【夏五】第63回 お題「ドーパミン」 自分の背丈よりも何倍も大きな呪霊と対峙する。ここには悟ひとりだけだ。一緒に来た付添人は皆、遠く離れた安全圏で見学している。
どんなおどろおどろしい異形が襲い掛かってこようとも、悟の表情は1mmも動かない。ただ、いつものように攻撃を避けて、祓って、それでおしまい。
無事に祓除が終わったら、見学していた大人たちは戻ってくる。
それが普通。それが日常。
彼らは頭を下げて、いつも同じセリフを口にする。
「お見事でございます」
「さすがは悟様」
「五条家の誇り」
伏せられた顔が見えることはない。持ち上げる言葉とは裏腹に、そこに浮かぶのは嘲笑か、怯えか、それとも。
どんなに稀有な眼であっても、他人の心まではわからない。
ふん、と鼻を鳴らしてさっさと踵を返す。車に乗り込んで、あの無駄に広い屋敷へ戻る。
そんな当たり前の日々を、過ごしてきた。
ゴリラとトカゲを合わせたような風体の呪霊が、唸り声を上げながら襲い掛かって来る。でかい図体の割には俊敏で、振り下ろされた拳を間一髪のところでかわした。
最強に近い呪術師、と言っても相性というものは存在する。昔は得意だ苦手だと考えることもなかったが、今は違う。
悟はひとりじゃなかった。
「悟、後ろだ!」
声を信じて、視線を向けることなくすぐに飛びのく。数秒前まで立っていた場所に、土の中から鋭く尖った尻尾が飛び出した。そのままだと串刺しになっていたところだった。
宙に浮いたまま反転し、右手を伸ばす。口元には自然と笑みが浮かんだ。
「これで終わりだ!」
指先から呪力が迸る。再び反撃を試みようとする前に、バカでかい呪霊は悲鳴だけを残して消え去った。
こういう相手には悟の術式の方がいいと言ったのは、さっき声をかけてきた同級生――夏油傑である。
例えば先日あった、人に寄生するタイプの呪霊、そういう類は悟には不向きだった。寄生されている人間ごと殺してしまう可能性が高いからだ。
昔の悟なら、そんなことを気にすることはなかった。寄生されるような弱い人間をいちいち気に掛けることはなかったし、それが当然だと教えられたのだ。
それじゃあダメだ、助けられる命なら救わないと。厳しい顔でそう告げたのも、夏油だった。
分担する、と言ったって、家のヤツラのようにまったく手出ししないわけではない。今のように、ピンチになれば助けるし、協力して戦うことだってある。
「祓っちゃったのか、残念。欲しかったのに。でも――さすがだね、悟」
夏油は深々と頭を下げて顔を隠すことはない。にっこりと笑って、片手を上げる。凄いな、素晴らしい、さすがだ――憎まれ口をたたいて喧嘩になることも多々あるが、同じだけ称賛もしてくれる。昔周りにいた大人たちとは違って、悟は本心から告げられるそれが嫌いじゃなかった。
「お疲れ」
広げられた大きな手のひらに自分の手のひらをぶつけて、笑う。
夏油に褒められると、なんだか嬉しくなる。全身が熱くなって、くすぐったくなる。両親や担任に褒められるよりもずっと。
呪術高専に入学してから、初めての感情だ。
あまり好きではなかったこの六眼も、夏油が綺麗だと言うから、悪くはないと思うようになった。
「さっさと帰ってゲームの続きしようぜ」
「いいね。でもその前にスーパーかコンビニに寄ってもらおう」
「じゃあアイス買おうぜ。新作のヤツな!」
「いいね、良くなったよ。よく頑張った」
褒めてやれば、目に見えて生徒たちは嬉しそうな顔をする。そうしてもっと頑張る!と拳を突き上げた。
誰かに認められたり褒められると人は、ドーパミンとやらが放出されて幸福感に包まれるらしいと、以前家入が言っていた。昔は苦手だったが、今はすんなりと口から出る。同じ分だけ容赦のない指摘もするので、もうちょっとうまくバランスを取れと苦言を呈されたこともあった。
幸福感、ね。しばらくは遠のいている感覚だ。なにしろ唯一それを与えてくれる相手が絶賛長期出張中で、電話して声を聞くことすらままならない。
隣にいなければ淋しくて寂しくてなにも手に着かないぃ、なんて可愛げのある性格ではないが、さすがにそろそろ不足している。
予定ではそろそろのはずなんだけど――などと考えていたことが伝わったかのように、ポケットの中のスマートフォンが震えた。表示された名前は、今まさに考えていた男のもの。
思わず、口元が緩む。
「お疲れー!終わったんならさっさと帰ってきてよ、僕ドーパミン不足なんですけど!」