ネイティブカラ松とチョロ松マネージャー「…あれ?え…カラ松…?」
その日、ハローワークで日課と言っても過言ではない就活を終えたチョロ松が少し足を伸ばしてオフィス街にある書店に向かうと、見慣れた後ろ姿が目に入った。
六つ子お揃いの青いスーツではなくいかにもエリートビジネスマンと言った風情の高そうな黒いスーツに身を包み、これまた高そうなビジネスバッグを提げて、チョロ松ですら名前を知っている超大手出版社に何の躊躇いもなく足を踏み入れる兄を、呆然と見ているしか出来なかった。
「え、何で…?」
さすがにあの中に入る勇気はない。とは言えやはり気になるものは気になるので、少し離れた場所に喫煙所を見付けるとそこでカラ松が出て来るのを待った。
一時間程して出て来たカラ松はチョロ松がいるのとは反対方向へと歩き出し、吸っていた煙草を慌てて揉み消すと小走りでその背中を追った。
「…カラ松!」
「え…、…チョロ松?」
しまった、と言いたげな表情を浮かべ振り返ったカラ松は、すぐに何故チョロ松がここにいるのかと問うような色を目に浮かべ微笑んだ。
「どうしたんだ、こんな所で」
「それ、僕の台詞なんだけど。…今、あの出版社から出て来たよね?」
入る所から見ていた、とは言わなかった。何となくそれは言わなくても気付くだろうと思ったから。
「ああ…見られてたのか」
「それにその格好…ほんとにビジネスマンみたいだし」
「…見られたのがお前で良かった、と言うところか」
「カラ松?」
「…済まない、もう一ヶ所行かなきゃいけないんだ。時間あるなら付き合わないか?」
「…時間あるのは知ってるでしょ。どこ行くの?」
カラ松の口から出たのは、これも各国の食品を取り扱う超有名商社の名前だった。そんな所に何の用が…と疑問符を浮かべているチョロ松を伴い、その立派な社屋に踏み込むカラ松。きっとチョロ松一人なら一生入る事のないだろう会社だ。
「すみません、松野と申しますが企画部長の田中様にお取次ぎ頂けますか」
「松野様ですね、少々お待ち下さいませ」
一流商社に相応しい綺麗な受付嬢とにこやかに言葉を交わすカラ松は笑顔だ。そんな対応出来るのかお前…内心のツッコミが言葉になる事はない。その代わり聞こえて来たのは、三階会議室Bへどうぞ、と言う涼やかな受付嬢の返答だった。
広いエレベーターに乗り、三階へ向かう間もチョロ松は落ち着かない。カラ松が企画部長とやらに用事があるのは本当だろう。だとしたら自分はどの立場で、どんな顔で同席すればいいのか。そもそも内容も分からないビジネスの話しなど出来るはずもないのに。
「なあ、カラ松…」
「終わったらちゃんと説明するから」
聞きたい事はたくさんあり過ぎるのに、そんな風に言われては何も聞けなくなってしまう。
そうこうするうちに目的の会議室に到着し、ノックをして入ると既に先方の企画部長らしき人物が待っていた。そして、そのやたらと恰幅のいい部長はカラ松を見て満面の笑みを浮かべた。
「松野さん、お待ちしておりました。…こちらの方は?」
「お待たせしてしまって申し訳ありません。これは私の弟で、先日からマネージャー見習いとして研修しております、チョロ松と申します」
「は、初めまして、松野チョロ松と申します。今後ともカラ松共々よろしくお願い致します」
急に振るなよ!バカラ松!なんてツッコミも出来ない程必死で、紹介された以上はそれらしく見せなければならないとマネージャーらしい挨拶をどうにか済ませると、部長は人の良さそうな笑顔をチョロ松にも向けて来た。
「そうですか、貴方が噂の弟さんのお一人ですか。私、企画部長の田中と申します。こちらこそ今後とも松野先生同様よろしくお願い致します」
そう言って差し出された名刺を恭しく受け取り、それからハッとした。
「申し訳ありません、まだ名刺が出来ておらず…次回持参致しますので」
「構いませんよ、どうぞお掛け下さい」
全く就職経験のないチョロ松にとって、この社会人としてのやり取りはもちろん初体験で。せめてもの慰めとしてスーツを着ていて良かったと、気付かれないように息を吐いた。
…それより。今、何て?松野先生?誰が?
