【倉御】香る【サンプル】 延長していた練習にすっかり没頭していて、気づけば風呂の時間が差し迫っていた。早く入ってしまわなくては後ろが詰まるし夕食を食いっぱぐれる。大慌てで着替えを済ませて、洗面用具入れとタオルを抱えて風呂へと走った。
「あ」
「お」
脱衣所のドアを開けたところで、まだ脱衣所に残っていた御幸と視線が交わった。
「なんだよ。お前も今からかよ」
脱衣所のドアを後手に閉めてずかずかと棚へと進んでいく。御幸はシャツが脱ぎ捨てる後ろを通り過ぎてみるが、空いている棚はほとんどない。仕方なく御幸のふたつ隣の棚へと荷物を置く。
「降谷に捕まってた」
「こっちは沢村」
奥村と春市も巻き込んで、新しい武器が使えるか試させろと喚くバカに午後練習が終わりに指しかかった頃に付き合いはじめたのが運の尽き。午後練習中に完全攻略しきれずに、お互いムキになって続行していたらこんな時間だ。
「あいつらさ、俺らの風呂の時間が先だってこと気にしねえよなあ」
独り言にも取れるサイズの音量。風呂場の方から聞こえる水音にかき消されそうだけれど、これは俺に向かって話しかけている時のトーンだ。
俺もシャツを脱いでざっと畳み、ハーフパンツを脱いで畳む。その隣で御幸がシャツやらジャージを丸めて棚へと突っ込んでいくのに眉を寄せていた。いつも思うけど、意外と大雑把なんだよな、こういうところは。
「お前の躾のせいだろ。春市はそんなことねえぜ」
「えー、沢村の日頃の躾はお前の役割じゃねえの? それに小湊はそもそも躾なんていらねえじゃん」
「なんで俺だよ」
「同室だろ。俺はマウンドの上の躾だけで手一杯」
下着まで脱ぎ終えて、洗面用具を抱えて今度は風呂場のガラス戸をスライドさせる。たちまち湯気が脱衣所に流れ込み、肌をしっとりと濡らしていく。夏の手前の気温が上がり始めた今日このごろでは、すこし鬱陶しくも感じる湿度だ。
もうシャワーを使っているメンバーなんていない。なんなら麻生や関、中田たちは入れ違いに湯船から出てきた。
「練習の切り上げ時って意味ならマウンドの上の話だろ」
「えー」
「あいつらの練習したがりはずっとじゃねえか」
「そうなんだよなあ」
ふたり並んで椅子にシャワーをかけてから腰を下ろして、洗面用具も並べる。頭からシャワーを被れば自然と会話は途切れた。
ザアザアと、音のカーテンができる。
砂埃に汗、それから整髪剤を洗い流していく。砂埃がついていない、オフの日ならシャワーを浴びるより先に最初にトリートメントを髪になじませたほうが整髪剤はあっさり取れ、シャンプーも一回で済む。でも練習があるとジャリジャリとした感触が嫌で、どうしても水で予洗いをしてからじゃないと無理。だからシャンプーを二回。一回目はワックスを落とすように簡単に。二回目でしっかりと頭皮の汚れを落とす。
「でねえ。倉持シャンプー貸して」
シャンプーのキャップを外して懸命に振っていた御幸はついに諦めた。俺が許可するよりも先に人のシャンプーのポンプを押していた。
「お前昨日、同じことして限界まで使ってただろうが。ちゃんと詰めてこいよ」
「宿題やってたら忘れた」
「フザケンナ、使った分返せ」
「明日詰めてきたら使っていいから、許せって」
へらへらと笑いながら、髪をガシガシと洗っていく御幸に舌打ちをひとつ。こいつに舌打ちが効かないことが分かっていても反射的に出てしまう。その音を聞いてニヤニヤしているのがムカついて、腰にできた青黒い痣に指を伸ばす。
「っい‼」
「ヒャハハハ! ざまあ」
「お前、痛いの知ってんだろ⁉」
次の瞬間、飛び上がるほどの鈍い痛みが太腿に走る。そこにできているはずの痣を突いた御幸の頭をこれまた反射的にひっぱたく。
「てめえ、何してんだ!」
「倉持が先にやったんじゃん」
「人のシャンプー勝手に使うからだろ」
今度は脇腹にできたでっけえのを狙ってやった。指先が肌と筋肉を押し込む感触。弾力のある筋肉に、濡れたせいでしっとりと指先に馴染む肌の感触が脳に焼き付いて固まる。
