リゲルの灯番外編「ご機嫌だなぁ、おい」
不意に背後から響く声。年末の大掃除を終えた黒川武道こと花垣武道は暇を持て余していた。なんとなしに口遊んでいた正月の歌は不自然にぷつりと途絶える。
「あっイザ兄お帰り〜」
振り返ると、そこにはくつくつと喉を鳴らす大人が一人。この児童養護施設を運営する黒川イザナが居た。
窓の外からは子供たちの笑い声が響いている。小学生の皆は元気に庭を駆け回っており、中高生は足取り軽く遊びに出掛けた。そのため、この談話室には花垣の姿しかない。小学生の形とはいえ精神的には立派な成人男性の花垣だ。寒空の下、他の子供たちのように外ではしゃぎ回る気には到底なれなかった。
花垣武道の生まれ変わりという事実を明かす前は悟られぬよう一人悪目立ちする振る舞いを避けていたが、バレた今となっては子供らしく振る舞う理由もない。勿論他の子供たちの前では相応の振る舞いをするけれど、黒川の前ではその必要性がなかった。
「明日の夜のこと、聞いたか?」
花垣一人となれば黒川も取り繕う理由はなく、昔からの気心知れた仲間として接する。それが花垣は内心嬉しかった。一度は潰えた人生が何の因果か再びこの世との繋がりを持ち、花垣武道が歩めなかった未来を歩んでいた仲間との縁を手繰り寄せた。これを奇跡と呼ばずに何と呼べばいいのか分からない。前世では必死に手を伸ばしてやっと掴めた幸せが、今世では幸せの方から転がり込んできたのだ。未だに夢現の感覚が拭いきれないでいる。それくらい二度目の人生は幸福に満ち溢れていた。
「聞いたっスよ。カクちゃんちで忘年会するんでしょ?」
「ん。蘭と竜胆がウゼェくらい楽しみにしてた」
鶴蝶の家で忘年会をするという話は朝起こしに来た望月莞爾に聞かされている。法人としての忘年会ではなく、天竺の幹部陣だけで開催される忘年会だ。その極々内輪の忘年会に花垣は招かれていた。
「誘ってくれたのは嬉しいんスけど、オレってどうやって参加するんスか? 他の子供たちに気付かれちゃいません?」
「問題ねぇよ。オマエは明日から一週間里親候補の家にお泊まりってことになってるから」
「は? じゃぁオレ一週間帰って来れないの?」
頷いた黒川は、鶴蝶の家で寝泊まりしろと矢継ぎ早に言葉を添える。用意周到なことで、と内心に思う花垣だが声には乗せず、物分かりよく首肯した。施設長のくせにそれでいいのかと思わずにはいられないが、折角の冬休み。楽しんだもん勝ちである。
明晩、業務を終えた武藤泰宏に連れられて鶴蝶の家に向かう。到着した頃には既に皆が顔を揃えており、なんなら飲み始めてすらいた。テーブルには所狭しと料理が並び、酒のボトルが何本も準備されている。
だが、花垣の前に酒はない。当然のようにジュースが置かれている。小学生として生きている以上仕方がないこととはいえ、酒の味を知っている身としては面白くない。
「いいなぁ。オレも酒飲みたい」
無意識に漏れた本音を拾い上げた望月は苦笑を漏らした。花垣の正体を知っているからこその表情に違いない。
「タケミチが武道とはいえ、さすがに酒は飲ませらんねぇからジュースで我慢してくれや」
無免許でバイクを乗り回し、拳を振るっていた元不良とは思えない台詞だ。裏を返せば大人になった証拠であり、良識ある大人の言葉とも言える。飲酒は二十歳からと法律で定められている以上、花垣とて仕方がないと諦めるべきなのだろう。しかし、二十二年生きた記憶が簡単に受け入れてはくれなかった。
「お酒がダメなら煙草一本!」
紫煙を燻らせていた武藤に駆け寄って手を合わせる。ちょうだいと懇願するよう上目に見ると、武藤はふっと笑いながら「ガキにはまだ早いな」と言ってテーブルに置いていた煙草の箱を胸ポケットに仕舞い込んだ。
「ヤス兄のケチ!」
子供らしくポコポコと武藤の胸元にパンチを繰り出すが、所詮子供の力だ。鍛え上げられた武藤の肉体にダメージを与えることなどできやせず、彼はびくともしなかった。
「死ななきゃ酒も煙草もいけたのにねぇ」
シャンパングラス片手にふふっと笑うのは灰谷蘭だ。彼の隣では弟の竜胆が同意するよう深々頷いていた。
「好きで死んだわけじゃないんスけど!?」
「うるせぇよ。この死に急ぎ野郎」
「イザ兄、言い方!」
死に急いだつもりは微塵もないが、積極的な治療を拒んだのは事実だからそう受け取られても仕方がない。最期の瞬間まで花垣武道らしく生きたつもりだが、貫いたその姿勢が仲間たちに唐突な悲しみを齎したことは間違いなかった。
無論後悔はしていない。皆には悪いことをしたけれど、あれは最良の幕引きだったと今でも思っている。しかし、感謝の一つも伝えず、次がないと知っていながら「またね」と言って別れたことに思うところがないわけではない。不義理を働いた自覚はあった。