混乱するチョロ松の前に、香り高いコーヒーが注がれたカップが置かれた。女性社員が運んで来てくれたらしい。会釈するとその女性社員―美人だ―はちょっとドキドキするくらいの可愛らしい笑顔を返してくれた。
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企画部長とカラ松の話は、チョロ松にはとてもじゃないが付いていけない次元のものだった。
あの後暫くして宣伝部の社員も登場し―しかも外人だった―、英語と日本語が混ざったビジネストークが繰り広げられた。
チョロ松だって全く英語が分からない訳ではない。高校時代はそれなりに成績も良かったし、片言なら自分だって話せるし聞き取れる。けれどカラ松のレベルはそんなものではなかった。流暢どころじゃない、ネイティブなのかと思わせるような発音、リスニング力。
断片的に聞き取れた内容から、どうやらカラ松はこの商社の海外向けPRビデオのナレーションを担当するらしい。そりゃこれだけの語学力があれば…と頷くしかない。
「ではそのように進めておきます」
「よろしくお願い致します」
打ち合わせが終わったらしい。口を挟む事も出来なかったチョロ松に、部長が再度振り向いた。
「今後、ご連絡はチョロ松さんの方に差し上げたらよろしいですか?」
「は、はい。…手書きで申し訳ありませんが」
急いでメモにスマホの番号を書き、手渡す。
こんな事をしていいのだろうか、カラ松が何も言わないからいいのか、そんな葛藤をしながら宣伝部の彼の名刺も貰い同じ番号のメモを渡す。
「それでは失礼致します」
「よろしくお願い致します」
エレベーターに乗るまで見送られ、扉が閉まると同時にチョロ松は大きな溜息を吐き出した。ガチガチに緊張していたらしい、手にしっとりと汗が浮かんでいる。
「はああ〜…」
「済まなかったな、急に。…どこかで飯でも食いながら話すよ」
時計を見るともう昼を過ぎている。
にこやかな受付嬢に見送られ、近くのトンカツ屋に入るとようやくチョロ松は普通に言葉を発せるようになった。
「…何、今の」
「どこから話したらいいか…俺の仕事だよ」
「企業ビデオのナレーションが?」
「他にもやってる、洋書の翻訳や同じく企業の英文パンフレット作ったり」
「…さっきの出版社はもしかして」
「ああ、今度ドイツの医術書を翻訳する事になって」
「…ドイツ語も出来んの!?」
思わず叫んだチョロ松に、上ヒレカツ定食を運んで来た店員がビクリと肩を揺らす。すみません、と小さく謝ると箸を手にしながら向かいの兄の顔を見つめた。
「英語とドイツ語、それにフランス語。その三ヶ国語だけだぞ?」
「…それだけでも充分だろ」
よもやフランス語まで出来たとは。混乱する頭を落ち着かせようと、暫くは食べる事に専念する。
美味い、カツはサクサクだしソースも特製らしくていい味してる。こんな美味しいヒレカツなんて食べた事がない。
「…いつから?」
食べ終えてお茶を啜りながら、この際だし聞きたい事は全部聞いてやれと口にする。巻き込まれたのだからその権利はあるはずだと。
「えっと…大学の時に英検とTOEIC受けて、フランス語は二年前、ドイツ語は半年前」
「大学?え、行ってないだろ?」
「通信で単位取って卒業したんだ」
「…マジか」
「ニートだってのは強みだったよ、ネカフェや図書館に入り浸ってる時間が作れる。その間に語学も習得出来たし、バイトも出来た」
「バイトしてたの?」
「学費や諸々の出費を賄わなきゃいけなかったからな。父さん達に負担はかけられないだろ?」
「…何で黙ってたの」
「言い出すきっかけがなかったから、かな。…今ではそこそこ仕事貰えてるし、順調なんだ」
「そう…」
複雑だった。
あれほど毎日自分がハロワだ就活だとやっている間も、カラ松は着実に仕事をしていたのだから。自分が口先だけの存在のような気がして。
「…それでな、最近ちょっと忙しくなって来たんだ。人手が欲しいと思っていたところなんだが…チョロ松、本当にマネージャーやってくれないか?」
「え…僕が?」
「ああ。経理も必要なんだがそれは十四松に頼んであるから、チョロ松は」
「待って待って、十四松?何で?」
「アイツが経理出来るから。簿記二級と給与計算検定資格もあるし、株もやってるしな」
「…十四松が?そんな資格持ってんの?」
「元々数字に強かっただろう?高校時代に簿記取ったらしいから」
「…何でそんな二人ともスペックあんの」
「いつまでもニートじゃいられないし、やりたい仕事だから…かな」
そう言ったカラ松は、今まで見た事ない程に充実したような笑みを浮かべていた。
このままじゃいけない、唐突にそう思った。
今までのように口先だけのハロワ通いなんて、もう通用しない。全くの未経験でどこまで出来るか分からないけれど、カラ松と十四松がやっている事の手助けに少しでもなれれば。それが自分のやり甲斐のある仕事になるならいいと思った。
「…分かった、やってみる」
「本当か!」
「ただし、僕はお前達と違って何の資格もない。普免しかないんだ。それでも出来るもんなのか?」
「もちろんだとも。仕事は難しい事じゃない、依頼を受けてそれをより分け、相手方との交渉と打ち合わせへの同席。必要な資格があればおいおい取っていけばいい」
「…頑張るよ」
正直どこまで出来るか分からないけれど、どこかの企業に就職するよりやりやすいはずだ。何しろ兄弟とやるのだから。
「そうと決まればスーツくらい買わないとな。名刺と、鞄に靴も必要だし…それから今取引してる企業、リストアップしてくれる?」
「ああ、よろしく頼む。…後の話は事務所でしよう」
「…事務所?」
もう何が出て来ても驚かないぞと思ったけれど、カラ松に連れて行かれたマンションの一室、3LDKの部屋が事務所だと言われては驚くしか出来なかった。