「痛い痛い!」
仕返しで軽く押すだけのつもりだった。けれど、脳がバグって押し込んだままフリーズしてしまったのはさすがに俺が悪いだろう。
「あ、わりい。つい」
「ついで長押しすんな!」
「仲がええんはわかったから、風呂くらい静かに入れや!」
「「仲よくねえ」」
風呂場に反響したゾノの怒声に、反射的にお決まりの言葉を返す。嫌いではない、でも別に仲良くなったつもりもない。
「……ハモってるじゃん」
ノリの一言。ナベちゃんと白洲の頷きにぐう、と言葉を飲み込む音が喉から溢れた。
他の誰かと仲がいいと言われて、よく一緒にいる奴なら「まあ」と半ば肯定するし、そうでもなくても「そうか?」と軽い否定で終わる。ナベちゃんとか白洲なら「だろー」と答える。
でも、クラスも一緒で同じく一年の頃から一軍(御幸のほうが三ヶ月くらい早かったけど)にいて、同じ環境で過ごす時間が長い御幸と仲がいいと言われると全力で否定したくなるのはなぜだろうか。自分でも疑問でならないが、脊髄反射で否定の言葉が口から飛び出てしまうんだからどうにもならない。
きまりが悪くて、だんまり。口を噤む。それすらもきまりが悪くて、口を開かなくていい言い訳としてシャワーを頭から浴びてシャンプーを洗い流す。
視界の端っこで、泡が排水口に向かって緩やかに流れていく。
一緒に気まずさも洗い流して、顔にかかって邪魔な髪をかきあげた。その流れのまま身体を洗い終えて床に残った泡も洗い流す。
「そろそろ二年くるよ」
「おー、すぐ出る」
ナベちゃん、工藤、白洲、ノリが、俺たちが湯船に足を浸けるのと入れ違いで立ち上がる。ゾノは気づかない間に出ていったらしい。
別に下級生がきたから上がらなければいけないルールはないけれど、上級生がいる風呂は気が休まらないだろうし、何より騒がしいのが来る前に退散したい。
肩まで浸かれば自然とこみ上げる声。じんわりと筋肉があたたまり、緊張と疲労がほぐれていく。
◆
「倉持、はい」
「あ?」
今日は昨日よりも早く風呂に向かった。その道中で御幸と白洲とノリと一緒になった。白洲とノリの音楽談義に混ざりながら、シャワーを浴びていたら当然のように隣に座っていた御幸が自身のシャンプーをこちらへと寄越してきた。
「昨日貸すって言ったじゃん」
「あー、言ってたっけ」
「そ。これで貸し借りチャラな」
正直どうでもいい。毎日のことであれば文句を言うし、借りを返せと迫るだろうけど、時々詰替を忘れたときにワンプッシュ使われるぐらいで怒りはしない。ただ、俺が貸して当然のように許可を出す前に勝手に使い出すことに怒っているだけで。
気にせず自分のものを使おうと手をのばすと、近づけられた御幸のシャンプー。そして横顔に突き刺さる視線。
「……へいへい」
仕方なく御幸のシャンプーへと手の行く先を方向転換する。
ワンプッシュ。いつもとは色の異なる液体を手のひらで泡立てて髪へと含ませる。立たせている前髪と頭頂部の髪を重点的に洗って、ざっと泡を流す。もうワンプッシュ。今度は頭皮全体を揉みながら洗う。
「今日、御幸が受けるのノリの番だっけ?」
「多分?」
「え、御幸そういうところあるよな。よくないと思う」
ノリが人を睨むなんて貴重だと思う。でも睨まれて当然の回答に思わず俺も、じっとりとした視線を向ける。
「いや、だって順番だったとしても、ノリが俺じゃない方が良いとか、今日は投げる感じじゃないって言うかもしれねえじゃん」
どのポジションよりもメンタル状態が重要なポジション。たしかに御幸の言うことにも一理あるが、こいつの言葉の足りなさは人の誤解を生むのが相変わらず得意らしい。
「俺らの代のエースはノリだけなんだから、ノリが受けろって言うなら受けるって」
ばっちりキメ顔。シャンプーが終わって髪をかきあげた状態で、真剣な顔をしていると、ああ女子ってこういう顔好きそうだなあとくだらない思考が浮かんだ。
「……御幸ってそういうところあるよな」
