秘密も 嘘も 歓びも一歩、足を踏み入れてすぐ、やけに暗い店だと思った。
人の気配はするけれど、店内を見回しても薄闇しかない。照明の位置が低くて、足元しか照らしていないからだと気づいた頃に、ウエイターと思しき男性から声をかけられた。
「いらっしゃいませ。お客様、当店は初めてでいらっしゃいますか?」
「あ、はい。あの、ここ営業してるんですよね?」
「もちろんでございます。ただし、携帯電話、スマートフォンをお持ちのお客様には、店内では電源をお切りいただくようお願いしております」
これは、えらく格式の高い店に来てしまったのかもしれない。
先に荷物をホテルに置いてきてて、よかった。そう思いつつ、慌ててスラックスのポケットからスマートフォンを取り出し、電源を切る。それを見届けてから、男性はそっと踵を返した。
「お席へご案内いたします。どうぞこちらへ」
落ち着いた滑らかな口調になんとなく安心して、誘われるまま彼についていく。
案内された席は二人用のボックス席だった。半円の二人掛けソファの両横は、完全に隣の席と間仕切りされている。しかも、添え付けの小さなテーブルにすら灯りが乗っていない。
よくよく目を凝らして周りを見ると、店内は同じタイプのボックス席のみらしい。わかるのはそれくらいで、自分が座るソファの色すら判別できなかった。
暗い、暗すぎる。これじゃあメニューも見れないんじゃあないか? もしかしたら、そういうのを置かないタイプの店なのかもしれないな。
なんて思っていたら、案の定だった。
「当店でのアルコールのご注文は、グラスビールと、グラスワインの赤と白のみでございます。ソフトドリンクは、冷たい烏龍茶でしたらご用意できます。ご注文は何にいたしますか?」
ああ、やっぱり。
おつまみなんかはないんですか、と訊ねると、ドリンクのみの提供になります、と丁寧に返された。ビールもワインも一杯千円です、チャージ料は不要ですが三十分にワンドリンクのご注文をお願いいたします。
滑らかな口上だが、相場の倍の値段だし、三十分に一回の注文を求める店なんて初めてで、思わず席を立ちそうになる。
でもまあ、一杯だけ飲むのにそんなに時間はかからないよな。それに、今から別の店を選び直すのも面倒だ。
座り直してビールを頼むと、ウエイターは軽く肯いて、音もなく下がっていった。
店内はやけに静かだ。複数の人たちが、囁き交わしあっている気配はする。けれど、どの会話もほとんど聞こえない。みんな、ギリギリまで声のトーンを落として話しているのだろう。
それがこの店のルールなのかもしれないが、いくら格式高い店でも、お客にそこまで求めるものだろうか。しかも、アルコールや煙草の匂いが極端に薄い。
なんとも奇妙で、居心地が悪かった。かといって今さら、やっぱり結構ですと店を出て行くのは気がひけるし、とにかく今夜は飲みたい気分だ。ひんやり冷えたビールをぐっと煽って、それからさっさと帰ってしまおう。
それにしても、暗い。店側としては高級感をイメージしてのことかもしれないが、もはや不安をあおるレベルだ。
なんとなく気持ちまで暗くなって、ソファに浅く腰かけたまま所在なげにテーブルの上を見つめていると、ふと、やさしくてやわらかい香りが鼻をかすめた。
こんな薄暗くて、いかがわしい場所に、ずいぶんと不釣り合いな、透きとおった匂い。……でも、ずっと前に、どこかで覚えがあるような……。
「あのぉ、相席、よろしいですか?」
おそるおそるとかけられた窺うような声に、思考が打ち切られる。慌てて視線を上げたが、暗すぎて顔はよくわからない。けれど、声の感じから自分と同世代の男性だろうことは察しがついた。
しかし、それにしてもボックス席で相席なんて、そんなことあるだろうか。満席ではないようだし、こんなせまい席に大の男がふたりっきりというのは、いったいどうなんだ。
いろいろと思うことはあったが、声をかけてきた相手の匂いがあんまりにもやさしくて、俺は少しだけ身体をずらして、どうぞと快諾した。
「ありがとう、よろしくね」
いえ、こちらこそ、と反射的に頷いて、はて、と首をかしげる。
よろしくね、とは? 相席だからって、いったい何をよろしくするのだろう。
「失礼いたします。お飲み物をお持ちしました」
俺が疑問をぶつける前に、先ほどのウエイターが来てしまった。
ありがとう、と隣の男が応じると、テーブルにグラスを置かれた音がふたつ。香りから、同席者はすでに白ワインを注文していたらしい。
「ごゆっくり」
ウエイターはそう言うと、するするとブラインドらしきものを下ろしていった。
えっ、ちょっと待ってくれ、これじゃあ、ほぼ個室じゃないか!? 座っているソファの足元にある照明だけでは、相手の顔もろくに見えやしない。こんなんじゃ、会話するにも落ち着かないぞ。どうしろっていうんだ。
「君、この辺の人じゃないでしょ」
俺の狼狽が伝わったのか、隣に座る男が可笑しそうに言った。
「あ、ああ、そうなんだ。友人の結婚式に呼ばれて都内から来て、さっき二次会が終わったところで」
「なのに、こんなとこで、ひとりで?」
揶揄うような声の響きに、苦笑が漏れる。
彼が暗に指摘したように、二次会が終わった後、半分以上は三次会に流れたし、三次会に行かない者はそれぞれ誰かと連れ立って抜けていった。
自分も数人に誘われはしたものの、それを全部断って、結局こんなよくわからないところで、知らぬ男と並んで飲むはめになっている。
「なんだか、ひとりで飲みたくてな」
軽くそう返したつもりだったが、相手は慌てたように腰を浮かした。
「あっ、あっ、ごめんなさいね? 急に俺なんかがお邪魔しちゃって……」
「いや、それは大丈夫だ!」
思いのほか大きい声が出てしまって、ハッと口を噤んだ。この静かな店では、たぶん騒ぐことは許されない。
俺が黙ると、彼は何も言わずにそっと腰を下ろしてくれた。
「すまない、大きな声を出して。俺が言ってるのは、その、本当にひとりきりって意味じゃなくて」
「……うん。ちょっとだけ、気晴らししたい気分なんだろ? ふふ、そんなら俺ほど適任なヤツはいないぜ。あらためて、今夜はよろしくな」
くだけた喋り方で、気を遣われたとすぐにわかった。相席を求められたときはドギマギしたが、実際は匂いのとおり、やさしいひとのようだ。
乾杯を促すように、彼がワイングラスを掲げるのが薄ぼんやりと見える。目が慣れてきたんだな。そう思いながら、俺もグラスを持ち上げた。
「こちらこそ、よろしく」
ビールと、白ワインと、彼のやさしい匂い。ああ、こういう「よろしく」なら、大歓迎だ。
この店に入る前に乾杯を交わした相手との憂鬱なやりとりを濯ぐべく、俺はうきうきと話しかけた。
「俺は、竈門炭治郎だ。君は?」
「かっ……えっ? それ、もしかして本名? しかもフルネーム?」
「もちろん」
「えええ……」
とりあえず名前から、と勇んで名乗ったら、どういうわけか彼は明らかに引いていた。
今夜の出会いを喜んだのは俺だけじゃないと思ったけれど、勘違いだっただろうか。いやそれにしても、狼狽えすぎでは?
慌てるさまが不審すぎて、じっと目を凝らして彼を見る。
俺よりいくらか小柄で、線が細い。ニット帽らしきものを目深に被っているのもあって、顔はよく見えなかった。かろうじて見えるのは華奢な首元と、グラスに寄せられた唇くらいだ。
俺の視線に耐えかねたのか、彼はそっとグラスを置いて身体ごとこちらを向いた。それから少し俯いて、「……えーと、俺は……ぜ、善逸、です」と、ぽそぽそと名前を教えてくれる。
「ぜんいつ、というのは下の名前か? 漢字はどう書くんだ?」
「ひぇぇ……めっちゃグイグイくるじゃん……! うう、そうだよ、俺の下の名前だよ。善意の善に、逸は……逸話とかの逸って漢字書くんだけど、わかる?」
「ああ、わかった、善逸か! すごく良い名前だな。俺は、炭に治すで炭治郎だ。あ、歳は? 俺は二十三だが、同じくらいか?」
善逸と名乗った男は、ものすごく戸惑っていた。匂いでわかる。
同年代だろうに、歳を訊かれただけでどうしてそこまで戸惑うのかはわからないが、きっと答えてくれるという謎の確信があって、俺は静かに返事を待った。
「年齢まで……? んん、君さあ、ここには暗黙のルールってのがあってさあ……っていっても、この店はじめてなんだからしょうがないかあ。あー、俺はね、二十四歳。君の、ひとつ年上だよ」
彼は諦めたようなため息を吐いて、そっとテーブルのグラスを手に取った。根拠のない予感が当たったことにホッとして、歳が近くて嬉しいと笑いながら、俺はビールをあおる。
「善逸さんは、よくこの店に来るのか?」
「さんはいらない、善逸でいいよ。ここにはまあ、月イチくらいかな。俺も都内から来てるクチだから」
仕事の関係でね。曖昧に濁しながら、善逸もグラスに口を運んだ。
何の仕事してるんだ、と訊いたら、それは内緒と笑われる。質問を躱されたのは初めてで、少し動揺してしまった。仕事の話はしたくないひとなのだろうか、申し訳ないことをしたな。
「すまない、いろいろ立ち入ったことを訊いてしまって」
「あー、いや、ううん、その……こっちこそごめん、あの、別にヤバい仕事してるとかじゃないから安心してね?」
おろおろした声で謝られて、こちらの動揺を悟った彼に、また気を遣わせたのがわかる。それが、よけいに申し訳ない。
困らせたのは俺なのに。人の心の機微に敏くて、やさしいひとなんだな。
「……俺は、パン屋の長男なんだ」
「っえ、ちょっ、ええ!?」
「家族経営で大きい店じゃないが、結構繁盛してるんだぞ。善逸、パンは好きか?」
「ぱ、パン、は好き、好きだけどぉ! いやもう、何なのおまえは……こんなとこで個人情報をダダ漏らしすんじゃないよまったく……」
飲みかけていたグラスをまた戻して、善逸はさっきよりずっと大きくため息を吐いた。わざとらしいけど、ちゃんと本気で呆れている匂いもして、ちょっとだけ笑ってしまった。
「笑いごとじゃないっつーの」
「はは、ひとにいろいろ訊ねる前にまず自分からと思ってな」
「真面目だねえ、炭治郎くん」
くんはいらない、炭治郎と呼んでくれ。
そう返すと、善逸は楽しそうに、くふくふと笑った。声も匂いもころころ変わる。きっと、表情もくるくる変わっているのだろう。
見えないのが本当に残念だ。笑っている顔はきっと、愛らしいに違いないのに。
会ったばかりの男にそんなことを思う、自分自身に困惑する。何でだかひどく喉が渇いて、俺は手元のビールを一気に飲み干した。
⚡︎⚡︎⚡︎
「お兄ちゃん、聞いてる?」
ハッと我に返ると、禰豆子がじとりとこちらを睨んでいる。
「あ、ごめん……聞いてなかった。ええと、何の話だっけ?」
もう! と頬を膨らませて、禰豆子はわざとらしく溜め息をついた。浮ついていた自覚があるので、何も言い返せない。
「だから、花子と六太の習い事の話よ。六太がね、お習い事したいって、桑島さんのところに行きたいっていうの。ほら、いつも行くスーパーに張り紙あるでしょ? たぶん、それを見たのね」
六太が、お習い事を。そうか、もう来月から小学生だもんな。
末の弟の成長にじんわりと感じ入りながら、自分が六太くらいのころからスーパーに張ってあった桑島剣道教室のビラを思い出した。
小学校の一年生から、六年間通ったあの道場。同じ町内にいるのに、もう十年以上ご無沙汰している。
