C'est la vie!【若葉松の謝罪】
チビ太に誘拐され、兄弟達に鈍器を投げられて怪我を負い、更には路上に放置されて車に轢かれると言う、アクティブでスリリングな一日を過ごした後、いつの間にか運ばれた病院に三日も入院させられた。入院はしないと言い張ったカラ松に、それはもう鬼のような形相で担当医が言い放ったのだ。
「良いですか、本来なら一ヶ月は入院してもらわなきゃいけない重傷なんですよ!?色々検査もありますし、三日は譲れません!医者の言う事はちゃんと聞いて下さい!本来なら三日でなんて退院させないんですからね!!」
そこまで言われては帰れるはずもなく、渋々三日間の入院を余儀なくされた。退院当日に聞いた検査結果は外傷のみで、こんな頑丈な患者さん初めてですよ!と驚かれる程あれだけ酷い扱いを受けたにも関わらず、内臓は何ともなかった。ただ抵抗力が弱っているので風邪には気を付けて、と言われただけだ。
仕方ない、すぐに帰れずきっと余計な不安を与えてしまっただろう兄弟達には帰ってすぐ謝らないと。
多少不自由だけれど歩くのもリハビリだと言われて病院から歩いて帰る事にした。
途中、夕焼けが綺麗で立ち寄った公園。その中にいた愛しい兄弟達。何があったか分からないが、一松が猫を抱いて笑っている。そんな笑顔出来たんだな、それならすぐに友達も出来るさ。そう思いながら五人の後ろ姿をじっと眺める。風に乗ってみんなの会話が微かに聞こえて来た。
「カラ松…梨…」
「食べ…」
「カラ松だけ…」
「数、足りな…」
「そうしよっか…」
断片的な言葉を拾うとそんな事くらいしか聞こえなくて。え、もしかして俺の分だけ梨の数少ないの?そりゃ三日もいなかったから仕方ないけど!せめてそこは平等にしようぜ!心の中でグルグル考えていたら、自然と口から出てしまった。
「扱いが全然ちがああああう!」
叫んだところで聞こえなかったらしい五つの影は、夕日と同じようなオレンジ色をした猫を連れて帰って行った。立ち尽くしていたカラ松ははっとして一歩を踏み出す。先程まで一松がいた場所。そこにあったベンチに座り、沈んで行く夕日を眺めていた。そしてやっぱり、傷を負ったのが自分で良かったと強く頷いた。あんなに幸せそうな兄弟の誰か一人でも傷付けてみろ、例えそれがチビ太でも許さない。ああでもツケを溜めたのは自分達なのだからチビ太も悪くないんだよな、ちょっとやり過ぎただけで。やっぱり誘拐されたのが俺で良かった。警察沙汰にもならなかったし結局チビ太は解放してくれたし、兄弟の誰にも怪我はなかった。ほら、良い事尽くめじゃないか。
気持ちが軽くなったカラ松は松葉杖を頼りにしながらも嬉しそうにゆっくり家へと足を向けた。
「ただい…うおぉ!!」
ガラガラと引き戸を開けながら声を掛けると、ただいまと言い終わらないうちに黄色い弾丸が飛んできた。
「カラ松にーさん!ごめんなさいいいいい!!!」
「えっ…ちょ、十四松?どうしたんだ、何かあったのか!?」
カラ松の怪我を思ってか、飛んで来ただけでぶつからなかった十四松は、目の前でブレーキをかけるといきなり大声を上げて泣き出した。
「ごめんなさああああい」
「いや、あの…じゅうしまぁつ?どうしたんだ、泣いてちゃ分からないぞ?兄さんに分かるように話してくれないか?」
カラ松は兄弟、特に弟の涙に滅法弱い。泣かれるともうそれだけでどうして良いのか正直分からないのだ。泣きじゃくる十四松を抱き締め、おろおろと居間の方へ視線を向けるとチョロ松が出て来た。
「お帰り、カラ松。ほら十四松、カラ松困ってるから取り敢えず一旦離れて。ちゃんと僕から話すから」
「ぐずっ…あいあい…」
昔から泣き過ぎて暴走する十四松を止めるのは、何故かチョロ松にしか出来なかった。それでもほっとして十四松の体を離しチョロ松の顔を見上げる。
「あ、ただいま…遅くなって悪かったな、実は入院させられてて」
「知ってる。三日だろ?…取り敢えず立ったままだと疲れるだろうし傷にも障るから入りなよ。座って話そう」
「そうだな」
さっきまで泣いていた十四松が居間に飛び込み、その後に着いて入って驚いた。居間唯一のオブジェと言っていい手の形をした椅子に、ふかふかのクッションと背凭れが付けられている。
