「600年目の初恋」 Episode.5&6Episode.5 守りたいもの
「折角の休みの日だったのに、ほんとに良かったの?」
気遣わしげな声のネロに、心から「はい」と伝える。
この前、ネロとヒースとシノが三人で市場に買い出しに行った帰りにばったり遭遇した際、「次に買い出しに行くときには自分が付いて行ってもいいか」とネロにおうかがいを立てていて、それがあっての今日だ。
「変わった買い物もしないし、特に珍しいもんもないと思うけど……」
こめかみを人差し指でかきながら、視線をあさってのほうに向ける彼は、若干きまずそう。
この雰囲気に心当たりはある。私が、東の魔法使いたちとは違って「ネロのお手伝いがしたいから」とストレートに伝えていたからだろう。
「いつも美味しいごはんを作ってもらっているので、何か役に立ちたくて」
「賢者様の気持ち、とてもよくわかります」
ネロと私の真ん中で、リケが深くうなずいた。
「持っている知識や技術を使わないことは怠惰ですし、自分ができることを探そうとしないことはもっと怠惰です」
そこまで厳しいことは考えていなかったけれど、真実だ。ネロが苦笑いをしている。
「それに、僕たちも一緒に頑張れば、ネロがもっと美味しい料理を作ってくれるので。だから頑張りましょうね、賢者様」
キラキラの笑顔のリケを見て、そっちが本命か、とほんわりした気分になる。多分ネロも同じようなことを思ったのだろう。軽く目が合ったのでふたりで小さく笑った。
そうですね、頑張りましょうね、リケ、とキラキラを分けてもらうみたいにして声を掛けると、「はい!」と春の太陽のように明るい返事。
きっと、良い買い物ができるだろう。そんな予感がした。
賑やかな市場をずいずい進んでいくと、ネロが露店でぴたりと止まった。そして、卵をひとつ手に取る。
「お兄さん、お目が高いね。そいつはさっき採れたばっかりなんだ」
「へえ。どうりで生きがいいわけだ。二十五個ほしいけど、ある?」
「あるよ! 一つ五だから、全部で百二十五」
「百二十五⁈ そいつは高すぎるな。百」
「おいおい、それじゃ鳥のエサ代にもならない。百二十」
「エサは銀河麦とかスタ米だろ。最近どっちも安くなったの知ってるぜ? 百五」
「事情通だな。その水色の髪、よく見るけど、うちで買うのは初めてだろ? 百十五。これ以上は無理だ」
「うちのお子ちゃまがオムライス大好きなんだよ。また近いうちに買いに来るからさ。百十」
「本当かい?」
「たぶん買いに来ることになる」
「わかったよ。百十三。これからもちゃんと来てくれよ?」
「ありがとな」
にこりと笑うネロがお金を渡すところを見て、私はようやく息を吸えた。そして、
「「わ~~」」
吐き出す息にまじって感嘆の声が漏れる。リケと同時に。
店主とネロが同時にプッと吹き出した。ふたりとも素人を歓迎する柔らかさのある笑顔だった。
「すごいです、ネロ。魔法みたいでした! みるみるうちに値段が下がっていって……。オズやアーサー、カインと一緒に来た時には、そんなことしてなかったのに!」
リケが遊園地のアトラクションに乗った後みたいにはしゃいでいる。
確かに、オズやアーサーが値切ったりしているところは想像がつかない……、というか、そういう市井にまみれたことをしているところは見たくないかもなあ。カインは騎士団長だったし、市場の人たちとは値切る・値切らないの関係じゃないんだろうな。カインから安くしてくれとは言わなそうだし、そうだとしても、お店の人から自然とちょっとおまけしてくれそうだし……。と、私の思考は一瞬脇道にそれた。
でも、そんなことより、今はネロだ。
「ね、すごかったですね。さすがです。こうやっていつも買い物をしてくれていたんですね」
ありがとうございます、と言うと、ネロはいつものように困った笑顔を見せて視線を逸らした。
「そんな凄いもんじゃないよ。こういうの慣れてるってだけ」
「そういえば自分のお店もありましたもんね。でも、慣れてるってことがすごいですよ」
「そうです。慣れというのは、つまり鍛錬でしょう? ネロにも勤勉なところがあったんですね」
えらい、というような表情で、リケが「ね、賢者様」と目を輝かせるので、「そうですね」とはっきり言うことはできず、でもほとんど同意だったこともあって自然と笑顔になる。そんな時、
「あんたたち、家族にしちゃあずいぶん他人行儀だな。お兄さんには子どもがいるんだろ? お姉さんとは笑った顔が似てるから、二人、夫婦かなって思ったんだけど……」
にこやかに商品を渡していた店主がネロと私を指さしながらさらりと伝えてきたことに耳を疑った。
家族? リケと、それからネロが……?
