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    柚月@ydk452

    晶くん受け小説

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    柚月@ydk452

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    ミス晶♂長編 

    1-1 はじまりの関係
    何でも手に入ると言われる『宵の闇市場』。
極限の恐怖と絶望に晒された賢者が目にしたのは、人間の浅ましい欲望と悲劇の連鎖。
助けを求め、求められたその先にあった願いとは。
本当に温もりを求めていたのはどちらだったのか。

    #ミス晶♂

    共依存的関係attention
    ・賢者が酷い目に遭います

    ・残酷描写、流血、暴力表現等苦手な方は自衛してください

    ・捏造に次ぐ捏造 オリジナル魔道具とか

    ・親愛ストやキャラエピを中途半端にかじった新米賢者が書いてます。1周年イベから始めたので、まだイベスト全て終えてません。
    ・夜中の3時とか深夜テンションで書いてます。辻褄合わなかったり整合性なかったりした時は脳内補完で。


    1-1,はじまりの関係

    魔法舎の朝は早い。
    ある者は自身の身体強化に励み、ある者は皆の食欲を満たす準備をし、また個々で好きな時間を好きなように過ごす。

    「みなさん、おはようございます!」

    何の因果か異世界に連れてこられた賢者ー晶は、今日もまた新たな日常生活を送っていた。朝日に照らされ、芳醇な香りで満たされた食堂では、多くの人が賑わっている。
    「賢者様、おはようございます。ちょうど今、ネロが焼き立てのパンケーキを準備してくれました。」
    「パンケーキ!リケ、良かったですね。」
    「賢者さんのも今作るから、もう少し待ってな」
    「ありがとうございます、ネロ。楽しみです。」
    賢者は特に甘党というわけではなく、元の世界でもそれほど縁がなかった。しかしネロの作ったパンケーキを始めとする数々のスイーツは、瞬く間に賢者を虜にしたのだった。
    以来、賢者はお腹周りを気にする日々を送っている。
    無事にパンケーキを受け取ると、賢者は空いている席に着く。さてさて、ふわっふわのパンケーキのお味は如何に…と期待を込めてフォークを刺した賢者だったが、次の瞬間ゴンッと何かが頭に激突した。
    「いだっ…!?」
    「賢者様、おはようございます。お腹が空きました。眠いです。」
    「…おはようございます。ミスラ、痛いです。ぐりぐりするのはやめてください」
    「眠いです。」
    「人の話を聞いて…」
    濡れたような色気を放つ美青年ーミスラはぐりぐりと賢者の頭を押さえつけていた。後ろから回された腕ががっちりと賢者を絞めているので、逃げようにも逃げられない。ものすごく遠目から見たら戯れあっているように…は残念ながら見えなかった。
    今日も今日とて、目の下の隈は深い。
    「わかりました、わかりました。今日の夜、寝るお手伝いしますから。」
    「今がいいです。」
    「今は!ご飯食べましょう!!」
    ね?と恐る恐るミスラを見上げる賢者の顔を見て満足したのかー睡眠欲よりも食欲が勝ったのかは定かではないがー、ミスラは賢者から離れた。くぁ、と欠伸をしつつ、食事を取りに行く。
    「賢者様、大丈夫ですか?」
    「まるでガキだな。寝れなくて愚図ってる様子がそっくりだ。」
    「シノ…頼むから心の中で留めて…」
    賢者の顔を軽く覗き込むヒースクリフは、傍らのシノの言葉にやや青褪めていた。あの北のミスラに臆する事なく堂々と嫌みを言うなんて、繊細なヒースクリフからしたらそれこそ胃に穴があくだろう。
    「…大丈夫です、二人とも。パンケーキで回復しました。寝かし付けるのも精々2,3日に一回程度なので、今はなんとか…大丈…夫…」
    厄災の傷により、ミスラは眠ることが出来ない。色々試してみては失敗に終わり、今の所賢者の持つ導きの力とやらが成功率が高いらしい。もちろん失敗することもある。そんな時、ミスラからじとっと不満げな表情をただただ向けられるのはなかなか辛く、賢者の精神がもたない。苦肉の策として、今では数日に一度の頻度でミスラの手を握るために部屋へ訪れている。
    「賢者様、もし俺で力になれる事があったらいってくださいね。」
    「ありがとうございます、ヒースクリフ。そう言ってくれると、とても嬉しいです。」
    軽やかな食感ととろけるバター、ふわりと鼻をくすぐる蜂蜜の香り。ネロお手製のパンケーキは、今日も美味しい。
    和やかな雰囲気に包まれて、賢者は自然と笑みが溢れた。



    「賢者様、遅くなり申し訳ありません。」
    「そんなことないですよ、アーサー。忙しい中、ありがとうございます。」
    執務室にて依頼書と睨めっこしていた賢者は、軽やかに響いたノックに顔を上げ、アーサーの訪室を喜んだ。気立がよく優雅な雰囲気を纏いながらも、どこか親しみ易さすら感じられるアーサーは、国民の人気者だ。元の世界であれば、きっと雲の上の存在に違いない。
    賢者の返事に緩やかな笑みを浮かべた彼は、早速とばかりに用件を伝える。
    「賢者様、折り入って相談したいことがあるのですが…。後程皆を集めて頂けますか。」
    「構いませんが、何か良くない事でも?」
    「…まだ確たる証拠がないので、断定はできません。しかし、皆の意見も参考にしたいのです。」
    どこか浮かない表情のアーサーに、賢者は二つ返事で頷いた。
    「わかりました。ちょうど休憩にしようとしていたので、大丈夫ですよ。今日の依頼はすぐ終わるものばかりですし、近場なので昼食には皆いるはずです。」
    賢者は手元の依頼書をまとめる。字が読めない彼は、依頼書を受け取る際に内容を口頭で聞き取って追記するという、かなり手間のかかる方法をとっている。そのためその分書類も嵩張るし、何より煩雑さも増すため、これ幸いとばかりに賢者は一旦離れることにした。
    「あれ、ドラモンドさんも一緒なんですね。」
    「久しぶりですな、賢者様。お元気そうで、何よりです。」
    「あははは…」
    執務室から出ると、ドラモンドが立っていた。賢者として召喚されて以来、何度か顔を合わせているものの、初日にネズミされていた印象が未だ残っている。本人は真剣な顔をしていても、背後からチューチューと幻聴が聞こえてきそうだ。
    「珍しいですね、魔法管理省絡みでしょうか。」
    賢者の問いかけに、ドラモンドはやや罰が悪そうな表情を浮かべた。
    「そうとも言えるし、そうでもないとも言える…。はっきり言って、我々もまだ概要を把握できていないのですよ。」
    ドラモンドの返事に、賢者は余計混乱する。気を取り直すかのように、傍にいたアーサーは「行きましょう、賢者様」と呼びかけた。



    幸いにも、食堂には全員いた。振り分けていた依頼も、無事に終わったらしい。午後に備えて腹拵えをする者、あとはもう休むだけと談笑する者等、賑やかな雰囲気に包まれていた。
    「よ、晶。これから飯か?」
    「カイン、お帰りなさい。はい、これから食べる所です。アーサーもいますよ。」
    「カイン、私はここにいるよ。」
    「おっと、この辺か?」
    カインとハイタッチをし、賢者達は席に付いた。アーサーは改めて、ぐるりと皆を見渡す。
    「みんな、少し相談したい事があるんだ。食事をしながらで構わないから、聞いて欲しい。」
    それ程声を張り上げたわけでもないのに、不思議と皆が手を止め、アーサーに目を向ける。皆の視線が集まった事が分かると、アーサーはゆっくりと言葉を続けた。

    「…宵の闇市場についてだ。」

    「宵の闇市場?」
    聞き慣れない不穏な言葉に、賢者は怪訝な表情を浮かべた。

    曰く、その市場で手に入らないものはない。
    曰く、金さえあれば身分も素性も問わない。
    曰く、市場で得た情報は外に持ち出してはならない。

    「私も噂には聞いた事があったが、迷信のようなものだと思っていた。」
    「…そう思えなくなった理由を、お聞かせ願えますか?」
    ゆるりと煙を燻らせ、シャイロックがアーサーに続きを促す。
    「…とある強盗未遂事件で、犯人が気になる言葉を口にしていたらしい。」

    『早く金を用意しなければ、宵の闇市場で消される』

    「…なるほど。僕も噂くらいなら、聞いた事はある。くだらなさ過ぎて、興味もなかったが…その犯人とやらは人間か?」
    ファウストが問いかけると、アーサーの傍らに控えていたドラモンドが返答した。
    「人間です。念のために警戒をしていましたが、彼は紛れも無く人間でしたよ。」
    「…『でした』?」
    「取り押さえられた後、中央の国直轄の警備隊に引き渡され、尋問に掛けられました。しかし譫言のように先程の言葉を繰り返し、拉致があかなかったようなのです。ですから一度留置所に移し、日を改めて聞き取りをしようとした所ー翌朝には、手足が引きちぎられ、首を折られた死体が残されていたのです。」
    リケとミチルが、小さく息を呑む。内容が内容だけに、子供に聞かせるものではないだろうという苛立ちの籠った視線がドラモンドに向けられた。やや焦ったように彼は、あたふたとアーサーに助けを求める。
    「ごほん…アーサー殿下。」
    「ああ、実は私も呼ばれたんだ、その現場に。と言っても、全て片付けられた後なんだが。」
    アーサーも現場に行った事に、一同が驚いた。一国の王子に、そんな凄惨な場面を見せるとは思えないからだ。案の定、育ての親であるオズは、眉間に深い皺を寄せていた。
    「…正直に言おう。魔法の痕跡があったかは、分からないんだ。」
    「どう言う意味だ?使ったのならば、魔力が残る。逆を言えば、何もないなら魔法は関係ない。ただそれだけだろう。」
    「シノの言う通りだ。オズの弟子ともあろう君が、魔法解析に遅れを取るとは思えないんだがな。分からないとは、どう言う意味だ?」
    「申し訳ありません。私の力不足も、一因なのかもしれません。」
    「…いや、責めているわけじゃないんだ。純粋な疑問に過ぎない。」
    やや罰が悪そうに、ファウストは口を噤む。一瞬の静寂が訪れるが、アーサーは気を取り直し、改めて報告した。
    「現場を解析しようとした訪れた時、部屋全体が霞がかったかのように、不可思議な感覚に囚われたのです。意識を集中しようにも、痕跡を辿れない。魔法とは断定できない、かと言って魔法でなくてはこの現象は説明できない。だから、分からないのです。」
    魔法が使われた痕跡というものは、ただ拭ったり、掃除した程度では消えない。ましてや普通の人間には知覚できるはずもないそれは、時間と共に薄らいでいく事はあれど、完全に『なかった』ことにはできない。賢者はそれを初めて聞いたとき、ルミノール反応みたいなものかなという感想を抱いた。もちろんそれを口にしたところで、何だそれは、と怪訝な反応をされるのだが。
    「誰か侵入した形跡は?」
    「ない…と言いたいところなんだが、今調査中だ。普段ならば脱走者の確保や仲間からの襲撃に備え、十分な警備体制を敷いている。しかし最近では人手が足りないためーここだけの話、最低限の人数で回していたそうだ。」
    アーサーは自身にも責任の一端があるとでも言うように、暗い表情を浮かべる。ただでさえ膨大な仕事量に加えて、賢者の魔法使いとしての依頼もこなしているのだから、この中で一番の多忙を極める人物だ。彼の責任では全くないのだがー賢者は彼を労うように声を掛けた。
    「アーサーのせいではないですよ。きっと偶々、悪い偶然が重なっただけです。俺も良ければ協力します。」
    「ありがとうございます、賢者様。」
    「お、俺もできる事があったら手伝うよ!戦うのは、ちょっと苦手だけど…」
    「クロエはクロエの出来る事をするだけで、十分皆が喜ぶはずだよ。」
    歳の近いクロエを始め、皆が賛同の声を上げる。しかしその雰囲気をまるで壊すかのように、突如気怠げな声が晶に向けられた。

