【御倉】契約期間は365日【再販】 部活の同期のやつらから、明日焼き肉の食べ放題に行こうと連絡がきた。しかもみんなで奢ってくれる。入部して三ヶ月とちょっとしか経っていないけれど、俺たち代の恒例行事になりつつある誕生日の祝い方だ。
さて、これはどうしたもんか。人の金で食う肉に飛びつきたいけれど、多分お伺いを立てたほうがいいんだと思う。一応ついている関係性の名前的には、誕生日というものは勝手に予定を入れると喧嘩の素になるとよく話に聞く。
「あ、もしもし」
『どうした?』
「明日さ、祝ってくれんじゃねえの?」
なんで自分からそんなことを言い出さなくちゃいけない。しかもこの言い方じゃ、まるで俺が祝って欲しいみたいだ。別にそんなことはないのに。
でも三年と少しの経験則がものを言うわけで。この連絡不精で、友達が少なくて、野球……(と俺のこと)しか頭にない御幸が、根回しというものを習得しているわけがない。これで俺が先に予定を入れていたらきっと、しょぼくれて夜に電話をしてくるんだろう。
「ちげーなら、同期に奢らせっけど」
『祝う! 祝わせてくれって』
「ん、じゃあこっちは別日にしてもらうわ」
それだけ言って、一方的に通話を終わらせる。そして同期たちには高校の仲間との先約があるから、当日以外で、と伝えた。多少のブーイングを受けながらも快く翌週に決まった焼き肉の予定を、今度こそカレンダーアプリへと登録した。
そして迎えた、自身の誕生日当日。練習をガッツリとこなして、腹ペコのまま帰宅しようと最寄り駅へと向かえば、案の定改札の向こう側で御幸が待っていた。
「おつかれ」
「おー」
その手に白いビニールがひとつと、透明のビニールがひとつ収まっている。透明の方は白い箱が入っていて、ケーキだということがわかるし、白い方も先にスーパーで買物を済ませたことが容易に想像できた。
「今日なに?」
ふたり並んでホームで電車を待つ。混雑したホームは随分と騒がしくて、御幸がすこし頭を傾けて俺の声を拾うのが、ちょっぴりムカつくけど今更といえば今更。大学に入っても身長の差は縮まらない。広がらないだけマシだと思わなくては。
「もちろんオムライス」
「ヒャハ。ラッキー」
「ケーキは勝手にチョコレートにしちゃったけど、平気だったよな?」
「おう」
沢村の喚き声みたいに騒がしい音を立てながら滑り込んできた電車は、ゆったりと扉を開く。乗車率百五十パーセントの電車にふたりで乗りこんだ。二駅、ケーキに気を遣いながら、持ち前の体幹の良さでなんなく降車する。
「つーか、なんでチョコ? 一般的には生クリームじゃね?」
「いや、俺がガキの頃に親父が誕生日に買ってくるのがチョコレートケーキでさ、つい」
「ふーん」
駅から俺が住むアパートまでの道のりを歩く。時々帰路を急ぐ自転車が颯爽と横を通り過ぎていく。
「倉持ん家は?」
「うちはババアの気分。ジジイが買うと生クリームだったな」
「へー」
中身なんてなんもねえ、実りすらねえ話だって言うのに、にっこにっこ笑っている御幸に苦笑いが溢れる。その顔、お前のファンが見たら喜びのあまり卒倒すると思う。無駄に顔だけはいいからな。
1Kの狭いキッチンからは早々に追い出されて、ベッドの上にごろりと横になる。
もう幾度となく聞いた、ひとり暮らしの部屋に響く御幸が料理をする音。あいつが料理を特技としていることは一応知っていたし、寮で何度かは夜食を作ってもらったことだってあった。だからとはいえ、あの頃こんな未来を想像していたか。
(ま、普通はしねーわな)
ましてや、友人としてではない。一応ではあるが、所謂世間で言うところのの恋人として、というやつだからなおさらだ。
あの卒業式の前夜、御幸があんなこと言い出さなければ、ありえないことだった。
◆