「カラ松にーさん、怪我治るまでここ!」
「え?」
「その足じゃ立ったり座ったりは辛いだろ?取り敢えずギプス外れるまではそこがカラ松の指定席だから」
チョロ松に支えられて座った椅子は思った以上に座り心地が良くて、それでもこの状態だと足元に座る弟達を見下ろしてしまう。何だかそれはとても居心地が悪い。やっぱり下に座って良いか、と言おうとして開いた口がぱかりと止まる。何故なら、足元でチョロ松と十四松が土下座していたからだ。
「お、おい、二人とも何してっ…」
「「ごめんなさい!!」」
「…え?」
「その怪我、僕達のせいなんだろ?本当にごめん…」
「にーさん、すげー痛そう!ごめんなさあああい!」
「いやいやあの、ちょっと待ってくれ」
せっかく用意してくれた椅子だが、これだと視線を合わせられない。降りて座り直そうとするカラ松に、慌てて二人が手を貸す。
「ああ、ありがとう。…うん、せっかく椅子作ってくれたけど、こっちの方がやっぱり顔が見えて良いな」
「カラ松…」
「それと、あの事はもう気にしてない。お前達があんな目に遭わなくて本当に良かった」
「…っんで…」
「うん?」
「なんで怒んないのさばかあああああ」
おおお、チョロ松のガチ泣きとか珍しい。目をパチリと見開くとその横でつられたようにまた十四松まで泣き出した。もう一度言おう、カラ松は弟の涙に滅法弱いのだ。
「泣かないでくれ可愛いブラザー達、本当にどうして良いか分からなくなる…もしかして心配してくれていたのか?」
「したよ!したに決まってるだろ!お前っ、入院するって言うし、なのに母さんは病院教えてくれないし!会えないくらい酷い怪我なのかと思ったじゃないかああああ」
「チョロ松…ありがとう、そんなに心配してくれたなんて嬉しいぜ」
「大体何その怪我!三日で退院して良い怪我じゃないだろ!?なんでちゃんと入院して療養するって考えにならないかなあ!」
「医者には最低でも一ヶ月は入院する重傷だと言われたが…まあ、こうして帰って来られたし大丈夫だろう。それに俺は回復も早いし」
「それのどこが大丈夫だよ!なんで一ヶ月入院しなきゃいけないような重傷なのに三日で退院するの!お前の体力や回復力が化物じみてるのは知ってるけど!」
「だって入院するのは金がかかるじゃないか」
「そうだけど!」
ずっと怒鳴るように声を上げるチョロ松はボロボロ泣いたままだし、十四松も隣でワンワン泣いてるし、しかも二人ともしっかり左右の腕に縋り付いているから頭を撫でて慰める事も出来ない。
「…ありがとう、二人とも。そんなに泣かないでくれ、可愛い顔が腫れぼったくなってしまうぞ?」
「同じ顔だよばかああああああ」
「それじゃこうしよう。俺はまだ多分一人で出来ない事もあると思うんだ。その時は助けてくれないか?それと、足のギプスが外れるまで二階に行くのはしんどいから、隔離部屋に布団と俺の私物を運んでくれると助かるんだが…」
「そんな事頼まれなくてもやってやるよ!十四松、布団!」
「あいあい!」
チョロ松の号令で十四松が客間に走る。ここは誰かが風邪を引いた時に感染させないように治るまで隔離される部屋だ。確かにこの足で階段は辛いだろうし、いくら隣が寝相の良い一松やトド松と言ってもあの布団で兄弟に挟まれて寝るのは気を遣うだろう。しばらくして十四松が二階へ上がる足音がして上からドタバタと音が響く。チョロ松はやっと涙を止めるとカラ松の袖をぎゅっと掴んだ。
「…本当にごめん。僕は止めなきゃいけなかったのに…誰よりカラ松の事、大事にしなきゃいけなかったのに…一緒になって…」
「…もう良いさ、それにこんなに心配して泣いてくれたんだ。それだけで俺は充分だ」
「カラ松もさ、言ってよ。痛いとか辛いとか悲しいとか…他の奴には言えなくても、僕には言えるだろ?おそ松が唯一の兄なら、僕はお前の片割れなんだから」
「…そうだな。ああ、約束する。誰にも言えなくてもお前には言うよ、チョロ松」
「約束だからな」
そう言って、漸くチョロ松が笑う。ああ、やっぱり兄弟には笑っていて欲しいと思う。