    「…貴方は関わらない方がいいんじゃないですか。」

    がちゃん、と皿がテーブルに当たる音が響く。そちらに目を向けると、賢者を見返す翡翠の瞳が眠そうにこちらを見遣っていた。
    どうやらアーサーが話している間も延々と食べ続けていたのか、口の周りにソースが沢山付いている。
    皆に注目された事に気づいたミスラは、ふと視線を宙にさまよわせると、あぁと思い出したかのようにテーブルのナフキンで口を拭いた。
    「…ご馳走様でした。」
    「お、おう…。お粗末様、でした…?」
    突然向けられた言葉に、ネロはやや引き攣った声で返す。そのまま立ち上がろうとしたミスラに、賢者は慌てて呼び止めた。
    「えっと、ミスラ…?今のはどういう意味ですか…?」
    「はぁ…。そのままの意味ですけど。」
    「…えーっと…。」
    戦力外であることは十分承知の上だ。今までも任務や行事に参加しても、手助けになっていたかと問われると首を傾げてしまうだろう。だが、最初から断られるのは予想外だった。それもミスラに言われるとは。
    「いーや、ミスラの言う通りだぜ。血を見てぶっ倒れんのもごめんだろ。」
    「僕はどうでもいいけどね。でも賢者様がどんな風に壊れるのか、どんな絶望の表情を浮かべてくれるのか、知りたいし興味がある。ふふ、その瞬間だけ切り取って、残す事が出来たらいいのに。」
    ブラッドリーは幾分苦々しい口調で、オーエンはまるで内緒話をするかのように、くすりと笑みを浮かべる。
    北の3人から届けられた三者三様の制止の言葉にーオーエンは不明だがー、賢者は戸惑った。心配してくれている、とは残念ながら今迄の経験からは言い難がったため、賢者には拒絶のように感じてしまったのだ。
    「ふむふむ、ブラッドリーちゃんは何か知ってるみたい!」
    「きっと詳しいはず!教えて教えて!」
    「あぁっ!?鬱陶しいぞじじい共!知らねーよ、ひっつくな!」
    「嘘はいけないもんねー。」
    「ねー。」
    きゃっきゃっとブラッドリーの周囲をぐるぐる周りながら、スノウとホワイトは囃し立てた。
    「だって悪い事してたもんねー。」
    「知るかッ。大体そういう市場なんてのは、おいそれと堅気が踏み入るもんじゃねぇんだよ。大方下っ端の不始末を、粛清に来たってだけの話だ。こういうのは、下手に首突っ込むもんじゃねぇ。」
    「すごく詳しいじゃないですか。ブラッドリーが言うと説得力ありますね。」
    「挑発なら乗るぞ、賢者。」
    「ひぇ、勘弁してください…。」
    ブラッドリーは元盗賊団の首領だ。賢者には想像がつかないが、きっとそれこそ表沙汰に出来ないような事をたくさんしてきたに違いない。元の世界だったならば、賢者の人生では絶対にお会いする事はないだろう。そのため、賢者は未だにブラッドリーとの距離感を測りかねていた。
    「ま、下っ端の始末をするにしちゃあ、随分と手がはえーなとは思うぜ。普通、組織が大きくなるほど情報統制の難易度は増すし、一々行動を把握するのも面倒だからな。上が相当気を配ってるか、仲間同士の連携が固いか。いずれしろ、どういうカラクリかは知らねーが、犯罪者が責任とって消えただけだ。何も不都合な事はねーだろ。」
    「今はそうかもしれない。だが私は、これが何かの序章にならなければいいと思っているんだ。それに犯罪者とは言え、私の国の民でもあった。ならば私は、彼も守る義務がある。」
    「はッ、お優しい事で。俺には関係ねーからな、好きにしろ。」
    ブラッドリーは吐き捨てるように言うと、そのまま椅子から立ち上がる。しかしそれを制止するように、アーサーは彼を呼び止めた。
    「待ってくれ、ブラッドリー。お前ならば、私が気がつかなかった点に気づくかもしれない。」
    「は?頭おかしくなったのか?」
    「いいや、正常だ。お前にしか頼めない事だ。」
    アーサーの言葉に、スノウとホワイトは閃いたとばかりに笑い声を上げた。
    「おお、そうか。ブラッドリーちゃんだったら、"そういう人の視点"で現場を見ることが出来るからのう。」
    「大人しく力を貸すんじゃ、ブラッドリー。ぜひ盗っ人の目で、留置所を見てくるが良い。」
    「はあぁあ?」
    心外だとばかりに、ブラッドリーは絶句した。面倒事からいち早く縁を切ろうとした矢先に、引っ張り込まれたのだから当然だろう。だが、アーサーや双子の言う意見も一理ある。盗みのプロである彼ならば、どう侵入すれば標的に辿り着き、目的を達成した上で脱出できるのかを当事者の目線で推測する事が出来るはずだ。
    賢者は期待を込めて、ブラッドリーに懇願した。
    「お願いです、ブラッドリー!ぜひ中央の留置所を攻略してください!」
    「賢者さん、それ犯罪を助長させるような印象与えるからな…。」

    それこそ心外である。

    両脇に双子、前には賢者、後ろにはアーサーの鉄壁の布陣。それでもブラッドリーは、面倒くさいという表情を一切隠さずに立っていたがー双子が止めの言葉を告げた。

    「アーサーのお願いだから、奉仕活動!」
    「奉仕活動だから、刑期が短くなるかも!」
    「しゃーねぇな!!」

    単純で良かった、と誰もが思った。



    コンコン、と控えめなノックが静寂に響く。
    「ミスラ、いますか?入りますね。」
    そっと小声で伺いを立て、賢者はガチャリとドアノブを回す。薄暗い室内に、吐息が一つ。部屋の主人であるミスラは、目を閉じてベッドに横たわっていた。
    「寝てる…?」
    その姿は、まるで神が愛した芸術品かの如く、耽美で蠱惑的な美しさを同性の晶でも感じさせた。厄災の傷である深い隈はあれど、彼を見る度、その美貌と色気に賢者は言い知れぬ緊張とーほんの少しの恥じらいを抱く。

    ーって男相手に、何を考えてるんだ俺は。

    慌てて首を振ると、賢者はそっとベッドに近寄った所でー次の瞬間、ぐるりと身体がひっくり返った。
    「う、うわ!?」
    「あっはははは。貴方、そんな間抜けな顔出来たんですね。」
    賢者が驚いて目を瞬かせると、ミスラ越しに天井が見えた。先ほどまで見下ろしていた彼が、今では彼に見下ろされている。まるで悪戯が成功した子供かのように、ミスラは屈託なく笑っていた。
    もちろんミスラはずっと起きていたし、賢者のノックにも気付いていた。しかし起き上がるのが面倒だったのと、賢者がそろりそろりと侵入してくるのが何処か可笑しくて、狸寝入りを続けていたのだった。
    「貴方がいないのに、寝られるわけないでしょう。寝込みを襲うにしても、もう少し気配を殺す訓練をしてはどうですか。」
    「襲うつもりはないですし、今後も必要ないと思います…。」
    「損はしないと思いますけどね。」
    「ご忠告ありがとうございます…?」
    賢者が言い終えると同時に、ミスラはどさりとその身をベッドに落とす。当然、間に賢者が挟まれるため、賢者は慌ててミスラに退いてもらうように促さなければならなかった。
    「ミ、ミスラ、苦しいです。寝辛いでしょう。退いてください。」
    「別にいいです。今日はこのまま寝かせて下さい。呪詛も不要ですよ。」
    「子守唄だったんですけどね…。せめてもうちょっと横にずれて欲しいなぁ…なんて…。」
    「うるさいですね、我が儘言わないで下さい。これで満足ですか。良いですね。」
    賢者はまるで聞き分けの無い幼児のような扱いをされ、理不尽だと強く思った。が、口にする勇気は、残念ながら無い。仕方なく賢者は、横にずれたミスラーそれでも体半分はのし掛かっているのだがーの頭を、優しく撫でる。もちろん、片手はミスラに握られたままだ。
    基本的には、賢者はミスラが寝付くまで、椅子に座って手を握る。掛けられた毛布の上から、一定のリズムで手をぽん、ぽん、と優しく乗せながら。すうすうと規則正しい寝息が聞こえたならば、そっと自室に戻る。しかし偶にはこうして、抱き枕のように一晩中ずっと抱え込まれることもあるのだ。それは数日どころか週単位で不眠が続いた時、依頼で何かむしゃくしゃした時、本人曰く"むらっと"してオズを殺しに行った時等ー関連性があるのか無いのかよく分からない事案ばかりだがーいずれにしろ、初回は緊張のあまり賢者も不眠になったが、今ではぐっすり眠れるようになった。
    今日は何かあったのかな、何もなくてもそんな気分なのかな、と賢者はぼんやりミスラの頭を撫でている。するとミスラが突然、ぽつりと溢すように呟いた。
    「貴方も行くんですか。」
    「ん?…あ、えーと。アーサーの一件ですか。」
    「はぁ。」
    ブラッドリーとのやり取りですっかり有耶無耶になってしまったが、あの後ミスラはふらりと出て行ってしまったのだ。食堂の喧騒を気にも掛けず、それこそ気まぐれな猫のように。

    あの時彼は、何故賢者を止めようとしたのか。

    「ミスラ、何故俺は行かない方がいいんでしょうか。」

    時計の針の音が、しんと静まり返った部屋に響く。
    危ないから?戦力外だから?
    どれも、なんとなく違う気がする。賢者と言えど、自分は替えが効く存在。一年の月日が経てば、居なくなる運命。これまでもたくさんの賢者がいたし、これからもたくさんの賢者がくる。
    だから賢者はー晶は、常に魔法使い達と距離をとっている。いつでもお別れができるように。
    そんな事は露知らずーミスラは目を閉じながらぼんやりと、何でしたっけ、と呟いた。
    「…あぁ。最近街が物騒だって、誰かが言ってたんです。貴方弱いから、すぐ死ぬと思って。」
    「えっ。」
    「まぁ、協力する分には別に良いんじゃないんですか。」
    まさか善意で言ってくれていたとは。あまりにも予想外(日頃の行い)で、賢者は驚きのあまり固まってしまった。
    どうやらお昼寝スポット探しの最中、何処かで誰かが話しているのが耳に入ったらしい。基本的に群れるのを好まない北の魔法使いが、ただの人間である自分を心配するなんて。まぁすぐ死ぬと思われているのも、ちょっと困るのだが。
    「なんですか、その顔。見てたらなんだか腹が立ってきたな。」
    「ひえっ、違います、何でもないです。ミスラ、寝ましょう。今なら賢者の力が溢れるくらい強まってそうです。」
    「はぁ、それならいいですけど。」
    期待してます、とミスラは再び賢者の肩に顔を寄せて沈み込む。
    賢者は慌てて取り繕ったが、内心ではどこか温かな気持ちを抱いていた。
    前任の賢者が"けだもの"と称したミスラ。それが今、警戒を解いて自分の側で寝息を立てている。相変わらずの美貌に目が眩みそうになるけれどーただただ眠れますようにと願いを込めて、賢者も目を閉じた。

    薄暗い部屋に、大いなる厄災が今日も顔を覗かせる。時計の針と、規則正しい吐息が二つ。柔らかな布団が覆い被さった下では、大きさの異なる手が重なり合っていた。



    「ネロ、何か買い出しはありませんか?」
    「…お、どうしたんだ?賢者さん。」
    「ちょっと時間ができたので、街に行きたいなと思ったんです。と言っても特に用事はないので、何かないかなと。」
    穏やかな昼下がり、賢者は珍しくふらりとキッチンにやってきた。いつもなら昼食後、すぐに執務室に行くか、依頼について行くかの忙しい日々を送っている。だが今日はそのどちらもなく、かえって暇を持て余しているようだった。
    皿洗いをしていた手を止め、ネロは「そうだなあ…」と思案するように視線を宙に向ける。ここで断っても、賢者が困るんだろうな、と思いながら。
    魔法舎では、中央の国から定期的に食料の調達がある。ただでさえ大所帯に加え、一人一人がなかなかの食事量を必要とする。オズ等の例外を除き、甘味も四六時中用意しなければならない。つまり足りなくなったらそれこそKg単位の量になるわけで、賢者が買い出しに行ける容量をオーバーしてしまう。
    だが、そこはさすがのネロ。賢者が分かるもので、持てる量の食材を瞬く間にいくつかピックアップしていた。
    「この間パンケーキ作った時に、生クリームがだいぶなくなったんだ。あとは飾り用の西のルージュベリーを一袋、お願いできるか?」
    「もちろんです。生クリームは、オーエンが殆ど食べ尽くしてしまいました?」
    「あたり。おやつの時間以外にもキッチンに突然乱入してくるから、常にストックしておきたい。」
    「それは切実ですね…。」
    ネロが書き写したメモを、念のためにもらっておく。中央の市場は場所柄の特性か、周辺諸国との交易の中心地点だ。そのため本来なら特産品であっても、発達した交通網のお陰で鮮度も高いまま手に入る事が出来る。もちろん関税が掛かる為、多少割高なのは否めないが、行く手間や労力を考慮すれば妥当だろう。