暦上は春になったらしい。とはいえ、三月になったばかりではまだまだ寒くて、セーターもマフラーも手放せない。練習するならグラウンドコートやウインドブレイカー、それからスヌードが手放せない。そんなまだまだ手放せないものが多いというのに、俺たちは明日卒業して、この思い出深い青道高校から巣立つことになるらしい。
随分と前からわかっていたことだし、とっくに進路だって決まっているし、明日から住むひとり暮らしの城だってあとは残りの荷物を送ったら完成する。それでもまだ実感はない。
「なあ、倉持、」
「あ? なんだよ」
なんだか浮ついて落ち着かない気持ちを鎮めるために、身体に染み付いて取れることはない習慣、素振りをしていた。いつものように吹き晒しの土手の上で、御幸と共に。まだ冷たい空気で濃紺が鮮やかな空の下で、なんでこいつはプロを選ばなかったのかなんて考えながら。
「あのさ、俺のこと嫌い?」
「はあ? なんだよ急に、」
唐突すぎる意味のわからない質問に、思いっきり眉が寄った。なに馬鹿な質問をしてるんだと、文句を言おうとバットをおろして振り返って、硬直した。
辛気くさい、やけに真剣な眼差しをしているもんだから、油断もあって気圧された。どうせまた情けない顔しているんだと思ったから。
「なあ、嫌い?」
「嫌いな奴と一緒にいるほど心広かねぇわ」
実際チームメートとして、クラスメートとして嫌いなわけじゃない。めんどくせぇところもあるし、ムカつくところもある。でも才能に胡座をかかずに人一倍努力するところも、誰よりも野球に向き合っているところも知っている。嫌いではない。言うなれば、可もあり、不可もありって感じだ。
それに嫌いなら、俺はこんなふうに連れ立って素振りなんてしない。
「じゃあさ、お願いがあるんだけど」
「お前がお願いとか、明日槍でも降らす気か?」
今から甲子園の決勝でもはじまんのか、っていうような緊迫とした空気が居心地が悪くて、ついいつものような軽口を叩いてみたけれど、空気に変化はない。
「俺に倉持の時間を一年だけ頂戴」
突拍子もない発言に眉間のしわが一層濃くなってしまうのがわかる。御幸がその言葉に込めた真意が読み解けなくて視線だけで先を促す。
「一年だけでいいから俺と付き合ってくれない? 恋人として、」
「はあ?」
「セックスだってしなくていいし、キスだってしなくていい。倉持は今のまんまで特別なことはしなくていいからさ」
御幸のこんな切羽詰まった表情は、初めて見る。いつだってひとり余裕そうな顔を貼り付けて、いけ好かない顔で笑ってるくせに。
なにを血迷ったことを言っているんだこいつは。
「ただ、好きって伝えることを許して欲しい。一年だけ恋人を作るのを我慢してくんない?」
「正気か?」
とても冗談を言っているようには見えないし、もしこれが嘘ならば大した役者だ。ただ、こいつならありえなくもない演技力だから、一応念を押す。
力強く、そのしっかりとた輪郭の顎を深く沈めた御幸は、相変わらず真剣なのにまごついている。
「よくわかんねえけど、お前はそれで満足すんのか?」
「うん」
「酔狂だな」
ふう、と吐き出した息は白く染まって空へと溶けていく。
迷子の子供みたいにゆれ動く瞳で、それでも真っ直ぐと俺を射止めている視線。怖いぐらいに硬くて、辛気くさい表情。なにが御幸をここまで追い詰めて、こんな意味のわからない提案をさせているんだろうか。
恋だの愛だの、そういったユメモノガタリに興味はないとばかり思っていた。もっと目の前の障害のことばかりを捕らえているんだと思いこんでいた。
一体いつから御幸は、人間の抱く感情の中でも最も気高い愛情というものを家族以外に抱いていたのだろうか。ましてやその中でも恋慕という全くの他人へと向けるものを、だ。
「しょーがねぇな、わーったよ」
好奇心。おそらく、それが一番近い感覚だと思う。