「ちが」
「家族じゃないですよ」
ほとんど反射だった。私が否定したい、その気持ちだけをバネにした。
「お子ちゃまっていうのは、この子のことで。みんな血の繋がりはないんですけど、今は訳あって同居しているんです。私は楽しいから、家族みたいに見えたって言われて嬉しかったです」
リケの方を見やると目が合った。驚きでまあるくなった目でぱちりと瞬きをして、すぐにキラキラの笑顔になる。
「家族かどうかなんて考えたこともなかったです……。でも、賢者様やネロやミチル達と一緒にいられて楽しいことはわかります」
「そうだったのか。変なこと言って悪かったな」
ごめんよ、と軽く謝ってから、また来て、と人好きのする笑顔を見せた店主に、また、と伝えたネロは、私たちと目を合わせて微笑んでから、背を向けて前に進んだ。私も店主に一礼して、リケと一緒にネロを追いかける。追いついても、横並びにはならない。
彼をそっとしておきたかったし、距離をとっていたかった。そして、それと同じくらい、彼がどんな顔をしているのか、知りたい気もする。でも、実際には行動にしない。
ネロの後ろに、リケとふたり、横並びで歩く。
「家族……」
隣でリケが形をなぞるようにつぶやくのが聞こえた。前を向いてじっと考えている。
リケにとって、魔法舎は根を下ろしたいと心から思える場所ではまだない。だから、「楽しいから家族みたいなもの」だという私の感覚だって、当然、リケ自身にしっくりきているわけではないのだろう。
私は、今のリケが感じる分だけ、「家族」という言葉に近付いてくれればいいな、と思った。
「今日のオムライス、楽しみですね」
「はい!」
迷いない返事に嬉しくなって、胸がきゅんとなる。
そして同時に、無視しようと気を張っていた心臓の高鳴りが、急に耳にうるさく感じてきた。微かに手が震えていることにも気付いて、慌てて片手でもう一方の手の甲を覆う。
——笑った顔が似てるから、二人、夫婦かなって思ったんだけど
お店の主人の屈託ない笑顔がよぎった。
温かな家庭に縁遠いというネロに「違う」と言わせたくなかった。一瞬だって寂しいことを考えてもらいたくなかった。
これは本当。でも、それだけじゃないし、それが一番の理由でもない。
似ている、夫婦かと思った、そう言われて嬉しくて落ち込んだ。
ネロの子ども、という単語に、一瞬、小さな空色がこちらに微笑みかけるところを想像し、ずっと幸せでいてほしいと思った。
そして、そういう気持ちを持ったままネロから「家族じゃない」と否定されるのが嫌で、自分から否定した。
前を歩くネロは、変わらず背中を私たちの方に向けている。
やっぱり、暫くそうしていてほしいと思ってしまった。ネロのためにネロをひとりにしたいといつも考えていたはずなのに、今はその自分の思いまでも利用している気さえする。
「そういえば、」
リケが、道端に咲く小さな花に今気づいたかのような気軽さで、ぽつりとこぼした。
「教団では、『この人のために傷ついてさえ差し出せると思えるのが家族の素晴らしさだ』と教わりました。賢者様もそう思いますよね?」
「リケ……」
澄んだ瞳でこちらに問う彼に、すぐに答えを用意できなかった。
私は、さっき、傷つくことを選んだのかもしれない。
でも、それは自分のためだ。
だったら、これはリケが言うところの無垢な愛情ではないんじゃないか。
ううん、百歩譲って、本当に家族ではないのだから、これは、家族ではなく友人である私たちに許される、怠惰をみとめた愛なのか。
そんなわけない。
こんな身勝手な、一方的な、刹那的な、後ろめたい、ひた隠しにしておきたい。
あぁ。
私は、私のために、彼の傷を負うふりをしてしまった。
これはきっと、
Episode.6 断ち切り鋏
潰れて何年も経った洋裁店で夜な夜な鋏が舞っている、という「相談事」がきっかけだった。
「お、俺、見失っ、ちゃって、それで、」
しゃくりあげるクロエの声が遠くで聞こえた。
温めておいた鍋に、ラードを薄くのばす。ジュー、と好い音がするから、底に満遍なく行き渡るように、鍋を回し、へらで伸ばし。
「クロエのせいではないよ。僕たちもいたのだから。ひとりですべてを背負おうとしないで」
クロエの優しい師匠——ラスティカの声もした。油のはねる音、鍋をコンロに戻す音、へらを鍋の底にあてる音、全部かいくぐって。
油が焦げ付く前に、一口大に切りそろえた材料を入れて、炒めていく。