    「賢者様、何処か出掛けられるのですか?」

    ネロに店の場所を教えてもらう最中、背後からリケに声をかけられた。今日は確か、魔法舎でルチルのお勉強教室の予定だったはず。
    「こんにちは、リケ。少し時間が空いたので、中央の市場に買い出しへ行こうかと。今、ネロから任務を言い渡されているところです。」
    「おいおい、止してくれよ。そこまで大仰にされると、困っちまう。」
    「ふふ、でもネロからはあまり困った雰囲気は感じられません。賢者様も、余暇を怠惰に過ごすのではなく、他者の為に励む姿はとても良い行いだと思います。僕もお手伝いします。」
    「え、いいんですか?ルチルのお勉強教室の途中ではないですか?」
    「今日は午前だけです。午後はルチルとミチルが、ミスラさんのために眠れる薬草を調合したり、ハーブティーを作ったりするそうですよ。」
    今その二人は、ミスラの部屋に突撃しているらしい。きっと彼らは、北の魔法使いの根城に臆する事なくーミチルは少し怖がっているがー純粋にミスラを心配して、様々な手立てを探しているのだろう。
    「そうなんですね。ではリケ、一緒に行って頂けますか?」
    「もちろんです、賢者様。」
    リケはふわっと可憐な花が開くように、笑顔を浮かべて応えた。
    「いや、待ってくれ。賢者さんとリケだけじゃ、ちょっと…。誰か他の暇そうなヤツにも声を掛けるつもりだったんだが。」
    「もう、ネロったら。心配なのは分かりますけど、僕だって賢者様の魔法使いです。賢者様は、僕がお守りします。」
    「リケ、ありがとうございます。頼もしいです。」
    あどけない少年の、誇らしげな表情。それを邪魔だてするのは無粋だろう。ネロはやれやれと肩をすくめ、二人を見送る事にした。
    「多少ゆっくりしてきていいが、あまり遅くなるなよ?」
    「はい、行ってきます。」
    「行ってらっしゃい。」
    小銭と買い物袋を手に持ち、準備は万端。
    賢者とリケはネロに見送られ、出掛けていった。



    「わぁ、果物が日差しに照らされて、キラキラ輝いています。とっても綺麗ですね、賢者様。」
    「そうですね、どれを選んでも当たりな気がします。えっと、ルージュベリーは…。」
    「ルージュベリーを探しているのかい?北と西産のどちらだ?」
    「西の方をお願いします。」
    「はいよ。まいどあり。」
    店先の店主は、どさりと一袋手渡してきた。袋の口から顔を覗かせているルージュベリーは瑞々しく、一粒だけでも摘み食いしたいという欲望に駆られる。
    「…美味しそうです。見ていると段々切なくなってくるのは、何故でしょうか…。」
    「リケ、俺も同じです。早く帰って、ネロにデザートを作ってもらいましょうね。」
    「はい、賢者様。」
    楽しみです、とリケが返事をしたその時。

    「…賢、者…?」

    店先に並んでいた、老女がゆっくりとこちらを振り向いた。頬は窪み、体は痩せ細り、まるで御伽噺に出てくるような魔女を連想させた。先程まではただの客だったはずなのに、その一言で目を合わせると、賢者はすぐに立ち去らなかったことを後悔した。

    その瞳に映るのは、悲しみ、嘆き、苦しみーそして、憎しみ。

    老女は枯れ木のような腕からは予想もつかないような力で、賢者の腕を掴んだ。ひび割れた爪が皮膚に食い込む事はないけれど、とても痛い。すぐに振り払おうとするが、老女はそれに構わず叫ぶ。

    「お前のせいで…!お前がすぐに助けなかったから…!!」

    激しい怒りを、聞いた。
    賑やかな喧騒が、いつの間にか鳴りを潜めていた。あんなに人がいたはずなのに、賢者たちの周りには誰もいない。
    時が止まったかのように、賢者はその場から動けなかった。

    「魔法使いなんか、役立たずだ!誰も助けてくれなかった!大いなる災厄から、私の家族を守ってくれなかった!お前なんか、消えちまえ!」

    彼女の言葉に、賢者は目を見開いた。傍らのリケは、怯えたように立ち尽くす。
    大いなる災厄と闘うのは、魔法使いだ。だから彼女が言っているのは、大いなる災厄による二次災害だろう。頻発する地震、古代生物の復活、各地の奇妙な現象。そのどれが、彼女の家族を傷つけ、奪ったのかは分からない。
    分かるのはー魔法使い達を束ねる賢者への憎しみだけ。
    辛さも、苦しさも、当事者ではない晶からすれば想像でしかない。寄り添おうにも、彼女はそれを求めないだろう。
    ならば、どうするか。

    賢者は彼女の怒りを受け止めて、真っ直ぐに応えた。

    「俺の力不足や未熟な点があるのは事実です。でもそれは、魔法使いの皆を貶める理由にはなりせん。貴方が謝罪を求めるのならば、まずは俺からも謝罪を要求します。」

    堂々と、賢者は言い切った。
    胸に抱えたルージュベリーが、ぐしゃっと嫌な音を立てた。指先は固く握りすぎて、爪が皮膚に食い込んでいる。気を緩めれば、涙が出てきそうだ。
    それでも傍目からは、冷静で落ち着いているように見えた。
    ひそひそと通行人の騒めきが重なり合い、やがてまた大きな喧騒へと変わっていく。
    老女は賢者が言い返すとは思っていなかったらしく、腕を掴んだまま呆然と立っていた。いやもっと言ってやろうと思っていた所に、予想とは異なる賢者の反撃に驚いているようだった。
    「…今は何を言っても、貴方には届かないと思います。けどいつの日か…貴方が魔法使いの皆を信じてくれる事を祈っています。」
    震える声で、だけどしっかり目を合わせて。

    俺を信じる皆を、馬鹿にするな。
    誰よりも強くて、誰よりも優しい彼らを傷つけるな。

    自分にできる事なんてたかが知れてるけれど、この声がいつか大きな声になりますように。
    賢者は自身の腕を未だ掴む老女の指をゆっくりと剥がし、頭を下げた。
    「…どうも、お騒がせしました。」
    店先で同じく呆けている店主にそう返し、リケの手を引いて離れる。

    「け、賢者様、あの…。」
    すたすたと前を歩く賢者の顔は見えない。リケは手を引かれながら、なんと声を掛ければ良いのか分からなかった。
    厳密に言えば、晶は今回の大いなる厄災の襲来以降に召喚された賢者の為、老女の言っていた事はお門違いだ。だから違う、賢者様のせいなんかじゃない、と言い返したかった。

    けれど何故か、言葉が出なかった。

    (僕は、何もできなかった…。)

    教団には多くの人がいたけれど、ここまで強烈で純粋な負の感情をリケにぶつける人はいなかった。どうすれば良かったのか、今賢者に何て声を掛けるべきなのか、リケは必死に考える。
    だが突然ぴたりと、前を歩く賢者が立ち止まった。そしてゆっくりとリケの方へと振り返りーその顔は、いつも魔法者で見る穏やかで優しい賢者の顔だった。
    「リケ、すみません。俺の所為で、嫌な思いをさせてしまいました。お詫びと言ってはなんですが、ネロに頼まれた生クリームを買うついでに、ケーキを食べませんか?」
    「ケー…キ…?」
    「ちょうどおやつの時間ですよ、リケ。どんなケーキが食べたいですか?」
    先程の事なんてまるで無かったかのように、賢者は緩やかな笑みを浮かべる。怒りや悲しみだって、あったはずなのに。
    今だってリケの事を気にして、自分の心情を覆い隠している。
    リケはとうとう、泣き出しそうになった。
    「け、賢者様、僕、何も…」
    「リ、リケ!?わー、泣かないで…!」
    賢者は困ったように、あたふたと慌ててポケットからハンカチを取り出してリケに差し出した。ささやかなプライドがあるのか、リケはぐっと涙を堪える。
    「僕は何も言えませんでした。賢者様は違うって、しっかり伝えるべきだったのに…。」
    「リケ、それは違いますよ。だって、リケは俺のそばに居てくれたじゃないですか。」
    賢者一人だったら、恐らく何も言い返せなかった。請われるがままに、その場凌ぎの謝罪をしていたかもしれない。
    でも傍らに、リケがいた。純真無垢で、世界をこれから知っていく少年に、そんな格好悪い姿を見せたくなかった。だからあれは、賢者の精一杯の虚勢だ。ちっぽけな勇気を必死でかき集めて、立ち向かった。
    「俺がああ出来たのは、リケのお陰です。」
    だから泣かないで、と優しくリケの涙を拭う。
    「…賢者様は、お優しいです。僕たちを見守ってくれる賢者様に、神の祝福を。」

    ≪サンレティア・エディフ≫

    ぽう、と二人が繋いだ手の平から、淡く優しい光が溢れる。賢者がゆっくりと開くと、先程握り締めていたせいで出ていた血が止まっていた。
    「治癒魔法は、まだ練習中なんです。帰ったらフィガロに診てもらいましょう。」
    そう申し訳なさそうに言うリケに、賢者はありがとうと感謝を伝える。リケの優しさに救われたんだよ、と気持ちを込めて。

    その後無事に生クリームをケーキ屋で手に入れ、ちょっと奮発して色とりどりのスイーツを買う。店内の飲食スペースでそれらを食べるリケは、「口の中が、天国みたいです…」と蕩けるような表情を浮かべーあまりの可愛さに、店内の客全員に衝撃を与えた。



    帰宅早々、賢者はクックロビンから急ぎの書類の確認をと声を掛けられた。申し訳無さそうにする彼が、まさに中間管理職がするような顔でうっかり笑ってしまいそうになる。
    ネロへの荷物をリケに託し、賢者はクックロビンと連れ立って執務室へと向かった。

    夕食前のキッチンは騒がしい。多くの魔法使いが、そわそわと料理が出来上がるのを待っている。
    「お、お帰り。無事に買えたみたいだな。リケ、お疲れさん。」
    キッチンに姿を現したリケに、ネロは労いの声を掛けた。続け様にリケの頭をわしゃわしゃと撫で、「もう、頭を撫でるのはやめてください!」と言われるかと思いきやーリケの表情は曇っていた。

    ーこれは何かあったな。

    人との関わりは出来るだけ避けて生きてきたが、元来の性分のせいか、ネロは感情の機微に鋭い。特に魔法舎に来てからは、余計なトラブルを起こさないよう、穏便に過ごす努力をしていたのだが。

    「…リケ、何かあったのか?」

    元来のお人好しの性格は、幼気な少年の曇り顔を見過ごす事ができなかったようだ。
    ネロの声に、料理はまだかと催促する魔法使い達が視線を向ける。
    リケは何か言おうとして、堪え、口をつぐみ、視線を下に向けた。その小さな拳を、ぎゅっと握りしめて。

    「…今日、街の人に言われたんです。賢者様に、『魔法使いは役立たずだ、お前なんて消えちまえ』って。」
    「…そうか。」
    「…僕は、賢者様が傷付けられても、何も言えませんでした。」