「今更っスけど、ホント生前はお世話に……なった気はあまりしないけど、色々ありがとうございました」
突然の感謝に皆が手を止め、ぺこりと頭を下げる花垣に視線が突き刺さる。アルコールが入って陽気に笑っていた彼らが示し合わせたようにぴたりと口を噤む中、呆れたように声を漏らすのは黒川だ。
「マジで今更だな」
「いや、よく考えたらオレ、病気を悟られないよう普段通りを心掛けてたから、改まってお礼とかするのは避けてたなぁって」
「だから今言おうって?」
こくり、と花垣は頭を縦に振る。どうせなら真っ新な気持ちで新年を迎えたい。生まれ変わりとはいえ、此処に居るのは黒川武道であって花垣武道ではないのだ。既にこの世に居ない人間のことを自分自身いつまでも引きずりたくはないからこそ、この感謝の言葉をもって一つの区切りとする。そうして清々しい気持ちで花垣は笑うのだ。
二度目の人生が生まれ落ちた瞬間からハードモードであると理解した時はさすがにこの世を恨んだものだが、彼らと再会するためだったと思えばなんてことはない。望まれて生まれた命ではなかったけれど、花垣は胸を張って言える。オレは、黒川武道は今、すげぇ幸せだ。
「イザ兄が居て、カク兄が居て、ヤス兄が居て、カン兄が居て、獅音が居て、いつも会えるわけじゃないけど蘭ちゃんと竜君が居るあの養護施設がオレは大好きっス!」
花垣武道として出会った全ての仲間を変わらず大切に思っている。仲間は花垣にとっての宝物であり、財産だ。しかし、今世で生きる場所を与えてくれたのも、捨てた両親の代わりに沢山の愛情を注いで育ててくれたのも、全部黒川が代表を務める養護施設である。天竺は今の花垣にとって大切な場所であり、帰るべき場所なのだ。
「ふーん。嬉しいこと言ってくれんじゃん」
満更でもない顔で黒川は口角を上げ、鶴蝶たちも嬉しそうに表情を崩した。そうした中、一人複雑な表情を浮かべるのは斑目獅音だ。何回も言ってるけどなんでオレだけ呼び捨てなんだよ――漏れたその不満は容赦なく聞き流された。
「つーかもうすぐ年明けるけど、寝なくて大丈夫か?」
不意に響く声。気遣うよう声を掛けてきた鶴蝶に、花垣は笑みを返した。忘年会とは名ばかりの、年越し飲み会だ。子供の体は意思に反して夜になると当然のように眠くなってしまうから、花垣は昼寝をして準備万端整えていた。
「夜更かしする気満々かよ」
「こんな時じゃないと夜遊びできない年齢なんで気合い入れて昼寝したオレに死角はないっス!」
花垣はフンと鼻息を荒げながら胸を張る。すると、何処からともなく現実を突きつける耳障りな単語が空気を震わせた。
「その意気でさっさと冬休みの宿題も片付けてくれると嬉しいんだがな」
酒を片手にしみじみと零すのは武藤だ。子供たちの宿題の進捗を毎日のようにチェックする彼は、花垣が宿題に一切手を付けていないことに気付いていた。
「明日からやるつもりなんで宿題の話はご遠慮くださーい」
目を逸らして聞きたくないとアピールする。ギリギリになってようやく宿題に手を付けるタイプだった花垣は昔も今も変わらない。明日からやる、という言葉を毎日繰り返していた。
やれやれと武藤がため息を漏らす中、付けっぱなしのテレビからはカウントダウンの音が響きだす。
「おっ、一分切ったって」
竜胆の言葉を合図にぴたりと会話が止む。視線は自ずとテレビ画面に注がれた。
生まれ変わってまだ七年しか生きていないが、黒川武道至上最も濃い一年だったと花垣は振り返る。生まれ変わりであることを伝える気はなかったが、バレた今となってはこれで良かったのだと思えた。寝ぼけてうっかり鶴蝶をかつてのあだ名で呼んでしまったのがそもそもの発端であったが、その凡ミスがあったからこそ皆と再び縁を結ぶことができた。それは、花垣の中で止まっていた時間が再び動き出した瞬間でもあった。
年が明けるまで三十秒を切る中、花垣は皆の顔一つ一つにそっと視線を送る。歳を重ねてもなおかつての面影を残す仲間たちの笑顔を盗み見ながら花垣は幸せを噛み締めた。子供の姿では何かと不自由なことが多いけれど、こうしてまた皆と過ごせる夢みたいな現実が此処には在る。だから、これ以上の贅沢は言わない。言えないけれど、願わくは来年も再来年も、この先もずっと皆と新しい年を迎えられますように――そう思わずにはいられなかった。
十秒を切り、テレビから響くカウントダウンの声に合わせて皆が声を重ねる。
「ハッピーニューイヤー!」
カウントがゼロになった瞬間、酒の入ったグラスを掲げた皆が声を弾ませた。
こうして激動の一年を終え、迎えた新年。新しい年は大切な家族の笑顔に囲まれながら幕を開けた。