【倉御】BAR DIAMOND【DAWN PURPLE】
息が上がってはいるけれど、呼吸が苦しいわけではない。むしろ心地よい負荷を感じながら、酸素を大量に体内へと取り込み血液に乗せて、筋肉へと循環させる。頬を風が叩く感触も、じわりと汗が滲んでくる感覚も、どれも爽快だ。頭の中は自分の呼吸と風の感触、目に入った景色、イヤホンから聞こえる音楽のリズムだけ。走っているときだけは何も思考しなくていい、素直に五感を感じてさえいればいい。そんなシンプルな状態が好きだ。
天気や多忙が理由で数日休んだ後は不思議と身体が重く感じて、ペースが上がってこないところも嫌いではない。自分の身体と対話をすることができることがいい。継続という努力とまではいかなくとも力を入れていることが結果に繋がることがよくわかるのもいい。
ランニングアプリが目標走行時間を告げる。アプリを停止し、ペースタイムを聞きながら今日の身体のコンディションが万全であることを確認する。そしてゆるやかなジョギングとウォーキングでマンションへと戻る。
滝のように流れる汗をTシャツの裾で拭って、冷蔵庫に入れたシェイカーでプロテインを飲む。即座にタンパク質を吸収させてから、ぬるめのシャワーを浴びる。髪を乾かして、ボクサーパンツとシャツだけでリビングに戻ってテレビを点ける。
見慣れた顔ぶれの昼のワイドショーが、今日話題のニュースを毒舌に語っていた。
テレビをラジオ代わりにして、洗濯機をまわし、今日は木曜だからリビングの掃除をする。窓を全開にして、ほこりとりで目につくところを拭き上げて、カウチとカーペットにコロコロをして、最後にフローリングワイパーで拭き掃除をしたら終わり。
一息つきたいところだけど、そんなことしたら遅刻しかねない。
仕方がなくそのままキッチンに立って、手を洗ったら玉葱の皮を向く。細切りに刻んだそれと、豚こまをフライパンの中へと流し込んだら、コンロにかける。
テレビは今日もあまり代わり映えのしない話題を伝えていたけれど、不意に飛び込んできた『御幸一也・熱愛発覚』というワード。まだまだ火の通りが甘いフライパンから目を離してテレビへと視線を向ける。どうやら東京の球団に所属している御幸一也が週刊誌にすっぱ抜かれたらしい。俺自身はあまり詳しくはないけど、亮さんの推し球団だし、確かお客さんにもファンがいたはずだ。知る限りは割とクリーンなイメージだった分、これはしばらく尾を引くことになるだろう。
「今日はこの話題多そうだな」
ジュウジュウという音に、フライパンの中身の加減を確認しながらテレビに食い入る。タレント曰く、タクシーから降車後、御幸のマンションへと入っていくふたりの姿が今朝発売の週刊誌に掲載されたらしい。
恋愛禁止令が出ているアイドルじゃあるまいし、ましてや芸能人ですらない。スポーツ選手の恋愛事情くらい放っておいてやれとも思うけど、有名人というやつは大変だ。
玉ねぎがしんなりとしたフライパンのなかに酒と醤油と味醂を回し入れて、砂糖と粉末ダシを加えたら蓋をして数分煮込む。その間に冷凍の白米を丼ぶりへと移して電子レンジへ入れる。
その間にもテレビの中では相手が一般人なのか、芸能界の人間なのかと予想し合って盛り上がっているようだ。昼のワイドショーはこういうところがドロドロと人間くさい。朝はもう少し爽やかなニュースをやっていたような気がする。もう久しくその時間帯のニュースを見ていないけれど。
温まったごはんの上に、しっかりと味が染みこんだ豚丼の元をフライパンから移す。先にフライパンと菜箸だけ洗ってしまえば、後が楽だ。
テレビ番組は別の番組へと切り替わったところでソファーへと座って、今日一番話題に上がりそうな御幸一也についてスマホで調べながら大味な豚丼を頬張る。少し醤油を入れすぎたかもしれず、しょっぱいように感じる。