「なんだろ胡散臭い」
「ヒャハハ、信用ゼロじゃねえか」
「えええ⁉ なんでだよ」
眉をくしゃりと歪める。いつものへなちょこな御幸の表情に腹の底から笑いが溢れた。キメ顔なんかよりもよっぽどその顔のほうが御幸らしい。
真剣な顔はキャッチャーマスクの下と、バッターボックスの中だけで十分だろ。時折見せるその表情は、御幸が別の人みたいで少し苦手だ。
「日頃の行いが悪ぃんだよ、お前は」
「そうか?」
「御幸は投手のためなら平気で嘘つくから」
「えー、そんなこと言われても」
揃って身体を洗いながら会話を続けていたら、徐々に御幸が拗ね始めた気配がする。ごにょごにょと口先だけで言葉を転がし、唇が少し尖って、眉尻が大きく垂れ下がる。わかりやすい変化に、内心で大笑いをする。
でも、御幸はチームの勝利のためにそれらをしていて、それは確かにチームの勝利に繋がっているわけで。
「ま、実際いまのでノリのスイッチ入ってるしなあ」
「え。倉持よくわかったな」
「ノリが思ってる以上にわかりやすくスイッチ入ったぞ」
「え、健二郎も?」
今度はノリがわたわたし始めた。そしてこっちもわかりやすいくらいちょろく気分が戻ってきたようだ。
「じゃ、ノッた球楽しみにしてるわ」
「えー、なんか悔しい」
ゲーム仲間の中田や、気の合うナベちゃんもいいが、やはり一年の頃から一緒に一軍入りを守り続けてきたこのメンバーは他の奴らとは違う、気兼ねない空気がある。たくさんの苦難を乗り越えてきたチームメイト。
「ヒャハハハ。打席立ってやろうか?」
「倉持じゃ打てないから、白洲のほうがいいだろ」
「てめえ、シバかれてえのか?」
前言撤回。もう絶対御幸の味方はしてやらねえ。
はっはっはっ、と大きな口を開けて豪快に笑う御幸を無視して、ずかずかと湯船へと向かう。こういうときは無視だ無視。今日の残りの時間は徹底的に無視してやろう。
決めたことはしっかりと貫いて、御幸を完全無視してやった。ぐったりとしている浅田を横目にベッドへと潜り込む。
枕に頭を埋めてタオルケットを頭までかけた。その風圧で嗅ぎ慣れない匂いが鼻を掠めて、眉を寄せる。数回、すん、すん、と鼻を鳴らした。
(ああ、そういや御幸のシャンプー使ったからか)
こだわりなくファミリー向けのシャンプーを使っていそうだけど、制汗剤でも有名なメーカーのメンズもののシャンプーの匂い。男家庭だということを思い出せば、まあ納得か。
違和感の理由が分れば、明日に向けて意識を手放すだけだ。
今日も限界まで練習をしてぐっすりのはずだったのに、不意に瞼が持ち上がる。まだ真っ暗で、沢村のイビキの音がうるさい時間。カーテンの隙間からも溢れてくる明かりは人工のものだけ。
スマホで時間を確認すれば、ベッドに潜り込んでからまだ二時間半しか経過していなかった。
(……寝れねえ)
ぎゅっと瞼をくっつけてみても、意識を遮断しようと無を心がけても、再び眠りにつくことができない。寝返りを打つたびに、いつもと違う匂いが香って鼻の奥に残る。
爽やかで男らしさとスポーツマンらしい匂いが鼻の奥から脳を刺激する。伝達を受け取った脳は、普段この匂いをまとっている男を記憶から引っ張り出してくる。
御幸の姿と声が脳を満たしていく。
授業中に窓の外に余所見をしていたら何かを見つけて不意に表情を崩したり、ノートの下にスコアブックを開いて視線を落としていたら急に当てられて眉尻を垂らしたり、盗塁を狙う走者を刺す弾丸を放った燃えた目だったり、投手のウイニングショットを狙い済ました鋭い横顔だったり、痛快なホームランを浴びせてダッグアウトへ戻ってくる晴れやかな笑い顔だったり、急にどこか遠くを見つめて消えてしまいそうな姿だったり、俺を見つけて笑ったと思えば声を弾ませて俺の名を唇に乗せたり。
なんでそんなわけのわからない記憶ばかりが浮かんでは消えていくのか。しかもそれに対して、心臓が不規則な音を立てるのか。
(あああ! くそっ!)