青道不動のピッチャーであり、四番でキャプテン。暇さえあればスコアブックを読み込んで、常に打者とリードの分析をしている。投手のためであればヒールになることさえも厭わない、献身さもある捕手。ひとたびそのマスクを外し、グラウンドを出れば、ポンコツ。歯に衣着せぬ物言いをし、人の感情の機微を読み取りきれず揉め事をおこすし、放っておくとどこか上の空になってしまう、野球と顔面にポテンシャルを全振りしてしまった御幸一也が抱いた恋慕とは一体どんなものなんだろうか。
「ごめん。ありがとな」
「だたし! 三六五日きっかり、一年だけだかんな!」
「充分だよ」
どうせ一年目は憧れの背中に並ぶのに必死で彼女なんて作ってる余裕があるわけない。それにまあ変なことをせずに、ただ今までどおりつるみながら、御幸からの愛を受け流していればいいなら、特別害もないだろう。
やっと表情をゆるめた御幸に、ようやく空気がやわらいだ。
◆
「倉持、悪いんだけど、運ぶのだけ手伝ってくんね?」
「へーよ」
ひょっこり、ワンルームの部屋へと顔を覗かせた御幸は、再び廊下兼キッチンへ引っ込んだと思えば、両手につるんと黄色いベールをまとった半月状の丘ができている皿を二枚俺へと差し出す。
ベッドから飛び降りて、二枚の皿を受け取って小さなローテーブルの上に乗せる。積み上げてあった教科書やら、雑誌が崩れそうになって、そっとフローリングの上へと移動させた。
コンソメスープの入ったマグカップふたつを器用に片手で持った御幸は、反対の手でスプーンとケチャップを持ってやってくる。
「ケチャップなんか書いてやろうか♡」
マグカップを置いて、スプーンだけを俺に差し出すとケチャップ片手ににっこりといい笑顔を浮かべている。ジト目で早くケチャップをよこせと、言外に催促してみるけれど無視。
「内容によって書かせてやる」
「すき、って」
「うぜーから却下。ほら早く寄越せ」
ちぇー、なんて言ってる割にはすんなりとケチャップを渡した御幸は、案の定対して残念がっていなくて、むしろだらしなく頬をゆるめている。M大女子たち、お前らがキャーキャー言ってる御幸はこんな締まりのない顔もすんぞ、いいのか。
適当にギザギザとケチャップを絞り出して、御幸に渡して手を合わせる。
「いただきます」
「おう、召し上がれ」
真っ先に口にしたコンソメスープは、細切りのたまねぎの甘味がしっかりと出ていてやさしい味。
待ちきれないと、オムライスに突き立てたスプーンは、やわらかな玉子のベールを破りチキンライスが顔を覗かせる。サッと、グリーンピースが入っていないことを確認して、安心する。
バターの風味がしっかりと効いていて、甘味を引き出されたふわふわの玉子が、チキンライスの酸味をマイルドにしつつ、旨味を口いっぱいに広げる。
御幸のよくわからねえ頼みごとに付き合って、一番良かったのは結構うまい飯にありつけることだな、としみじみ噛みしめる。うまいんだよな、普通に。下手したらかーちゃんより、料理がうまいかもしれない。
「ど?」
「ん、うめえ」
「よかった。チキンささみだけどな」
「ベーコンのやつも割とうまかった」
いつだったか。御幸の家に遊びに言ったときに、オムライスをリクエストしたら鶏肉がないからと、代用品で作られたオムライス。あれはあれで、ベーコンの脂の甘味が出ていてうまかった。
「そ? ほんとお前オムライスすきだな」
「次はハンバーグな」
「へいへい」
残りのオムライスもすべて胃袋に収めるべく、ぱくぱくとスプーンで口に運び込む。俺よりものんびりとしたペースで食べ進めている御幸にちらりと視線を向けたら、ぎょっとしそうなほどの目をして俺を見ていた。
茶色が強い瞳。その茶はプリンとかのカラメルみたいに砂糖を煮詰めたんじゃないか、ってくらいにあまったるい。御幸の愛ってやつは、想像していたよりもきちんと愛だった。あまくて、やわらかで、時々苦しそうだ。
「倉持、すきだよ」
瞳に留めて置けなくなったあまさは、こうして言葉として向けられる。
「きめえ……」
「はっはっ。相変わらず、辛辣だなあ」