御幸一也。東京出身の二十七歳。高校生活を野球の強豪校で鍛え抜かれて、高校最後の夏に主将を努めて甲子園優勝。その甲斐あって、ドラフトで二位指名を受けて現在所属の東京の球団に入団する。ポジションはキャッチャー。持ち前の分析力とセンスを活かして、入団早々に一軍入りをし、数々のトロフィーを手にする。容姿の良さもあり、女性ファンが多く、みゆかずの愛称で親しまれており、野球ファン以外のファンも数多くいるが、浮いた話は一切ない。バラエティ番組に出演した際には、歯に衣着せぬ物言いと、野球以外のセンスのなさ、趣味と公言している料理の腕前というギャップを見せ、さらに女性ファンの心を掴む。球界のプリンス成宮鳴と幼馴染という事実と、その人気でバラエティ番組でも引っ張りだこである。野球の腕前も球界きってのもので、オールスターは毎年出場し、前回大会のオリンピック代表のメンバーに選ばれ、正捕手を努めた経験もある。
「へー、なるほどなあ」
まとめサイト様様だ。ベースの情報がこんなにあっさりと入手できる。
球団公式のSNSアカウントで写真や動画をチェックして、あとは動画サイトに上がっているバラエティ番組でも見ておけば話を合わせることはできるだろう。
汁に浸かった米をかきこんで、丼ぶりと箸をシンクへと置いて水を張る。あと十五分ででかける支度だ。スキニーを履いて、Tシャツを着て薄手のアウターを羽織って、髪をセットしたら、念入りに歯を磨く。
最後に着替えも入ったカバンを持ってスニーカーを履いたら家を出る。イヤホンを装着しながら駅までの道のりで動画を漁ってみた。ちらほらと学校帰りの小学生も乗車している電車に乗って、間隔の短い二駅分ゆられる。
「こいつ性格わるそ」
短い時間に見た動画からでも十分わかる、食えなさそうな性格。亮さんとはまたちょっと違う、食えなさ。亮さんは〝全部お見通し〟タイプ。その上でこちらの出方を楽しみながら、コミュニケーションを取る節がある。こいつは敵を多く作るタイプ。直感的にどうしたら相手を煽ることができるかを知っていて、無意識下でそれを発動している感じがする。争いの火種を作ること多々ありそうだ。
電車が走る高架の脇を歩いて七分。働いていたバーから引き抜きをされて以来、一年半ほど働いている、BAR DIAMONDの裏口に立つ。リュックサックに片手を突っ込んでキーケースを探り当てると、ジャラジャラとそれを鳴らして一本の合鍵を鍵穴へと差し込む。一晩ぶりなのに少しだけ籠もった空気がもったりと流れ出る。
さ。一旦御幸一也のことは忘れて、今日の仕事をはじめよう。
こじんまりしたスタッフルームに荷物を置いたら、二時間をかけて開店準備の開始だ。
まずは数時間前に酒屋がスタッフルームの隅へ置いていったボトルを店の定位置へと並べる。その流れで、いつもどおり昨晩の亮さんがレジ横に残した買い出しメモをチェック。八百屋だけ行けば問題なさそうで、裏口に停めてある店の自転車で五分のところにある八百屋でカクテルに使うフルーツの買い出しを済ませる。
再び店に戻ったら換気のために窓を開け放って、念の為カーテンは閉めたら、氷類の準備をしていく。淡々と氷を砕いたり、丸氷用に角を取ったり。大学のときにバイトをしていたときは、もっと時間がかかった。そう思えば着実に成長を重ねている。
氷の準備が終われば開店まで残り一時間半弱。窓を閉めて、スマホで最近お気に入りのプレイリストをかけたら作業の続きだ。フルーツを使ってカクテル用のジュースを作ったり、フードの下ごしらえをしたり、カウンター内のセッティングをしたり、テーブルを拭いたり。バイト歴も含めたら七年近くも似たような動きをしていれば無心でも身体が自然と動く。
「お、偉い偉い。順調に準備してるじゃん」
誰もいるはずのないのに突然人に声をかけられて、思わず肩が跳ね上がる。肩どころか心臓も跳ね上がったけれど。
「え、亮さん早くないッスか?」
声の主はわかっていても恐る恐る振り返ってしまうのは、身体に染み付いた条件反射みたいなものだと思う。
あと一時間半は店に来る予定がない、この店のマスターである亮さんの姿がたしかにある。あまりに頭を働かせなさすぎて開店時間を過ぎてしまったかと、肝を冷やしながら時計を確認してもやっぱり十七時四十分。開店まであと二十分もあるし、亮さんのシフト開始までは一時間五十分もある(シフトの三十分前にはスタッフルームにいて混み具合で早めに出てくるけれど)。
「お前の給料を振り込んできたからね」
「あざっす!」
「あと、これナッツ類とか」