「懐かしいなあ。桑島先生、まだ続けていらっしゃるのか」
「え? 桑島先生? うーん、私も詳しくは知らないんだけど、もうご高齢だからって引退されたみたいよ」
「へえ、ということは師範代が……」
懐かしさのあまり追憶にふけりかけたが、禰豆子の厳しい視線を感じて慌てて意識を戻した。
「ええと、それで六太が来月から桑島先生のところに通うのか?」
「桑島先生のとこ……というか、あそこの教室にね、うん。だけど、花子も行きたいっていうのよ」
「花子が!? 茂じゃなくてか!?」
予想外の名前が出てきて吃驚したが、禰豆子は平然としたものだった。
茂は興味ないみたい、と続けて、花子は前から行きたがってたのよねえと微笑む。
そうか、そうなのか。頷きながら思い出すのは、黙々と続けた素振りや激しい打ち合いよりも、あの道場で嗅いだ匂いが先にきた。
防具や剣道着の、むせ返るような匂い。年季の入った道場の床の、板張りの匂い。
鼻が利く俺は、試合前に道場全体から醸し出されるピンと張りつめた匂いが好きで、あの匂いを嗅ぐと自然と気が引き締まった。
それにしても、花子が剣道を習いたいなんて、意外すぎる。俺が通っていたころから女子の生徒はいたけれど、花子はもっと女の子らしいことに興味があるとばかり思っていたのに。
こんなことをいえば、そんなの時代錯誤よ、なんて禰豆子から呆れられてしまいそうだ。ここはおとなしく、口を噤んでおこう。
「いいんじゃないか。桑島さんとこならうちからも学校からも近いし、店のほうは竹雄もいるから、送り迎えはなんとかなるだろう」
「そうよね。私が連れて行って、お母さんがお迎えに行くようにすれば、上手く回せると思うの」
「ああ、送り迎えなら俺だって……」
午後の休憩時間に俺が送迎のどちらかを担えば、夕方の忙しい時間も上手く切り盛りできるだろう。そんな気楽さで名乗り出たつもりが、キュッと眉を寄せて睨み返されて語尾がしぼんだ。
なぜ、そんな顔を。思わず息を詰めると同時に禰豆子から、はあ、と深く息を吐かれて、なんとなく萎縮してしまった。
「お兄ちゃんは、もう少し自分の時間を持ったほうがいいよ」
「え?」
眉を寄せたままの顔をきゅっと上げて、禰豆子がそう言い放つ。年子の妹が、まるで歳上の年長者に見えた。
「働きすぎだっていってるの。お店のこと家のことばっかりで、自分のプライベートは何もないじゃない」
強い心配と、ほんの少し苛立ちを混ぜた匂いをさせた彼女の口調は、教師が生徒を諭すように引き締まっていた。
怒るというより叱るという感じで、どちらにしろこの歳になるとあまり縁がない。そのせいか、自然、背筋がピンと伸びる。
「お父さんの病気が見つかったときね、私すっごく辛かった。お父さんが死んだらどうしようって、そんなことばっかり考えて、毎日怖くて……でも、お兄ちゃんがずっと励ましてくれて、必死で家を支えてくれて、だから私も頑張れたのよ」
大きな目を潤ませてはいるけれど、その口調は凛としたまま、揺るぎない。
父さんの腹部に腫瘍が見つかったのは、もう十年も前の話だ。
早期に見つけられたから手術も上手くいったし、危惧していた転移もなかった。
五年間、再発しなければ大丈夫。そう医師からも太鼓判を押されて、無事、再発もなく、父さんが仕事に復帰してから何年も経つ。
それでも、当時の絶望感や無力感は、まるで昨日のことのように俺を苛んだ。
縁起でもないと怯えながら、万が一のことを考えずにはいられない、日々暮らしていくことすら辛くて辛くて、でも父さんや母さんの気持ちを思うとそんな弱音は吐けなくて。
家族全員で心を寄せ合って、励まし合って、だからこそ、あの苦しい時期をなんとか乗り越えられた。
自分も、家族の支えになれた。その自負はもちろんあるけれど、こうやって言葉にされると胸が熱くなる。
「だけど、今はお父さんも寛解して、お店も順調に回ってる。一番下の六太も小学生になって、前ほど手はかからなくなった。だから……お兄ちゃんも、もっと自分のことを考えて、自分だけの時間を持ってほしいの」
俺は、と反論しかけた声がおかしいほど掠れていて、続く言葉を飲み込んだ。
俺は、今の生活に不満はない。家族の幸せが俺の幸せだ。……けれど、禰豆子が言わんとすることはそういうことじゃあないんだろう。
心配、されているんだ。家の中だけ、店のことだけしか見えていない俺の視野を、広げようとしてくれている。
「お兄ちゃん、店休日だって茂太たちを遊びに連れていったりとか、そんなことばっかりで、もう何年もまともに休んでないじゃない。平日に休ませると家の仕事しちゃうし、ありがたいけど休みの意味がないってお母さん嘆いてたわよ」
張っていた声をやわらかくして、禰豆子がそっと俺の手を取った。久しぶりに触れた妹の手は記憶していたよりずっとしなやかで、彼女の成長に胸が熱くなる。
大切にしてきた家族が、大切に想ってくれている。その気持ちが、禰豆子のあたたかい手から直に伝わってきて、俺は素直に嬉しかった。
⚡︎⚡︎⚡︎
この店に来るのは、いつも日曜の夜だよ。
それが、連絡先の交換も次の約束もくれなかった男が残した、たったひとつの手がかりだった。
もちろん、何もないよりかはマシだ。
家族から突如突き付けられた、週に二日の休日。うち一日を、俺は彼を待つことに使うと決めた。
来店の曜日が決まっているのなら、時間帯も決まっているはず。あの店にいくのは月に一回くらいと言っていたから、毎週通えばいつかは会えるはず。
はずだ、はずだ、と前向きに計画していないと後悔ばかりしてしまいそうで、俺は着々と行動した。
毎週月曜に休みをもらい、日曜日に店を閉めてからすぐに家を出て、電車で一時間半かけて隣県の例の店に向かう。
店に着くのが夜の九時頃、はじめて会った日に善逸から声をかけられたのも、そのくらいの時間だった。
それから日付が変わるまでの三十分に一度、ドリンクを注文して、相席のお願いを断りながら彼を待つ。
おそらく店側からしたら迷惑客の部類に入れられているに違いない。まあ、入店拒否されていないだけありがたいと思おう。
どんなにポジティブに動いていても、会えない可能性を考えないわけじゃない。彼はもう二度とこの店に来ないかも、そう思ったことも何度もあったけれど、どうしても諦めがつかなかった。
会ってどうしよう、何を話そうというのはあまり考えていない。
俺はただ純粋に、もう一度、善逸に会いたかった。
四回目に訪れたとき、すっかり見慣れた店の扉の前に立って、すぐにわかった。
ふわふわとやさしくて、やわらかい香り。彼が、善逸が来ている。
勢いよくドアを開け、いつものように入り口でスマートフォンの電源を切って、案内を断り、まっすぐ彼の席へ向かった。
「すみません、相席よろしいですか?」
質問の体を取っているが、実際には了承など求めていない。彼が返事を寄越す前に、俺はその隣に腰を下ろした。
どうやら、声をかける前から相手が俺だと気づいていたらしい彼は、ほんのりと怯えを匂わせて身体を縮こまらせたけれど、そこに拒否の感情はないので良しとする。
「久しぶりだな、善逸」
「あー……うん、そう、だね。……久しぶり、炭治郎」
バツが悪そうな声。至近距離から覗きこんでも、前回と同じく、帽子を目深にかぶった彼の顔は相変わらずはっきりと見えなかった。この店は本当に暗すぎる。
それでも、彼が何を考えているのかは匂いに頼らずとも、よくわかった。きっと、あしらって躱したはずの男がここに居ることに辟易しているに違いない。
もちろん、悪いのは俺だ、彼じゃない。
その気持ちを込めて、善逸が謝罪を口にする前に俺から口火を切った。
「連絡先を交換しないのも、次の約束をしないのも勝手だが、手洗いに行くといってそのまま帰るのはさすがに酷くないか?」
「うぅ……ごめん」
しおしおと萎れた匂いに、苦く笑った。
こっちこそ、ごめん。暗くて見えないだろうが、彼に向って頭を下げると、萎れた匂いが、驚いた匂いに代わる。
「しつこくして、本当にすまない。善逸に、どうしても会いたくて」
「……おまえ、ほんとバカ真面目だなぁ」
ほのかに笑った気配がする。いや、唇がきれいな弧を描くのが薄っすら見えたから、確かに笑ったんだろう。
口元にきれいな笑みを残したまま、善逸はもう一度、俺に詫びてくれた。
「俺こそ、ほんとごめん。こないだは、なんていうか……連絡先を交換する勇気が、どうしてもなくて。でも、おまえぜんぜん引いてくれないし……いや、それでも、あんなふうに逃げ帰って申し訳なかった。反省したよ。そんで、もしまた会えたら、ちゃんと謝ろうと思って」
会えて、よかったよ。善逸のやさしい匂いに、俺はその場で崩れ落ちそうなくらいホッとした。
ひと月前、初対面だった俺たちはすっかり意気投合して、俺は当然のように善逸に次の約束を求めたし、連絡先も知りたいといった。
正直なところ、善逸も同じ気持ちだと疑いもしてなかったから、難色を示されたときのショックは自分でも意外なくらい大きかった。
――まあ、縁があればまた会えるでしょ、俺と連絡先交換してもいいことないよ。
そう言い続けた彼が、ただ控えめなたちなのか、やたらとネガティブなだけなのか、はたまたタチの悪い酔っぱらいだと認定されてしまったのか、俺には未だにわからない。
確かに、しつこくした自覚はあるものの、まさか逃げられるとは思ってもいなかった。だからって、こうして会えるまで店に通い詰めるなんてストーカーまがいのことまでするのはどうか、とは、自分でも思うが。
「炭治郎? 怒ってる、よね?」
「あ、いや、それはもう、別に……」
いつのまにか帽子を脱いだらしい善逸が、しょんぼりと俺を窺っている。
しつこいとか空気読めとか詰られるかもしれない、なんて俺にしてはめずらしく悪いことばかり想像していたから、怒るなんてとんでもなかった。
それよりも俺が目を奪われたのは、彼のそのきらめく髪だ。
彼の髪は薄闇の中でも目にとまるくらい、きらきらしている。
俺の視線に気づいたのだのか、善逸がわかりやすく首を傾げてみせた。
「暗いけど、見える?」
「あ、うん。善逸の髪、きらきらしてる」
「んふふ、そうなの。目立つ色だからさ、こういう店ではいつも隠してるんだけど……炭治郎は、特別な」
とくべつ。
その言い方がやたらと艶っぽくて、俺はドキドキしてしまった。
善逸は別になんともなさそうにテーブルのドリンクへと手を伸ばす。前回と同じ、白ワイン。その横の俺のビールは、もはやオーダーも聞かれずに持ってきてくれる。
俺もグラスを手に取って、乾杯するように少しだけ持ち上げた。それから、ぐっと半分ほどを一息に飲んだ。
会いたかった男との予想よりずっと軽やかな再会に、喜ぶどころか些か面喰ってしまっている。こんなふうに、お互いの非をおのおの詫びて、穏やかに仕切り直せるなんて思いもしなかった。
あの日、彼が断りもなく帰ってしまったとわかって、俺は相当落ち込んだ。
楽しかったのは自分だけだったのか、彼には迷惑だったかなどとくよくよ悩み、それでももう一度会いたいという気持ちを抑えきれなかった。
あんなふうに袖にされたからこその執着かもしれない。だから、一度でも会えれば憑き物が落ちるように、気持ちが落ち着くんじゃないかとも思った。だけど、実際はどうだ?
