ならばとうに投げ出していると三途は思う。
「疲れてたんだろ」
竜胆は酔っ払いを慣れた様子で軽くあしらいながら反応した。鶴蝶に限らず梵天幹部に下戸は居ない。限界値に差はあれど、世間的には酒豪に分類されるためこの程度の酒で酔うことはなかった。だが、どれほど酒に強い人間であっても疲れた身体にアルコールを入れれば酔いが回るのが早いのも確かだ。
「あー……あの三下たちを死体にしたの、鶴蝶だっけ」
近頃彼が仕事に追われていたことを思い出した三途は酒の入ったグラスを傾けながら言う。別段珍しい任務ではなかったが、責任感の強い鶴蝶にはそれなりに堪えるものだったに違いない。
「オレはオマエにも手伝わそうと思ってたのに、鶴蝶が自分の管轄で起きたことだから自分で片を付けるって聞かなかったやつな」
補足するように口を開くのは九井一だ。任務の割り振りを担う彼はひと月ほど前のことを思い返しながら肩を竦めた。
間者が紛れ込むことなど決して珍しくはない。日本最大の犯罪組織と怖れられる一方で虎視眈々とその地位を狙う組織は多く、壊滅を狙ってこれまで何人もの間者が送り込まれてきた。そのたび見せしめのように酷いやり方で始末してきたが、それでも侵入者は後を立たないのが現状だ。そして今回立て続けに判明した間者がたまたま鶴蝶の管轄するシマの人間だったことから彼は自分の手で始末をつけると言って誰の手も借りず一人忙しなく動いていた。
「鶴蝶らしいっつーかなんつーか……コイツそういうとこあるよな」
珍しく三途は嫌味のない顔に苦笑を浮かべる。ふにゃふにゃと子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべて声を弾ませる鶴蝶だが、彼の放つ言葉は最早言語と呼ぶにはお粗末すぎてそのほとんどが聞き取れない。しかし、当の本人は楽しげで笑みを絶やすこともなかった。
犯罪組織に身を置きながら実直に生きる彼は他のどの幹部とも違って見える。それこそ堅気の世界にだって上手く溶け込めるだろう。義理堅く男気溢れる彼を慕う部下が多いのも納得だ。
「鶴蝶は昔からこんな感じだったよ」
酔っ払いを片手間で相手にしながら竜胆は器用に酒を流し込む。昔から鶴蝶はまっすぐで一本筋の通った男だったと彼は朗らかな笑みを浮かべた。
「言われてみりゃ天竺時代からこんなだったか」
経緯はさておき天竺に居た間の日々を思い返して三途は納得の表情を浮かべる。当時から周囲に流されず芯の通った行動を取っており、皆に慕われていた。頼りにする者も多かったように思う。そんな彼が、黒川イザナと居る時だけ年相応の反応を見せ、表情豊かに笑っていたこともぼんやりと思い出した。
そのタイミングでふと首を傾げるのは九井だ。
「そういや今更だけど、蘭はどうした?」
飲みに行きたいと最初に言い出した男の姿がまだないことに気付いた九井から投げかけられた疑問に答えるのは勿論弟の竜胆である。
「返り血浴びて気持ち悪いって言って一旦家帰った」
灰谷蘭の自由な振る舞いは今に始まったことではなく、一人としてその行動を咎める者は居ない。そういう男という認識だから如何ということもないのだが、蘭が血を浴びるほどの現場に同行していたはずの竜胆が任務を終えたその足で此処に居ることは違和感だ。
「オマエも一緒の任務だったよな?」
思わず確認してしまうくらい竜胆に目立った汚れはない。
「そうだけど、ほとんど兄貴が殺っちゃったんだよね」
同じ任務を与えられていながら何故蘭だけが不快感を覚えるほどの血を浴びたのか、その答えに九井は眉根を寄せた。