亮さんが手にしていた袋。小湊家が経営する店舗のもうひとつのカフェバーから受け取ってきてくれたものを慌てて引き取って、これらもすべて所定の位置へ収納していく。
「あとなに? 手伝うけど」
「あ、あと着替えたら看板に明かり入れてカーテン開けるだけッス」
「あっそ。じゃあ帳簿付けでもしてようかな」
ぐるりと店内を見渡してやり残しの確認をした亮さんが、頷いた瞬間ほっとしてしまった。
スタッフルームに戻る亮さんの背を追って、スタッフルームへと戻る。リュックからワイシャツを取り出して着替えをはじめる。スラックスを履いて、カマーベストを来てタイを締める。うちの店は白シャツ、スラックス、ベストを守ればベストはカマーベストでもフォーマルベストでもオーケーだし、タイも蝶ネクタイでも所謂ネクタイでもいい。と言っても、お店にあったコーディネートをいくつも考えるがめんどくさくて、俺は基本的にはカマーベストで、タイを二、三パターン気分でローテンションさせるだけだ。俺のそういう性格を見越してのルールな気もする。
「じゃ、今日もよろしく」
「うっす!」
BAR DIAMONDの看板に明かりが灯る。本日も穏やかに営業開始だ。
週の半ばだというのに、ありがたいことに今日も盛況だった。けれど明日も仕事のお客さんが多いこともあって、二十二時あたりからひとり、またひとりと帰宅していく。だいぶ人も減って、これくらいの人数であれば少し抜けても亮さんひとりで回せるだろう。軽食を済ませる休憩に入ろうとしたら、カラン、とドアのベルが鳴ってひとりの男が入店してくる。
「すみません、ひとりなんですけど」
夜なのにキャップを目深に被って、外の闇夜を纏ったような雰囲気の男はなにかスポーツや肉体労働でもしているのだろうか。ずいぶんと体付きがガッチリとしている。
「いらっしゃいませ。カウンターにどうぞ」
目の前の空いている席を示せば、どことなくおずおずと怯えた様子で店の奥へと進んでくる。その割には慣れた様子でバーチェアに軽やかに腰を落ち着けた。彼の前にコースターとおしぼりを出したけれど、それに気づいたのかいないのか。周りをきょろきょろと見渡した後に、ゆっくりとした動作でキャップを脱いだ。
その顔の既視感に驚いてしまったのが顔に出そうになり、慌てて表情筋に神経を巡らせる。
昔から思ったことが顔に出やすいことを亮さんに指摘され続け、ここ数年怒りに関してはヤンチャをしていた頃を思うと比較的押し殺せるようになったものの驚きにはまだ弱い。横顔に亮さんの視線が刺さった気がするけれど、そちらを向いたら白状したと同義になってしまう。
「オーダーはお決まりですか?」
「あ、えっと、こういうちゃんとしたバーってはじめてで……」
「そうなんですね」
「はい……先輩の紹介なんですけど、いいから言ってこいって言われて……」
落ち着かない様子で凛々しい眉毛を垂らし、瞳を頼りなさげにゆらしている。捨てられた子犬や子猫のような雰囲気でこちらの保護意識をくすぐられる。
「ご来店ありがとうございます。普段はどんなお酒を飲まれているとか教えて頂ければ、オススメ致しますよ」
「普段ビールとか安いハイボールばっかりで」
頬を掻いて視線を落としてしまった彼に、にこりと笑ってみせる。はじめてバーに訪れるお客様にはそういうタイプのお客様も多くいる。そこはプロの腕の見せ所だ。
「では、甘いものは得意ですか?」
「あー、苦手……得意ではないですね」
「なるほど。あとはアルコールには強いですか?」
「強い、ほうではないですね。量は飲めるんですけど、度数が強いのは駄目っぽくて……」
まずは定番なカクテルを勧める方がとっつきやすいだろうし、甘いものが苦手でアルコールはほどほどの強さであることが分かれば、選択肢はグッと狭まる。
「ウォッカベースをジンジャエールで割ったモスコミュールか、ジンベースを炭酸水で割ったジントニックとかはどうでしょうか? 定番なカクテルなんで居酒屋とかでも見かけるかと」
俺の提案を聞いた男は、一拍置いて襟足に手を運んだ。刈り上げた後ろ髪を撫でながらまた困ったように視線をさまよわせる。