「チョロ松隊長、任務完了っす!!」
「良くやった十四松隊員。では次の任務を言い渡す」
「あい!」
「負傷者カラ松を静かに布団へ運べ!」
「ラジャー!」
「えっ、おい、ちょっ…」
デリバリーコントか、と眺めていたカラ松の体は十四松によって持ち上げられ、そのまま隔離部屋の布団に連れて行かれた。それから寝るまで、カラ松は自分では何一つさせてもらえなかった。熱いお湯で体を拭いてもらい、洗濯したパジャマを着せてもらい、布団に突っ込まれたところでカラ松は初めて気が付いた。
「そう言えば後の三人は?」
「銭湯行ってるよ。僕と十四松はいつカラ松が帰って来ても良いように待機してた」
「そうか…済まなっんが!!」
鼻を摘まれて思わず変な声が出てしまった、と恨みがましい目を向けるが無視された。
「謝るのなし。僕らがやりたくてやってる事なんだから。それに今日は疲れたろ?あまり夜更かしすると熱も出るかも知れないから早目に寝た方が良いよ。何かあったら呼んで」
「そうだな、そうさせてもらう。…チョロ松、十四松」
「ん?」
「あい!」
「ありがとう、お前達が俺の弟で本当に良かった」
「っ…こっちこそだよ。カラ松が僕らの兄さんで良かった。ね、十四松」
「松野家次男はカラ松にーさんじゃないとダメっす!!」
「…ありがとう」
「それじゃ、もう今日は安静にしてなよ。呼んでくれればすぐ来るから。お休み」
「おやすみなさい!」
「ああ、お休み二人とも」
確かにチョロ松の言う通り、少し疲れたかも知れない。布団に横たわり目を閉じるとすぐに眠気が襲ってくる。意識が落ちる寸前、玄関の開く音が聞こえたけれど反応出来なかった。
【末っ子の謝罪】
トド松にとってカラ松は兄弟の中でも特別な位置にいた。子供の頃、相棒として一緒にいた事が多いせいかも知れない。遅咲きの厨二病を発症してからもイタいだのウザいだの悪態をつきながら、何だかんだと一番一緒にいる立ち位置だった。高校に入って兄達を「兄さん」と呼び出したのはトド松だ。その頃からカラ松は「相棒」ではなく「兄」になった。幼い頃一緒に馬鹿をやった相手は演劇にのめり込み、体を鍛え、雰囲気まで変えて兄へと変貌を遂げた。トド松はそれが寂しくもあり、また末っ子と言う美味しいポジションから存分に甘えられると反面喜んだ。
…甘え方を間違えたのだ。今考えれば分かる、トド松のそれは自分に都合の良い甘え方だ。
荷物持ちが欲しい時だけ声をかけ、出掛ければ当たり前のようにカフェでのお茶をねだり、時には欲しい服を買わせて。その代わり自分は何をした?それ以外で唯一付き合ったのが釣り堀だ。意外に釣りが好きなカラ松が一番誘う場所。それ以外なら、服を見に行ってもカラ松の好きな服装をイタいの一言で切り捨てる。カラ松girlを探すと言って時々橋の上や公園のベンチでぼんやりしていた事も知っている。それは大体兄弟の誰かに理不尽な扱いを受けた後が多かった。知っていたのに何も改善せず、話の腰を折り、壊れたプレイヤーみたいにイタいを繰り返す。カラ松は可愛い弟、と良く言うけれど、自分は全然可愛くない。他の兄弟が言うみたいにただあざといだけ、自分に都合が悪ければ簡単に傷付ける事の出来るドライモンスターなのだと。だからこそカラ松はあんな傷を負った。何が相棒だ。可愛い弟だ。あんなに優しい兄に牙を向くモンスターじゃないか。泣きながら「ごめんね兄さん」とでも言えば簡単に許してくれるだろう。それがカラ松だ。けれどそれじゃダメなんだ。そんな口先だけの謝罪、カラ松が許しても自分が許せない。
「はあ…」
カラ松が退院して10日が経った。自分達が与えた兄の傷は思った以上に酷くて、うっかり包帯の下に隠された右目の惨状を見てしまってから謝る事が出来なくなった。包帯を変えていたカラ松は見られた事に苦笑いしながら、何でもない事のように言ったのだ。
「あと二センチ、当たる場所がずれてたら失明してたかも知れないらしい。俺は運が良かったな」
馬鹿じゃないの!と叫んだつもりだった。運が良い?あと二センチずれてたら右目見えなくなってたのに?本来ならそんな場所、怪我する必要も失明の危機もなかったのに!そう言いたくても言葉が出ない。代わりに漏れたのは嗚咽だった。