    「…僕は…。」
    賢者の前では泣かないように、ケーキを食べようと言われて、精一杯楽しそうに振る舞ったのに。今でもぐるぐると、あの場面が思い浮かぶ。
    ぽたり、と床に小さな染みが一つ。
    いつの間にかあれ程騒がしかったキッチンが、しんと静まり返っていた。
    「…リケは偉いな。何もしなかった事は、決して無力なんかじゃないと思うぜ。」
    「え?」
    「北の奴等やシノあたりに、さっきのを聞かせてみるか?恐らく血の海になるぞ。」
    「おい、俺はちゃんと人目につかない所でやる。」
    ひっそりと主張するシノを視線で黙らせ、ネロはリケの顔を覗き込む。
    「まぁ何はともあれだ。悔しかったな、リケ。」
    「…悔しい?」
    ネロの言葉を、リケは不思議そうに反芻する。それはまるで初めての感情に触れるようでーどう扱えばいいのか、分からない。ネロは無力感ではなく、悔しさだと称した。

    「悔しさは、力になるさ。」
    「…僕は、強くなりたいです。」

    「賢者様に守られるのではなくて、賢者様を守りたいです。」

    下を向いていた視線は、今はネロを真っ直ぐに見据えている。幼気な少年は、いつまでも保護される存在ではない。
    「リケなら、大丈夫さ。」
    ぽんと頭に手を乗せたら、「もう、子供扱いしないでください!」とリケに怒られた。

    「…賢者は、大丈夫か?」
    ファウストがまるで気にもしていないような素振りを見せながら、ややぶっきらぼうにそう問いかける。
    「賢者様は、あの人が僕達魔法使いを貶めた事を怒ってくださいました。向こうが謝罪を求めるのならば、こちらも要求すると」
    「…まったく、あの子は本当に人の事ばかりだな。」
    「本当にそれ、賢者様が言ったの?」
    フィガロが驚いたように声を上げる。のんびり穏やかな笑顔を浮かべている賢者が、まさか言い返すとは。普段の様子からは想像できない、と誰もが思う。
    だがその疑問には、気怠げな声が応えた。
    「あの人なら、言うと思いますよ。」
    むしゃむしゃとグリーンフラワーを頬張りながら、ミスラは億劫そうに立ち上がる。そのまま最後の一枚を咥えると、ふらりとキッチンから出て行った。

    「…サラダに使おうと思ってたんだがなぁ…」

    ネロの悲痛な声は、夕食前の喧騒に消えていった。



    ミスラは欠伸をしながら、夕焼けの差し込む廊下を歩いていた。その機嫌は、お世辞にも良いとは言えない。
    誤解しないように言うならば、先程のリケの話を聞いても、ミスラは特に何も感想を抱いてなかった。街の人間からどう思われようが、ミスラにとってはどうでも良い事だ。
    ただ、少しだけ驚いたとすれば。生存本能を何処に置いてきたかとでも言うような、あの呑気で鈍臭い賢者が言い返した、と聞いた時は。珍しいと思いつつも、芯の通った訴えにあの人らしさを感じた。
    廊下を歩いていると、再び欠伸が溢れる。ふと視界の端に、執務室が映った。そして眠い頭でかろうじて思い出される、賢者の顔。
    どうやら身体は無意識に、賢者の元へ向かっていたらしい。今日は寝かせてもらおう、とミスラはノックも声掛けもせずに、ガチャリとドアノブを回して中へ入った。

    「…えっ…!?」

    バサバサ、とそれほど少なくない数の書類が床一面に散らばる。賢者は窓際に佇んでいた。驚きの表情を浮かべる彼を見て、ミスラ首を傾げる。
    「あなた、泣いているんですか。」
    「…いや、目にゴミが…」
    「それ、本気で使う人いたんですね。嘘をつくなら、もっとマシな嘘にしてください。」
    「……」
    慌てて視線逸らす賢者の目元は赤い。頬にも涙の流れた後が、幾筋も残っている。
    ミスラが一歩足を踏み出すと、ビクッと賢者の体大きく震える。
    ミスラは何故か、それが面白くないように感じた。
    自分が他人からどう思われようと構わないがーこの賢者が"こういう表情"を自分に向けるのは、何となくイラッとしたのだ。
    僅か数歩で距離を詰めると、逃げられないよう賢者の腕を掴む。賢者はすぐさま顔を逸らそうとしたため、その顎をもう片方の手で掴み、自分の顔を見上げさせた。窓際に佇んでいた事が幸か不幸か、賢者の背には壁しかない。
    「ミ、ミスラ…書類が…。」
    「そんな物はどうだっていいでしょう。」
    賢者にとっては割とどうでも良くない事なのだが、ミスラから見下ろされている今、それ以上反撃する事ができなかった。

    「どいつを殺せばいいんですか。」
    「…………はい?」

    突然出てきた不穏な言葉に、賢者は思わず目を見開いた。

    「殺したい人、教えてください。」

    残念ながら、聞き間違いではないようだった。こちらを見る目はいつもと変わらず眠そうだが、決して冗談を言っている様子ではなさそうだ。そもそもミスラが冗談を言う事なんて、想像もつかないが。
    あまりにも突飛な発言に、賢者の涙は思わず引っ込んだ。
    「ミスラ、あの、誰も殺したい人はいませんよ…?」
    「だってあなた、泣いているじゃないですか。泣かせた人がいるんだったら、その人殺すのは当然でしょう。」
    「いやいや、これくらいで人を殺さないでください!心配の方向性が過激です!心配してくれるのはありがたいですけども!」
    「はあ?別にあなたのことなんて、心配してませんが。」
    「えっ…」
    それはそれで、残念なような。
    もしかして、幼児がおもちゃを傷付けられて腹が立ったとか、そう言うレベルなのだろうか。
    再び下を向いて落ち込み始めた賢者だが、ミスラの手がそれを許さない。再び顔を上げさせられると、翡翠の瞳と視線が重なる。
    「ただ、あなたが泣いていると苛々します。俺を怖がる姿も、腹が立ちます。…何故でしょう。」
    苛立ちと共に告げられた言葉とは裏腹に、ミスラは不思議そうな表情を浮かべている。ミスラ自身、今自分が抱いている感情を上手く整理できていないようだった。
    「…それは、すみませんでした。ミスラを怖がっていた訳ではありませんよ。ただびっくりしただけです。」
    賢者は空いている片方の手を精一杯伸ばし、ミスラの頭を撫でた。怖くないよ、おいで、と優しく包むように。
    大人しく撫でられるままに、ミスラは自然と目を閉じーやがて賢者を抱きしめるように寄りかかった。肩口にミスラの吐息がかかり、賢者はくすぐったそうに身を震わせるが、それがまるで逃げ出そうとする素振りに思えたのか、抱擁がきつくなる。

    頭を撫でていた手は背中に回り、ぽん、ぽんと優しく叩く。いつも寝かしつける時と同じように、赤子をあやすかのように。

    どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。それほど短くもなく、かと言って長くもないように思えた賢者は、やがて鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いに気付く。
    「ミスラ、そろそろ夕食の時間ですよ。お腹空きませんか。」
    「…このまま寝れそうだったのに…」
    「いや立ったままは流石にきついですよ…。ほら、行きましょう。」
    ミスラは渋々といった様子で、抱擁を解いた。その手を握り、賢者は笑顔を浮かべてミスラを誘う。
    「…あ。俺、目が赤いかな…。良かった、大丈夫そう。」
    窓ガラスに映る自分の顔を見て、賢者は安心した。確かに昼間の一件を思い返し、今になってまた涙が出てきたのは事実だ。だが別に、怒りや憎しみと言った感情はない。恐らくこれから先も同じような、いやそれ以上に罵詈雑言を浴びせられる事もあるだろう。
    賢者である自分は、だからこそ前に立たなければならない。魔法使いと人間を繋ぐ、その役割を果たすために。
    先程まで心を覆っていた暗雲は、ミスラの登場で跡形もなく消えていた。口では心配していないと言いつつも、その行動を思い出してふと笑い出しそうになる。
    「何故百面相をしているんですか。早く行きますよ。…あぁ、そうだ。」

    ≪アルシム≫

    短い詠唱の後、賢者の手のひらから淡い光が溢れる。昼間に見た光よりも優しく暖かなそれは、すぐに消えた。賢者が再び手を見ると、リケが止血だけしてくれた傷が跡形も無くなっている。
    「え、ありがとうございます。ミスラ」
    「俺は治癒魔法は得意ではありませんが、中途半端に掛かっているそれは、なんだか気持ち悪いので。」
    不機嫌なミスラに手を引かれて、賢者は食堂へと向かった。



    賢者が食堂に姿を現すと、口々に皆が声を掛けてくれる。出来るだけ昼間の一件は皆に知られたくなかったのだが、皆の様子からして恐らくリケが話したのだろう。
    彼らを不安にさせないように、賢者はいつもと同じように振る舞うよう心がけた。
    「わぁ、今日も美味しそうですね、ミスラ。」
    「俺は消し炭が食べたいです」
    初っ端から出鼻を挫かれた。
    「あれとネロの料理を同列に扱わないでください。」
    「はぁ、今度はいつ作ってくれるんですか。」
    「作ろうと思って作る物でもありません。むしろ作れば作るほど、俺がキッチン出禁になります。さ、食べますよ。頂きますしてください。」
    頂きますと唱和し、ネロの特製料理を味わう。今日は香草薫るハーブソーセージと野菜たっぷりポトフ、付け合わせに自家製パンとミモザサラダ。ネロはまだキッチンに籠っているが、どうやらデザートであるプリンの飾りつけをしているようだ。もう間も無く、それも終わるだろう。
    「あ、ミスラ、手で食べないでください。フォーク使ってください!」
    「面倒です。どっちも変わりませんよ。」
    「あぁ、服で拭かないで…!こうやって食べてください!」
    何故か汚しているミスラよりも賢者の方が焦りながら、フォークで刺したソーセージをミスラの口元に運ぶ。まるで雛鳥のように口を開けてぱくりと食べるミスラと賢者の様子に、そばにいたオーエンは「何あれ…気持ち悪いんだけど…」とドン引きしていた。

    しかし一方で、西の魔法使いは。

    「ふふ、仲が良くてとても羨ましいね。」
    「えぇ!?あ、うん、仲が良いのかな…?」
    ラスティカとクロエの言葉に、シャイロックもまた首肯する。
    「ええ、もちろん。どんな猛獣でも、賢者様の可愛さには敵わないのではないのでしょうか。」
    「シャイロックも動物を手懐けるのは上手いよ!ニャーオ!」
    「やれやれ、私は大きな猫一匹で手一杯だというのに。」