メスのオアシスピッグ、火炎じゃがいも、西の二股ニンジン、ラプンツェル豆。順番に、いつもの手際で。
「でも、賢者様が」
ラードがそれぞれに馴染んだら、最後に、材料がかぶるくらいのお湯を入れて、煮込んで。
「幸い大事には至らなかったのですから、もう泣かないで、クロエ。あなたのルビーが悲しみの涙で輝いても、喜ぶひとなんかここにはひとりもいませんよ」
「ひとりも? それって本当? こんなにキラキラしてるのに?」
ムル、と宝石商をたしなめるシャイロックの静かな声まで拾ってしまう自分の耳が疎ましい。
鍋を放置しておかねばならない時間、手持ち無沙汰が嫌で、今まで使った調理器具を洗っていく。
まな板、ボウル、へら、包丁。丁寧に泡を立てて、汚れを隅々まで落として、それから洗い残りがないように水で……。
次を求めてさまよった手が、行き場のないままシンクに落ちる。もう洗うものなどないのだ。気休めで一品作っていただけだったから。
「ネロ」
背後から声がかかった。振り返りながら、水を止め、魔法で食器類を乾かし、棚に収納する。
「先生……」
ファウストだった。
「あ、小腹空いた? ちょっと待ってな、いま用意するから」
「いや、空いてはいない」
ありがとう、と言いながらこちらに近付いて来るファウストは、ストッカーに手を伸ばそうとした俺を静止するように、片手を振った。
「そろそろ目覚める頃だとフィガロから聞いた」
誰が? そんな白々しい質問をする気は起きなかった。
「知らせに来てくれたのか。わざわざありがとな。ついでに、これ、持ってってやってくんね? 丁度出来上がるんだ」
ストッカーに触れようとしていた手をスープボウルに伸ばし替え、盛り付けのために調理台に置く。
程よく煮えた鍋に嵐塩を二つまみ。ポトフが完成した。
「きみねえ……」
はあ、とため息を漏らしながら俺の隣に立ったファウストは、魔法でトレーを呼び寄せる。
「賢者の次は僕を使って食事を運ばせようとするつもり? またすぐに後悔して謝ったって、僕は許さないからな」
「は⁈ なんで先生が知ってるの⁈」
賢者さんにファウストの食事を運ばせようとしたことがあった。それをまさか本人に知られていたとは。
「僕へのバスケットを持った賢者とおまえが立っていたんだ、大体予想がつくだろう」
(こわ……)
「口に出ているけれど」
「悪ィ……」
じい、とこちらをサングラス越しに睨む瞳は、呆れとか諦めとか、そういう生ぬるい温度も宿し、さほど厳しい色をしていない。それでも、それから逃れるように、鍋の中へと視線を戻した。
ボウルに出来立てのポトフをよそう。温かな湯気や香りが目と鼻に染みるみたいだった。
トレーにスープボウルを乗せる。そして、スプーンは魔法で運んで。
「どうしてもと言うなら、僕がやる」
コトン、と静かな音を立ててスプーンがトレーに着地するのと同時に、ファウストが言った。
はっと顔を上げれば、身体の真正面をこちらに向けた先生の綺麗なアメジストに見据えられる。
紫水晶。こちらの気持ちを映し出すように、そこにひとりの男が浮かんでいる。不安に揺れる頼りない顔。
嘘がつけない。
俺は大事な場面でそう考えることが多い人生を歩んできていると思う。
「……やっぱり、俺が持ってってもいい?」
「最初からそう言っているじゃないか。冷めないうちに持っていきなさい」
ごめんな、ありがとう。そう返したら、謝ったって許さないと言った、と応えた先生の瞳が優しく笑った。
*
コンコン、とノックをした部屋の中から聞こえたのは、はぁい、と間延びする男の声だった。はあ、とひと息ついてからドアノブを捻る。
「ネロか。丁度、賢者様の目が覚めたところだよ」
「ネロ、わざわざすみません。ありがとうございます」
フィガロからの診察を受けていたのか、ベッドの上で身体を起こしている賢者さんとすぐに目が合った。
顔色は想像していたよりもずっといい。きっと、フィガロにシュガーをもらってゆっくり休んだのだろう。外傷はないとの噂は正しそうだということもすぐにわかった。
目を引く一点を除いては、いつもとさほど変わらない「賢者さん」だ。
「調子どう? もし腹が減ってるなら、と思って持ってきたけど、食べられなくてもいいから」
「あの、」
ぐう、とやや大きめの音がした。すぐにさっと顔を赤らめた賢者さんの腹の音だ。
くすりと笑ったフィガロが賢者さんの頭をひと撫でして、椅子から腰を上げる。