会いたかった、俺もだよ、しつこくしてごめん、俺こそごめんね。これじゃまるっきり、喧嘩したカップルの仲直りみたいじゃあないか。
動揺のあまり残りのビールも一気に飲み干して、カタンと音を立ててグラスをテーブルに置いた。
ちらっと目線を上げると、善逸のきらきらした髪が見える。暗いところでもこんなにきらめいて、陽の下で見ればどんな美しい色をしてるんだろう。
ぎしりとソファが軋んで、善逸が笑う気配が伝わってきた。どうした? と訊く前に、ぐっと身を寄せてられて、どきりとする。
「ね、……さわる?」
「さっ、さわる!? な、なに、に……」
「髪だよ、俺の髪。炭治郎、めちゃくちゃ見てくるからさ。さわりたいのかなって思って」
「うっ……め、めちゃくちゃ、見て……見てた、けど……気づいてたのか……」
店内の暗さに紛れていたつもりが、どうやら露骨に見すぎていたらしい。
恥じ入った俺の顔色まではさすがに見えないだろうが、善逸は声を出さずに笑っている。ものすごく恥ずかしい。
でも、善逸の髪はとても魅力的だった。
この暗さで正確な色味がわからないのが残念だけど、相当に明るい色ではあるだろう。それなのに、つやつやで、さらさらで、染めているような傷みがなさそうに見える。
「わ、ほんとにさわっちゃったの」
「え? ……あ」
驚いたことに、俺は自分でも気づかないうちに彼の髪を指先で梳いていた。
恥の上塗りということわざが浮かんでドッと冷や汗をかいたが、善逸が肩を揺らして笑ってくれたから、俺もつられて笑ってしまう。
「炭治郎てば手が早いんだねえ。それとも、もう酔っちゃってんの?」
「いや、ごめん、酔ってはないが……なんだか、恥ずかしいところばかり見せてしまうな」
慌てて手を引いたが、本音をいうと名残惜しい。もう一度、触れてもいいかな。迷う俺が動く前に、今度は善逸の手が伸びてくる。
「ぜ、善逸、あの……」
ひんやりした手のひらが、俺の太ももを撫でさすっている。あからさまに性的な手つきに息を呑んだ。
「ね、さすがにもう気づいてるよね? この店が、そういう店だって」
図星だった。
異常なほど暗くて静かな店内、メニューはなく提供する酒類も少なく、三十分に一度のワンドリンクオーダー制。満席ならばともかく、二人掛けのボックス席なのに、ひっきりなしに相席の声をかけられる。
ここは、ただのバーじゃない。そういう出会いを提供する場なのだということは、善逸に会うため通いだして、すぐに理解したことだった。
「ていうかさあ、炭治郎てノンケだよね? そもそも何でこの店来ちゃったの?」
「いや、たまたまというか間違えてというか、最初は本当に普通のバーだと思って……ノンケ? って何だ?」
そこからかよぉ、と善逸がわざとらしいため息をついてみせる。
「だからぁ、同性愛者か異性愛者かって話だよ。ちなみに俺はゲイ、同性愛者ね。ま、この店はゲイ専門だからさ」
ゲイ。同性愛。
なるほど、俺は本当にとんでもなく場違いなところに迷い込んでいたらしい。
「なんで俺がノンケだって思うんだ?」
単純に疑問だったのでそう口にすると、そんなのすぐわかるよゲイを舐めんなよ、と間を置かずに返される。
「実際、ノンケでしょうが」
そう畳み掛けられて、俺は唸った。
「ううん、どうだろうなあ……今まで誰とも付き合ったことがないから、よくわからない」
「えっ!? 炭治郎、カノジョいないの?」
善逸の言葉に、ムッと眉間に皺が寄ったのが自分でもわかった。
「悪かったな、童貞で」
「どっ……いやそこまで言ってないけど」
眉間の皺までは見えなかっただろうが、やけに低い声音に俺の不機嫌を読みとったらしい。善逸はしおしおと声を細らせた。
「ええと、ごめんなさいね? なんか地雷踏んじゃったみたいで……」
そっと俺の太ももから手を引いて、善逸は素直にそう詫びてくれる。しゅんと沈んだ匂いまでさせて、そんなの、俺の勝手な都合なのに。
「いや、怒ってないよ。こっちこそ、すまない。ちょっと……嫌なことを思い出して」
――やだァ、竈門くんドーテーなのぉ? その歳でェ?
やけに甲高い声でそう言い放った女性のキツい香水の匂いを思い出して、俺はまた落ち込んだ。もう先月の話だというのにいつまでも気にしたりして、我ながら情けない。
先月あった友人の結婚式は、本当に良い式だった。高校でも専門学校でもそれなりに友人はいたものの、卒業してからは店のことにかかりきりで、そんな不義理な自分を式に呼んでくれただけでもありがたい。披露宴では、久々にみんなと顔を合わせて笑った。
問題は、そのあとの二次会でのことだ。
途中まで披露宴の続きとばかりに楽しく飲んでいたのに、突然、新婦の友人とかいう女性が俺の隣りの席にきて、なんやかと話しかけてきた。しかも、なぜか執拗に酒を勧めてきたあげく、初対面で異性である俺にセックスの話を振ってきて、正直、閉口してしまった。
辟易した俺が、そういった経験がないので、と話を切り上げようとしたらあの言い草だ。思い返すだけで胃が重くなる。
「……俺、女性に縁がないのかもしれないな」
弱音とも愚痴ともつかないそれに、善逸が小さく笑った。
「何があったか知らんけどさぁ、そんな落ち込むなって。こんなに良い声と良いおと……や、ええと、そう、声が良い、男! 炭治郎、ほんっと良い声してるよ! だからさ、すーぐかわいいカノジョができるって」
やたらと声を褒められて、まあ、まんざらでもない。
「俺の声、良いかな」
「うん、すごく良いよ」
「善逸の声も良いよ、俺は好きだ」
「え、ぅえっへへへへ、なんだよう、不意打ちで褒めんなよう」
「変な笑い方だな」
「急に落とすなよ」
褒めたり貶したり、なんなんだよもう!
ぷりぷりと怒りながらグラスをあおる彼が可笑しくて、声を抑えながらくつくつ笑った。
善逸もしばらく笑っていたが、ブラインドの外からオーダー確認の声をかけられて、おんなじのお願いしますと慣れた様子で答える。
「……善逸は、何でこの店に?」
ウェイターが運んできてくれた二杯目のドリンクでもう一度乾杯をしてから、俺はおそるおそる訊いてみた。
あまりしつこくすると逃げられると前回学んだので、今日の俺は慎重だ。
「だって、カレシ欲しいし」
善逸は特に気にした様子もなく、あっけらかんと答えてくれた。
「ゲイの色恋はいろいろと難しいからねぇ。ま、ノンケにはわからんと思うけど」
なるほど、そうかもしれない。男性同士、女性同士の恋愛が異性愛者のそれよりずっと難しいであろうことは、経験のない俺でも想像できた。
「ノンケって決まったわけじゃないぞ」
線引きされたのがなんとなく面白くなくて、子どものように言い返す。
そうだ、俺は初恋もまだなんだから、異性が好きか同性が好きかなんてわからないのでは。ちょっとだけ、そう思いついてみただけだ。けれど、それを聞いた善逸が、じわりと身を乗り出してきた。
「ふぅん、なるほどねぇ」
「……善逸?」
じゃあ、ためしてみる?
耳元で囁かれて、次の瞬間、膝がズシリと重たくなった。何か、あたたかくて重たい何かが、膝に乗ってきている。
何か? 何かなんて、そんなの決まってる、善逸だ。
「えっ、あの、ちょっと……」
「炭治郎、ほんと良い声してるよ。すごく好きだな、その声。ね、俺の名前、もっと呼んでみて」
今まで耳にしたことがない、色を孕む声。耳朶に彼の呼気がかかって、こそばゆい。お互いの頬と頬はもう完全にくっついているし、それをいうなら胸も下半身も全部くっついてしまっている。
えっ、どういうことだ? 俺たち、密着しすぎじゃないか?