「ト、トド松?どうした、どこか痛いのか?」
そう慌てるカラ松に、痛いのは自分の方でしょ!と現実を突き付けたかったのに。痛いとか辛いとか、そう言う弱音を兄になってから一切自分の前で見せなくなってしまった。自分だけではなく、一松や十四松にも。同じ弟でもチョロ松はもっと立ち位置が違うのだろう、時々寄りかかっているのを知っている。
そんな兄が好きだけど見ているのが辛くて、なんてこれも甘えだ。現実から目を背け、自分が、自分達が付けた傷を負う痛々しい姿を、自分が見たくないから距離を置く。逃げているだけだ。
何となく出掛ける気になれなくて、居間でいつものようにスマホを弄っていた。ちらちら、時々視線を送るのは居間とは廊下を挟んだ反対側にある客間だ。そこでは今、カラ松が眠っている。今日は珍しく自分がいたせいか、ここの所ずっと家にいてカラ松の様子を見ていたおそ松が気分転換にと出掛けて行った。多分パチンコだろうけど。それでもカラ松が怪我をして帰って来て以来、六つ子の誰か一人は必ず家に残る事にしていた。今日はそれがたまたまトド松だっただけで。様子は30分程前に見に行ったけれど、その時は良く眠っていた。昨日、カラ松はリハビリと称して散歩に出掛け、豪雨に打たれた。抵抗力が落ちているとは聞いていたけれど、雨に打たれて熱を出す事などなかったから帰って早々ダルい、と布団に潜り込んだカラ松にも正直そんなに心配していなかった。それからは兄弟が付きっ切りで、交代で看病している。だから変調があれば分かるはずなのに、トド松は背中がぞわりと逆立つ感覚を覚えた。恐る恐る立ち上がり居間から客間へと足を進める。
「…カラ松兄さん、入るよ?」
すらり、障子を開けて…そこにいるのは先程まで大人しく眠っていたカラ松ではなかった。真っ赤な顔をして苦しそうな呻き声を上げ、酷く辛そうな。
「っ、兄さん!!…うわ、あつっ!!」
パジャマの上から触れただけでも分かる、尋常じゃない体温。浅く繰り返される苦しげな呼吸と玉のような汗。只事じゃない、とは分かる。どうしたら良いか分からなかったが今ここには自分しかいないのだと、泣きそうになる気持ちを抑えて唇を噛み締める。体温計を脇に挟ませ、汗を拭う。それから、と考えて手にしたスマホを思い出した。こんな時一番頼りになる長男の番号を履歴から呼び出す。コール音にさえ焦っていると呑気な声が聞こえた。
『おー、どうしたトド松』
「兄さん!すぐ帰って来て!カラ松兄さんが凄い熱で!息も苦しそう!」
『っ、すぐ帰る!熱はどれくらいある?』
「えっと、」
ピピ、と鳴った体温計を引き抜き数字を見て愕然とした。
「40.7℃…」
『すぐに救急車呼べ!診察券忘れんな!掛かり付けだってそこに救急車行ってもらえ、良いな?』
「う…うん、分かった」
『オレはこのまままっすぐ病院向かう、帰るより早い。途中でみんなに連絡しとくからお前はカラ松に着いて一緒に行け』
「わ、かった」
カラ松の事頼むぜ、電話を切る直前に聞こえた長男の声。そうだ、ボクがしっかりしないと。すぐに救急車を呼び、診察券を見せて病院に向かってもらう。処置してもらっているおかげか、カラ松の呼吸は少し落ち着いたみたいだけどまだ顔も赤いし呼吸も荒い。早く、早くとサイレンを聞きながら兄さんを助けてと祈るしか出来なかった。
「トド松!」
近くにいたのか、救急車が着くと待っていたようにすぐに一松が駆け寄って来た。
「一松兄さん…!」
「カラ松は?」
「熱、凄くて…苦しそう、」
「大丈夫だから、きっと」
「うん…」
一人で抱えていた不安。二つ上の兄に会えた事でそれが爆発したように泣き出すトド松。
「大丈夫だって、泣くな…絶対大丈夫だから」
「うんっ…」
ストレッチャーに乗せられたまま運ばれて行くカラ松を見て、一松も一瞬言葉を失う。そんな姿、二人とも見た事がないのだ。そこへ。
「トド松!一松!」
「おそ松兄さん…!」
「必要な物はチョロ松と十四松に頼んだ。取り敢えず中に入ろう」
「母さん達には?」
「連絡した、すぐ来るって…そんな泣くなよ、トド松。大丈夫だからさ、な?」