「ジントニックは少しジン自体に癖がありますが、甘さはないので。俺個人としてはジントニックをオススメしますよ」
「じゃあ、お兄さんのオススメで」
「かしこまりました」
さっそくグラスを用意して氷を入れてカクテルを作っていく。手際よく、でもバースプーンの使い方など多少の魅せるテクニックは疎かにせず。
「バーテンダーって器用なんだ……」
「まあ、不器用よりは器用な人間のほうが多いと思いますよ」
じっ、と手元を見つめられることにも慣れたものだ。はじめの頃こそ緊張して、気が気ではなかったけれど、今となってはなんてことはない。日常だ。かっこいいその姿に憧れて片足を突っ込んで、気づけば全身沈んで、この世界を極めていく覚悟を決めていたのだから、見られることに関しては、見られてこそという気すらしてくる。
「どうぞ」
ころり。グラスの中で氷の山が配置を変えた。
コースターの上で薄暗い照明の光を浴びているグラス。ライムの飾り切りが炭酸の気泡をまとい、光を吸収して輝いているようにも見える。クリアな液体のおかげでその鮮やかさは一層際立っている。
グラスに手を伸ばした男は、そっとやわらかな動作で唇にグラスを押し付けて、味見をするように小さくカクテルを口に流し込んだ。ゆるやかに瞬きをした男が、そのままグラスを傾けて中身を飲み込んでいく。
「すごい。なんだろう、色んな複雑な風味のバランスがほどよくて繊細な味がする」
「そうですか。味覚が敏感なんですね」
「料理好きなんですよ。でもお兄さんがこんな繊細な味を作れるの意外だな」
片付けをする手が一瞬止まる。予測はしていたけれど、本当に一言余分というか、言い方をマイルドにすることを知らないと言うか。やはり〝いい性格をしている〟という俺の見立ては間違っていなかったらしい。
「こんな見た目なんで、よく言われますね」
「やっぱり。元ヤン感あるもんなぁ」
深呼吸をして心を落ち着けてから再開させたはずの手がまた止まる。浮かび上がった感情を押し殺すように、静かに息を吸って飲む。
「はっはっは。お兄さんさ、素直って言われるでしょ」
ゆるやかに顔を上げて目の前の男を視界に収める。眼鏡の奥の目がおもちゃを見つけた子供のようにきらめき、涙袋をうっそりと持ち上げて意地悪に歪んだ唇。そのわかりやすい表情の変化は、顔のパーツが整っているだけにこちらの感情を荒立てる威力が高い。
「〝うぜー〟って顔に出てるよ」
まさしく今しがた飲み込んだはずの感情だ。見事に指摘されてしまったせいで、戻ってきてしまったそれ。愉快なおもちゃを見る視線が俺に向いていることが神経を逆撫でる。
「こんな遅くに油売ってていいんですか? 早く帰らないと彼女さんに怒られません?」
反射的に口から飛び出した言葉は、接客業にあるまじき内容だった。きょとん、と目を丸めた男の表情に我に返って咄嗟に亮さんの顔色を窺うものの、聞こえてはいないらしい。目の前の常連客と楽しそうに会話をしていた。
男にも悪いことをした。中々直らない喧嘩っ早さに自己嫌悪の渦に溺れる中、重たい口を開く。
「それ、誤報だからさぁ」
申し訳ございません、と出るはずの言葉がケラケラと笑う男・プロ野球選手の御幸一也の声によって掻き消される。
「へ?」
「だって、俺オトコにしかキョーミないのにさ、ありえなくない?」
とんでもない爆弾を投下した御幸一也は、目を細めて唇をわずかに尖らせる。そのままゆるく弧を描かせた唇の動きに、気づけば魅入っていた。男も女も誘う艶のある色気がにじみ出ていて、俺のバカな心臓が狂う。
御幸一也は表情を崩したあとグラスの中身を煽る。おかわりを告げられて、思考が追いつかないまま身体は新しくジントニックを作るために動き始める。
落ち着きを取り戻さない心臓に焦りを感じる。目の前にいるのは紛れもない男であり、そこらの男よりも遥かにガタイのいい職業野球選手だ。なにを勘違いして心臓を高鳴らせているのか。
「ってか、知ってるなら愚痴聞いてほしいんだけどさ」
「え、あ、いいですけど」
「あ、野球興味あります?」
「一応大学までやってたんで……」
憑き物が取れたのか、猫被りを止めたのか。急に饒舌になった御幸一也は、瞳をキラキラと輝かせて、身を乗り出す。俺を置いてきぼりにして舌がよく回っていく。