「は? そこそこ人数居ただろ?」
「居たね。うじゃうじゃ居た。でも、マジでほとんど兄貴が片付けたよ」
オレは逃げ出そうとする瀕死の雑魚の相手をしただけ――そう言って竜胆は苦笑を漏らす。嘘を吐いているようには見えないが、成る程と簡単に受け入れられるような話でもない。それは話を聞いていた三途も同じだったのだろう。
「いつもならオマエに任せて自分は楽する男が自分で片付けたとはねぇ……」
理由を求めるように注がれた視線。それを正面から受け止めた竜胆は困ったように眉を八の字に曲げた。
「兄貴って一度懐に入れたら結構甘いとこあっからさ。仲間のこと侮辱されたらそりゃキレるよなって話」
「どういうことよ」
「そのままの意味だよ。相手がボロクソに貶してきて、兄貴がブチ切れたの」
一度懐に入れた人間に対して蘭が甘いことを彼らとて知らないわけではない。その甘さの恩恵を受けている身で否定などできやしない。だが、仲間のためにキレる蘭というのは今一つ想像できなかった。
「……蘭てそんなキャラだっけ?」
九井と三途が揃って首を傾げる。狡猾で要領がいい男という印象を抱く彼らにはどうしたってピンと来なかった。
「結構アレで情熱的なんだよ。格好つけだから絶対オマエらの前では見せないだろうけどね」
彼らの知る蘭は一面に過ぎない。しかし、蘭の弟としてこの世に生を授かり現在に至るまで、ずっと共に生きてきた竜胆は知っている。竜胆だけは灰谷蘭という男の本質をよく理解していた。
コツコツと靴底を鳴らして近付いてくる足音。それが蘭のものであるといち早く察した竜胆は悪戯っ子のようにニッと笑って口元に人差し指を翳した。
「今話したことは秘密な」
ノックもなしに開く扉。竜胆の予想通りそこに現れたのは蘭だった。朝とは異なる服に身を包む彼からは仄かに石けんの香りが漂う。
「兄貴遅ぇよ。主催のくせにチンタラしすぎ!」
先ほどまで年上らしく落ち着いた口調で語っていた竜胆だが、蘭が現れた途端彼は少し幼稚になる。その変わりようが面白くて堪らず噴き出す九井と三途だが、当の本人は笑われていることに気付きもせずプリプリと頬を膨らませていた。
「え、なんでオレ怒られてんの? ボスに報告書あげてから来た兄ちゃんはむしろ褒められるべきじゃね?」
困惑しながら蘭が口を開く。シャワーを浴びるだけにしては随分と時間が掛かっていると思ったが、報告書をあげてきたのであれば納得だ。
「え、マジか! 兄ちゃん愛してる!」
手間が省けたことを知るや否や見事なまでの掌返しを見せる竜胆を、蘭は「現金な弟め」と言って小突いた。
「それより何で鶴蝶が酔っ払ってんの? コイツがこんなに酔う姿見るのすげぇ久々なんだけど」
竜胆と鶴蝶の背後を通り抜けて腰を落ち着かせた蘭が流れるような手つきで煙草に火を点ける。そうして何故と問う彼に対し三人は口を揃えて言った。
「気付いた時には既に手遅れだった」
無理やり飲ませたわけではないと言外に語るものの、判定は黒。ニッコリと笑う蘭を前にしてなお責任転嫁できるはずもなく、三人は「すみませんでした」と綺麗に頭を下げるのだった。
ったく、と呆れながら蘭は鶴蝶へと視線を注ぐ。
「オマエ、飲みすぎだから。そろそろ酒はやめとこうな」
その手に握り締められたビールジョッキを奪い取ると、名残惜しげな視線がついて回る。
「まだ飲めるぞ?」
「そういう問題じゃねぇの」
蘭の意識が鶴蝶に向けられたのをこれ幸いと三途が逃げるようにトイレへと立ち、後を追うように九井も部屋を出て行く。その二つの背中を視界の隅で見送りながら蘭は紫煙を燻らせた。