「ぜ、ぜんいつ……」
「ふふ、そうそう。ね、この店がどんな店かわかったのに、なんで俺なんか追いかけてきたの?」
「それは……」
「誰か、遊ぶ相手が欲しかった?」
「ちがう! そんな、そんなつもりはない。ただ、俺は」
「ちょっとだけ、淋しかった、とか?」
さみしい? ……それはあるかもしれない。
確かに、あのときは少しだけ傷心で、ほんのちょっと自尊心を痛めていた。
あの女性からの誹りもより、善逸に逃げられたほうが大きな痛手ではあったけれど、でもだからこそ、淋しいからってだれかれ構わずくっつきたいわけじゃない。
「善逸、俺は」
俺は、おまえに会いたかったんだよ。
俺の答えを遮るように、膝の上の男がゆるりと腰を揺らした。
「ねえ、俺とイイコトしようか」
「い、いいこと……?」
わかってるくせに、と善逸が笑う。俺の耳をくすぐってくる、声が甘い。
ああ、本当に、声が良いのは善逸のほうだ。
ゆさ、ゆさ、と揺れ続ける腰のせいで、ぴったりと合わさった互いの股間が擦れて、それだけのことがばかみたいに気持ちよかった。
は、は、と吐き漏れる自分の息がケダモノじみている。とてつもなく恥ずかしいのに、耳に吹き込まれる善逸の吐息が、俺の理性を塗り潰していく。
「は、っふ、ぅ……炭治郎の、ちゃんと勃ってるねえ……よかったぁ」
「ぜん、いつ……っ」
「ん、もっと……炭治郎の声、すごく好きだな。名前呼ばれると、ぞくぞくする」
善逸の匂いに堪えきれなくなって、ぐっと股間を押し付けた。
気持ちいい、気持ちいいけど、物足りない。こんなに他人と密着したのも、声を褒められたのも初めてで、頭がおかしくなっているのかもしれない。
「ぜんいつ、善逸……」
「ん、ふふ……炭治郎の、熱いね」
絶妙な位置でゆるゆると揺れる身体のせいで、下半身が重くなる。はあ、はあ、と荒い息が重なって、キスをしたいと無性に思った。したことはないけれど、きっと彼となら眩むようなキスができる……気がする。
でも、出会ったばかりでそんなことを求めてしまったら、また逃げられてしまうだろう。会いたいのに会えない、あんな狂おしい思いをするのはもうごめんだ。
歯を喰いしばって気持ちいいのをやり過ごしながら、俺は善逸の首筋に顔を寄せた。眩む甘さを纏わせた彼の香りは、俺の熱を上げるだけだった。
⚡︎⚡︎⚡︎
「あれ、花子と六太は?」
「お習い事。もう少ししたら迎えに行くわ」
「ん? 習い事の日は火曜日じゃなかったか?」
カレンダーで今日が土曜日であることを確認しながら、首を傾げる。禰豆子は長い髪を手早く結いあげながら、そうそう、と頷いた。
「今日はね、練習しに行ってるの。午前中の練習枠が取れたから。土曜の枠はいつもいっぱいなのよ、ラッキーだったわ」
「練習? 自主練の枠?」
はて、俺のときにそんなものあっただろうか。自主練は基本的に自宅でするものだったような。
釈然としない俺に、禰豆子は現在の習い事のシステムを丁寧に教えてくれた。
昨今の家庭事情、住宅事情を鑑みて、自宅での練習が難しい生徒のために教室の半分を無料で開放してあり、利用したい生徒は事前に予約する決まりなのだとか。
しかも、土曜日の午前中は人気枠で、なかなか予約がとれないらしい。
「それはまた……ずいぶんと親切な……」
俺が通ってた頃の師範代は口より先に手が出るタイプで、昨今の家庭環境を考慮するような人には見えなかった。
自分にも厳しい人ではあったが、試合に負ければ弱者とみなす居丈高なその態度を、勝ち負けがすべてではないと桑島先生からたしなめられていた記憶がある。
指導が厳しすぎて泣き出す生徒もいたから、兄としては幼い六太や女の子の花子を通わせるのが心配だったくらいだ。
「獪岳先生、変わったなあ」
しみじみそう呟くと、ひょこっと台所から母さんが顔を出してきて、にっこり笑った。
「獪岳先生といえば、何年か前にご結婚されたらしいわよ。もう、お子さんもいらっしゃるんですって」
「け、結婚!? 獪岳先生が!? ……ああ、いやまあ、そうか、俺のときに高校卒業したばっかりって話だったから……」
今はもう三十半ば、結婚して子どもがいてもおかしくはない年齢だ。
獪岳先生と聞いて思い出すのは、眉をつり上げた険しい顔と見たまんまの厳つい匂いばかりで、誰かと家庭を築いていく姿なんて想像できない。けど、歳を重ねて伴侶を得て、いくらか丸くなられたのだろうと思えば、今の剣道教室の運営が良心的なのも肯けた。
「じゃあ、迎えに行ってくるわね」
「うん、いってらっしゃい。ああ、先生に……よろしくお伝えしてくれ」
お祝いの言葉を言付けようとして、やめた。
どうせ祝うのなら直接伝えたほうがいい。今のところ送迎で出向く予定はないが、ご近所なんだし、そのうち会うこともあるだろう。
はぁい、と間延びした返事をしながら、禰豆子はちらりと俺を見た。
「お兄ちゃん、明日も出かけるの?」
どきりと心臓が跳ねて、一瞬、声が詰まった。なんとか捻り出した答えも、ああ、とか、うん、とか、あいまいなもので、あからさまに目を泳がせてしまう。
別に何もやましいことはない、はずなのに、禰豆子と視線を合わせられない。
「ふぅん、そう」
禰豆子の声音は不審げでも訝しんでもなく、淡々としたものだった。俺が勝手に背中を冷やして、焦っているだけだ。
「あー、じゃあ俺、店に戻るな。車に気を付けて」
歳近い妹の顔を見ていられず、おざなりな見送りの言葉をかけて、俺はそそくさと店の厨房に引っ込んだ。なぜだか話しているあいだ鼻の奥をくすぐっていた善逸の香りが、パンの匂いでうやむやになる。
それがひどく淋しくて、こんな居たたまれない気持ちになっているのに、彼に会いたいと強く思った。
⚡︎⚡︎⚡︎
善逸は、頑なに連絡先を教えてくれなかった。
彼からは俺と同じ、明らかに心惹かれている匂いがするのに、その頑なさに納得がいかない。身体を密着するような触れあいをしているのだから、なおさらだ。
とりあえず、次に会う約束はしてくれたのでその場はしぶしぶ引き下がったが、不満が伝わったのだろう、善逸は困ったような声で俺を宥めた。
「俺たち、まだ会ったばっかじゃん」
だからなんなんだ、こんなにも互いに好意を向け合っているのに、俺がはっきりと気持ちを口にすれば、もっとおまえに近づけるのか?
喉元まで出かかった台詞を、ぬるいビールとともに呑みこんだ。
苛立ちまじりに吐き出してしまえば、善逸はきっと次の約束も反故にしてしまう。会うのはまだ二度目だが、彼にそういう臆病さがあるのはもう理解していた。
わかった、じゃあまた来月、ここで。
地を這うような声を出しながら、この我慢が次に繋がるんだと自分自身に言い聞かせる。善逸から嘘の匂いがしないのだけが救いだった。
逢瀬の場に使われるのは店側としても迷惑だろうが、俺としてもいろいろ不満もあることだし、一杯千円もするビールをできるだけ消費するので、目をつぶってほしいところだ。
約束の日曜日、善逸は約束の時間ぴったりにやってきた。
「相席、よろしいですかぁ?」
「もちろん」
よろしく、と笑いを含んだままちょこんと隣に座る彼の腰に、すぐさま腕を回した。
愛想を引っ込めた善逸が何事かいう前に、ウェイターがいつものドリンクを持ってきてくれて、ハキハキと礼をいって下がってもらう。
「……ちょっと、なに、この手」
ブラインドが下がったタイミングで、善逸がむすくれた声を上げた。不満げな物言いだけれど、まんざらでもなさそうな匂いに少し浮かれる。
「こないだみたいに、膝に乗ってほしい」
「いきなりかよ、どこのエロおやじだよ。ゆっくり話がしたいんじゃなかったのぉ?」
「膝に乗られても話はできる」
そう豪語してみたものの、嘘ではないが、微妙なところだ。
こないだのように密着されると、彼の熱と匂いで、たぶん話をするどころじゃなくなるだろう。けど今は、一刻も早く善逸との距離を詰めてしまいたい。
「ふーん? ま、いいけどぉ」
乗り気じゃなさそうな相槌を返しながら、ゆっくりと膝に跨ってくる。呆れた口調なのに少し緊張している匂いをさせていて、そこもすこぶる愛おしい。
向き合って座ってくれた善逸の帽子を取ると、きらきらした髪がこぼれてきた。それと同時に彼自身の香りも強まって、深く息を吸い込むのをなんとか堪える。
「おい、勝手に取るなよ」
「ん、ごめん……善逸、会いたかった」
会いたかった、すごく会いたかった。
ぎゅうぎゅう抱きしめながら必死になって気持ちを伝えようとしても、自分の口から溢れて出てくるのは同じ言葉ばかりで、しかも相当に陳腐だ。
もっとスマートに迫りたいのに、経験値がないせいか、性格のせいなのか、どうにも上手くいかない。そんな自分が歯痒いかった。
「……ばかだなぁ、俺なんかに、そんな」
「俺なんかって、なんだ。おまえだから会いたいのに」
善逸が、静かに息を呑んだ。
こんなに焦がれていても、俺の気持ちを正面から受けてはくれない。彼のやわい匂いにはいつも自己否定の色が混じっていて、強い気持ちを向けると怯んでしまう。
だから、押しすぎてはダメだ。もっと、ゆっくり、やさしく。
「……ぜんいつ」
暗く沈んだ空間に薄っすらと浮かぶ顔の輪郭を、指先でゆるくなぞった。冷えた頬を手のひらで包んで親指の腹で唇を撫でると、善逸の背中がふるりと震える。
親指の下で、やわらかい唇がそろりと開く。温く濡れたものが軽く触れてきて、ぐわっと頭に血が上った。
指先を口の中に潜り込ませると、今度ははっきりと舌が這う。じっと目を凝らしても、俺の親指を舐るさまを目で捉えられなくて悔しい。
ちろ、ちろ、と控えめに舐めてくる、その覚束なさにやたらとそそられた。
大胆なことをしてくるくせに、へんなところで恥ずかしがるんだな。
くっと深く挿しこむと、ちゅう、と小さく音を立てて吸われた。本当に、たまらない。
「……炭治郎の爪、短いね。パン屋さんだから?」
「ああ、生地をこねるときは手袋をするんだけど、やっぱり短いほうが衛生的だから」
何の話をしているんだか。濡れた指先がさみしくて、また彼の唇に親指を這わせる。
「善逸も、爪が短いよな」
握りこんだ手の、まるっこい指先を思い出しながら、会話を続けた。ほかのことに意識をそらしていないと、この場で押し倒してしまいそうだった。
「ん、俺も職業柄、ね」
「職業柄? ……仕事、何してるんだっけ?」
蕩けかけていた思考に、ぐんと理性が戻ってくる。善逸の謎めいたプライベートに触れた手ごたえがあって、別の意味で興奮してしまった。
「えっと、……ないしょ」
さりげなく訊いたつもりだったけれど、下心を気取られたらしい。
ハッと我に返ったらしい彼が、また硬い殻に潜ろうとしている。でも、俺だってこの機を見過ごせない。腰に回した腕を強めて、より身体を密着させながら、善逸の耳元でささやいた。
「どうして? 仕事くらい、いいだろう。……探したりしないよ」
本当だ、知り得た情報で彼を探してまわったりするつもりはない。そもそも、もう逃がす気がないからだ。
善逸はちょっとだけ黙り込んだ後に、ぽつりと洩らした。
「楽器、弾いてるの」
「楽器? 何の?」
「ないしょ」
今度の「ないしょ」は、頑なだった。これ以上は何もいわないと強張った匂いがする。
内緒にしててもかまわない、いつかはすべて知りたいけれど。そう返す代わりに、彼のつやつやした髪をまさぐった。少しだけ緊張していた身体が腕の中でゆるゆるとほどけていって、俺の思考もまた蕩けていく。
「――音楽家、なのか?」
蕩けながら、ふと思いついてなんとなく口にした。
「んー、まあ……広い意味でいえば、そうなるかなあ」
善逸の口調はその身体と同じくほどけていて、そう応じてしまってから、すぐ慌てて口を噤んだ気配が伝わってくる。
口を滑らせたな。
聞き流したふりをして善逸の背中をのんびり撫でつつも、つい口元が弛んでしまった。彼のことをいくらかでも知れたこと、そして何より彼が少しずつ気を許してくれつつあることが嬉しい。
「……炭治郎の手、あったかいな」
ゆっくりとまた声をほどけさせて、善逸がしなだれてくる。緊張と怖気の匂いをさせながら甘えてくるから、なんだか切なくなった。
あんまり、ひとに甘えなれてないんだろうか。俺なら、いくらでも甘やかすのに。もっと、甘えて欲しいのに。
「パン屋だから、手があたたかいんだ」
「んっ、ふ、ふふ、なにそれ。そんなの、はじめて聞いた」
「俺も、はじめて言った」
ふふ、ふふふふ。他愛ない会話なのに、密やかに笑いあうと互いの吐息が混ざって、空気が濃く感じる。こんなに近いのに顔すらはっきり見えない暗さがもどかしい。
「ぜんいつ、くち、つけたい」
「……いいよ、っん」
ダメだと拒まれていたら、どうしただろうか。
彼の唇を食むように口づけながら、拒まれても止まれなかったかもなと妙に冷静に思った。だって、匂いがこんなにも甘い。抗えない甘さだ。
唇のやわらかい感触も、直に薫る強い匂いも、俺の我慢をぐずぐずに溶かしていく。
口をくっつけあうだけでこんなにも興奮するのか、これ以上ふれたらどうなるんだろう。
彼の耳朶をふにふにと揉みながら、少しずつ熱を上げる彼の唇に欲情して、その唇をべろりと舐めた。
「ん、……ふ、ぁ」
どっ、と全身の血脈が跳ね上がる。
艶のある吐息、それが自分のために、自分に向けて漏らされているというのに、ものすごく興奮してしまった。
薄く開いた唇のなかに舌を挿し入れたのは、もう無意識だ。くち、くちゅ。淫らな水音にさらに欲を煽られて、強くなる善逸の匂いになけなしの理性が揺らぐ。
「ぁ、っんぅ……ん」
「っは、ぜんいつ……っ」
こうやって他人とぬくい粘膜を擦り合わせることに、何の抵抗がないのが不思議だった。
それどころか、全然足りない。唾液を交じらせて、混ざらせて、啜って、彼の舌をしゃぶって、吸って、とろとろに溶け合いたい。
舌を絡めあうキスなんて、もうセックスと同じじゃないか?