「っ、うん、うん、」
涙の止まらないトド松の肩を抱いた一松は先に立って歩くおそ松の後を着いて行く。
それから荷物を抱えたチョロ松と十四松、母親が到着しておそ松と一緒に担当医の話を聞きに行った。
「肺炎なりかけだって。でも命に別状ある訳じゃないから大丈夫。二、三日入院するだろうけど」
戻って来たおそ松の言葉に体から力が抜ける。椅子に座り込んだトド松の隣に座り、おそ松が頭を撫でる。
「トド松が気付いてくれて良かったよ、ありがとな」
「兄さあああん」
「あーもう、大丈夫だから泣くなって」
「カラ松、目が覚めたよ」
病室で荷物を片付けていたチョロ松が顔を出してそう声を掛けると、トド松は転がるように飛び込んだ。
「カラ松兄さん!」
「…トド松が気付いてくれたんだってな、ありがとう…心配かけてごめんな」
まだ辛そうな顔してるくせに、そんな事を優しい声で言うから先程から壊れていた涙腺がとうとう何の役にも立たなくなった。
「うわあああああんカラ松兄さん生きてて良かったあああああごめんなさあああああいいいいい」
「おいおい…勝手に殺さないでくれよ」
「ほらトド松、カラ松まだしんどいんだから寝かせてやんねーと」
「っうん…」
「…トド松」
「うん?何…?」
ありがとう、相棒、と。
昔、悪戯が成功した時みたいな顔で笑うからますますトド松の涙は止まらなくなった。
まだ相棒だと思ってくれるなら一人で無茶しないでよね!なんて涙混じりに言えば、困ったような笑顔が返ってきた。
【四男の謝罪】
あ、降ってきた。
いつものように路地裏に猫達の様子を見に来ていた一松の腕に、ぽつりと冷たい雫が落ちて来た。
今日の降水確率は70%。降り出すまでにはもう少し時間があるかと思っていた空はいつの間にか真っ暗で、失敗したと舌打ちを一つ。
路地裏の奥、人目に付かない場所にゴミとしか思えない物が積んである。それは一松が作った猫達の避難所で、誰も興味を持たないようにゴミのように見せかけているだけ。一番奥にある段ボールには毛布が敷かれ猫缶と水の容器が置いてある。本格的に降り出す前にと猫達をその中に避難させ、外から分からないようにゴミでカモフラージュする。この路地裏は意外に入り組んでいてこんな奥まで入って来るのは一松か猫くらいしかいないから、素行不良の輩に見付かる心配はまずないのだけれど。
「雨やむまでここで大人しくしとくんだぞ」
兄弟にも聞かせない一松の優しい声に、分かったと言うように一鳴きする猫を撫でててゆっくり立ち上がる。少し歩いて路地裏から出た直後。
「…一松?」
は、と思った。だって聞こえて来たのは聞き間違えるはずのないカラ松の声で、その本人は大怪我をして家にいるはずなのだから。
「どうしたんだ、傘もささないで。濡れてるじゃないか」
「その言葉そっくり返す、アンタこそ傘も持たずに何してんの?そんな包帯グルグル巻で怪我に障るだろうがよ」
一松にだって罪悪感と言う感情はある。
大分治りかけて来たとは言え、まだ頭に包帯を巻きギプスに固定された足を松葉杖で庇いながら歩く兄を―ましてやこんな大怪我を負わせた張本人の一人なのだ―雨の中に見捨てていける程の薄情者ではない。
「散歩に出ていたら急に降り出してな。まさかこんなに早く降るとは思わなかったから傘持って来てないんだ、済まない」
「なんで謝るの、てかそのせいで熱でも出したらどーすんだよ。行くぞ」
「わ、一松?」
普段の一松からは考えられない。骨折した足を庇うように体を支え、肩を貸すなんて。それでも早く連れて帰らないといけない。
少し前、カラ松は酷い熱を出した。やはりこんな雨の日に外に出て濡れて帰って来たせいだ。怪我の影響で体力が落ち、抵抗力も弱っているからだと、急いで運んだ病院で言われた。誰よりも頑丈で滅多に高熱など出さないカラ松が肺炎を起こしかけて苦しそうに魘される姿など、一松はもう見たくなかった。
「ちっ…結構降ってきたな」
