よいこにはならない① 良い大学に行き、良い仕事に就き、良い女性と結婚しなさい。耳がタコになる程両親から言われてきた。その通りにしていれば幸せになれると思い込んでいたし、その通りにできるだけの頭と顔を持って生まれていた。高校3年の時、万全に思えていた足元が崩れ落ちた。コンビニのレジ打ちアルバイトに恋をした。その人は4〜5歳ぐらい年上の男性だった。彼が休憩時間に気だるげにタバコを吸っている姿を見れた日はドキドキしてなかなか寝付けなかった。塾の帰りにそのコンビニに寄ると、いつも彼がレジに立っていた。運命だと思った。
眠気覚ましのミントと栄養ドリンクをカウンターに置いて、ティスプラスを下さい、と彼に告げる。カウンター越しの彼が俺のブレザーの胸章をチラリと見て、什器から濃紺の紙箱を引き出した。紙幣を受け皿に置いて、彼からお釣りを受け取る。ミントだけをポケットにいれて、栄養ドリンクとタバコを彼の方に押し戻す。
「これ、よかったら、どうぞ」
ただでさえ高めの声が裏返る。喉がカラカラと渇いて、体が熱い。彼はポカンとして、それからニヤッと笑った。紙箱のビニールを剥がしてタバコ一本を取り出して俺の目の前に差し出してくる。
「全部もらうのは気がひけるから、どうぞ」
「え、あ、ありがとうございます」
震える両手でタバコを受け取った。胸が苦しい。
「火、あるの?」
「へっ?」
「ライター、持ってるのかって。持ってなさそうだな。ちょっと待って」
彼がズボンのポケットから、使い捨てのライターを取り出した。固まって動かない俺のブレザーの胸ポケットに、蛍光色のライターが差し込まれる。
「バレないように気をつけて吸いな、わかった?」
「は、はい。あ、ありがとうございました」
彼は、俺が彼のことを好きだって、分かってしまったんじゃないか。だから笑ったんじゃないか。彼の発した言葉、身のこなしを何度も何度も思い出しながら歩く。いつの間にかたどり着いた家のドアの前に立ち、握りしめていた片手を開くと、脆い紙巻きは折れ曲がってしまっていた。
「やあ非行少年」
「えっ」
いつものコンビニで、清涼飲料水のコーナーを眺めていた時のことだった。レジに彼の姿が見えず、落胆していたところだったから、会いたいあまりに見た幻覚ではないかと思った。彼から話しかけられたのは初めてだった。
「君みたいな悪い子のことだよ。バレずに吸えたか?」
「吸えてないです、その、ダメになっちゃって」
「ダメになったって?」
「ボロボロになっちゃって」
「ああ、じゃあ俺が直接教えてあげてようか。
後5分で休憩入るから、裏で待ってな」
悪い子。俺、悪い子だ。彼の言う通りに待っている。悪いことを教えてもらいたくて。悶々としながら立ち尽くしていると、後ろから肩を立たかれた。
「っひゃあっ!」
「おっ、何でそんなに驚くんだよ」
彼だった。コンビニのユニフォームの上に黒の革ジャンを羽織っている。くつくつと笑う彼を見ながら、恥ずかしくて、来てくれたことが嬉しくて、泣きそうな心地だった。
「よし、先生が学生さんに良いこと教えてあげるからな」
隣に並ぶ彼の腕が俺の肩に回されて、宥めるようにさすってくる。それから紙巻きを持った手が口元に差し出された。
「あーんして」
彼の言葉に従って唇を開くと、タバコの先が差し込まれる。落とさないように唇を閉じると、タバコを離した彼の指先が頬をそろりと撫でてきた。
「いい子だね、じっとしてな」
耳元に吐息を感じるぐらい近くから彼の低くかすれたささやき声が聞こえてくる。心臓がうるさいぐらいバクバクと脈打っているのがバレてしまわないか不安でたまらない。彼は何食わぬ顔で紙巻きを咥えて、ライターで火をつけている。彼は俺の顎に手を添えて、火がついたタバコの先を、俺が咥えているタバコの先に押し当てた。
「息吸ってごらん」
タバコを咥えたまま彼が言う。ストローでジュースを吸うイメージを描きながら、紙巻き越しに空気を吸い込む。口の中に苦みが広がった。彼が満足げに笑いながら離れる。俺の咥えたタバコの先に火が付いて、白い煙が上がっている。頭の奥がじんと痺れてくらくらした。彼がニヤニヤしながら尋ねてきた。
「どうだい?」
「……最高ですね」
お父さん、お母さん、ごめんなさい。僕はよいこにはなりません。悪い子になります。