下段に眠るやつがいないことを良いことに、勢いよく飛び起きる。スマホだけ掴んで忍び足でベッドを降りたら、机の引き出しから小銭を握りしめて五号室から抜け出した。
夜はまだ春に近い風が抜けていく。心地のいい、寒くも熱くもない風が、前髪と遊んでいった。洗面所へとたどり着いたら、蛇口をひねる。冷水を両手のひらに溜めて顔を洗ってどうにか、脳内ごと洗い流そうとした。
水を溜める手のひらがやけに火照っているように感じる。出しっぱなしで冷たくなっているはずも頬に当たるのは心地いいくらいの温度に思える。
どれくらいそうしていたのかはわからない。
ようやく落ち着いた頭で、蛇口を締めた。キュ、という高い音が洗面所に響く。
雑に拭って顔を上げた先にある鏡を見つめた。顔のいたる所に水滴を残した、前髪が濡れて額に貼り付いている男の目は夜更けには似合わないほどギラギラと燃えている。瞳孔が開いているのか、月明かりに虹彩が反射しているだけなのか。飢えた獣のような目をしている。
洗面台に手をついて溜息を吐き出す。一体自分の身体に何が起きているのか、さっぱり理解ができない。そして一向に眠気がくる気配もない。
できるだけ足音を立てないように注意しながら、真夜中の寮の敷地を歩く。たった独り、生き物の気配がない中で月の光を全身に浴びながら、自販機の前に立つ。ポケットから取り出した硬貨を一枚ずつ投入して、点灯したボタンの中から上段にあるボタンをひとつ押した。
ピッ、という軽快な音の直後にガコン、と静かな夜に響く音をたててペットボトルが吐き出される。唸り声を上げて冷却装置を稼働させるその機械横のベンチに、ペットボトルを握ったまま腰を下ろした。
のんびりとした動作で空を見上げる。自販機の明かりのせいで、すこし見えにくいけれど星がいくつか瞬いている。夏の夜空は水蒸気が多いせいで、星がぼんやりとしていて輝かしいはずの光は霞んでしまっている。
その分、大気中の屈折によって空が近く感じる。高い建物の上に登って手を伸ばせば届きそうな、そんな錯覚を思わせる。届くと良い。夏の空に打ち上げられた白球も全部手が届けばいい。
「……寝るか」
なんだか今なら眠れる気がした。
買ってから、ただ手の火照りを冷ますことに使われていたペットボトルのキャップをようやく開ける。口をつけて傾ければぬるくなったスポーツ飲料が口に広がりあまったるさが残った。
◆
虫の報せだったのか、目覚める前の夢見が悪かっただけなのか。あの日以来なんてことはない。
西東京大会がはじまり、いよいよ青道の初戦も数日後に迫っている以外は、いつもどおり野球にどっぷり頭の天辺まで浸かった日々を過ごしている。すでに夏が終わってしまった高校もある。
翌朝は御幸と顔を合わせるのが気まずかったけれど、朝練をしている間に頭から抜け落ちてあの晩のことはすっかり忘れていた。たった今しがたまで。
「あ、悪い」
「え、何が?」
「え、あー……そのムカつく顔小突きたくなったから?」
いつもだったら気にしない。昼休みに御幸の前の席に座って購買のパンを齧っていたら、御幸が眺めていたスコアについて話しかけてきたから、覗き込んだだけ。なんら謝るようなことは起きていない。
ただ、距離が縮まったときに香った匂いが俺と同じシャンプーの匂いで、なぜかドキ、と心臓が音を立てたから。つい反射的に謝ってしまった。
そういえば昨晩監督に呼び出しをされた後、投手陣に伝達を行っていたせいで風呂の時間が遅くなった御幸が慌てて部屋に戻ろうとしていた。それを風呂上がりの俺が見つけて、俺の洗面用具を押し付けて風呂に入りに行かせ、その間にタオルと着替えを脱衣所に持って行ってやった。
だから、御幸から俺のシャンプーの匂いがするのは当然。時間差で頭では理解できたけれど、指先に力が入る。身体の中心に火が点いたみたいにジリジリと何かが燻る。
「は⁉ 急にこわ!」
俺の言葉に両手で顔面を覆った御幸に、別の申し訳無さを覚える。さすがの俺も、御幸の顔であっても、急にどつきたくなるようなことはない。
「ヒャハハハ。ムカつく顔してっからな」
「元々こういう顔ですぅ。慣れてくださいー」
「おう、そのうちな」
「いや。で、ここなんだけどさ、」
再び御幸の指がスコアブックを叩く。投手のために手入れされた色のついた爪。まあるくきれいに整えられた野球のための手が指差す先。
もう一度覗き込む必要があるけれど、未だにどっかの内臓が燻っている感覚があって、近づくのが躊躇われる。
いつまでも躊躇していても御幸に不審がられるだけだ、と気を取り直してひと思いにまた距離を詰めた。
(あれ? 俺とおんなじなはずだけど、なんかいい匂いじゃね?)