「っ、ふ、たんじろ……っ」
息継ぎの合間に名を呼ぶ吐息に、心が焦がされていく。
腹の底に渦巻く熱を吹き付けるように、俺も善逸の名前を呼んだ。
⚡︎⚡︎⚡︎
「弾くときに爪を短くしてないといけない楽器って、何があるかな?」
「ピアノでしょ」
ひとりごとめいた問いかけにズバリと回答が返ってきて、俺は思わずソファから身を起こした。禰豆子は手元のスマートフォンに視線を落としたままだ。
「えっ、あ、ピアノ! そうか、なるほど……」
「まあ、楽器全般がそうだとは思うけど。昔、習ってたピアノの先生は、爪は短く、まるく、って口癖みたいにいってたわね」
顔を上げながら手の甲をかざして、「いまだに、つい短くしちゃうのよねえ」と禰豆子はぼやいた。細い指先の桜色の爪は、確かに短い。
そういえば、俺が剣道教室に通ってるあいだ、禰豆子はピアノを習いにいってたんだっけ。公民館の小ホールであった発表会に、余所行きの服を着せられて見に行った記憶がおぼろげに浮かんだ。
父と母の後ろの席に竹雄と並んで座って、飽きて足をぶらぶらさせている弟に、次の次が禰豆子姉ちゃんの番だぞ、と囁いたり。
あのころはまだ父さんの病気が見つかる前で、茂たちも生まれてなかったし、竹雄はずいぶん甘えただった。
それにしても、家にはピアノがないのに、禰豆子はどうやって練習してたんだろう。幼い妹の拙いながらも一生懸命弾く姿を思い出して、懐かしさが込みあげる。
「禰豆子の発表会、覚えてるぞ。頑張って練習してたって母さんがすごく褒めてたな。どこで練習してたんだっけ?」
「んー、先生にお願いして学校の音楽室のピアノを借りたり、たまに友だちの家で練習させてもらったり……ま、いろいろ大変だったわねえ」
大げさに肩をすくめながら、禰豆子も懐かしそうに微笑んでいた。俺も、庭で素振りの練習をしていて掛け声が大きすぎると隣の家から小言をもらったことを思い出して、少し笑った。
時代が違うとはいえ、練習場所を無償で提供されている花子や六太は恵まれている。それが、ほのぼのと嬉しい。
しかし、ピアノというのは当ってるかもしれない。善逸の指の細さや指先のまるっこさは、鍵盤を弾くのに適している気がした。
ピアニスト、という職業がすぐに頭に浮かんだが、それだとどうにも違和感がある。
ピアニストは、誰がどう見ても音楽家に分類されるだろう。でも、善逸は、「広い意味では」音楽家になる、といっていた。つまり、ただの楽器奏者ではない、ということなのでは。
「だれの話?」
ぼやぼやとそんな考えに耽っていたら、ふいと質問を振られて、うぐっと言葉に詰まった。気づけば禰豆子の視線は強く、しかも今度は厨房に逃げられない。
「ええと……最近、知り合ったひとが」
嘘は吐いてない。嘘は吐いてないからあからさまに顔色は変わってないはずだが、もたついた喋り口でいろいろと見抜かれているにちがいない。なにせ、禰豆子は勘が良いのだ。
「ふぅん。……こないだの結婚式の二次会、ってとこかしら」
惜しいが、鋭い。このまま攻め込まれてしまえば早々にボロが出る自分が容易に想像できて、胃がきりきりと痛んだ。
怪しげなバーで知り合った、顔も素性もよくわからない秘密の多い男と、月に一回会ってハグやキスをしてるんだ。なんて、とてもじゃないが言えやしない。
「あら、ちがった? でもそのへんからよね、お兄ちゃんが日曜に出かけるの」
俺の顔色を正確に読んでくる禰豆子が、さらに追い打ちをかけてくる。身内といえども手加減しない、我が妹ながら怖ろしい。
「恋人ができたら家族に真っ先に報告するかと思ったのに、変にこそこそするから心配だわ。まだ告白もしてないの?」
「ああ……うん、まあ」
来るぞ来るぞと身構えていたがまさかここまで深く攻め込まれるなんて思ってなくて、禰豆子の厳しい視線から逃れるために、情けなくも項垂れてやり過ごす。
俺だって、大切なひとができて添い遂げるつもりだと家族に紹介したいのはやまやまなのだが、いかんせんまだそこまでの関係に至っていない。というか、相手のフルネームすら教えてもらってない。
夢にみるほど、どころか、最近じゃ家に居ても彼の匂いを感じるほど焦がれているのに。まあ、匂いに関していえば、はじめての恋で不安定な情緒がもたらす幻覚のたぐいだとわかっちゃいるが。
住んでいるところも仕事のことも、何ひとつ教えてもらえない程度の間柄なのに、舌を絡めるキスは済ませているなんて、それこそ口が裂けても言えなかった。
「お兄ちゃん、思ったより奥手なのね」
『おまえって真面目そうなのに、案外、手が早いよな』
禰豆子の評価とは正反対の、善逸の呆れた声を思い出して、ふっと笑いそうになる。
――いや、手は早いほうらしいぞ。
そう返したくなるのを我慢して、俺はそそくさと話を切り上げ、自室に戻った。
⚡︎⚡︎⚡︎
三度目の逢瀬では、席に着くなり、善逸が自ら膝に乗ってくれた。
「ずいぶん、積極的、だな」
ぐわりと煮える腹の底をごまかすように平静を装っても、彼の匂いが近すぎて舌がもつれる。
どういう心境の変化だろうか。嬉しいけれど不安が勝る。善逸なら、これを最後に、なんて不穏なことを考えていてもおかしくない。
「こういうの、やだ?」
挑発めいたことを口にする裏で、また怯えた匂いを燻らせている。
俺の好意は明け透けだろうに、何がそんなに怖ろしいのか。怖いのは、また姿をくらますのではと毎回ひやひやしてる俺のほうなのに。
イヤなわけないだろ、と荒く抱き寄せて、了解も取らずに唇を押しつけた。絡みあう舌から水っぽい音が響いて、グラスが置かれる音とブラインドを下げる音がやけに遠い。
善逸の腰がゆるりと揺れるのと、俺が彼の唾液を飲み干したのはほぼ同時だった。
股間が擦られて、快楽と情欲がぐるぐると全身を廻る。ぐっと腰を押し上げると慌てたように身を引かれて、ぜんいつ、と情けない声が出た。こんなふうに仕掛けておいて、ここでお仕舞いだなんて酷すぎる。
恨みがましい俺の視線に気づいたのか、善逸は店内の暗さに紛れるように、ごめん、と小さく呟いた。
「や、あの、ここ、本番禁止、だから……」
「ほんばんきんし?」
単語の意味がわかっても、言葉の意味がわからない。俺の反応は想定内だったらしく、善逸は、セックス禁止ってこと、と小声で言い添えてきた。
なるほど、本番というのはセックスのことなのか。セックス禁止。セックス……セックス?
「せっ……!? そっ、そんなことまでしないぞ、いくらなんでも!」
なるべく声を低めつつ鼻息荒く言い返したけれど、いやそうだろうかと自分の理性が訊いてくる。つい先日、深いキスはセックスと同じじゃないかなどと舞い上がって、その晩は善逸を抱く妄想でヌいたりしたくせに。
しかし、悶々と悩む暇もなく、善逸はものすごいことを囁いてきた。
「だから……その、……く、口で、してあげよっか……?」
くち、口で。え、口で? する? 何を?
「……はああ!?」
腹の底から出た声に、善逸が、びくりと身体を跳ねさせた。「しーっ、静かに!」小声で叱られて、ごめんとすぐに詫びたけど、いやこれはデカい声が出てもしようがなくないか? めちゃくちゃなことをいっている自覚はあるのか、おまえは。
「ぜ、善逸、口でって……」
「あっ、あっ、ご、ごごごごめんね? 俺、調子に乗りすぎちゃったね? いやあのさ、なんかほら、か、下半身がさ、窮屈かな? とか思ったり……あのほんとごめん、炭治郎はノンケだってわかってんのに俺なんかがこんなこと」
どよりと淀んだ匂いを撒き散らして、善逸がふたたび身を引いた。それにまた別の意味で驚かされて、急いで彼の腰を抱き込んだ。
「ちょっと待て、何でここで引くんだ!? ここは! 押すとこじゃ! ないのか!?」
「だっから、声がっ! デカいって!」
ごめんと謝る前に、お客さま、とブラインドの向こうから重々しく呼びかけられて、俺たちはぴたりと口を閉じた。
「あーあ、もうあの店行けないよぉ……」
「ごめん。……でも、そもそも善逸が」
はいはい、チョーシ乗っちゃってましたねえ、すみませんねえ! やけくそ気味の善逸からは、怯えて淀んだ匂いが薄まっている。場が変わって、気を取り直したのかもしれない。
だったら、店を追い出されてよかったな。
そんな呑気さが伝わったのか、善逸がじとりとこちらを睨んでくる。やっと店外で顔を合わせられたのに、帽子を目深に被り、薄手のスヌードを鼻先まで引き上げているせいで、琥珀色の瞳と、帽子からはみ出た金色の毛先しか見えない。
じっと見つめていると、ぎこちなく視線をそらされた。薄まっていた怯えの匂いがぐっと強くなって、思わず眉をひそめてしまう。
「善逸、」
「えっと、まあそういうことで、じゃあね」
俺の言葉の言い切らぬうちに、さっと身を翻した善逸の腕を間一髪で掴んだ。
じゃあね、じゃないだろう。そういうと怯えた匂いが深まって、すぐに反省した。これじゃダメだ。こんなんじゃ、まるで叱りつけてるみたいだ。
「ちがうんだ、俺が言いたいのは、」
「わかってる、わかってるよお、俺だっていつもこんなことしてるわけじゃないですし、ていうか俺こそ童貞だし、カノジョもカレシもいたことないし、でもなんかほんと、き、期待しちゃったっていうか……!」
またもや言い切らせてもらえなかったが、ぐすぐすと涙声の善逸にこっちこそ期待してしまって、今度は俺が黙り込んだ。
期待、期待ってなんだ、俺に気があるってことか? 善逸は俺と同じ気持ちなんだって、浮かれてもいいんだろうか。
掴んだ腕を放さずにいたら、涙に諦めの匂いが混じってきた。なんだか俺まで泣きたくなるような、悲しい匂い。俺の膝の上で囁き合ったときは、あんなに甘い香りをさせていたのに。
「善逸、もっと明るいところで、ゆっくり話をしないか?」
「いやだ」
間髪入れずにそう返されて、本当に泣いてしまおうかと思った。もしかして、嫌われてしまった? でも、嫌悪の匂いはしない。
「……顔、見られたくない」
「どうして」
「だって、俺、男だし……お前、ノンケじゃん」
それがどうしたとか、だからなんだとか、いいたいことはいろいろあったが、とりあえず黙っておいた。
この期に及んで性別なんてと思うけれど、善逸は本気で嫌がっているし、本気で怯えている。顔を見せることそのものよりも、そうした先で俺が彼を厭うだろうと勝手に予想して、勝手に憂えているんだろう。
俺の気持ちを決めつけてかかるなと、それこそ叱ってやりたいが、そんなことをすればこの男がますます頑なに俺を拒むにちがいない。
善逸の顔をちゃんと見て、きちんと話をしたい。暗い店内でも明るくきらめいていた彼の髪も見たいし、さっきみたいな濃密な触れ合いもしたいけど、普通の恋人のように互いの顔を合わせながら、もっといろんな話をしたかった。
ただ、俺が今、どんなに言葉を尽くして彼を欲しがっても、きっと善逸は肯いてくれない。少しでも力を弛めれば、きっと、この手を振り切って逃げてしまうだろう。
「……顔が見えなければ、いいのか?」
「え?」
善逸がキョトンとした目で俺を見た。まるい瞳が愛らしい。
やっぱりこのまま離れるなんていやだ、もうこれしかない。俺は勢い込んで彼を誘った。
「俺が今夜泊まる部屋、ホテル側の都合でツインになって、だからベッドがひとつ空いてるんだ。フロントでひとり増えたって伝えれば、もう一人泊まれるし、部屋を暗くして顔を見えなくするから、そこで」
……そこで?