    賑やかな談笑に、数々の美味しい料理。
    平和で穏やかな時間が流れる食堂に、さらなる喧騒がまた一つ。
    「いい加減腹が減って仕方ねーよ。もう飯はできてんだろうな。」
    「ありがとう、ブラッドリー。お陰で見通しが立ったこと、協力に感謝する。」
    空腹の為か苛立ちが最高潮に達しているブラッドリーが、バンッと食堂のドアを乱暴に開ける。後に続くアーサーにも疲労の色は見えるが、その表情は決して暗くはない。中央の留置所での捜査組が、無事に調査を終えて帰還したのだ。
    「お帰りなさい、アーサー、ブラッドリー。調査は進みましたか?」
    「ただいま戻りました、賢者様。つきましては皆に報告があるのですが…」
    「飯食ってからでいいだろ、そんなもん。おい、ネロ。メシ。」
    「俺はメシじゃねーよ。自分でやれ。」
    「チッ。」
    「ああ、すまない。私も自分で頂くとしよう。」
    ブラッドリーの偉そうな物言いにカチンときたネロはすぐさま言い返すが、同時にアーサーにも言ってしまったように受け止められた。そのため慌てて、キッチンに向かう。
    「いや、待ってくれ。俺がやるわ、やっぱり。」
    「おー、最初からそうすりゃいいんだよ。」
    「黙ってろ。」
    支度を終えると、自然と皆がアーサーに注目する。アーサーもそれを感じると、「食べながらで構わないから、聞いてくれ」と軽く咳払いをしてから皆に報告を始めた。
    「今日ブラッドリーに視察へ行ってもらい、いくつか分かった点がある。まずは侵入した経路と侵入者の数だが」
    「最低でも二人。魔法は使ってねぇ。」
    アーサーの言葉を引き取るように、ブラッドリーが続ける。意外にもそれに反応したのはオズだった。
    「…その根拠は。」
    「あぁ?あんなうじゃうじゃ兵士がいる中、正体バラすような痕跡残すかよ。兵士の中に魔法使いがいねーとも限らねぇんだからよ。そこの騎士団長様みたいにな。」
    呼びかけられたカインは、肩をすくめる。
    「夜中に貴族の屋敷や店に侵入するのとは訳が違う。こっちは利益が上回るなら多少痕跡が残っても、どうとでもなる。何故だか分かるか、賢者。」
    「え、えーと…盗まれたと分かった時には、既に遠くに逃げてるからでしょうか…?」
    「そういうことだ。だから最短時間で効率よく、もちろんリスクは承知の上でだけどな。トンズラできる算段が確立されてるなら、尚更余計にだ。だが、今回はどうだ?」
    「たくさん兵士がいる中、気付かれずに入らなければならない…。だが待ってくれ、こんな事は言いたくないが、内通者の可能性は?」
    ファウストの問いに、アーサーが淀みなく答える。
    「もちろんその可能性も考慮し、全兵士の身辺調査や当時の状況も聞き取っています。」
    アーサーによると、そもそも中央の留置所ではツーマンセルが基本だと話す。兵士一人で警邏するとなると、拘留人と兵士間での賄賂や取引が後を立たないからだ。また拘留人の襲撃や脱走、記録や調査も単独よりは効率が良いという点もある。ただ長期間二人一組で行動した場合、良くも悪くも何かしらの情は芽生えてしまう。それが思わぬ油断や隙につながる可能性を考慮し、この二人組も定期的に変えている。
    では、内通者2人がこのペアにいたとしたら。
    「そうならないよう、2人組は定期的に他のペアと顔を合わせるよう巡回のルートを策定しています。詳細は話せませんがこのルートは固定化されているものではなく、また顔あわせもかなり頻回です。」
    「仮に標的を殺すだけだとしたら、数分で事足りるかもな。だがどうしたって"後片付け"の時間が必要だ。抵抗する相手を黙らせ、騒がず、素早く殺す。しかも方法は知らねーが、ご丁寧に魔法の痕跡も誤魔化すおまけ付き。幾つかの魔道具を持ち込んだにせよ、内通者には荷が重すぎる。」
    「そうか。それでは、最後に被害者の生存を確認したのはいつだ?」
    「夜中の3時です。その30分後には、すでにバラバラになっていたと。」
    「逃げるのに最も適した時間だ。多くの人間が深い眠りに入っているし、酔っ払いは潰れてる。灯りも最小限で、適度に隠してくれるからな。」
    「……どうやって、侵入した?」
    「それはブラッドリーが見つけてくれました、オズ様。」
    アーサーに微笑まれたブラッドリーは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、ソーセージを口に放り投げる。
    「んな褒めるような言い方する程でもねーだろ。むしろなんで気付かねーのか不思議なくらいだぜ。」
    「どこだったんだ。早く教えろ。」
    「おい、シノ…!」
    「中央の留置所自体はさすが金掛けてる分、使ってる錠前や牢の耐久性もなかなかのもんだったぜ。兵士の待機場も適度にバラけてるし、賊が仲間と合流する前にどうしたって兵士と鉢合わせになる。巡回ルートもバラバラ、複数で行動、人手が足りないとか言いつつそんじょそこらの留置所よりかは攻略難易度は高い。じゃあどうするか。」
    特に声を張り上げているわけでもないのに、皆がブラッドリーの発言に注目していた。自分とは全く異なる価値観・考え・視点等に、事件の事は忘れて聞き入っているのだ。
    パチン、と指を鳴らし、ブラッドリーは不敵な笑みを浮かべて答える。
    「決まってる。兵士の休憩所だ。」
    「…兵士の休憩所?」
    シノがおうむ返しにブラッドリーの言葉を繰り返す。
    「拘留人がいる場所を手厚く警備するのは当然だが、わざわざ好き好んで兵士に突撃するバカはいねーし、上もそんな事は考えてねーだろ。だからこそ、最低限の設備にはなる。もちろん、それをカバーするだけの人材が居ることを見越してな。だが実際はどうだ?王子様。」
    「夜間帯は人手が減り、待機場や牢の周囲の人数は確保出来ていたものの、休憩所には仮眠をとっていたものが2人だけ。休憩所にはロッカールームと仮眠用の二段ベッドがいくつかあります。仮眠用ベッドにはカーテンが引かれる為、姿は見えません。そしてロッカールームには天井に換気用ダクトがあり、小柄であれば人1人通り抜けられるものでした。」
    「そんで中央の王子が勇敢にもダクトを覗き込んだら、明らかに誰かが通った形跡が見つかったってわけだ。」
    「血でも残っていたのか?」
    シノの問いに、アーサーが答える。
    「いいや、埃のあとだ。もちろん歩いて通れるような所ではないから、恐らく這っていったのだろう。不自然に綺麗な箇所と分かれていた。」
    「あとは中央のお役人に留置所の設計図持って来させて、あのダクトの出口を確認。屋根に連なってるところに、ぽっかりと口を開けていたぜ。ま、めでたく封鎖されちまったけど。」
    「なるほど。侵入した経路については、それで間違いなさそうだな。2人以上という根拠は?」
    最初はブラッドリーに対して疑わし気な視線を向けていたファウストも、今では真剣に聞いている。対してブラッドリーはちぎったパンを口に放り投げながら、気だるそうに答えた。
    「理由は二つ。まずは仕事量の問題だ。必要なスキルは何か。仮に魔法使いだったとしても、魔法が使えない事を想定しねぇ馬鹿はいねーだろ。開錠はもちろんのこと、あの規模と兵士の数を相手にするなら相応の状況判断能力、施設設備の把握、暗殺スキル。要人を殺すならまだしも、ターゲットはたかが強盗未遂でヘマするような雑魚だ。有能な暗殺者1人じゃあ、割りに合わねぇ。」
    「確かに、そんな気がしてくるな。」
    「それに2人以上いた方が、囮に都合が良いしな。だがその分逃走難易度が上がる。ま、慣れりゃそんなもんどうにかなる。」
    「二つ目の理由は?」
    最後のデザートを腹におさめたブラッドリーは、自信たっぷりに不適な笑みを浮かべる。

    「足跡が二つあった。」

    絶対それだろ、と話を聞いていた全員が思った。
    一つ目の理由を提示していた時は、盗賊団を率いる者としての視点ならではの論理展開で目を見張るものがあった。しかし続け様に提示された二つ目の理由に、いささか脱力感を抱いたのは仕方ないだろう。
    「暗殺方法や魔力の痕跡隠しについては、目下調査中です。判明次第、すぐにお伝えします。」
    「実際に死体は見てねーからな。ま、そこは役人が調べるこった。俺はもう十分過ぎるほど働いたからな。」
    「ブラッドリーちゃん、偉い!」
    「我ら感激しちゃう!」
    「おう、んじゃ刑期短くしろ。」
    「「え?何のこと??」」
    「ざけんじゃねーぞクソジジイ!!」
    きゃっきゃっと笑って周囲を駆け回る双子に、それを追いかけるブラッドリー。先程まで冷静に事件を解析していた空気は、あっという間に霧散した。
    「…と言うわけだ、賢者。」
    「へ?」
    突然ファウストに呼びかけられ、賢者は間抜けな声を上げる。話を聞いていたか否かと言われると、ミスラの餌付けに8割方意識を向けていたので限りなく後者に近い。ブラッドリーの解説が始まった時に一旦やめようと思ったのだが、ミスラが「早くしてください」と催促するのだ。おまけに口をぱかりと開けて待っているものだから、つい話をそっちのけで集中していた。おかげでミスラは汚れる事なく、綺麗に完食している。
    長々と言い訳を述べていたが、つまり賢者は焦っていた。
    (賢者の見解とか聞かれたらどうしよう…)
    もちろん、全く聞いてなかったわけではないのだが。
    そんな賢者の動揺とは裏腹に、ファウストは言葉を続ける。
    「未だ暗殺者も、その黒幕すらも分かっていない現状だ。しばらくの間、いや当分は単独行動を控えるべきだろう。」
    「あ…そうですよね。でも俺なんかを狙う理由なんてないと思いますけど。賢者って言わなければ、そんなにバレない気が。」
    「賢者云々の前に、貴方は自分をよく見た方が良いんじゃないですか?その辺の強盗がよく狙う顔ですよ。」
    「いやどんな顔ですか。」
    ミスラの指摘に思わず突っ込んだ。眉目秀麗な魔法使い達に囲まれ、賢者自身自分が平々凡々の顔立ちである事は痛い程自覚している。自覚しているが故に、今の指摘はなかなか心にくる。
    「でも賢者様。どうやら近頃、通り魔や誘拐事件が頻発しているようなのです。その所為で多くの兵士が駆り出されている状況なので、治安の悪化は否めないでしょう。中央の国だけでなく、各国でそのような状況だと伺っています。くれぐれも御用心をお願いします。」
    「…分かりました。出かける時は、出来るだけ昼間にしますね。」
    一国の王子に嘆願されたとあっては、無下にはできない。だから是と答えたのだが、直後にオズが賢者に呼び掛けた。
    「…賢者よ。」
    「はい!」
    「一人で行くな。」
    「…はい。」
    昼だったら一人でも良いかな、という賢者の楽観的な思考を完全に読んでいたのか、オズはじっとこちらを見ている。最強の魔法使いに念押しされ、賢者は観念した。
    武器の携帯が禁じられた日本で育った賢者は、この世界において危機管理能力がいまいちだ。ましてや武道で鍛えていた訳でもなく、下手をしたら街に住む子供より弱いかもしれない。本人は否定するだろうが。
    「子供達もだ。できるだけ大人と行動するように。シノ、ヒースクリフもだ。」
    「はい、先生。」
    「なんで!?俺は一人でも平気だ。」
    名指しされたシノは、大声を上げてファウストに詰め寄る。周りから見ればシノも十分に子供なのだが、森番として長年一人で魔物を狩ってきた経験が、良くも悪くもそれを忘れさせてしまう。自信につながっているといえば聞こえは良いが、それが過信にもなっていることは否めない。だからこそファウストは、再三注意を呼び掛けていたのだ。
    だがそこは、物は良いよう。
    「シノ、ヒースクリフを1人にはしておけないだろう。主君を守るのは、従者の務めじゃないのか?ヒースクリフだって、強盗や通り魔に狙われるだけの理由が充分ある。」
    「そうだな。ヒースは奥様に似て綺麗な顔立ちだから、狙われやすい。安心しろ、ヒースは俺が守る。」
    シノは不満気な表情から一転、自信たっぷりに頷いた。もちろん、ヒースクリフを褒める事も忘れずに。
    対してヒースクリフは、ファウストの思惑もしっかり読み取っていただけに、やや複雑そうな表情を浮かべながら力なく笑っていた。
    「それでは私は、『宵の闇市場』についてそれとなくお客様に聞いてみましょう。噂程度でしょうが、何か解決の糸口になるかもしれません。」
    「俺も診療所の患者に聞いてみようかなあ。人間社会の方では、割と有名だったりするかもね。」
    深入りすると、下手をしたら口止めの為に暗殺者が出張るかもしれない。各々がそれを理解しつつ、必ず引き際を弁えるようにと周知する。
    賢者も何か出来る事はないか聞いてみたが、まずは身の安全を確保しろとの徹底ぶりだ。言外に役立たずの烙印を押されたようで賢者が落ち込む一方、ミスラは何故か機嫌がいい。
    「ちょうど良いじゃないですか。これでずっと俺を寝かしつけてくれる訳ですし。」
    「いや、一日中寝る訳にはいきませんから…」
    「は?俺を優先するのは当然でしょう。」
    モデル体型の八頭身美人が、可愛らしくこてんと首を傾げる。言っている内容は自己中心的なのに、ミスラが言うと全く違和感がない。
    「腹が満たされたので、もう寝ます。」
    部屋に行きますよ、と手を握られ、賢者は慌てて立ち上がる。去り際に皆へ声をかけながら、ミスラと賢者は食堂を後にした。