スン、と鼻を鳴らす。
間違いなく同じシャンプーの匂いではあるけれど、なんかもう少しあまい匂いというか、記憶に残る匂いというか。
そちらにばかり思考が偏ってしまって、せっかく意を決して距離を詰めたのにスコアが頭に入ってこない。
「お前、なんかつけてたっけ?」
「は?」
「ワックス、はつけてねえよな?」
そういう尖った匂いや癖の強い香料のあまったるい匂いではない、どちらかといえば自然と香る香水のラストノートの中でも特に終わりの匂いが近い。ただ御幸がそんな洒落っ気があるようには思えない。つけていても精々整髪剤や制汗剤ってところだろう。
「え、なに⁉ 汗臭い⁉」
慌てて自身の二の腕に左右交互に鼻を寄せて匂いの確認を始めてしまった御幸に、苦笑いが溢れた。
いやまあ、俺も急にそんなこと言われたら遠回しに汗臭いから制汗剤くらいつけてこい、という歪曲した言い方に取るかも知れない。
「ちげーって。お前にンな嫌味言うくらいなら、ストレートに臭えって言うわ」
胸を撫で下ろした御幸が、すぐに表情を変えた。眉間に深いシワを刻み込んで、疑わしげに俺を見る。
「ボディーシートと制汗スプレーは使ったけど、いつもの無香料」
「ふうん」
では、俺とは違う匂いはなんの匂いなのか。柔軟剤や洗剤の匂いかとも思ったけれど、日頃からそれらの匂いが距離を縮めたくらいで香った記憶がない。
「お前、今日おかしくね?」
思案しはじめていたら、御幸の探るような目が俺を覗き込む。俺自身もおかしいと思うから仕方がない話だ。
だってなんで御幸のから香る匂いで不整脈を起こしているのか、こんなにその香りが気になってしょうがないのか、皆目検討もつかない。でも、不整脈も内蔵の燻りも収まらずに指先は火照っている。
「そうか? 便所行ってくる」
「ん」
自分の身体が別の人間のものみたいだ。なんかぎこちなくて、不自由。便所と言いつつ、手洗い場に来て水で手を洗う。
ジャブジャブ。ジャブジャブ。と何度も手を冷やすためだけに水に晒す。
無心を努めているのに、鼻の奥に残った御幸の匂いのせいで、御幸のことがぐるぐると脳内で渦巻いて、排水口に流れていく水みたいにそのまま俺ごと吸い込まれてしまいそう。
結局なんの匂いなんだろうか。言われてみれば、別の香料と混ざりあったような不快な匂いではないし、それに俺から匂う香りとそれほど大きな違いがあるかと言うと違う。では、一体……。
(ないないないないない! ありえねえ!)
一瞬浮かびかけた思考が形になる前にかき消した。水を止めて、まだ濡れたままの手を首筋にあてがう。急上昇した体温を今すぐに冷ましたいし、俺の頭に冷静さを取り戻して欲しい。
(……まじかあ)
冷静さを取り戻すどころか、クリアになった思考はかき消したはずの想いを引きずりだしてきてしまった。