契約どおり、俺はあの日まで思い描いていた大学生活とほとんど差分なく過ごしている。生じた差分は、御幸と時間をともにすることが多いことと、その御幸がこうやってやたらと好きだと言いまくってくるくらいだ。
ほんとうにそれ以上は何も求めてきたりはしない。
問題の好き好き攻撃だって、きもい、うぜえ、で打ち返してしまうけど、凹むどころかへらへらとむしろ嬉しそうにしている。最初の半月くらいはその異様さに、練習中にボールが頭に直撃したんじゃないか心配してしまったほどだ。そんなヘマ、こいつが野球でするわけがなくて、ただの通常運転だったわけだけど。
こいつはそんなんで、契約終了時に本当に満足するのだろうか。俺に見返りのないこの契約を延長したいとか言い出さないだろうか。まったくもって、なにがしたいのかさっぱりわからねえ。だけど、それ以上を求められても困るから別にいいんだけど。
バカみたいに暑くて、人間っていうか生き物すべての生存活動に支障をきたすレベルの気温。
よくもまあこんな暑い中でも野球だけはできるもんだ。自分でも恐ろしいと思う。そうは言ってもそれは野球のスイッチが入っている間だけだ。ひとたびオフになってしまえば、いますぐ溶け出しそうだし、暑い以外頭に浮かばなくなる。
一分一秒でも早く家に帰って適度に冷房が効いた快適な空間で脱力したい。
それに明日はオフだ。早朝と夜にランニングと素振りとストレッチをすれば、日中は冷房の中でだらけていられる。まあレポートはやらなきゃいけないけど、それはそれだ。なにより御幸が先に部屋に上がって、冷房を入れておいてくれているだろうし、うまい飯にもありつける。
「あ~、いい匂い」
「はは。おかえり、牛肉安くなってたからハヤシライスな」
御幸がおたまでぐるぐるとかき混ぜる鍋はところどころ茶色に変化しはじめていて、丁度ルウをいれたところだったらしい。
靴を脱ぎ捨てれば、籠もっていた熱から解放されて、それだけでも気分がいい。手を洗いながら、御幸が冷蔵庫からケチャップとウスターソースを取り出すのを眺めていた。
それらを少しずつ目分量で鍋の中に入れたことに、目を見開く。
「え、まじ?」
「隠し味に入れね?」
「入れねえ。ってか自分でハヤシライスとか作んねえ」
普段自分で作るもんなんて限られている。腹が膨れればそれで問題ないからだ。
昼は学食だし、夜だって十日から二週間に一度こうして手料理を食べているし、ひとり暮らしをしていて料理が趣味でもない運動部の男子大学生の食生活なんてきっとそんなものだ。それでも一応はカップ麺とかは控えているんだから、いい方だろう。
御幸の後ろをすり抜けてワンルームへと移動すれば、待っていた楽園。快適な空間。
「はぁ……涼しい……最高」
「今日また一段と暑かったしな」
「だよなぁ……ボール追っかけたり、バット振ってる時はそこまで気にならねえんだけどさ、気づくと汗やべえよな」
「お前、脱水とか気をつけろよ?」
「わーってるって」
鞄をドサリと定位置におろして、バッチリ冷えているフローリングへと大の字に転がる。身体の芯まで火照っていたのがゆっくりじんわりと体温を正常へと戻していく。
「猫かよ」
「うっせ」
よく冷えた麦茶の入ったボトルとグラスを持ってきた御幸が吹き出した。
ローテーブルの上にそれらを置いて、御幸は定位置に腰を下ろす。その様子をごろりと寝返りを打って、左半身を冷やしながら眺める。
波打つ音をさせながら、ふたつのグラスに麦茶を注いだ御幸が俺と視線を絡める。せっかく冷えてきた身体からぶわっと汗が吹き出た気がする。あまりにその視線のあまったるさと熱さが全身を包むから。
緩慢な動作で頬杖をついた御幸はニッと口角を上げた。
「ま、倉持が猫になっても俺は好きなままだよ」
「へいへい」
以前の俺が聞いたら寒イボが立った肌を擦りながら、きめえと吐き捨てただろうげろ甘いセリフ。それらも聞き慣れてくるともうなんとも感じなくて、またなんか言ってんな、と思うだけ。よくもまあ飽きずにいるもんだ。