「まじ? ポジションどこ? 打順は?」
「ショートで一番」
「すげーじゃん! なに、足早いの?」
「まあ、足は自慢だったんで」
邪気を一切感じさせない表情の輝きを眩しいと思った。店中の光を吸い取って、内側から輝くその美しさ。
想像の域からは出ないけれど、御幸一也が野球を心底愛していて、最前線で戦うために努力を怠ること無くその経歴に胸を張れるからこその輝きなんだと思う。野球をドロップアウトしてしまった俺には、ダイヤモンドを太陽に翳したような光は眩しすぎる。
「どんな選手だった?」
「打率はしょっぱいけど、転がりさえすれば出塁できる足があって、あとは盗塁センスが抜群でゴロでも進塁できるリードオフマンだったよ。守備もまあ最初に比べればマシになったよね」
「マスター!」
何を考えているかは読み取らせてくれない完璧な笑顔で俺の隣に立った亮さん。その手に握られたボトルを俺の背後から取るためだったんだろうけど、にこにこと笑う顔にリンクして御幸一也の笑顔も強くなっていく。
「哲から聞いてるよ。不運だったね。倉持が相手するからゆっくりしていきなよ」
「あ。ありがとうございます」
「え、俺休憩……」
「色つけておくから、哲の頼みだと思って聞き相手してやんなよ」
「……うっす」
有無を言わせない笑顔に勝てたことなんて一度もない俺は、ただ頷くことしかできなかった。あっさりと俺の休憩返上が確定してこっそりとため息を零した。
でもまあ、入店してきた時は重たい空気を背負って迷子のような雰囲気だった御幸一也が、会計のタイミングではすっきりとした笑顔だったから、良しとしよう。
俺の自己嫌悪も払拭されて、お客様の気分転換に成功したのだから、その価値はあったはずだ。
★ ♢ ★
カラン。とドアにつけたベルが鳴って顔を向ける。ついつい顔を顰めそうになるのは来店客が御幸だったからだ。キャップを目深に被ったまま、案内をする間もなくまっすぐ俺の前のカウンター席に腰を下ろすと、キョロキョロと店内を確認してからキャップを脱いだ。
今日は急いで来たのだろうか。髪の一部がぴょん、と跳ねていた。
「オーダーお決まりですか?」
「ジントニックとオリーブ」
「かしこまりました」
御幸の一杯目のオーダーは基本的に同じ。いつもあのジントニックとそれからつまみにオリーブを頼む。二杯目以降は気分で別のカクテルを頼むようになって、少しずつ自分の飲めるもの、飲めないものを分類して楽しんでいる。
おしぼりとコースターを御幸の前に用意して、お望みどおりいつもどおりを心がけてジントニックをつくる。
「なあなあ。俺今日ホームラン打ったから、ご褒美にライン教えてくれよ」
コースターの上に置いた、できあがったカクテルに手を伸ばした御幸の瞳の奥が、きらりと光る。さらにその奥ではまだ試合の興奮が燻っていた。熱い炎が妖しくゆらめいていた。
「何度言えばいいんだよ。却下だ、却下」
「えー、いいじゃん。亮さんは良いって言ってるんだから教えろよ」
なにが御幸の琴線に触れたのかわからないけれど。あれ以来常連客となったと思えば、ずっとこの調子で俺に絡んでくる。
亮さんも面白がっているのか、ニッコリ笑って御幸の肩を持つだけだ。絶対に御幸の相手はしてくれない。俺が別のお客様を接客していると、スマートに会話に混ざって接客を変わり、御幸の前へと移動させられる始末。解せない。
きっと理由は亮さんが贔屓にしている球団の正捕手であり、五番バッターを務めるのがこの御幸一也で、このバーに来店した以来調子がいいからだろう。こいつがそんな繊細な玉には見えないけれど、アスリートのルーティーンを乱して調子を崩してほしくない、とかそんなことだと思う。それでもやっぱり解せない。
たしか三度目の来店のときなんて――。
ピークを超えてすこし落ち着いてきたからと、断りを入れてスタッフルームへと引っ込んだ。 三十分で軽食を済ませて十分で煙草を吸って、五分で身だしなみを整えたらまた店に戻らなくてはいけない。大急ぎでまかないのサンドイッチを用意して、スマホでシフト中にあったニュースをチェックする。バクバクとサンドイッチに食らいついているときだった。
