プレイ アゲイン さびれた興信所で調査員として働くハン・ホヨルは、チラシ配りを終えてマンションの自室へと帰ってきた。革靴を脱ぎながら玄関のドアを後ろ手に閉じる。廊下の明かりをつけるのも億劫で、暗がりのなかを進んでリビングのソファーに身を沈める。カイロ代わりに買った缶コーヒーは、コートのポケットの中ですっかり冷え切っていた。凍えた指先で律儀な性格の後輩とのトークルームを開く。
『なぁジュノ、今日めちゃくちゃ寒くなかった?』
『寒かったですね。ホヨルヒョン、風邪に気をつけてください』
『お前もな。あー、鍋食いたい』
『今、母がちょうど準備してます』
『何鍋?』
『プデチゲです』
『やっと軍から出たのに、くく
お前の家だと具材何入れる?』
『何って、普通ですよ』
『普通って言ったってそれぞれ違うじゃん』
『じゃあ食べに来ますか』
おっと変化球。ジュノのやつ、なかなかやりおる。テンポよく進んでいたメッセージのやりとりが小休止する。簡単に誘ってくれちゃって。俺のマンションからお前の家までどんだけかかると思ってんだ。というお小言は飲み込んで、流れを再開させる。
『行く行く。ラーメン入れずに待ってて』
沈んだ気持ちが浮上して、鼻歌が漏れる。息苦しいスーツをさっさと着替えて、ダウンジャケットに袖を通す。跳ねるような足取りで外へ出ると、ビュウッと冷たい風が吹きつけた。反射的に身体は縮こまるが、ふっと頬は緩んでいた。なにせ寒波のおかげで可愛い後輩と楽しい夜が過ごせそうなのだ。
鍋の底にある伸び切った麺をよけながら、赤く染まったトックやネギをつまみにソジュを煽る。ハン・ホヨルがアン・ジュノの家で食事をご馳走になるのはこれが初めてではなかった。最初はサムギョプサル、次はカルグクス。ジュノの母親が痩せ身のホヨルを心配して、二人の除隊後は頻繁に食事に誘ってくれた。断った後の悲しそうな反応が耐え難く、ホヨルは都合がつく時には簡単な手土産を持ってジュノの家の食卓に混ざるようになっていた。
プデチゲのスープで作った焼き飯まで食べ終えて、テレビを流しながらだらだらと過ごす。もう何も口に入れたくないぐらい満腹だ。グラスを置いて手のひらを床に下ろすと、たまたま隣に座るジュノの手のひらと重なった。偶然が嬉しくて黙ったままそのままにしていると、ジュノはこちらを見つめてきたが振り払うことはなかった。
「お兄ちゃん。冷凍庫のアイス食べてもいい?」
ジュノの妹がそう言いながら居間に戻ってきた。それと同時にジュノの手のひらが俺の手の下から逃げ出して机を片付け始める。
「いいけど、チョコ以外なら」
「分かってるー」
ぬくもりを失った指先が無性に冷たい。なんだか胸がむかむかとする。アルコールで弱った理性がうまく働かず、気づいた時には自分の片手がジュノの手のひらを強引に繋ぎ止めていた。三人の目線が重ねられた手と手に集まる。
「?!ヒョン、何を」
うん。何してんだろ。ぼやけた頭を必死に回して都合の良い理由を考える。男二人が手を繋いで違和感のない状況って何だ?