ハッと我に返ると、善逸はまるい目をこれ以上ないくらい見開いて俺を見ている。
「あ、っち、ち、ち、ちがう!!」
「いや、ちがわねぇだろ」
そう、ちがわない。そういう意図があろうとなかろうと、俺は今、彼をホテルへ誘った。酒を飲んだあとにホテルでゆっくり話そうだなんて、どこのエロおやじだ、最低だ。
呆れ果てた彼の目線がざくざくと心に刺さって、俺はその場によろよろとへたりこむ。
ちがう、ちがうんだ、と往生際の悪いことを呟きながら顔を上げると、まるい瞳が鼻先にあった。俺が腕を放さないから、善逸も一緒にうずくまっている。
「善逸と、もっと一緒にいたくて」
本当に、情けない声。少しだけ肩を揺らして、善逸が笑った。
「だからってホテルに誘うかね、フツー」
「ごめん、軽率だった」
本当にごめん、と繰り返し詫びて、しゃがんだまま頭を下げる。その場でぺしゃんこにつぶれてしまいたいくらい落ち込んでいるけれど、善逸から嫌悪の匂いを感じないのがせめてもの救いだ。
「……いいよ」
ふいに降ってきた声も、彼の匂いも、すごく穏やかだった。
そろそろと顔を上げると、琥珀色の目がほんのり細まっている。スヌードで隠れた口元も弛んでいるのだろうか。
「善逸……?」
「部屋に行っても、いいよ」
茫然とする俺に、善逸はしっかりと繰り返して言った。
「でも、今から一緒にってのは、だめ。ホテルの名前と部屋番号だけ教えて。一時間後に必ず行くから……待ってて」
こくんと子どものように肯いて、俺はホテルの名前と部屋の番号をもたもたと口にした。
わかった、じゃあ、あとでね。そういって俺の手をほどいて立ち上がった彼から、嘘の匂いはしなかった。
善逸は、約束どおり部屋に来てくれた。
ドアスコープから覗いた彼は別れた時と同じ出で立ちだったが、ドアを開いてすぐ、シャワーを浴びてきたと知れる。
湿った水気と、ボディソープの香り。また、ぐわっと頭に血が上って、思わず抱き寄せた。耳元で善逸がくすくすと笑うのが愛おしい。
「ゆっくり話したいんじゃなかったの?」
「ご、ごめんっ」
慌てて身体を離すと、善逸は笑った気配のまま、暗い部屋の奥へ消えていった。狭くて短い廊下のすぐ先には、ベッドが二つ並んでいる。
胸を高鳴らせながら善逸の後を追っていくと、彼は窓際のベッドの端にちょこんと座っていた。帽子もスヌードも外してしまったようだ。
おそるおそる善逸の隣に並んで座って、その顔をじっと見つめた。
大きなまるい瞳と、小さい鼻、薄い唇。約束どおり灯りは消してあるけれど、彼を待つあいだずっと暗い部屋にいたおかげか俺の目はすっかり闇に慣れて、彼の顔の造作がよく見て取れた。
「……じろじろ見るんじゃないよ、恥ずかしいやつだな」
「来てくれたのが、うれしいんだ」
恥ずかしい、照れくさい、でもすごく嬉しい。
善逸から薫る香りは、今の俺の気持ちそのままだ。それにまた胸があたたかくなって、俺はそっと顔を寄せた。近まった匂いに、くらくらする。
「さっきまで会ってたってのに、ずいぶん熱烈じゃん」
「本当だなあ、自分でも吃驚だ」
善逸の髪はやはりきらきらとしていて、彼の耳を半分ほどまで覆っている。至近距離で見ると、眉毛も睫毛も同じようにきらめいていた。俺はそれをうっとり眺めながら、少し長めの横髪をそっと耳にかける。
「っん、くすぐったい」
「いやか?」
イヤならここには来ないよ。少し緊張した声で、善逸は答えた。
そうか、よかった。俺も緊張してそう言いながら、その唇を指先でふれる。
もっと、さわりたい。もっと、もっと。
腹の底からごうごうとした劣情がせりあがってきて、自身の欲に戸惑ってしまった。こんな肉欲を腹に抱えて彼をここへ呼んだのか、下心ありありじゃないか。こんな男のところによく来てくれたもんだな。誘っといてなんだが、ちょっとガードが緩すぎやしないか? そんなんじゃ、いろいろと心配すぎる。
「……炭治郎」
善逸の手のひらが頬にふれた。冷たい。その冷たさに、どうしてだか、ひどく切なくなる。
無言でその手を取ってぎゅうぎゅう握りしめると、善逸が少し笑った。
いたいよ、と笑う彼からはひどく甘い匂いがする。「……もっと、いたくしてもいいよ」善逸は、確かにそういった。
煽るようなその言葉に、腹の底がさらにぐらぐら煮えたのは確かだ。だけど、そうじゃないんだ。おまえにはもっと、大切に、慈しむようにふれたいんだよ。
「痛くするのはダメだろう。俺は善逸に、やさしくしたい」
彼の冷たい手が、自分の手の中で少しずつ温まっていくのを感じながら、きっぱりと言った。善逸は、呆気にとられたように俺を見た。
「……あー、もう……ほんとになんなのよ、おまえは……あのさあ、いきなりホテルに呼んでベタベタ触って、めちゃくちゃ欲情してるくせに、変なとこで真面目ぶりを発揮するんじゃないよ。脱童貞したいんじゃないの? 俺だってねえ、ゲイがノンケに手ぇ出すなんて自殺行為だってわかってるけど、おまえにならヤリ捨てされてもいいかなと思って死にそうな気持ちで誘ってんだよ、察しろ!」
立て板に水のごとく一気に言いきって、善逸は、はああ、と聞こえよがしにため息を吐いた。彼の匂いが、ぐっと濃くなる。
なかなか酷いことを喚かれているのは理解したが、怒りより嬉しいのが勝ってしまった。だってもう、こんな暗い部屋でもわかるくらい善逸の顔が赤い。照れたような熟れた匂いもぷんぷんするし、これは間違いなく善逸の本音だ。
「なに笑ってんだよ、俺は本気で」
「はは、ごめん、うれしくて。やっと、善逸の本音が聞けたから」
「っ、おまえ、それは……反則だろ」
うつむく顔を掬い上げるように、その頬を手のひらで包み込んだ。染まった赤味に似合わずまだ冷えている頬を、ゆっくりと揉んで温めてやる。
「善逸、好きだ。俺の恋人になって欲しい」
気持ちを伝えた瞬間、ぶわりと広がった善逸の匂いは複雑だった。できれば言葉で気持ちに応えて欲しいけれど、怯えた匂いの消えない彼から正直な気持ちを語ってもらうのは、まだ難しいかもしれない。
「ノンケとか、ゲイとか、俺はまだわかっていないけど、きっと悩ましいことなんだろうとは思う。だけど、もし善逸が少しでも俺に気持ちがあるのなら、チャンスが欲しい」
「……チャンスならあげてるじゃん、今」
「俺が欲しいのは、セックスするチャンスじゃないぞ」
もうそんなことわかってるだろうに、拗ねたことをいうところも、ちょっとかわいい。これで試しているつもりもないのは本当に困るけど。いや、試されても困るけど。
どちらにしろ、恋愛経験皆無の俺は、ひたすら想いを口で伝えるしか術を持たない。
「善逸のことが本当に好きなんだ。まだお互いのこと全然知らないし、顔もよく見てないのにって自分でも思う。けど、どうしようもなく惹かれてる。もっともっと会いたいし、話をしたいし、ふれていたい」
善逸が静かに息を呑んだ。ちりちりと、身を焦がすような匂いがする。俺の声に、言葉に、焦がれてくれたんだろうか。それなら嬉しい。俺がお前を想うように、お前も俺を想って欲しい。
「……俺さ、すっげえ怖がりなんだよ」
匂いとおんなじ、やさしい声だった。
「だからさ、お前みたいな上等な男の恋人になったら、いつ飽きられるかいつ振られるのかって、ずっと怯えて暮らさなきゃなんない。しかも、お前はノンケだから不安倍増だ」
善逸が、すっと身体を引いた。俺の血の気も、さあっと引いたが、彼の手が自分のシャツのボタンをそろそろと外していくのがわかって、今度は、かあっと血が上る。
我ながら引いたり上がったりと忙しい。なんなんだ、これは、自分の身体なのに何にもままならない。善逸は俺をどうしたいんだ?