    さて、食堂での報告から早数日。つまりそれ程時間も経っていない訳なのだが、賢者は早くも暇を持て余していた。
    もちろん依頼や調査の数は減りはしないのだから、魔法使いの皆は今も各地を飛び回っている。あのミスラも、スノウとホワイトによって、今は北の魔物退治に出向いている。依頼を打診した当初、本人は散々駄々を捏ねて不機嫌なオーラを撒き散らしていた。双子曰く割と厄介な魔物だそうで、念の為にミスラを連れて行きたいらしい。
    苦肉の策として、賢者はミスラの部屋へ行き、ご褒美で釣る事にしたのだった。
    「ミスラ、依頼へ行ってくれたら、こちらを一枚差し上げます。」
    「はぁ、何ですか。これは。」
    そこには歪な文字で、"ミスラ優先券"と書かれていた。期限は次の厄災襲来日まで、およそ一年。
    「いつでもどこでも必ず、という訳ではありませんが、それを使ったら余程の事情が無い限り、ミスラを優先して寝かしつけます。なので正確に言えば、原則ミスラ優先券です。如何ですか?」
    さすがにこれは子供っぽいかなぁ、と窺うようにミスラを見ると、意外にも気に入った様子で券を眺めていた。
    「いいですよ。その代わり、先払いでお願いします。と言うわけで、これはもらいます。」
    渡した券を懐に入れ、ミスラは抱き枕を放り投げるとそのまま旅立った。
    本音を言えば、若干の寂しさはある。対面当初はただただ恐怖の対象だったが、近頃は「賢者が居ないと眠れない」と愚図ったりする様子が何処となく保護欲をかき立てられるのだ。自分が女性だったら、母性本能が芽生えていたのかもしれない。
    閑話休題。
    とにかく魔法舎に籠るようになった賢者は、最初こそ同じく手の空いた魔法使いとも過ごしていたのだが、それも1日2日だけ。
    ミスラが襲撃してこない、久しぶりに過ごす一人の時間だが、早くも持て余していたのだった。
    (暇だなぁ…)
    ぼんやりと談話室の窓辺から外を眺めていると、明るい笑い声が聞こえてきた。
    この声は、ヒースクリフとクロエだ。
    「あ、賢者様。こんにちは。」
    「こんにちは、二人とも。何処かお出かけですか?」
    「うん、この前ラスティカと泡の街へ行った時に、蚤の市でヒースクリフが好きそうな機械仕掛けの時計があったんだよ。買おうかすっごく迷ったんだけど、たくさん種類があったから、ヒースクリフに見て欲しいなって!」
    「それは楽しみですね!俺は素人だからあまり詳しい事は分かりませんが、アンティークの物って見てるだけでもワクワクします。」
    「はい、この前ムルから貰った時計も、結局好奇心が抑えられず、つい色々と中を調べてしまいました。これからファウスト先生の所に行って、居残りをしているシノを迎えに行くところです。」
    「ラスティカは先に行っているんだ。貴族に招待されてたらしいんだけど、午後には終わるって言ってたから、これから合流する予定!」
    賑やかで楽しそうな会話が繰り広げられ、賢者も明るい気分になる。だがその一方で、鬱屈した感情もついぽろりと溢れてしまう。本当はそんな気は無かったけれど、我慢しなければならない時期だとは分かっているけれど。
    「いいなぁ…。」
    皆が自分を心配してくれているが故に、我儘を言ってはいけないと理性が囁く。だが既に呟いた言葉は、しっかりと二人の耳に届いた。

    唐突に訪れた、静寂。

    それにハッと気付いた賢者は、慌てて取り繕うかのような笑みを浮かべる。
    「あっ、えっと、何でもないです!二人とも、気をつけて行ってくださいね!」
    心優しい彼らのことだ、きっとどうしようかと困るに違いない。
    だが返された言葉は、意外にも賢者の予想に反するものだった。
    「賢者様、行こう!ラスティカもいるし、俺、ちゃんと賢者様を守るから!」
    「俺もまだまだ未熟ですが、賢者様の盾くらいにはなれます!シノだって付いてますから!」
    気付いた時には真剣な二人の勢いに圧倒され、賢者は思わず目を見開いた。
    念の為に言っておくと、賢者は決して軟禁されている訳ではない。あくまで一人での外出を避けるようにと言われているだけであり、誰かと一緒ならば問題ない。ならばどうして引きこもっているかというと、単に賢者自身が魔法使いの皆に負担を掛けたくないと思っているからである。
    クロエもヒースクリフも若い魔法使いだが、クロエは旅をしていた事もあって身を守る術は持っているし、ヒースクリフも魔法技術はファウストの教えもあって急成長中だ。シノは言わずもがな、護衛には最適だろう。保護者役としてラスティカも合流するのであれば、安全性は保障されているとも言える。
    と、なれば。
    「……行きたいです!!」
    差し出された手を握り返し、賢者は満面の笑みを浮かべた。



    「わわ、何だか今日は一段と人が多い気がします…!」
    「うーん、何か祝祭とかあったかなぁ?賢者様、離れないように気をつけてね。」
    「分かりました!って、大丈夫ですかヒース!」
    「……はい、何とか……」
    「気を確かに持ってください!」
    「ヒース、俺の後ろから付いてこい。」
    ひしめき合う程という訳でもないが、それでも人同士がすれ違うにはぶつからない様に気を付けなければならない程、人の数は多い。既にヒースクリフは、可哀想なほど顔面を蒼白にしてフラフラとシノの後ろを歩いている。以前栄光の街ではあまりにも住人からの声掛けが多すぎて、姿を文字通り消してしまった事がある。今回はそこまで他者からの交流はないにしろ、単純に人の量が多過ぎるせいで心身共に疲弊してしまいそうだ。
    帰ったら真っ先に、部屋で休ませないといけないだろう。かく言う賢者もまた、気を抜くと人混みに流されてしまいそうになる。
    「ごめんね、ヒース。もう少しだと思うんだけど…。」
    「大丈夫だよ、クロエ。ちょっと人が多くて、びっくりしているだけだから。」
    「でも、休憩した方がいいかも…。」
    「平気だよ、もう少しなら行こう。シノが上手く道を作ってくれてるから、大丈夫。賢者様こそ、大丈夫ですか?」
    「俺もシノの後ろをちゃっかりと付いていってるので、上手く避けられてますよ。」
    「ふふん、魔物や動物に比べれば、向かってくる人の流れなんて大したことない。しっかり掴まってろ、ヒース。」
    「じゃあ賢者様は俺に掴まって!このまま突っ切っちゃおう!」
    ヒースクリフはシノの、賢者はクロエの片手を握り、人混み賑わう蚤の市を連れ歩く。大小様々煌めく宝石に、華やかな柄が印字された布地、衣装を飾る小物類。いつ来ても、このマーケットが取り扱うジャンルの多さに圧倒される。手を引かれながらも、つい足を止めて見入ってしまいそうになる。

    可愛らしいお嬢さん、貴女を飾り立てる素敵な宝石はいかが?
    さぁさぁ、かの有名な画家が最期に残した風景画!
    あら、貴方の襟にこのレースを付け足してみては?今流行りなのよ。

    賢者に声は掛けておらずとも、耳に入ってくる言葉につい気を取られる。
    だから、本当にうっかりだった。
    あれ程賢者を一生懸命引っ張ってくれていたクロエの手が、いつの間にか離れていた。
    「…!?あれ?クロエ?」
    自分が追いかけていた目の前の背はクロエの姿ではなく、見知らぬ人のものだった。慌てて周囲を確認するが、視界に彼らの姿を捉えることができない。
    「ヒース!シノ!」
    賑わいを見せる雑踏の中、一緒にいた筈の魔法使いたちを呼ぶ。行き交う人が怪訝そうに此方を見遣るが、すれ違う間に興味を無くす。

    まごう事なき、迷子だった。

    (しまった…!逸れちゃったみたいだ。)

    往来の真ん中で佇む賢者は、通行人とぶつかりそうになり、慌てて脇道に避ける。迷子になった時は、安全を確保して出来るだけその場に留まる事。森番のシノから事前に言われた、注意事項が頭を過ぎる。幸いにも此処には突然襲ってくるような魔物や危険な動物がいる訳ではないし、生死を彷徨うような事にはならないだろう。

    時間が経つにつれて、往来を行き交う人の数は増えていく。だからこそ賢者は、徐々に脇道の奥へと必然的に引っ込むしかなく、留まるべきとは分かっていても裏路地へと行かざるを得なかった。
    (まずい…明らかに人がいない…)
    人に押され、退けられ、辿り着いたのは、入り組んだ薄暗い細道。明るい陽射しが降り注いでいた、活気あふれた市場とは正反対のそれは、北の国でもないのに何処か薄寒さを感じさせた。
    「どうしよう…ひとまず、人がいる所へ行かなきゃ…」
    混乱のあまり頭が真っ白になるけれど、体は今にも震え出しそうだけれど、皆の元へ行く為叱咤する。ぎゅっと手を握り締め、ひとまず元来た道を引き返そうと振り返った、次の瞬間。

    ガン、と凄まじい衝撃音が、通りに響いた。
    殴られたと思ったその時には、賢者の意識が遠のく。壁に寄り掛かろうにも力が全く入らず、ずるずるとみっともなく地面に倒れた。
    「ふう…取り敢えずは、これで間に合わせるか。」
    賢者を殴った男は、そう独り言を漏らす。
    叫び声も上げず、抵抗らしい抵抗も見せず、男にとっては都合の良い獲物だっただろう。手早く飛び散った血痕を拭き取り、力の抜けた賢者の体をよいせと抱える。

    まもなく夕暮れ、黄昏時。
    宵闇に包まれる裏路地には、
    既に誰もいなくなっていた。



    (うっ…あれ…此処は…?)
    目をゆっくりと開いた時、灰色の天井が映った。同時に思い出したかのように強烈な頭痛が、賢者を襲う。
    痛い、と思わず口にしようとして、それが出来ないことに気づいた。そして頭をさすろうとして、手が動かせないことにも。
    どうやら今自分は、猿轡をされているらしい。両手は腰の後ろに回され、ご丁寧に手錠付き。足は動かせるかと思い試すと、ジャラリと金属音が響いた。見ると片方の足首に足輪が付けられ、チェーンの先は柱に括り付けられている。
    一体何故、自分はこんな所にいるのだろう。考えようにも強烈な頭痛がそれを許さず、賢者は思わず顔を顰める。少なくとも、真っ当な目的ではなさそうだ。どの位の時間が経っているのか、それを判別する術も無く、賢者はただ痛みに耐えるしか無かった。