雨はいつの間にか本降りになり、ひとまずと二人は近くにあったコンビニに飛び込んだ。自分一人なら濡れて帰っても構わないけれど、今はカラ松がいる。これ以上雨の中を歩かせる訳にはいかない。見回した店内、入口右手に小さいがイートインスペースがあった。取り敢えずそこにカラ松を座らせてレジへ向かう。最近のコンビニは凄いなと呟きながら百円玉二つを出して紙コップを買い、レジ脇にあるコーヒーメーカーへ。一つのカップはブラック、もう一つは甘くして。両手にカップを持ちカラ松の横に座るとブラックの方を差し出した。この兄は甘い物も好きな割に、コーヒーは何故かブラックしか飲まない。
「ん」
「…一松」
「少しでも体あっためて」
「…ありがとう」
嬉しそうに顔を綻ばせながらカップを受け取るカラ松から、すっと視線を外す。
生死に関わるような酷い怪我を負わせたのに、兄弟に対して泣き言一つ、文句一つ言わずに笑っている。それなのに自分はその優しさに甘え切って、きちんとした謝罪も償いもしていないのだ。
「…カラ松、…兄さん」
「っ、んぐっ!?」
敬称を付けて呼んだ一松に、口に入れたコーヒーで危うく噎せるところだった。噴き出さないように慌てて飲み下し、焦った様子で一松を振り返る。
「ど、どうしたんだ一松…どこか痛いのか?寒いか?済まない、生憎今日は上着を着ていなくて…」
おろおろしながら何かないかと店内を見回すカラ松の服を、指先でぎゅっと握り締める。
「…一松?」
「あの、さ…、あの、……ごめ、ん…」
「…え?」
「チビ太の、時の事…助けに行かなくて…」
「ああ、なんだ。大丈夫だぞ、まあ多少の怪我はしたが死ななかったんだ。またお前達といる事も許してもらえたしな、何も……一松…?」
「…許してもらえた、ってなんだよ…許してもらわなきゃいけないの、ぼく達の方じゃん。こんな酷い怪我させて、死ぬかも知れなかったのに…なんで怒んないの」
カタカタと震える指先を、カラ松の手がそっと包み込む。そして、本当に邪気のない声で言ったのだ。
「俺は、この傷を受けたのが俺で良かったと思ってるから」
「…は、」
「もしあの時、チビ太が俺じゃなくてお前を誘拐していたら?兄貴やチョロ松や十四松、トド松なら?…多分俺は、チビ太と言えども見境なく叩きのめしていたかも知れない。こんな傷をお前達に負わせるくらいなら、こうなったのが俺で良かった。何より大事な兄弟や友達に辛い目には遭って欲しくないから」
「…ば、っかじゃないの…」
服から指を離し、包まれていた手をぎゅっと握り返す。俯いた一松の目の奥がじわりと熱くなる。
どうしてそんな事、そんな笑顔で言えるんだ。友達に、カラ松にとっては親友とも言える相手に誘拐されて兄弟に殺されかけて、どうしてそんな。
「っ、ごめっ…ごめんなさい、カラ松兄さんっ…」
「泣かないでくれ一松…俺はお前の涙の止め方を知らない。知らないから、こんな事くらいしか出来なくて…また怒らせてしまうかも知れないな」
そう言って、暖かい腕に抱き込まれる。ここがコンビニのイートインスペースだとか客や店員の目だとか、そんな事はもうどうでも良くて。ただ暖かい腕の中で目が腫れる程泣いた。今まで自分がして来た事を繰り返し謝りながら。
「良かったな、雨上がって」
「ん…」
ぐす、と鼻を啜りながら頷く。一松が泣きやむ頃には雨は上がり、すっかり冷たくなったコーヒーを飲み干して外に出る。
「なあ、一松」
「…何」
「もし本当に俺に悪い事をした、と思っているなら一つ頼みを聞いてくれないか」
「…頼み?」
「ああ。…今度、俺もあのオレンジ色の一松キャットに挨拶させて欲しいんだが」
「オレンジ色…エスニャンに?」
「エスニャンと言うのか。あの子は一松と一番仲が良いみたいだし、俺も…その、仲良くなれたらと思って」
「…良いよ。今度会えたら連れてくる」
「本当か!ありがとう、楽しみだな!」
そうしたらもう一度デカパンにあの薬をもらおうか。人の気持ちが分かる猫なんだ、と教えたらどんな顔をするのだろう。そう考えた時、前方から見慣れた四つの色が走って来た。
「おー!いたいた!」
「カラ松兄さん!」
「一松も一緒だったんだね、良かった」
「みんな…」
「いやー、雨すげーのにお前ら帰って来ないからさ、探しに来たの。まあやんで良かったけど」
「カラ松にーさんと一松にーさん、一緒にいたの!?」