「あー、まだ十分経ってないだろ!」
「お兄ちゃんたち何してるの?」
「今ね、俺たち罰ゲームで十分間手を繋いだまま動けないことになってるの」
「あー、それなんか見たことあるかも。ケンカしたの?」
「してない」
と、ジュノ。
「今からするかも」
と、俺。
「何それ。じゃあいちごのもらうねー」
「おう」
ジュノの妹がアイスクリームとスプーンを持って居間から出ていった。一時間は彼女の自室から出てこないだろう。贔屓にしているアイドルの配信ライブがあるらしく、絶対に邪魔するな、と食事中に釘を刺されていた。押さえ込んだジュノの手から、強張りが解けたのが分かった。
「俺の手汗が嫌かもしれないが、ルールには従ってもらうぞ」
ジュノに小声で耳打ちすると、小声で質問が返ってきた。
「なんですか罰ゲームって」
「俺に寂しい気持ちさせた罰だよ」
何を言ってるんだ俺は。酔ってるせいだ、許してくれ。ああ、こいつが犬だったら耳が垂れて尻尾は内巻きになっているに違いない。ジュノの垂れた眉尻を見ると胸が締め付けられる。お前は悪くない。悪いのはクソめんどくさい酔っぱらいの俺だ。
「ジュノ、お前は感情がすぐ顔に出るなぁ」
「…すみません、本当に嫌だったんじゃなくて、妹の前だと恥ずかしくて」
みるみる赤みが増す耳たぶ。嘘をつけない実直な男だ。自分が考えた無茶苦茶なルールも忘れてしまって、両腕をジュノの背中に回し、毛先の伸びた後頭部を優しく撫でる。もう妹ちゃん来ないだろうし、お母様はお風呂って言ってたし、許してくれるだろう。
「俺はお前のそういう素直なとこが好き」
目の前の耳がさらに赤くなる。うん、ほんと、好きだなぁ。
「ヒョンのからかってくるとこ嫌いです」
「うっそだぁ、好きなくせに」
ジュノの腕も俺の腰あたりに回っている。くくく、と笑いが込み上げてくる。体がふわふわする。
「くすぐったいから耳元で笑わないでください。……ふたりの時だったら、平気です」
身を小さく捩りながらも本気で逃げようとしないジュノのことが可愛くて仕方ない。
「じゃあ、俺んち、来る?高いアイスあるよ」
「理由なくても行きますよ」
「俺もお前に美味いもの食べさせたいの」
「ふたりきりになりたいのかと」
「そうだよ!!!悪いかよ!!!!」
「うれしいです」
「そーいうとこ嫌い!!くそぉ」
「ヒョンの本当は照れ屋なところ、好きです。あっ、もうそろそろバス最終ギリです、出ましょう」
「〜っうぅ、このぉ!」
二人してドタバタと食器を片付けて、上着に袖を通してからジュノのお母さんに声をかける。
「お母さま、ご馳走になりました!ジュノをちょっとお借りしますね」
「ホヨルくんいつでも来てね。ジュノもいつでも連れてっていいから」
「はーい。ではまた」
「母さん、行ってきます」
「いってらっしゃい」
ビュウッ、と冷たい風が吹きつける。酔いが冷めかけてきて、身体の芯が凍えるような心地がした。暖をとろうと、年中子ども体温のような筋肉質のジュノに身を寄せる。
「ヒョン、寒かったら、手、繋ぎますか」
「マジ?」
「暗いし、ここら辺あんまり人通らないんで」
「おう、じゃあバス停まで」
ジュノの手がホヨルの指先を包んできた。隙間を減らすように手のひらを合わせて握り返して、歩幅を揃えバス停へと向かう。重ねた肌から体温が融け合って、ひとつになってしまったように感じる。隣にいて、こんなに心地いいと思えた存在はジュノが初めてだった。バス停に着いて、ジュノの横顔を見つめると、黒曜石のような瞳が見つめ返してくる。今、ここでキスを仕掛けたら、ジュノはどんな反応するだろうか。周りに誰も居ないし、ふたりっきりだから許してくれそうだな。えいっと顔を寄せて唇を推し当てる。お互いの鼻先が冷たいのが面白くて、くつくつと笑いが込み上げてきた。身体を引いてジュノの表情を伺う。街灯の青白い光の下でもよくわかるぐらいにジュノの頬は赤かった。参った、俺の部屋まで待てないかもしれない。
「……ヒョン」
「嫌だった?」
「嫌じゃないですが……、部屋に着いたら覚悟してください」
「うん」
楽しみにしてる、と言いかけて、流石にこれ以上怒らせるのはやめようと思いとどまった自分を褒めたい。ジュノの横にいるときは、火が灯されたようにやりたいことが次々と浮かんできて不思議だ。繋いだままの手のひらをブランコみたいに前後に揺らしてみる。ふふっと息が漏れる音が聞こえた。隣を見ると、ジュノが取り繕っていた真顔を崩してくしゃりと破顔している。胸の中まで暖かくしてくれるこの男と、いつまでも寄り添っていたいと思った。
おわり