「だからさ、炭治郎。俺と、セックスしてくんない?」
「…………は?」
えっ……夢か? いや、そんなわけないだろう、しっかりしろ炭治郎。ふわふわしている場合じゃあない、善逸の真意をしっかり汲み取れなければ、あっというまに彼を失ってしまうぞ。
据え膳に目がくらみそうになりながら、俺は己を叱咤した。
「ぜ、善逸! 俺は本当に、身体目当てとかではなく!」
「わかってるって。けど実際多いのよ、男でも抱けるとかいっといて、いざとなったら逃げるノンケ。そんなんされたらさあ、俺もうショックで死んじゃうからさあ」
「俺は! そんなふうには! ならない!」
「でっけえよ、声が! ……うん、まあね。炭治郎の気持ちが誠実なものだってわかってるよ、俺も」
善逸がふにゃりと笑って、その愛らしさに身体が固まる。こんな薄暗いところですらこんなにいちいち反応してしまうなんて、陽の下で顔を合わせたらどうなってしまうのか。
そうして俺がカチコチになっているあいだにも、善逸は着々とボタンを外していって、とうとうシャツを脱いでしまった。
「でもさ、確証が欲しいわけ。こんな貧相な男でも抱けるくらい、惚れてくれてるっていう確証がさ」
がばっと男らしくアンダーシャツまで脱ぎ捨てて、善逸はじっと俺を見た。
薄闇に白い上半身がぼんやりと浮かんで、無意識にその肩を掴む。暗い部屋の中で目にするというだけで、見慣れた男の裸だ。それなのに、その身体にものすごく興奮してしまう。
ごくり、と喉を鳴らす音が響いて、自分で自分に引いた。めちゃくちゃに欲情しているという事実と、それを欲情した相手に知られてしまったという事実に打ちのめされる。
「っす、すまない! いつもはこんな、下心剥き出しの男じゃないんだ、本当だ!」
「え、別にいいよ。興奮してくれんの、うれしいよ?」
小首を傾げて、善逸はまた、ふにゃりと笑った。下腹が、ぐらぐら煮え滾る。肩を掴んだ手が汗ばんでいくのがわかったけれど、離すことができない。彼の身体から、髪から、顔から、唇から、目を離せない。
抱きしめたい、キスしたい、それ以上も……どうしよう、我慢できない。
「我慢ができる長男、なのに……!」
「えっ、えっ? なに、どういうこと?」
戸惑う善逸を前にして、俺はたぶん涙目だった。こんな情けない顔見せたくない、暗くてよかった、と今日初めて思いながら、抑えきれぬ衝動のまま抱きしめた。
「すごく、良い匂いだ……」
「んえっ、えっ? にっ、におい? そ、そうかな!? あー……ありがと」
感動のあまり口からこぼれた俺の言葉に、善逸は恥ずかしそうに小さくお礼を返してくれる。
腕の中で緊張しきっているのに申し訳なさが募るが、とにかく、もう止められなかった。
「善逸が、好きだ」
「おお……おまえ、ほんっと直球だな」
嬉しい、恋しい、気恥ずかしい。照れておどける言葉の裏にふんわりと薫る甘酸っぱい香りで胸がいっぱいなのに、善逸の声でちゃんと返事を返して欲しくて、抱きしめる腕にぎゅうっと力を込めた。
「お、俺も、好き、だよ」
自信なさげな声に気を揉ませられるが、しかし、今日の今日でそこまで望むのは強欲すぎるだろう。そもそも、俺のこの気持ちが異常に強すぎることくらい、自分でもわかっている。
「抱いて、いいのか」
「いいよ。いいけど、ほんと期待しないで。ちゃんと準備してきたつもりだけど、俺もその、は、はじめて、で……」
――腹の底が、煮える。煮え滾る。なんなんだ、どういうことだ、もう十分興奮しきっているのに、まだ上があるのか。これいじょう興奮すると何をしでかすかわからないぞ。
「ぜんいつ……!」
なぜだか呼吸もままならなくて、ようやく声に出た彼の名は妙にたどたどしく響いた。
たんじろう、と囁いてくる唇は脳が痺れるほど蠱惑的で、俺は躊躇うことなくその唇に噛みついた。
⚡︎⚡︎⚡︎
「六太、ほら背中がちゃんと拭けてないわよ」
「だいじょーぶ!」
きゃあきゃあと笑いながら、パンツいっちょで背中をびしょびしょに濡らした六太がリビングに駆け込んでくる。追ってきた禰豆子に片手をあげて「まかせろ」の合図を送ってから、さっと六太を捕まえた。
「大丈夫じゃない、そんなんじゃ風邪ひくぞ。ほら、兄ちゃんが拭いてやるから」
振り回していたバスタオルを取って、ごしごし背中を拭いてやる。六太は「ぼく、ひとりでお風呂に入れたんだよ!」と、ご機嫌だ。
「えらいなぁ、六太。もう、お兄ちゃんだな」
はじめての“ひとりでお風呂”は、無事に上手くいったらしい。
父さんが町内の寄り合いでいない今夜、六太をひとりで風呂に入らせてみようと言い出したのは禰豆子だった。
話を聞いたときは、自立を促す良い機会だと表面では肯いたものの、実はちょっと心配していたのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。
一番末の六太はいつも父さんにべったりで、甘えん坊が過ぎるんじゃないかと案じてもいたから、末弟の成長は頼もしくもあり、感慨深くもあった。
存外、てきぱきとパジャマを着ていく六太を眺めながら、ふと傷のない二の腕に目が留まる。剣道を習ってるのに、ミミズバレのひとつもない。そういえば、こないだ新しい半袖のワンピースをお披露目してくれた花子の腕も、きれいなものだった。
もちろん、ケガがないにこしたことはない。けど、剣道をやっているなら普通、防具に守られていない腕に竹刀で打たれた痕が残るものなのに。
まだ一年生だから打ち合いなんかはしてなくて、素振りばっかりやってるんだろうか。四年生の花子も?
習うより慣れろのあの獪岳先生が、そんな甘っちょろい指導をするとは到底考えられない。結婚していくら角が取れたとはいえ、人の性質がそこまで変わるとも思えなかった。
……もしかして、ふたりとももう剣道教室を辞めてしまってる、とか?
それならそれで、家族の誰かが教えてくれるはずだが、もしかしたら短期間で辞めたのを恥じた六太か花子が、俺には内緒に、なんて話をしたのかもしれない。
もしそうなら、疎外感が半端ない。でも、ここ最近はひとりで出かけることが多かったし、家族に隠し事がある罪悪感もあって、家庭内の細々したことに口を出さないようにしていたのも事実だ。
俺のそういったところを汲み取った禰豆子あたりが、辞めたことをあえて伏せている可能性もある。
どちらにしろ、子どもにだってプライドはあるのだ。ここは長兄らしく、素知らぬふりをしておくか。
「炭兄ちゃん、オレね、チューリップ弾けるよ!」
長兄の憂心も知らず、六太は上機嫌で、俺に向かってぷっくりした指をひらひらさせている。鍵盤ハーモニカだろうか? 空を弾く指の動きがしっかりしていて、感心してしまった。
「すごいなあ六太、本当に弾いてるみたいだぞ。鍵盤ハ―モニカだろう? 音楽の授業で習ったのか?」
六太は本を読んだり歌を聴いたりするのが好きだから、文科系の習い事が向いているかもしれないな。
なんて呑気な考えは、幼い弟のひと言であっさりと吹き飛ばされた。
「ちがうよ、ピアノ! ピアノの先生に習ったの」
今度、炭兄ちゃんにもきかせてあげるね。おっとりと笑う六太のまるい目に、唖然とする。
「……ピアノ? え、ピアノの先生って……」
それって、つまり、もしかして。
最近モヤモヤしていたいろいろなことすべてに合点がいって、俺は絶句してしまった。
いや、そんな、まさか。でも、そうとしか考えられない。なんてことだ、ここ最近、気もそぞろで浮ついて長男らしくなかったことは認めるが、ここまでポンコツだったとは。
どんぐりのような六太の瞳を見つめていられず、そっと視線をそらしながら、がっくりと肩を落とした。幼い弟妹の習う先は剣道教室だと、この三か月すっかり思い込んでいた。
いやしかし、花子と六太は桑島剣道教室に通うと、禰豆子は言ってたじゃあないか。……ん? 言ってなかったか? 桑島先生の名前も、獪岳先生の名前も、俺が勝手に口走っていただけだったかもしれない。
でも、禰豆子や母さんがふたりをお迎えに行く先は、確かに桑島先生の道場がある場所だったはずだ。いったい何がどうなってるんだ?
「ただいまあ!」
溌剌とした花子の声に、おかえり、とほとんど無意識のうちに応える。なにせ、頭の中が混乱を極めていて、余裕がない。が、焦がれてやまないやさしい匂いをかすかに感じて、ハッと顔を上げた。
――善逸の、匂いだ。どうして、ここで?