「ああ、一松がコンビニで雨宿りさせてくれてな。体を冷やすなとコーヒーも買ってくれて。本当に助かった」
「へー…」
そんなニヤニヤした顔で見んな…そう言おうとした口は、勝手に違う言葉を紡いでいた。
「それでもカラ松濡れたんだ。だから」
「分かってるって、ありがとな一松。カラ松避難させてくれて」
ぽん、と長男の手に頭を撫でられる。そしてそのままおそ松はカラ松の前にしゃがみ込んだ。
「…兄さん?」
あ、素だ。おそ松は自分の前でしか使わない呼び方をするカラ松を振り返っていつもの笑顔を浮かべた。
「お兄ちゃんタクシー特別出動。ほら、早く乗れって」
「ええ!?でも」
「わはー!カラ松にーさん、お客さん!」
躊躇うカラ松の背をいつもより優しく押す十四松に負け、おそ松の背に乗らされてしまった。
「ちょ、兄貴…さすがにはこれは恥ずかしいぞ」
「良いから怪我人は大人しく甘えてろっての」
「そうだよー、こんなカラ松兄さん貴重なんだから」
「帰ったら取り敢えず二人とも風呂ね、入れるようにしてあるから」
「おそ松にーさん、次おれ!おれもおんぶ!」
「されたいの、十四松…」
「カラ松にーさんおんぶする!交代オナシャス!」
「えー?ダメー、これはお兄ちゃん特権!」
「えー!ズルいっす!!」
カラ松を背負うおそ松に十四松が珍しく食い下がり、その横を松葉杖を持ったチョロ松、六人分の傘を手分けして持ったトド松と一松が並んで歩く。
笑顔の六人を照らす夕日は、あの日よりももっと鮮やかで暖かな色をしていた。
【長男の謝罪】
「大丈夫か?」
「ああ、平気だ。て言うかちょっとみんな大袈裟過ぎだって、熱も高くないし」
「お前は今、通常の体調と違うんだから大袈裟じゃねえって。…悪かったよ」
「…何だよ、兄さんまで」
一松に雨宿りさせてもらったとは言え、濡れた体はやはり負担になったようで帰ってからカラ松は少し熱を出した。客間に敷かれた布団に寝かされ、今はおそ松と二人きり。弟達は先に風呂を済ませた一松を除いて銭湯に行き、その一松は今台所でカラ松のためにお粥を作っているはずだった。
「いや、やっぱりさ…オレ、お前の唯一の兄ちゃんなのに怪我させるとかねぇわーって。ホント、ごめん!」
「…もう良いって。弟達泣かせてしまったし、これで兄さんに謝られたら俺の方が泣きそうだ」
「泣いたら良いんじゃね?お前、我慢し過ぎなんだって。辛いとか痛いとかさ、嫌なら嫌だってたまにははっきり言った方が良いよ」
「そう言われても…嫌な事なんて、」
「…オレ、お前に兄ちゃん押し付けてたのかもな」
「え?」
「オレがこんなんだからさ、お前がすげーみんなの事見ててくれてるじゃん。そんで良い兄ちゃんになろうとして、し過ぎて、我慢するようになったんじゃねぇかなって。だからオレにも責任ある」
「…そんなんじゃないさ、俺はただ兄弟が好きなだけだ。笑ってて欲しいし、泣き顔は見たくない。だから今回の事も俺で良かったって本当に思ってるんだ」
「…それ、オレがお前に言っていい?」
「何をだ?」
「お前もさ、オレの弟なの。笑ってて欲しいし、泣いて欲しくない。兄ちゃんかも知れないけど、たまには優しい次男じゃなくて六つ子の一人に戻ってみても良いんじゃねぇの」
「六つ子の一人…」
「昔はそうだったじゃん。兄も弟もなくて、六つ子の一人。我儘も泣き顔もみんなに見せてさ。みんなもそれ、望んでると思うぜ」
「…そう、なんだろうか…」
「ああ。ま、すぐには無理だろうけど、たまにはな」
「…頑張ってみるよ」
気持ちが軽くなる。自分では気付かなかったけれど、どこかで兄だから我慢するのが当たり前だと思っていたんだろうか。それを気付かせてくれたおそ松はやっぱりたった一人の自分の兄で、六つ子の長男なのだと思う。
「…お粥出来たけど、入って良い?」
「ああ、良いぞ。…わざわざ済まないな」
お盆にお粥とスポーツドリンク、薬。それに梨を持って来た一松に体を起こしたカラ松が笑いかける。
「別に…暇だっただけだし」
「またまた一松ってば照れちゃってー。て言うかお前、お粥とか作れたんだ」
「おそ松兄さん、ぼくの事何だと思ってんの。簡単なもんなら料理くらい出来るし」