存外御幸一也という男は、恋愛においてはロマンチストなのかもしれない。どこまでもリアリストで、ストイックに物事と向き合うと思っていたけれど。
相手が俺じゃなきゃ、こいつも同じだけの愛を返してもらえただろうに。少しだけ同情しそうになる。
だからだろうか。時々ギラギラと見た目の雄臭さにあった衝動を瞳の奥に映すときも、俺の話や日々の行動に対してドス黒い炎を瞳にちらつかせて拗ねたオーラをまとっても、あくまで契約どおり。そういった意味合いで触れ合うことも、衝動にまかせて俺の行動や交友関係を制限することもない御幸に、少しならなにか返してやってもいいか、なんて思ってしまうのは。
「飲まないの?」
「飲む」
さらに内側から熱を取り去るべく、身体を起こしてグラスへと腕を伸ばした。
◇
抱えていたどうにもならない愛。ただ捨て去ることもできずに、冗談で済ませてはもらえないかもしれないけれど持ち出してしまった提案に、しばしの逡巡のあと承諾した倉持との契約期間は一年。
契約を交わした声は、しょうがねえなあっていういつものアレがはっきりと出ていた。でもせっかくのチャンスを不意にはしたくない。この一年を俺の記憶の隅から隅へと刻み込んで、その思い出を糧に俺はその後の人生を歩むんだ。
倉持はきっとその後、かわいい彼女を作って、照れながらプロポーズをして、しあわせそうに結婚して、仲睦まじい夫婦として過ごしながら、いつか子供が生まれて、愛情をいっぱい注ぐ。その様子をどこか遠くで見聞きする間も、俺はひとりでこの思い出に縋って生きる。
だから、好きに返ってくる言葉がうぜえとか、きもいとか、うっせえだったりしても、ただ抱えていただけの愛を伝えることができ、その言葉に反応があるという事実がたまらなく嬉しい。だらしなく頬がゆるんでしまうのも我慢できなくて、倉持に本気で頭を心配されたこともあったけど、堪えきれないんだからしょうがない。
それだけでもしあわせなのに、倉持の誕生日プレゼントをようやく決めることができた誕生日前日の午後にかかってきた電話は予想外だった。なにもしなくていいって言ったのに、一応恋人という俺達の関係を気遣ってくれた事実が俺をまたしあわで浮かれさせる。
契約期間の中盤頃に、好きを伝えたあとの言葉がへいへい、や物好きだな、と辛辣じゃなくなった。
その変化に喜びのあまり抱きつきたくなったけど、それは契約違反だからぐっと堪えてる。
しまいには、だ。しまいには、倉持が一度合コンに行った以来すべて断っていることに気づいてしまったし、うっかりヤキモチを妬きかけてしまった後には、その行動を改善してくれているようだった。
そういう律儀なところも好ましくて、なんでもないって顔している男前なところが愛おしくて、手放せなくなりそうだ。どんどんと欲深くなる愛に気づかないフリをして、倉持の隣で今日も愛を伝える。
半年が終わった。残り半年もない。部活が急遽早めに終わった俺が、倉持の大学近くの駅まで迎えに行った。
ぼちぼち涼しくなってほしい願望に反して、まだ夏の気温は続くらしい。それでも、夜はだいぶ過ごしやすい気温に落ち着いてきたから、飯でも食いに行こうと誘った。まあその連絡は練習が終わってから見るだろうし、却下されたら倉持の家でなにか作って帰りを待つか。
「あ、」
改札の向こう。駆けてきて駅前の信号で捕まった倉持を見つけた。練習終わりで疲れてるんだから、歩いて来ればいいのに、わざわざ走ってくるところも好きだ。
「おつかれ」
「悪ぃ、結構待たせたろ」
「いや、俺が急に誘ってるんだし、俺が待つのは別にいいだろ」
しなやかに人の波を交わして、スマホを改札で翳して寄ってきた倉持に頬がゆるむ。
元ヤンのくせに真面目な倉持クンは人(沢村は除く、いやアレは倉持的には忠犬だから人じゃねえか)を待たせるのがあまり好きではないから、不服そうだ。
「それより、何食う?」
「御幸が食いてえもんがあったんじゃねえの?」
「別に? たまには外食もいいかなって」