    いつの間に気を失っていたのか、賢者の意識が再び晴明になっていく。どうやら近くで、誰かが話しているらしい。頭痛も少しは治まっているようだ。賢者はゆっくりと目を開いて、チラリと様子を窺った。
    「男か。まあ、中々の上玉なんじゃねえの。労働には向いてねえが、貴族の嗜好には合うかもな。傷はバレねえ所にしたんだろうな?」
    「へい、後ろら辺にちょこっとある程度です。」
    そう片方の男が言った内容を確かめるべく、もう片方の痩せた男がグイと賢者の頭を引っ掴む。思わず呻き声を上げるが、二人の男は気にした様子もなく会話を続ける。
    「ふん、まあこの程度なら薬か、魔法でどうにかなるか。」
    「へい、それじゃあ…。」
    「ひとまず今月は、ノルマ達成だな。お前いっつもギリギリなんだから、たまには余裕持てよ。」
    「最近は中央の奴らが出張ってくるせいで、なかなか捕まらないんすよ。」
    下卑た笑みを浮かべる男に対し、賢者の頭を離した男がため息をこぼす。
    「近頃は戦争もないから、臓器も手に入りにくなったのが痛いなあ。」
    「でも"大いなる災厄"の影響で、古代生物が復活したのはラッキーじゃないですか?」
    「何処がだよ。いくら客の求めだからと言って、身体張って捕まえにいくのは割りに合わん。」
    痩せた男は品定めをするかのように、賢者をじっくりと検分していく。頭痛がいくらか治まったとはいえ、今の賢者には抵抗する力など皆無だ。だから男が賢者の腕を持ち上げたり、上着を捲って肌を露出させたりしても、大人しくされるがままだった。
    「ま、ギリギリ合格だ。つうか、いい加減"商品"に傷残すのやめろ。次からクスリでも使えよ。」
    「クスリ代を立て替えてくれんなら、俺だってそうしますよ。じゃ、また来月よろしくでさぁ。」
    札束を受け取った方の男は、ガチャリと扉を開けて出て行った。
    察するに、自分は売られ、買われたらしい。この痩せた方の男が、仲介人だろう。辺りを見渡すと、どこかの物置か倉庫として使われている場所らしく、周囲には木箱が数多く積み重ねられている。
    此処に来て漸く賢者は、自分の置かれている状況を理解し始めた。
    「さて、災難だったなぁ、青年。俺が言うのも、可笑しな話だけどよ。」
    痩せた男は賢者の顎をグイと持ち上げると、不安な表情を浮かべる賢者を落ち着かせるように、あくまで穏やかに話続ける。
    「幸か不幸か、今は臓器よりも愛玩人形の方が価値が高くてな。今すぐ殺すような事はしねえよ。ま、大人しく言う事聞いてればな。」
    分かるか?とばかりに顔を覗き込まれ、賢者は反射的に頷いて見せた。優しい表情、声色を感じるが、その腰にはしっかりと拳銃や刃物を携えている。武器も持たない、腕力もない自分が抵抗するには、あまりにも勝機が無さすぎる。
    「ま、ここでバラされて臓器になった方が、今後の人生よりはマシかもな。貴族の趣味嗜好なんてのは、下々の俺らにはとんと理解できん。そら、歩け。」
    柱にくくりつけられたチェーンを外し、痩せた男は賢者の腕を掴んで立ち上がらせた。頭部の外傷から、ぽたりと血が床に零れる。止血出来ていたと思いきや、立ち上がる際にまた傷が開いたらしい。痩せた男はそれに気付くと、自身のポケットから何かを取り出して賢者の後頭部を塗り付ける。
    「ほらよ、俺からの餞別だ。」
    「……。」
    塗り込まれた傷薬がしみたのか、賢者の目から涙が一雫溢れた。

    痩せた男に連れられて扉の外へ出ると、そこは古びた館の一室だったようだ。床は歩くたびにギシギシと不気味な音を立て、飾られた絵画は埃をかぶっている。カーテンで閉じられた窓の向こうは窺い知れないが、光が全く零れていない事から夜に違いない。廊下を怪しく灯す蝋燭がゆらりと揺れ、まるで処刑場に赴く囚人のような、絶望と恐怖が賢者を襲う。
    賢者の腕を掴んでいる痩せた男は、とある一室の前に来ると「止まれ。」と賢者に命令した。扉を開けると、何の変哲もない書斎のようなレイアウトだが、男が暖炉の前で手を翳すと、埋め込まれた宝飾が淡く輝く。すると暖炉ー本来なら薪を焚べる箇所ーの床が横にスライドし、中から石造りの階段が現れた。男がいつの間にか手にしていたカンテラの灯りでも、その奥は照らしきれない。気のせいか、何か腐ったような、いや温く湿気を帯びた空気が、奥から漂ってきた。
    (怖い、この先に、行きたくない)
    だが賢者の願いも虚しく、男は「降りろ。」と命令した。

    カツン、カツン、と二人分の靴音が、閉じられた空間に響く。
    辺りを漂う空気は重く、呼吸をするのも辛い。鼻を刺激する臭いも、今や慣れてしまった。そして、耳に届くのは。

    「アァアアアアアアアア!!!」
    「やめてやめてやめて」
    「ゆるしてください、げほっ、いやだいやだ!」
    「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!」

    泣き叫び、許しを乞い、苦痛を訴える数多の声。男でも女でも年寄りでも子供でも関係なく、悲鳴の連鎖が続いていく。
    歩く先に、鉄格子の嵌められた牢が見えた。ふとそちらを見遣ると、包帯を適当に巻かれ、もはやただの布とすら成り果てた服を身につけた人間が、虚空を眺めている。その瞳には何も映さず、半開きの口からは涎が零れていた。新たな悲鳴が上がるたびに、賢者はびくりと肩を震わせるが、その人間は何も反応しない。
    (ここは、一体何だ…!?)
    問おうにも、猿轡を嵌められた今、それを尋ねる事は出来ない。だが賢者の動揺が伝わったのか、痩せた男はどうでも良さそうに、まるで世間話をするかのように気怠く話す。
    「お前さんみたいな"商品"には関係ねえ話だが、中身を"商品"として取り出す前に、ちっと遊びてぇ奴らがいんのよ。さっさと殺せば良いものの、気が狂ってるよなぁ。いや、そもそもまともな精神持ってちゃ勤まんねえか。」
    悲鳴の合間に、ビシッと鞭が何かを打ち付ける音も聞こえて来る。
    「戦争でもありゃあ、多少傷ついてもその辺に転がってる死体からいくつでも取り出せるけどさ。近頃は平和主義様々、お陰でこうしてわざわざ臓器を取り出す面倒が増えて、どっちがいいんだか悪いんだか。」
    カーン、と釘を打ち付ける金属音と呼応するかのように、くぐもった何かが聞こえて来る。
    「そらよ、此処がお前さんの過ごす部屋だ。」
    案内された部屋は、まるで牢獄のようだった。ドン、と背中を押され、賢者はよろよろと中へ入る。部屋といってもただの空間であり、窓もベッドも何もない。男は足輪が付いたチェーンを柱に括り付けると、壁に埋め込まれた黒い石のようなモノを確認するかのように見ていた。
    やがてくるりと振り返ると、顎に手を当てて考え始める。
    「ま、悲鳴を上げた所で誰も助けには来れねえしなぁ。」
    猿轡が雑に外されると、漸くまともな呼吸を出来たことに安堵し、賢者は思わずゲホッと咳き込んだ。
    「勘違いすんなよ、お前さんは一応貴族用の"商品"だ。傷はできるだけ付けたかねえが、時と場合による。逃げ出そうとした時点で、"あっち行き"だ。」
    男が顎で示した先は、未だ悲鳴が止まぬ拷問場。漂ってくるのは、夥しい血と腐乱臭。もはや何の音が何を苦しめているのか、いくつの悲鳴が現れて、消えているのか分からない。
    「宵の闇市場が開くまでの数日は、面倒見てやる。声は出来るだけ出さねえ方がいいぜ。さっきも言った、"気が狂ってる"奴らに見つかると、俺でも止めらんねえからな。」
    ガチャン、とまるで世界を断絶するかのように扉が閉じる。
    治まったはずの頭痛が、再び痛み出す。浮かぶ涙は生理的なものか、今後の行末を嘆くものか。
    帰りたい、みんなの元へ。
    ネロの手料理に舌鼓を打って、スノウやホワイトと一緒に報告書を纏めて、シャイロックのバーでほんの少しお酒に酔って。
    そして1日の最後には、ミスラに呼ばれて今日を振り返るのだ。うとうと微睡む彼を見るのが、今となっては叶わない。
    ああ、また泣き声が増えた。同時に何かを叩きつける音も、激しさを増していく。
    賢者は全てを拒絶するかのように、壁際へと身を寄せて目を閉じた。



    「そんな、賢者様がいなくなっちゃうなんて…!ごめん、俺のせいだ。俺がしっかり握ってなかったから…!
    「クロエ、クロエだけの責任じゃないよ。俺もシノも自分達の事で精一杯だったから…!」
    クロエは決して、注意を疎かにしていた訳ではない。普段どこか自信なさげに、俺なんかと一歩引いた姿勢を見せる彼だが、その実一度やると決めた事は手を抜かない。ラスティカと旅をしていた頃、自由奔放な師匠に振り回されつつ、彼の代わりに身の回りの世話をしていた癖もあり、周囲の警戒は十分にしていた筈だった。
    今回のは単に、運が悪かったに過ぎない。人が増えていく中、自分達に向けられる悪意や敵意に気づく事は出来ても、まさか人とぶつかった衝撃で手を離してしまうとは思わなかった。
    一方ヒースクリフもまた、クロエを慰め、励まそうとして落ち込んでいた。
    「俺が周囲を探しに行く。二人は此処に居ろ。」
    二人して焦り、動揺を見せる中、シノは冷静に状況を見極める。本当はヒースクリフから離れたくはないが、一緒に探し回るよりもクロエと居た方が安全だろう。
    「お、俺、ラスティカに急いで知らせるよ!多分もうすぐ来ると思うから!」
    「助かる。じゃあ、またな。」
    ひらりと外套を翻し、シノは人混みの中を縦横無尽に駆けていく。あっという間に見えなくなると、クロエは浮かんだ涙をグイと拭いて、馴染んだ呪文を唱えた。

    ≪スイスピシーボ・ヴォイティンゴーグ≫

    包んだ両手から淡い光が弾け、クロエがゆっくりとそれを開くと、白い小鳥が空へと解き放たれた。向かうは自分の師匠、ラスティカの元へ。
    「きっと大丈夫だよ、クロエ。シノならすぐに見つけてくれる。」
    「そうだよね、きっとすぐ見つかるよね、賢者様。」
    口ではそう言うものの、不安げに揺れる瞳は変わらない。
    どうかすぐに見つかりますように。
    必死に祈る彼らに降り注いでいた陽射しは、いつの間にか夕闇のそれへと変わっていった。



    「で、賢者は見つからず、という訳か。」
    責めるわけでもなく、ファウストはあくまで冷静に、客観的事実を述べた。
    既に太陽は地へ沈み、大いなる災厄が夜を照らす。
    あれからラスティカとも合流し、シノと再び周囲を捜索したものの、賢者を見つける事はできなかった。最後の望みとして魔法舎へ帰ってきたが、やはり賢者は戻っていない。
    途方に暮れたクロエは慌てて魔法舎に居た皆を集め、状況を報告した。
    そして冒頭に至る。
    話を聞き終えた者は、皆一様に暗い表情を浮かべていた。
    賢者は何処で消え、何処へ行ったのか。不穏な事件が巷を駆け巡る中、ただただ不安が募っていく。
    「もしかして何処かで倒れて、誰かのお家で世話になっている可能性は?」
    医者らしいフィガロからの指摘に、シノが首を振って否定する。
    「低いだろうな。入り組んだ路地裏で、こんなものを拾った。」
    シノが掲げたのは、衣装に使う一つのボタン。特別豪華な飾り付けでも、希少な素材な訳でもない。ではそれが、一体何を意味するのか。
    「それ、俺が作った賢者様の服に付いてるボタンだよ…。出かける時、袖の所のボタンが取れそうだったから、後で縫い直そうかなって思ってたんだ。」
    「綺麗に拭き取られていたが、道に血の匂いも僅かに残っていた。つまり暴行され、誘拐された。」
    淡々としたシノの物言いに、一同がサッと顔色を変えた。
    「先日から話題となっている事件との関連も、否定はできないだろうな。だとすると、時間が経つほど、ますます生存確率が低くなる。」
    「そんな…!カイン、どうにか助ける事は出来ないのですか?」
    「もちろん最善は尽くすさ。けれど今は情報が少なすぎる。闇雲に動いても、ただ時間を無駄にするだけだ。」
    冷たく言っているようでいて、カインの指摘は的を得ている。
    先日から話題となっている事件は、アーサーが口にしていた通り魔や誘拐事件のことだ。近頃頻発しており、その所為もあって各国の兵士が多く駆り出されている状況である。恐らく賢者だったらいくらか優先順位は高いものの、発見には時間が掛かるだろう。
    「…あの人が、居なくなったんですか?」
    突如、不機嫌で気だるそうな声が、静寂の中に響き渡った。北の魔法使い達が、たった今帰還したのだ。
    空間魔法の扉からぞろぞろとやって来る彼らは皆、疲れた表情を浮かべている。スノウとホワイトが事前に言っていたように、厄介な魔物だったらしい。
    パタンと閉じられた瞬間、その扉は空間に溶けるかのように消えていった。
    「…賢者様が、居なくなったんですか?」
    ミスらが再度問うも返答はなく、チッと舌打ちして苛立たしげに唱えた。

