蒼と紅の共犯者「水族館に行かない?」
突然チョロ松兄さんにそう言われた。
一瞬時間が止まり、誘う松間違えてないか?とも思ったけれど兄さんの顔は至って真面目で、ぼくと他の松を間違えてる様子はなかった。
「…水族館?」
多分きょとんとしたんだろう、聞き返したぼくの顔を見て兄さんは少しだけ微笑って見せた。
「うん。最近オープンした所なんだけど…どうかな」
どうかな、と言われましても。
別にぼくはこのひとつ上の兄と仲が悪い訳でも嫌いな訳でもない。
ただ下二人のように特別仲がいい訳でもないし、上の兄二人のように目に見えない強い信頼感がお互いある訳でもない、…と思う。
強いて言うなら、普通の男兄弟なのだ。甘え過ぎす甘やかし過ぎず、程よく冷たく程よく手を伸ばす。それでもお互い支え合えるし助け合える、そういう距離感。ぼくにとって一緒にいて気が楽な兄弟一位だったりする。
「…今から?」
「うん。何か用事ある?」
「ない、から…いいよ」
「良かった。じゃあこれ着てくれる?」
そう言って出されたのは、左胸に猫のワンポイントが入った真っ白な長袖のTシャツ。
「………着替えるの?」
「うん、出来れば。きっと一松も気に入ると思うんだ」
「…分かった」
わざわざ用意してくれた服を突っ返す程に意地悪くはない、素直に着替えて外出用のジャケットに袖を通す。五つ先のターミナル駅で電車一回乗り換えて三つ目。流石にダルダルのジャージじゃ誘ってくれた兄に悪いと、普段はあまり履かないジーンズに履き替えてスニーカー。うん、いつもよりだいぶマシだと思う。財布とスマホをポケットに突っ込んで準備完了。
「うん、一松似合うね」
にっこり。普段何かあるとマシンガントークだし、手も足も出るし口調も言葉も乱暴になるけど、少なくとも怒らせなければ穏やかなのだこの人は。怒ってるイメージが強くて大笑いする事も少ないけれど、微笑が多い。そして何故か、こんな言い方は変だけれどその微笑に妙な色気があるのだ。多分ソッチの気がある人ならときめくくらいには。
「でもどうしたの、急に水族館なんて」
家を出て並んで駅まで歩きながら問うと、オープン当初に一週間だけ販売された割引回数券を買ったんだと告白された。
「先週初めて行ったんだけど凄く綺麗で、一松に見せたいなって思ったから」
正直驚いた。水族館に行って、兄さんがぼくに見せたいと思うなんて想像もしなかった。事前情報は何もくれないし、ぼくも水族館がオープンしたのなんて知らなかったからどんなモチーフなのか分からないけれど、兄さんがそう言うのだからきっと綺麗な所なんだろう。並んで歩いて電車を乗り継ぐ間も大した話はしなかったけれど、嫌な空気じゃなくて心地よかった。
平日という事もあって水族館はそんなに混んでいないっぽい。入口で回数券を二枚出し、奥へ進む。角を曲がった瞬間、――海に放り出されたのかと錯覚した。
ゆらゆら揺蕩う海の中、そんなイメージでフロアが作られていた。蒼い蒼いライト、淡い青と濃い蒼が混じりあって水を作る。水槽もフロアも同じ照明で境目がないように思えて、泳ぐ魚になったように。
「……すご、」
「でしょ。僕も初めて来た時は暫く見蕩れたよね」
ふと見ると兄さんに貰った白いTシャツが蒼く染まっていた。まるで、そう、蒼に抱かれているように。兄さんはきっと、これを狙って着替えさせたのだ。
「……気に入ってくれた?」
こそり、内緒話のように囁いて来た兄さんに小さく頷く。ああ、これは絶対バレてるやつだ。
「…綺麗だね」
「でしょ。さ、行こう。折角だから楽しまなきゃ」
「うん」
水族館は二階建てで、一階は深海魚なんかもいるディープな造り。蒼はどこまでも深い。
……ぼくにとって蒼―青は恋慕の対象だ。いつからなんて覚えていないけれど、気付いたら兄弟愛とは違う想いを抱えていた。けれど告げる勇気なんてなくて、深く暗い海の底に沈めた。ぼくの想いは海底でじっとしたまま融ける事も出来ず硬い石になり、柔らかい言葉さえ通さなくなってしまった。そんな想いはもう持つ事さえ重くて、それでも捨てる決心もつかないのだ。
深い水槽のこの中にぼくの想いが眠っているかも知れない、と思ったら自然と口元が緩んだ。
目の前の水槽でゆらゆら揺れながら水を踊る海月を見て、いつかぼくの想いもこれくらい柔らかく戻ればいいな、なんて思う。
「……チョロ松兄さん」
「ん?」
「連れて来てくれてありがとう、凄く癒される」
「ふふ、良かった。絶対一松好きだと思ったんだ」
「うん、好き……」
現実にはきっと有り得ないけれど、今こうして蒼に染められているだけで幸せだと思える。ほんと、兄さんには感謝だね。
「何かお土産買っていこうか」
「うん。お菓子でいいよね」
売店が上階にあると言われ上がっていくと、二階は浅い海だっだ。鮮やかな青、澄んでキラキラした水面をイメージしてるようで一階よりも明るく感じる。
「……兄さん、ペンギンの餌やり出来るって」
「えっ、マジ?……うわー!やりたい!」
「行こうか」
「うん」
いつぞや動物番組を見ていた時にペンギン可愛いなーってにこにこしていた顔を思い出し、誘ってみると案の定楽しそうに着いてきた。前に来た時はやらなかったの、と聞いたら、その時はやってなかったとの返事。飼育員さんに渡されたイワシをペンギンにあげながらはしゃぐ兄さんは、なんと言うか可愛かった。何だかんだぼくは、この兄が好きなのだ。
「楽しかったね!」
「うん、凄い癒された」
お土産のペンギンクッキーを二箱抱えて外に出ると、もう夕暮れの時間。今まで蒼い海にいたぼく達の目に、真っ赤な夕焼けが眩しい。眩しすぎる。さっきまで青かったぼくのシャツは赤く染まり、隣を見ると兄さんのシャツも真っ赤に。そしてシャツだけではなく、頬も紅く嬉しそうに幸せそうに微笑う兄さんは、きっとぼくと同じ想いを抱えてるのだと唐突に気付いた。
――ぼくは蒼に、兄さんは紅に。
「ねえ、兄さん」
「ん?」
「今度さ、真っ赤な花がたくさん咲く場所に行かない?」
「……うん、そうだね。行こっか」
え、って顔をしたくせに、すぐに照れ臭そうに笑う。そんなの、もう白状したようなもんだよね。
「あー……」
「どうしたの」
「…………ヒミツ、ね」
「お互いに、ね」
それだけで通じ合う、まるで共犯者のようにぼく達は密やかに恋心を抱えて生きていく。