リビングに顔を出したのはもちろん花子で、それなのに彼の匂いがほんの少し強くなる。
彼に会うようになって、会いたい会いたいと日々思っているせいか、家の中でも彼の匂いを感じることはままあった。けれど、ここまで明確に善逸の匂いを感じるなんて。
どうしよう、頭の中だけじゃなくて、鼻までポンコツになってしまったんだろうか。
俺の動揺に気づくことなく、花子は六太と同じくらいご機嫌だった。
「炭兄ちゃん! あのね、今日ね、すごくがんばって練習してるねって、先生に褒められたの!」
「レッスンの日じゃなかったのに、手が空いたからって練習みてくださったのよ。よかったわねぇ、花子」
いいなあ、花子姉ちゃん。羨ましそうな六太を宥めるように、母さんがにっこり笑って、「六太は明日が練習日だからね」と頭を撫でる。
「ピアノ……習ってるんだよな、やっぱり……」
「うん! それでね、いつもはね、先生の教室に預けてるんだけど、今日はお兄ちゃんたちに見せたいからって持って帰ってきたの」
茫然とつぶやく俺を訝しくこともなく、花子が、ほらみて、と大きめの本を見せてくる。紙の匂いと花子の匂い、嗅ぎなれない木材と鉄の匂いは、きっとピアノだ。そして、そこに混ざる、もうひとつの香り。俺が大好きな、やさしくて、やわらかい匂い。
「花子のバイエルよ。素敵でしょう?」
朱色っぽい赤の表紙に、真ん中の円の中にはモノクロで北欧風のイラストが載っている。絵本みたいに可愛らしい教本を掲げて微笑む花子に、俺もやさしく微笑み返した。
「うん、とっても素敵だ」
⚡︎⚡︎⚡︎
ごめんね、なかなか連絡できなくて。
申し訳なさそうな彼の声に、頬が弛むほど浮かれてしまう。気にするな、と応える自分の声は、我ながら力強かった。
といっても、淋しくないわけじゃない。六月は忙しいから会えないと事前に聞いていたから、少しくらい間があいても気にしないでいられるのだ。
「それに、毎日メッセージはくれるし、週に一度は電話で話せてるじゃないか」
「まあ、会えないから、そのくらいはね。……つ、付き合ってるんだし」
匂いのしない音声だけで善逸の緊張が伝わってきて、彼には悪いが口元がにやける。
恋人になってまだひと月とはいえ、付き合っていると明言するのにそんなに緊張するなんて、欲目を引いても愛らしいじゃないか。
おい、にやにやすんな。まるで見ているかのように言われて、思わず家の外を窺った。
六月最後の日曜、梅雨はまだ明けていないが空の雲間には久しぶりに月がのぞいている。
午後十一時は、朝が早い竈門家ではもう深夜だ。二階で眠る家族を起こさないようにリビングで声を潜めて、カーテンの隙間から月を眺めるのも、もう慣れたものだった。
恋人になってからの逢瀬はまだ電話でばっかりだけれど、心が繋がってるから声だけでも幸せだ。
「仕事、今日で落ち着いたんだろう?」
「うん、どうにかね。いつもこんな遅くにごめんな。本当なら、もう寝てる時間だろ」
今月はずっと働きづめで自分こそ疲れているだろうに、こちらのことばかり気にかけてくれる。俺の恋人は、本当にやさしい。
「俺は明日休みだから大丈夫。善逸こそ、明日も仕事だろう。もう家には着いたのか?」
我妻善逸、と表示されたスマートフォンの画面に頬を押し当てながら、電話の向こう側の音に耳を澄ませた。善逸の声も、息づかいも、彼を取り巻くすべての音を絶対に取りこぼしたくなかった。
「うん、もう家だよ」
善逸の返事は短く、でも、とてもやさしい声音だ。やっぱり、こんな機械ごしじゃなくて、直に彼の声を聴きたい。
彼の匂いや身体にふれて、髪にふれて、唇にふれて、それ以上のことも、もっと、もっと。
「好きだよ、善逸」
「ん、……俺も。あーあ、炭治郎に会いたいなあ」
「俺も、会いたい。今から会いにいってもいいか?」
「うん……うん? えっ? い、今から?」
「ああ、今から」
すぐに着くから、待ってて。
それだけ囁くと、善逸の返事を聞く前に俺は家を飛び出した。
愛しい愛しい恋人は、わざわざ道場に入る門の前で俺を待ってくれていた。本当に帰ったばかりだったのだろう、見慣れないワイシャツ姿が凛々しく映る。
「うわ、ほんとにきちゃったよ……」
「うわって何だ、うわって」
ムン、と眉尻を上げてみせると、善逸はへにゃりといつもの下がり眉で笑った。ほんの少し弱った匂いはするけれど、戸惑ったり驚いたりはしていない。つまり、俺の予想は当たっていたようだ。
「俺のこと、知ってたんだな」
非難めいた話じゃなくて、ただの確認だった。善逸にも、俺に責める気がないのが伝わったらしい。
うん、まあね。肩をすくめて苦笑しながら、善逸は俺の手を引いて門をくぐった。
「竈門って名前、かなりめずらしいし、しかもパン屋の長男だっていうし。めちゃくちゃご近所さんじゃん! って、ビビりあがっちゃってさ」
なるほど、それじゃあ逃げ出しもするだろう。
恋人になる前、善逸は、あの店に通う理由はカレシが欲しいからだと嘯いていたけれど、実際は少し違っていた。
相席を求められて良い雰囲気になることはたびたびあっても、あの店の外で会うことは拒んでいたらしい。
善逸は、自身の性的嗜好が少数派であるのを理解していて、だから自分を守ることに必死だった。
恋人になってから教えてくれた、心音で感情すら聴き分けられるという並外れた聴力で、相手の今の気持ちがわかっても、いつまでその気持ちが続くのかまではわからない。
だから、なかなか関係を深める勇気が持てなくて。善逸は、静かにそう語ってくれた。
ホテルの部屋でふたりっきり、裸の肩をぴったりくっつけあっていても、彼から淋しく臆病な匂いは消えなかった。
善逸の怖がりは、折り紙つきだ。顔が見えないとはいえあんな店で遭遇してしまったら、打つ手はもう、逃げの一手につきるのだろう。――なら、どうしてまた会ってくれた? しかも、性的嗜好まで明かして。
俺の疑問は伝わっているだろうに、善逸は何も聴こえていないようにまっすぐ歩いていく。
「ここが、俺のピアノ教室」
元道場の外観は幼い記憶とさほど違わなかったけれど、横滑りの扉がどっしりとした木製のドアに変わっていた。ドアに打ちつけてある看板の、『桑島ピアノ教室』と書かれた文字が、小さなライトに照らされている。
「――どうぞ」
手を引かれるままに、開かれたドアの向こうに足を踏み入れる。パタン、とドアが閉じると、そこはもう真っ暗だった。
「炭治郎」
ひそやかに名を呼ばれて、夜風で冷えた腕が首元に回さた。身体と身体が隙間なく合わさると、善逸のように耳が良くなくても、心音が伝わってくる。とく、とく、とく。
「炭治郎の音を聴いたときね、こんなやさしい音のひとがいるんだって、すごいびっくりしちゃってさ。もっと聴きたい、もっと近くで聴きたいって気持ちが止まんなくて、そんで、はじめて自分から声かけたんだ」
俺より少しだけ背の低い善逸の、あたたかい吐息に鎖骨を撫でられると、腹の底がぐわりと煮えた。なにより、匂いが近い。
「話したら近くに住んでるひとだってわかって、でもずっとまた聴いていたい、できれば仲良くなりたいって思ったんだよ。……けどそれは、俺だけなんだろうなって」
明るくて朗らかに話す、やさしい音のひと。きっと、みんなに好かれてる、誰とでも仲良くできる、かわいいカノジョだっている。――自分とは、ちがう。
善逸の静かな声が、暗い室内に溶けていく。
「……だからさ、深入りしないうちに逃げちゃおうって思ったの」
歌うようにそう言った彼からは、切なくて苦しい恋の匂いが淡々と流れていた。
いや、恋の匂いならずっとしてたのだ。今ならわかる。あの店に通う俺も、同じ匂いを流していたに違いないから。
でも俺とは違い、善逸は未だこの恋に怯えている。俺を想って、俺に想われているのに、いつか終わるものと悲観して勝手に覚悟を決めている。
「けどさ、花子ちゃんがさ」
「花子が?」
まさかの名前が飛び出して、思わず声が上擦った。
「そう、花子ちゃんが。一番上のお兄ちゃん、最近、日曜日の夜に出かけてくんだって。今までこんなことなかったのに、きっとデートだよって。……最初はさ、とうとうカノジョができたのかなって、思ったんだけど」
日曜日の、夜。善逸が俺に残した、唯一のヒントだ。俺が縋った、たったひとつの手掛かり。
「もしかしたら……俺に、会いに行ってるのかなって。逃げ出しといてムシがよすぎるけど、もしも、俺に会おうとしてくれてるなら、それなら俺も、勇気をだそうって」
こんなに怖がりで臆病なのに、そんな覚悟であの店に来てくれたのか。愛おしさが止まらなくて、抱きしめた腕に力を込める。
善逸の「もしも」は当たっていたのに、それでもまだ不安な匂いをさせる、この困った男をこの先ずっと絡めとっておくために、俺も勝手に覚悟を決めた。
善逸、おまえを繋いでおけるなら、俺は何だってやるぞ。
「……あんなおかしな店のあんな狭い席で相席を了承したのは、善逸があんまりにも良い匂いさせてたからだぞ。俺には最初から下心があったから、逃げられるのも仕方ないって反省したんだ」
ぷっと善逸が吹き出して、俺も笑った。
「んふ、ふふ、炭治郎ってば、すっごいグイグイきてたもんねえ」
ふふふ、と洩れる呼気が、今度は耳元にあたる。わざとだ。暗い中でこんなことをされると、あの店で身体をくっつけあったことを思いだして、だんだんと腹の底の熱が上がっていく。
ぜんいつ、ぜんいつ。甘ったれた声で名前を呼んで、俺より細い身体をゆっくりと弄る。善逸は俺の欲をさらりと躱した。
「ここじゃ、だめだよ。我慢してね」
ちゅ、と軽く触れて離れていく唇を、追いかけて噛り付きたかった。だけど、我慢だ。我慢のできる、長男だ、俺は。
ぐう、と腹に力を込めて、わかった、と肯くと、善逸が可笑しそうに笑う。
次は我慢できないかもしれない。そんな心許ない気持ちを気取られたくなくて、俺も彼と一緒に笑った。
「おお、なんかすごいな。音楽室みたいだ」
明るく照らされた室内には、緑色のソファと木製のテーブル、同じく木製の本棚が置いてあった。
教本や子ども向け小説の並んだ本棚の横のドアはレッスン室につながっていて、その奥のドアの向こうが練習室だよ、と教えてくれた。クリーム色の防音壁に囲まれた室内に、昔の剣道教室の面影はない。
「爺ちゃん、三年前に脚を悪くしてさ。お弟子さんの獪岳さんはもうよそで道場を開いてるから、誰も跡継ぐ人がいなくってさ。更地にしようかって話もあったみたいなんだけどね。でも爺ちゃんが、ピアノ教室開くならここでやったらどうか、って」
ひとつひとつドアの施錠を確認しながら、善逸はまた眉を下げて笑った。
「俺があんまりにも自信なさげだったから、背中押してくれたんだよねえ。桑島って名前だけでも残したくて、桑島ピアノ教室で看板出させてもらったんだよ」
「そうだったのか……」
こんなに近所で暮らしているのに、桑島先生の細かい事情も、この道場がピアノ教室に様変わりしていたことも、まったく知らなかった。
小学校を卒業するころに父さんの腫瘍が見つかって、中学になっても続けるつもりだった剣道教室をばたばたと辞めてから、本当に外の世界が見えていなかったんだな、と改めて思う。
家族と店のことで頭がいっぱいで気持ちに余裕がなかったとはいえ、自分の視野の狭さにあきれてしまった。
落ち込む俺を気づかうように、善逸がきゅうっと手を握ってくれる。恋人らしいそれが嬉しくて、俺もぎゅうぎゅう握り返した。
「ふふ、炭治郎の手、あったかいよねえ。……あのさ、俺、小学校の長期休みのときは毎年、爺ちゃんちに来ててさ。でも、ちっちゃいころは竹刀で打ちあう音とかが怖くてさ、あんまし道場に近寄らんようにしてたんだよね」
あと、獪岳さんがなあ、めちゃくちゃおっかなくって。こそこそと付け足した善逸に、わかる、と笑って返した。あのころ師範代だった獪岳先生は、確かにめちゃくちゃおっかなかった。
「あんとき道場に顔出してたら、俺たちもっと早く会えたのかも。俺が怖がりだったせいで、小学生の炭治郎に会えるチャンス、逃しちゃったなあ」
ほんのりと口惜しそうな彼の匂いを愛おしく思うけれど、俺は黙って微笑んだ。
いいや、それはちがうよ、善逸。もしも、その時期に出会っていたら、きっとおまえを大切にできなかった。あの頃の俺は、外の世界に目を向けることができなかったから。
何もいわず彼の手を引いて、そっと口づけると、善逸の白い頬にほんのりと薄紅が差す。俺の熱を移したその手は、もう冷えていない。
「……会える機会をたくさん逃してきたんだろうけど、こうやってまた巡り合わせたんだから、そうとう縁が強いんだろうな、俺たちは」
「おまえって、ほんとに前向きだねえ」
頬を染めたまま、へにゃりと眉を下げるその顔に、きゅっと胸が締め付けられる。
恋しい、愛しい。そんな甘やかな気持ちに、ひたひたと肉欲が押し寄せてきて、愛も欲も混ざりあったそれに、きっともうすぐ溺れてしまう。
そのときは、善逸、おまえも一緒だよ。
「善逸が、好きだ。一生、好きだ」
俺の重苦しい告白を受けて、金色の髪が少しだけ揺れた。そこから香り立つ透きとおった匂いに、ほんの少しの懐かしさを感じて、幼かった彼を思う。
もしかしたら、どこかですれ違っていたかもしれない彼のことを。
「俺も、炭治郎が好きだよ」
琥珀色の瞳をゆらめかせて、善逸が笑った。
この歓びの匂いがずっと続きますように、祈りながら俺も笑った。
ずっと、ずっと、続きますように。