急に大人数の来店があったときの為にカウンターへスイッチが設置されている呼び鈴が鳴った。
どんな様子かとスタッフルームから出てひょっこりと顔を覗かせると、ミニキッチン越しにカーテンを捲った亮さんと目があった。
「倉持ご指名」
「はい?」
オープンから二年もこの店で働いているけれど、指名なんて制度聞いたことはない。誰か俺の知り合いでも来店したのだろうか。それならそうと先にスマホに連絡を入れてくれればいいし、亮さんも普段ならそれくらいで休憩から呼び戻したりしないのに。
「早くしな」
「っす」
仕方なく急いでスタッフルームに戻って、食べかけのサンドイッチにラップをかける。ゆるめていたタイを結び直す。ペットボトルのお茶で口を濯いで、ミントタブレットを噛み砕く。
慌ただしく店に戻って膝から崩れ落ちそうになった。
「休憩中に悪かったな」
「……お前かよ」
へらへらしてカウンター席に座っている御幸一也に、今すぐスタッフルームにUターンしてサンドイッチの続きを食べたい衝動に駆られた。
「ジントニックとオリーブとあとポテトで」
「……かしこまりました」
うんざりとした気持ちを隠さずに顔に出してもどこ吹く風。何事もなかったかのようにオーダーを通されてしまっては、カウンターに立った以上無視することはできない。手を洗ってグラスを用意して、とカクテルを作りはじめる。
「暇なんですか?」
「いや? 暇ではないな。今日も連戦終わりだし」
カウンターに頬杖をついて俺を観察する目は確かにまだ試合の色を残している。
「家でゆっくりしなくていいんですか?」
どーぞ。と出来上がったジントニックをコースターの上へと置く。素朴な疑問だ。家がどこかは知らないけれど、タクシーを呼んでいることを考えると特別近いわけではないのだろう。それなら試合で疲れた身体をのんびりと自宅で休めたいとは思わないのだろうか。
「んー、倉持サンと話したほうがリラックスできるからいいんだよ」
その声は随分とやわらかかった。店の空気にあっという間に溶けて馴染むような、角を取った氷にあたるアルコールの流れのような。引っかかりを感じさせない耳に落ち着く声だ。御幸は目を細めて手元のグラスを見つめている。まつ毛の隙間から覗くその視線は、俺に向いてはいないし、声と同じように静かなものなのに、酷く落ち着かなくさせる。アンバランスな様子にそれ以上俺は何も言えなかった。
そうかと思えば、頬を上気させた酔っぱらいの状態で来店したこともあった。支離滅裂な会話に苦笑いを零しながら、最初にいつもの一杯目を提供しながらあわせてチェイサーも並べる。
「倉持ぃ、聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる。後輩の言う飲み会が合コンもどきだったから逃げてきたんだろ?」
テーブルにいるお客様用のカクテルを作りながら、話が飛び飛びで感情がダダ漏れの愚痴はしっかりと聞いていた。
例の熱愛報道は球団側がきっぱりと否定して数日後、すっぱ抜いた週刊誌が謝罪文を出した。どうやらモデル側の売名行為だったようだ。そうなると色恋の話が一切ない御幸を心配したお節介な同期が御幸の後輩に飲み会のセッティングを命令したらしい。あからさまな合コンだと、入店した瞬間御幸が気づいて帰ってしまうからと、はじめはチームメイト少人数で飲んでいるところに後から知り合いのようにふたりほど同期がチョイスしたモデルが同席したらしい。
ハイペースに酒を酔ってわざと酔い、介抱を申し出るモデルを振り切って逃げてきて今に至る。
「そう! だから今度倉持デートしよ」
「いやいや、なんでそうなるんだよ」
「再来週の水曜。倉持休みだろ? 俺もオフだから映画でも行こうぜ」
「なんでシフト知ってんだよ……」
聞かなくてもわかる。犯人は亮さん以外の何者でもない。俺のラインを勝手に教えていないだけまだ良心的だと思うしかない。
「いつも何時に起きんの? 車で迎え行く」
だらしなく表情をゆるませて笑っていた。テレビや雑誌などのマスメディアでみかけるような不敵な意地悪い笑みではない。もっと気の抜けた、おそらく御幸の本質的なものに近いものに触れた気がした。
「行かないですよ」