酒を取り上げられた鶴蝶は不満そうに口を尖らせる。
「むぅ……蘭は意地悪だ」
言葉の端々に滲む子供っぽさが大の大人を幼く見せる。それは血腥い世界に身を置いているせいかとんと見なくなった懐かしい姿でもあった。
「イザナと一緒」
矢継ぎ早に紡がれた言葉に蘭はキョトンと目を丸め、けれどもすぐ困ったように笑った。まさかこの流れでイザナの名が紡がれるとは思わず虚をつかれた思いだが、なんとか取り繕って口を開く。
「大将が聞いたらオレが殴られそうだから口は慎めー?」
つんつんと頬を突きながら注意する。だが、それすらも楽しいのか嫌がることなく鶴蝶は笑みを深めた。
「意地悪だけど優しいとこ、そっくりだぞ」
へらへらとしただらしない笑みに乗せて紡がれた言葉はきっと本心だ。そうと理解できるからこそ照れ臭い。
「それは光栄だけど、大将は嫌がるだろうな」
「そうか? イザナも蘭のこと、大好きだったぞ」
誰よりもイザナのそばで、イザナのことを想い、イザナのために生きていた彼が言うのだ。きっとそれだって気休めではない。
「……そっか。オレも大将のこと、好きだったよ」
竜胆とたった二人で完結していた小さな箱庭から問答無用で連れ出した男は蘭が認めた唯一の男であり、初めて付いて行きたいと思わせてくれた男だった。彼と出会えたことを蘭は己が人生における最大の幸運であったと今でも思っている。
蘭の言葉に鶴蝶は「知ってる」と言って笑みを浮かべた。そのあとで、「イザナに会いたいなぁ!」と声を張り上げた。
「今度ウチに居る天竺組全員誘って一緒に墓参り行くかー?」
警察に追われる身となってからは墓参りに行くのも一苦労だが、彼が望むのならば叶えてやるのが下僕の務め。滅多に我儘を言わない鶴蝶の願いを無下にはできないという思いで蘭が提案すると、酔っ払っているのが嘘のように現実味を帯びた言葉が返ってくる。
「大勢で押しかけたらウルセーってイザナに怒られる」
容易く想像できるその姿に「確かに」と言って笑ったのは黙って耳を傾けていた竜胆だ。
「んじゃ、竜胆とモッチーだけ誘うのはどう?」
代替え案を提示すると、鶴蝶は逡巡したあとでゆっくりと頷く。
「それなら多分大丈夫だ」
「ほんじゃ決まり。次のオフに皆で行こうな」
おう、と笑みを浮かべた鶴蝶の頭を撫でると気持ちよさそうに目を細め、そのままこてっと意識を手放した。まるで電池が切れたように動かなくなり、寝息を零し始めるその姿に驚きながら蘭はやれやれと肩を竦める。
「鶴蝶が大将の話題出すなんて相当酔ってた証拠だね」
気持ち良さそうに眠る鶴蝶に視線を落としながら竜胆が呟いた。意図してその名を避けていることに気付かない彼らではない。口にすることで寂しさが押し寄せてしまうから敢えて避けているのは彼らとて同じだった。
「精神的に大分追い込まれてたんだろうね」
肉体的な疲労は勿論、心も疲弊していたのだろう。大人には酒に呑まれなければやっていられない時もある。
「で? 兄貴の方は少しは落ち着いた?」
鶴蝶に注がれていた視線を蘭に移して竜胆は訊ねる。呆れたような、けれども仕方がないといった目を向けられた蘭は「お陰様で」と短く言葉を返しながら苦笑した。
「大将もそうだったけど鶴蝶を侮辱されると見境なくなる癖、そろそろどうにかした方がいいと思う」
九井たちには言葉を濁したが、蘭が派手に暴れた原因は鶴蝶を侮辱されたことにある。彼らが乗り込んだ先は鶴蝶が始末した男たちを送り込んできた組織だった。梵天の足元にも及ばないが近頃勢力を強めているその組織で耳障りな言葉を投げつけられてブチ切れたというのが事の顛末だ。