並んでホームへと歩く。だから倉持が家で飯食いたいなら、スーパーで買い出しして倉持の好物でも作ろかとも思っている。強いて言えば、デートっぽいことをしたいなって思っただけ。
「とんかつ食いてえ」
「あー、たしかにまだこの時期は家で揚げ物したくねえな」
「駅の反対側にさ、うまいとんかつ屋あるらしくてよ」
嬉々と声の弾みだした倉持に、また俺の頬がゆるんだ。
「じゃ、そこにするか」
「ひひ、ラッキー」
わずかに下げながら目を細めて、口角をつり上げたせいであがった頬の肉がやわらかに目尻を押し上げてわらう。
「その顔すき」
やわらかに持ち上がっていたすべてがすとんと落ちる。代わりに眉頭が上がって細めていた目がまんまるになる。ほんとかわいい。思いの他、倉持は表情豊かだ。感情をストレートに表情で表してくれるから、人の感情を読むのが得意ではない俺としてはとても助かっている。
「……あっそ」
きゅっと寄った眉に、俺から逃げた瞳はそっぽを向いた。それが愛しくておかしくて、喉の奥で笑ってしまえば、返ってきたのはケツへの蹴りだった。力加減のされたそれだけど、一応イテっとこぼせば、今度は「わざとらしーんだよ」って睨まれてしまった。
酔払いでもないのに、スキップでもはじめそうなほどご機嫌な倉持。現に季節外れの冬のラブソングを鼻歌で歌っていて、よっぽどとんかつがうまかったのが嬉しいんだろう。
肉厚ジューシーで、衣はサクサクのロースカツに山盛りのご飯とキャベツ。付け合せにコリコリのたくわんとシンプルにじゃがいもだけで勝負のポテトサラダ。それから大根の味噌汁。ボリュームも満点で、運動部の俺らですら腹がいっぱいになった。その味とボリュームの割には、千三百円は安いと思う。ランチ時には、ロースカツ定食は百五十円引きらしい。
俺も気に入ったけれど、こんなに倉持がご機嫌になるのが俺の手料理ではなくて、名前も知らない人間の料理だと思うとちょっとだけムカつくけど、まあこの笑顔に免じて許してやる。かわいいからな。
不意に指先に倉持の手の甲がぶつかった感触に、ドキッと心臓が跳ねた。それこそ倉持の代わりに心臓がスキップしはじめて、手を引っ込める。
チラッと横目で倉持へ視線を配っても、そんなに気にしている様子はなくて、肩の力を抜いた。咄嗟に引っ込めた手も、不自然にならない速度で元の位置へと戻す。
「うぇ⁉」
突然手のひらを包んだ温度に、身体のどっかから変な音が出た。
「ヒャハハハハ! おま、なんだよその声!」
大きい声で笑い出した倉持の振動が、捕まった手を通して伝わってくる。俺の右手は間違いなくいま倉持の左手と繋がっている。
だって、まさか、ありえないことが起きてるのに、冷静でいられるはずがない。わかりやすく、俺の脳も声も心臓も狼狽えてしまって、そのせいで手汗をかいてしまわないか気が気じゃない。
「だって、倉持が急に!」
「なんで?」
目線よりも少し低いところで倉持が首を傾げた。
なんで、っておかしくないか? なんでって。むしろ俺が倉持に問いかけたいくらいなのに。
「付き合ってんなら、こういう時は手ぇつなぐんじゃねーの?」
さすが、亮さんの相棒。さすがチーター様。
その言葉と共に左の唇の端っこをつり上げて笑った目は、いたずらに煌めき心底楽しそうだし、覗いた犬歯は獰猛に光る。
でもそれ以上に言葉の攻撃力の高さ。俺の心臓をフルボッコにして、ギューギューと締め上げる。
「ヒャハっ! 顔真っ赤じゃん、だっせ」
「うるせー、ほっとけ」
ニヤニヤと笑う倉持が恨めしい。だからといって手を引き剥がすなんてもったいないことできるはずがない。だから精一杯左手で赤く染まってしまった顔を隠すだけだ。
気まぐれだって、悪戯だって、倉持から手をつないでくれた事実は変わらないし、その理由も恋人だからだと言ってくれるし。それならもう笑われようが、からかわれようが別に構わないじゃないか。だってこれは奇跡に近いから。