「え!そうなの?」
「…ニートとは言えこの年になって自炊出来ないとかないでしょ。…無理に全部食べなくても良いから」
傍らに置いた小さなテーブルにお盆を置き、茶碗に取り分けたお粥にレンゲを添えてカラ松に差し出す。ほわほわと温かい湯気が上る茶碗には、ふんわりした卵粥が盛られていた。
「美味そうだな、ありがとう一松。頂きます」
嬉しそうな顔でお粥を掬ったレンゲを口に運ぶ。何でもない顔を装いながらも内心の不安が表情に出てる一松に、おそ松は何も言わずに小さく笑う。
「ん、美味い。炊き加減も塩加減もちょうど良いぞ」
「っそ…良かった…」
ほっと息を落とす一松の頭をポンポンとおそ松が撫でる。その顔はたまに見せる「お兄ちゃん」のもので。
「一松、偉い偉い」
「何だよ、やめろよもう」
照れちゃって可愛いねえ。カラ松が怪我して以来優しくなった一松を見て、これだけは良かったかなと思う。余程酷くなければ口を出さなかったけれど、カラ松に対する一松の態度が、時々度を越えていると感じる事が多かったから。それが本当に嫌いなのではなく照れ隠しだと分かっていても、直情型のカラ松に伝わる事が殆どない。そろそろ釘を刺そうかと思っていた矢先の誘拐事件。一緒になってカラ松を傷付けた自分に一松を叱る資格はないと溜息を吐いたけれど、それがこう転ぶとは思わなかった。願わくばカラ松の怪我が治ってもこの優しいままでいてくれると良いんだけど。
「一松、ちょっとカラ松頼んで良いか?」
「え?良いけど…」
「ちょっとだけ煙草吸って来る」
「吸いすぎるなよ」
分かってる、と答えポケットに突っ込んだままの煙草を手に屋上に上がる。いつもカラ松が歌うその位置に腰を下ろし、咥えた煙草に火を着けた。
「…良かった…」
ぽろり。弟達の前では絶対に流さない涙が落ちる。
ぐす、鼻を啜る音が静かな夜に溶けて、それが引き金だったようにとめどなく落ちる雫。
「ほんっと良かった…カラ松…」
ずっと泣きたいのを我慢していた。自分が泣いたら弟達みんなが不安になるだろうと。それでもたまにこうして長男の仮面を捨てて、ただ兄弟の一人になる時間がないともたないのだ。自分の立ち位置を長男だと決めた時から覚悟も付いた、弟達を引っ張っていくのは自分だと。けれどそんなに強い人間じゃないのだ、自分は。だからカラ松に甘えた。面倒な事は次男に丸投げしていた。そしてカラ松はそれに応え、自分よりも立派な兄になった。なり過ぎた。弱音も不満も言わない兄になってしまったのだ。そうさせたのは自分だと、おそ松はいつも後悔していた。やっぱり俺の兄さんだな!と笑うカラ松に、そんな凄いものじゃないんだと何度言いそうになったか。それをしなかったのは、カラ松が自分に寄せる絶対的な信頼を壊したくなかったからだ。こんな兄だと知ったら今までカラ松が頑張ってくれた事が全て無駄になる。だからおそ松に出来るのは、唯一の兄ちゃんなんだからとカラ松を甘やかす事だけだった。上手くいったかどうかは分からない。けれど、それしか出来ないから。これは他の兄弟には出来ない事だから。
「はー…久しぶりに泣いた…」
肺に落ちるニコチンに漸く落ち着きを取り戻し、用意していた濡れタオルを目元に充てる。目を腫らして赤くしたまま戻る訳にいかない。泣いたなどと気付かれてはいけないのだ。それが長男としての役割だから。
「…あれっ、兄さん何してんのー」
「珍しっすね、にーさんが屋根!」
「落ちないでよ、てか煙草!」
「おー、おかえりー」
「風呂入ったの?」
「まだ。今、一松が見てくれてるからもう一本吸ったら入るよ」
銭湯に行っていた弟達が帰って来た。きっと家に入ってすぐ、揃ってカラ松の元へ行くのだろう。楽しそうな弟達を見逃す訳にはいかないな、とフィルター近くまで吸った煙草を灰皿に押し付ける。
下から賑やかな声が聞こえて来た。看病していた一松をからかっているんだろう。楽しそうな笑い声、時々聞こえる照れ隠しの怒鳴り声。
ああ、どんな音楽よりも幸せになれる弟達の賑やかで明るい声。
その中に飛び込むべく、おそ松はゆっくりと腰を上げた。
弟達のいる我が人生、C'est la vie!
…なんて、ね。