「今人気だっていうアクションのやつ、観に行こうよ」
「人の話聞く気がねえな?」
御幸と会話をしていると無意識に口調が砕けてしまう。接客モードから引きずり出されると言うか、親しい友人と話しているような気分になってくるから不思議だ。価値観や好みは似ていないというのに、何の引力が働いているのだろう。
「今度、逆転ホームラン打ったら考えてやる」
「やった! 約束だからな! 俺そういうの強いから行きたい場所考えとけよな」
「行くって言ってないですよ。考えるだけ」
「倉持はきてくれるよ。大丈夫」
なんの根拠もないというのに無駄にキメ顔でまっすぐと見つめてくるもんだから、ヒャハ、と笑いがこぼれてしまった。直後の御幸がやわらかにあまく笑ったのがこそばゆい。
その空気に飲まれただけだ。遊び相手などくさるほどいるだろう男が何度も何度もめげずに誘ってくることに同情しただけだ。頭では既にどこなら貴重な休みを使って出掛けてやってもいいかとうっかり考えてしまった。
「だって! 逆転ホームラン打ったらデートしてくれるって言ったのもまだなんだぜ? ラインくらい教えてよ」
「俺はデートなんて一言も言ってねえし、考えてやるって言っただけで行くとは言ってねえだろ」
「倉持、知ってる? そういうの屁理屈って言うんだぜ?」
つくづく人の神経を逆撫でるのが得意な奴だ。思いっ切り顔を顰めてしまった。
「洋くん、いい加減教えてあげてもいいんじゃないか?」
「絶対にしつこく連絡してくる気がしませんか? だから嫌です」
御幸が通いはじめて半年。あまりにこんなやり取りをしすぎて一部の常連客にとっては、恒例行事みたいなものになってしまった。その上、ほとんどが御幸の味方をするものだから、俺は大変だというのに、御幸はにんまりと笑うばかり。
「ほら、倉持。タカハシさんもこう言ってるんだし、いいだろ?」
「そうだよ洋くん。減るもんじゃないし」
「タカハシさんまで勘弁してくださいよ……」
オープン当初から、というよりもその前の店から通ってくれている常連客であるタカハシさんまで御幸の肩を持ちはじめた。半分以上おもしろがっているのがはっきりと顔に描いてあるけれど、悪気がないのもまた顔に描いてある。
自分の息子世代がワイワイしている輪に混ざれるのが楽しいのだろう。あんなに表情を輝かせている。
「御幸くんもうひと押しだぞ!」
「倉持、お願い! 不必要な連絡しないから! ってか俺もともと連絡不精だから安心して」
パンッ。と音を鳴らして両手を合わせた御幸が頭を下げる。そしてチラチラと上目使いで俺の様子を窺う様は、まあなんというか。俺がオンナだったらこの面の良さに屈服していたかもしれないけれど、俺は男だ。
「洋くん、ほら」
「倉持、タカハシさんのお願いだろ?」
しまいには亮さんまでニヤニヤと笑って参加しはじめて、数分前まで亮さんが接客していた事情を知らないお客様までそうだそうだと声を上げる。
「マスターまで……わかった、わかりました! 教えればいいんだろ!」
洗い物をしていた手を拭いて、メモを取る用のボールペンを握ってショップカードの裏面にラインのIDを書き留める。わざと一文字くらい書き間違えてやろうかと思ったけれど、そんな小賢しいことをしてもすぐにバレてまた喚かれるに違いない。面倒になったらそっとブロックすればいいだけだ、と自分を言い聞かせてそのカードを御幸に差し出す。
目を輝かせてそれを受け取った御幸はすぐにスマホを取り出した。いそいそと何度もカードを確認しながらIDを登録していく様が、不思議に思えた。
なんで御幸は俺なんかにこんなにも固執しているのだろうか、と。さては他に友達と言えるような人間がいないのだろうか。
「メッセージ送ったから」
「仕事終わったら見る」
「わかった。待ってる」
「明日移動日とかだろ? 待たずに早く寝てください」
そうは言ってもきっと寝ずにいるのは目に見える。仕方がないから仕事が終わってスタッフルームに戻ったらすぐに確認して返信をしてやるしかない。
一体どんな面倒な内容が送りつけられているのかと頭を痛めたものの、目の前で上機嫌に鼻歌まで歌いだしそうな御幸を見たら、悪くもないように思えた。