「竜胆だって相当キレてただろ? ボスから聞いたぞ。オマエ、あの場であの組織を潰す許可得たんだって?」
首領である佐野万次郎に報告書を持っていった際に伝えられた話を竜胆に振る。鶴蝶を侮辱されたから潰していい?――全ての感情を削ぎ落とした抑揚のない声で確認された佐野は「アイツでもあんな声が出せるんだな」と珍しく驚いていたことを付け加えると、竜胆はばつが悪そうに視線を逸らした。
「別に……間違ったことはしてないだろ」
「ないね。オレたちの可愛い弟がバカにされたんだ。殺して然るべきっしょ」
何も間違っていない。これ以上ない最適解を導き出して実行したと胸を張って言えるくらい最高の仕事をしたと蘭は自負していた。
「大将のとこ行ったら褒めてもらえっかな?」
蘭に肯定されたことで安心したのだろう。わくわくした顔で竜胆は言うが、それはどうだろうと蘭は首を捻る。
「無理じゃね? 下僕が下僕を守るのは当然だって鼻で笑われるに一票」
「うわっ、余裕で想像できる大将マジ大将」
チェッと残念そうに竜胆は肩を落とす。
「まぁ鶴蝶の元気な姿見せたら大将も喜ぶっしょ」
慰めるように鶴蝶を通り越して竜胆の頭を撫でると、それもそっかと言って彼は笑った。
「……完全に入るタイミング逸したわ」
閉ざされた扉の前で三途は嘆く。用を済ませて戻ってきたものの、扉越しに聞こえる会話に思わず足を止めてしまった。天竺に居たとはいえ、九井や三途と彼らとでは立場が異なる。イザナの死を嘆き悲しむほど思い出があるわけではない彼らが扉の向こう側で交わされる話題に加わることは許されない。許されるべきではないという気持ちで足を止め、戻るタイミングを見計らっていた。しかし、そのタイミングはついぞ訪れなかった。
「いっそこのまま帰るのもアリだな」
隣に立つ九井がポチポチとスマートフォンを操作しながら言葉を吐く。「たった今仕事増えちまったし」と矢継ぎ早に紡ぎ足されたその言葉が何を意味するのか瞬時に理解できてしまったのは、共有した時間の長さゆえと言うべきか。鶴蝶と灰谷兄弟の付き合いが長いように、九井と三途の付き合いもそれなりに長くなっていた。
「オメェも身内には甘い人間だよな」
「ウッセェな。年下を甘やかすのは年上の特権だろ」
あーね、と言って三途は肩を竦める。年下を甘やかすのは年上の特権と、二人は蘭にそう教わった。行動でもってそれを教えられた。彼にとって年下を甘やかすのは当然のことであり、決して特別なことではない。竜胆の兄という立場が自然とそうさせるのだろう。そんな蘭が末の弟と言って可愛がる鶴蝶は、九井や三途にとっても可愛い同僚であり甘やかすことのできる唯一の後輩だ。イザナとの思い出を共有することはできないけれど、彼のために時間を作ることならばできる。つまりはそういうことだった。
「ったく、仕方ねぇな。アイツらの任務、オレに回してくれていいですよォ」
踵を返し、九井に背を向けてから三途は言う。慣れない優しさを振りまくのはどうにも気恥ずかしさが先行してしまいまだまだ蘭のようにはいかないらしい。しかし、その不器用な優しさを知ればきっと彼らは喜ぶだろう。
「オマエだって人のこと言えねぇじゃん」
くつりと喉を鳴らして九井は肩を震わせる。三途も大概身内には甘い男だった。
それから数日後――。
突然オフを言い渡された四人が揃って外出した。その裏で文句一つ零さず黙々と倍増した仕事に励む三途の姿があったことを九井だけは知っている。