「もう大丈夫だね。食事もいつもどおりで問題ないよ」
そして、部屋の扉を閉めたっきり移動していない俺の方を一瞥し、すぐに賢者さんの方に向き直った。
「賢者さんが目を覚ましたって、他のみんなに伝えてくるね。焦らず食べるんだよ」
にこり、と笑った表情を崩さぬままこちらに足を運ぶフィガロから目を離せなくなった。同時に、黄緑色の光彩に射抜かれる。たまらなくなって視線を外した。
(やっぱり怖えよ……)
お互い、していることは何一つ間違っていないはずなのに、こちらばかりが冷や汗をかかされている気分になる。
「じゃ、ごゆっくり」
「ああ……」
「あ、そうだ」
ドアノブに手を掛けたフィガロが振り返る。どきりとした。
「髪、後で切り揃えるか伸ばすかしてあげるから、もし必要なら声を掛けてね」
綺麗に笑った彼に、賢者さんが「ありがとうございます」と返事をする。それを聞いてまた扉に向き直るフィガロの瞳が俺を写すことはなかった。
パタン、と軽い音で、腹では何を考えているのか最後までわからなかった「南の優しいお医者さん」が扉を閉める。
そして、部屋には賢者さんと俺だけが残された。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
いつものように「いただきます」から始まった賢者さんの食事は、変わらず、穏やかに終わった。
温かいものを口にしたからか、顔色が先ほどよりも更に良くなっている。もう大丈夫だと、誰が見てもそう思うだろう。
「どういたしまして」
言いながら、賢者さんの手元の食器を預かった。これで、この部屋にいる意味は、もうない。でも、予想外の加害を受けたばかりの人を相手に、食べさせる目的だけを果たして「はい、さようなら」なんていうのは、いくらなんでも冷たすぎるだろう。いかにも不自然だ。
「あー、大丈夫? ……では、ないか」
大丈夫だ、と思ったばかりのはずなのに、変な質問をしてしまった。
「大丈夫ですよ。心配をかけてしまってごめんなさい。髪はこんな中途半端に切られちゃいましたけど……。でも、魔法を使ってすぐに直してもらえそうなので」
こういう時に魔法が使えると便利ですねえ、切りすぎた前髪を気にしていた高校生の頃にも使えたら良かったのに、なんて軽くおどけてみせる賢者さんの眉は、困ったように下がっている。
「そんなこと、言わなくていいよ」
はっと息をのむ音で我に返った。
「いや、その、切られたことだけじゃなくてさ、直るとか直らないとかじゃなくて、怖かっただろ?ってこと」
訂正するたびに深みにはまっていくようだ。確認してどうする。言わせてどうなる。ただ、あの顔は居心地が悪いから見たくないだけなのに。
「……怖かったです」
ずきんと胸が痛んだ。困ったような笑顔は消えたけど、代わりに顔の曇りが増している。結局、彼女の傷を抉って、その上、そういう自分にも立派に傷ついて、それでも近づけなくて。こんなの、
「髪、元通りにするの?」
耐えきれなくて、会話の照準をほんの少しずらした。
「うーん、迷ってます。いっそのこと切っちゃってもいいのかなあって。任務に行く時にも短い方が便利かもって思っていたりしたので」
そう言いながら、賢者さんは肩あたりでぶつ切りにされた左側の毛先をもてあそぶ。
「こっちに来てから、まだ美容院にも行ってなかったですし」
「びよういん……」
「あっ、髪を切ってくれるお店です」
「ああ、それなら聞いたことある」
魔法使いは髪を切らないですもんね、と彼女は微笑む。
「髪を切ってもらっているところを鏡越しに見るだけで、なんだか気分がスカッとするんですよ。人に髪を洗ってもらうっていうのも気持ちがいいし。そうだ、フィガロに頼むのもいいけど、美容院に行くのもありかも」
きっと中央の国にも髪を切れるところはありますよね、カインなんか詳しそうですよね、聞くならカナリアさんの方がいいかな、後で話しかけてみよう。と独り言ともつかぬ速さで口にしていく賢者さん。ずっと、自分の手元を見つめたままだ。
「……確かに、気分転換もいいかもな」
「そうですよね! 今日の午後、早速出かけてこようかな。あ、でも、こんなちぐはぐな髪で出かけるのも……」
まだ長いままの右側と、短くなった左側を見比べている。結わいても不自然さが残るに違いない。
「店で切るなら、そっちも短くしてから行ってもいいんじゃない?」
「なるほど……!」
その手があったかと言わんばかりに輝く瞳とようやくしっかり目線が合った。
「……ありがとうございます、ネロ。話を聞いてくれて」
幾重にも色を重ねた深いアンバー。それが一瞬揺らいだようにも見えた。でも、きっと気のせいだ。
「これくらいなら、なんでもないよ」
聞くだけなら誰にだってできることだからさ。そう心の中で続ける。彼女が「違う」と言ってくれることなんてもう分かりきっているから。
「じゃあ、」
「あの、ついでで申し訳ないんですけど……」
「なに?」
部屋を出るのにちょうどいい頃合いか、と思って立ち上がろうとした時、意を決したような真面目な瞳で呼び止められた。
「髪を整えるの、少しだけ手伝ってもらってもいいですか?」
「え」
「後ろのところを、ちょっと切るだけ」
「ええ……。ひとの髪切るなんてやったことねえけど……」
「大丈夫です、後からちゃんとお店の人にやってもらうので! 長めにえいっと一思いにやってくれればいいので!」
「一思いって、あんた……」
「後ろは自分じゃ見えないから……。お願いします」
そう言って頭を下げたから、賢者さんの表情は見えなくなってしまった。でも、声で、力の入った小さな肩で、ぎゅっと握られた拳でわかる。泣きそうなくらい、真面目で、真摯で、切実なお願いごとだった。
どうして髪を切るくらいでそんなに真剣になるのか、どうして俺なのか、理由はきっと話してくれないだろう。いつもの彼女であれば、打ち明けられることなら先にそうしているはずだ。
だから、俺には選択肢がない。
「わかったよ」
首を縦に振る以外には。
「じゃあ、ほんとに切るけど、いい?」
「お願いします」
昼過ぎののどかな陽光が部屋に満ちていた。シャンデリアの装飾のガラスが集めた光が、七色の粒を床や天井、壁のあちこちに落としている。時折揺れて、流れ星みたいだ。卓上鏡の中で緊張している賢者さんとの対比もあわせて、今まで六百年弱生きてきた中でも見たことがあまりない部類の景色で、なんとも言えなかった。
鋏の持ち手に、ゆっくりと力を入れていく。
魔法の方が思いきりよく短くできるだろうが、こういうのはやっぱり道具を使った方がいいんじゃないか。なんとなくそんな気がしたから、賢者さんに借りた。
ちょり、と音がして、端っこから髪が切れていく手ごたえがする。
ちょりちょり、と続く、そのとおりに、視界でも、俺の手から次々に自由になっていく短い髪が、重力にしたがって賢者さんのうなじに戻っていった。手元の髪の重さが、どんどん軽くなっていく。そうして、
チョキン
ついに鋏を入れ終えた。
「はい、おまちどうさん。脇は自分でやるんだっけ?」
「ありがとうございました。見えるところは自分でできるので大丈夫です」
切れたのはここに入れてください、と紙袋を渡されたので、誰かに拾われないようにと灰にしながら底にそっと置いた。
もしかしたら泣いたりするんじゃないかと気にしていたけど、切り終えた後の賢者さんは存外「普通」だった。むしろ切る前の方が、真面目な一方頼りなさげでどうしようもなかったくらいだ。「どうして」は杞憂だったかなと思った。
髪を整えて出かける準備をするので、という言葉を背に、ごく自然な流れで部屋を出る。眉の下がっていない、きれいな笑顔が印象的だった。
扉を閉じて、一歩。そこで、
「ネ、」
明るい廊下、震える呼び声が微かに聞こえてしまった。
はっとして振り返る。でも、扉はもう閉じてしまっている。
シャンデリアの作ったプリズムの流れ星が、いくつも目の前をゆらゆら揺れて、そして消えた。
——一緒にスープを飲んでください。
——友達になってください。
——よく眠っていたから、バレないかなあって思ったんですけど。
——定期的に賢者の好きなメニューが並ぶ日があるだろ。
——笑った顔が似てるから、二人、夫婦かなって思ったんだけど。
どれだ、
——もう二度と、簡単に焦がれたりなんかしない。
どの繋がりが、ダメだった?
あの押し殺すような声の意味がわからないほど、短く生きてはいない自分が嫌だった。そして、その声を聴く前から賢者さんの変化に気付いていた自分も、一度は扉を振り返った自分のことも。
立ち止まってはいられない。すぐにそう思い、足を向けたのはキッチン。
(俺は東の料理人だった。今は、賢者の魔法使い)
確かめるように心の中で唱えて、夕食の準備にとりかかった。