    ≪アルシム≫

    いつものように、扉が出現する筈だった。あの人の元へ、迎えにいくために。
    だが呪文をいくら唱えても、ミスラの前には何も現れない。慣れ親しんだ言の葉は、意味を成すことなく虚空へと消えていく。
    「妨害魔法でもされておるかの。」
    「賢者の元へ行けないのだな。」
    ブラッドリーが抱える絵画の中から、双子が揃って解析する。彼らの指摘は、ミスラを更に苛立たせる要因にしかならなかった。
    「どういう事ですか。俺の空間魔法は場所を知らなくとも、対象を認識していればその位置座標とを繋げる事ができるはずです。」
    「だが現実に、繋げることが出来ないのじゃろう。お主ほどの魔力の持ち主を上回る使い手とは考えにくいのじゃが…。」
    「或いは何かしらの、限局的な魔道具やも知れぬ。近頃西の国では技術革新が盛んじゃからの。」
    「はぁ…。そもそも貴方達は、この事態を予知出来なかったんですか?普段は頼んでもいない予言を振り撒く癖に、肝心な時に察知しないなんて、まるで意味がないじゃないですか。」
    ミスラのそれは、もはやただの八つ当たりだった。賢者を取られ、奪い返せないこの状況に対しての不満や怒りを双子にぶつけている。双子もまたその心情を推し量っているのか、絵画の中で悲しげに目を伏せた。
    「確かに我らの得意魔法は予言じゃ。しかし本来であれば未来とは、視ようと思って必ず視られるものではない。」
    「未来とは本来、不確かで曖昧なもの。直近の出来事であればそれほど動かぬが、現在から離れる程に選択肢は分岐していくんじゃ。」
    「ある日突然、10年後の未来が浮かぶ事もあれば、3日後の未来が現れる事もある。」
    「まぁ、我らだったら狙って読み取る事も出来るんじゃが。」
    「いや、結局どっちなんだよ。はっきりしろよ。」
    ブラッドリーに急かされ、スノウとホワイトはため息をついて答える。
    「昨日占ったら賢者ちゃん、普通に美味しそうに、ネロのパンケーキ食べてたのう。」
    「ちなみに再来週じゃ。」
    「毎日毎日占う訳じゃないもん。」
    「でも確かに、ベッドに居たような気がするのう。」
    「ミスラも一緒じゃったからのう。」
    なるほど、確かに特段危険な状況にはならなそうな占い結果だろう。
    双子の予言は外れないと聞く。賢者がいる未来が視えているのならば、賢者は戻ってくる筈だ。しかしそれが安心材料になるかと問われれば、否だ。数多ある選択肢の先に、賢者が居る未来を勝ち取るには、各々が為すべき事を為さねばならない。
    「結局、振り出しに戻る訳か。参ったな、手掛かりが少な過ぎる。」
    ファウストの落胆に、皆が同調したその時。

    「いいえ、そうとも限りませんよ。」

    紫煙を燻らせ、貴婦人の如くしなやかな所作でシャイロックが立ち上がる。いつの間にか煙が辺りを取り巻き、まるで香のように、緩やかに揺蕩う。
    緊張、不安、恐怖。
    空間を支配していたそれが、ふわりと消えゆく。泡沫の夢であったかのように。
    シャイロックの使った魔法は、決して洗脳ではない。あくまで本人の意思を残したまま、感覚をほんの少し動かしただけ。
    皆の注目を集めたシャイロックは、にこりと優雅な笑みを浮かべると、友人の名を呼んだ。
    「ムル、貴方の出番です。」
    「はーい!」
    パッと宙から現れた飼い猫は一回転すると、シノのそばに降り立った。神出鬼没な彼の登場に今更驚く事はないが、それでも思わず身構えてしまうのは仕方ない。
    やや警戒するシノを全く気にする事なく、ムルはひょいと彼の手に持つボタンを取り上げた。
    「おい、何をする気だ…!」
    「待って、シノ。そうだ、確かムルは物の記憶を読み取る事ができるって…!」
    ヒースクリフの制止に、シノは不満げな様子ながらも黙る。
    ふんふん、と目を閉じて、ムルは掲げたボタンを左右に揺らした。ボタンに口はないのに、まるで会話をしているかのような錯覚に陥る。それは数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。
    やがて目を開けたムルは、にっこりと笑って周囲を見渡すと、一つの事実を告げた。
    「賢者様、殴られて攫われちゃった!」
    「誰に殴られたのか、顔はわかりますか?ムル。」
    「もちろん!こんな顔ー!」
    宙に現れた一枚の羊皮紙に、さらさらと黒のインクで肖像画が描かれていく。
    「うっそ、ムルって絵上手いんだ…!あ、決して下手だろうなとか思ってないよ!俺なんかより、すっごく上手でびっくりしただけで…。」
    「おや、彼はこれでも科学者であり技術者でもありますから、物の観察や写生なんてのは出来て当たり前です。」
    「この前シャイロックの似顔絵描いたら怒られた!」
    「何のことでしょう?」
    冷ややかな笑みを浮かべるシャイロックとは対照的に、ムルは鼻歌を交じえながら描きあげていく。あっという間に完成された似顔絵は、ひらりと宙を舞い、皆の間を駆け巡る。
    「ひとまずはそいつを片っ端から探してみるのが得策だろうな。それを複製して、騎士団の連中に回しておこう。」
    「カイン、大丈夫?大臣はカインのこと、あまり良く思ってなかったようだけど…。」
    「大丈夫さ。心配してくれてありがとうな、ヒースクリフ。確かに、元騎士団長が出張るのは、上も良くは思わないだろう。だからこれは、あくまで『一般市民』からの通報だ。」
    指名手配さながらに、人海戦術で炙り出す。単純だが最も効率が良く、皆が同意する。もちろん、良い事ばかりではない。騒ぎが大きくなる程に犯人は逃げようと躍起になるし、関わる人の数が多くなる程秘密は守れなくなっていく。かと言って魔法舎の者だけで当たるには、人も時間も足りない。どちらが良いか、あるいはどちらも悪手か。残念ながら、それを判ずる時間が、今は惜しい。
    「身代金目的のただの誘拐なら、そろそろ相手からの要求が来るかもしれない。なら、何人か交渉役として残った方が良いだろう。」
    「ファウスト様が、適任だと思います。」
    「レノ、そう言うからには君にも残ってもらうぞ。」
    「もちろんです。」
    レノックスがこくりと静かに頷くと、ファウストはやれやれとばかりに溜め息を吐いた。
    「ただの誘拐じゃなかった場合は?昨今の強盗や人攫いが関連づけられていくなら、組織立った犯行の可能性が高いよね。」
    「だろうな。って事は、だ。」
    ブラッドリーはフィガロの言葉の続きを引き取るかのように、鼻を鳴らして応える。
    「『宵の闇市場』が、早くもお出ましって訳だ。」
    アーサーは事件の折、兵士の手が足りないと言っていた。
    何故、連日強盗や人攫いが起きているのか
    そして多くの人を集める理由は、一体何か。
    「そろそろ近い内に、開かれるんじゃねえか?だから下っ端は、"商品"集めに走り回ってる。十中八九、人間は売り買いしてるだろうよ。生きてるか、死んでるかは知らねえがな。」
    「ブラッドリーちゃん、生き生きしてるのう…。」
    「普段もこのくらい頭使ってくれたら良いのに…。」
    「じゃあ、晶を襲った奴を探すルートとは別に、市場についての調査も必要か。…出来れば、その、考えたくないんだけどさ。」
    普段からハッキリと物を言うカインが、珍しく言い淀んでいる。賢者を襲った人物が既に組織へと献上していたら、間違いなく競売に賭けられる。理想としては、その前に押さえておきたい。しかし、あらゆる可能性を考慮しなければならないのもまた事実だ。
    「襲った人物の捜索班、市場についての情報収集、最悪の場合市場への潜入及び奪還班ってところか。ファウストを中心に、魔法舎では各班からの報告と情報分析、連絡業務を担うってのはどうだ?」
    「俺は突入班が良い。ボスがいたら、手柄をもらう。」
    「ぼ、僕は、えっと…。」
    「ミチル、前線に出て戦う事だけが強さじゃないよ。フィガロ先生と一緒に、魔法舎で皆の帰りを待っていよう。」
    「おいフィガロ、てめーは前に出ろ。つか医者の繋がりでキナ臭え奴とかいんだろ、そこを当たれよ。」
    「えぇ?年寄りに鞭打たないでよ。戦うのはオズ一人居れば十分でしょ。」
    「いえ、オズ様は魔法舎で皆の帰りを待っていてください。必ず賢者様と戻って参ります。」
    「………。」
    カインの提案に、我先にとばかりに皆がそれぞれ配置を選んでいく。戦闘となれば確かにオズ一人居れば申し分ないが、今回は真っ先に除外された。間違いなく夜の時間に市場は開かれるだろうから、弱い魔法しか使えなくなってしまうオズは、身を守ることすらできなくなってしまう。本人もそれが分かっているのか、はたまたアーサーからのお願いのお陰か、ほんの少し眉を寄せただけで何も言わなかった。
    「ミスラちゃん、ミスラちゃん。」
    「ずっと静かだけど…。」
    「「まさか寝てる??」」
    「はぁ、喧嘩売ってるなら買いますよ。」
    ここに至るまで、ミスラは一言も発していなかった。無論、眠っていた訳ではない。賢者が居なければ、眠る事など出来はしないのだから。
    ただミスラ自身、今の心境を言葉で表す事が難しかった。北の国では欲しいものは奪い、奪われたのならば奪い返す。強ければ生き、弱ければ死ぬという単純明快な摂理の中、オズという例外を除いて、自分は間違いなく強者だ。
    だからこんな状況は、初めてだった。自分のものが奪われ、取り返せないという事は。
    「ねぇミスラ、今ってどんな気持ち?賢者様が奪われて、お前じゃ取り返せないなんて悔しくて悲しい?可哀想に、賢者様。今頃何処かに連れられて、誰かのものになっているかも。」
    「黙ってくださいよ、オーエン。」
    瞬間、ピシッと何かがひび割れていく音が喧騒を切り裂いた。オーエンの挑発に応えたのは、ミスラの純粋な魔力の放出。呪文すら唱える事なく、ただ心の感じるままに、その心情が冷気となって溢れていく。

    いつの間にか、全ての時が止まったかのような錯覚に陥る。

    ただでさえ、個としての能力が抜きん出ている北の魔法使いを止める事は難しい。オーエンを制するべきか、ミスラを抑えるべきか。まさに一触即発といった空気を変えたのは、春の訪れを思わせるような、朗らかな声だった。
    「もう、ミスラさん!心配ならそう言えば良いんですよ。無闇に脅かさないでください。」
    ふわりと春の陽だまりを思わせるような笑みを浮かべ、ルチルはミスラの元へ駆け寄る。
    「そ、そうですよ!みんなで力を合わせて、賢者様を助けに行きましょう!」
    ミチルもミチルで、及び腰ながらも兄に同調して後に続く。南ならではの『みんな仲良く』といった気風は、残念ながら北の魔法使いには理解されない。だがそれでも、チレッタとの約束の証である南の兄弟を前にして、さすがのミスラも力で解決させようとは思わない。そのためやや毒気が抜かれたように、はぁと気怠げな溜息を吐くと、椅子から立ち上がった。
    「何処へ行くんじゃ、ミスラちゃん!」
    「まだ話は終わっとらんぞ!」
    「…賢者様の居場所が分かったら、教えてください。その時こそ、取り返してみせますよ。」

    ≪アルシム≫

    宙に現れた扉が開かれ、ひらりと白衣を翻しながら、ミスラは極寒の吹雪の中へと消えて行く。
    何処へ行くとも、何をするとも言う事なく出て行ってしまったが、誰も彼を追い掛けようとはしなかった。
    「…ああ見えて、きっとミスラも賢者ちゃんを心配しておる。」
    「取り返しに行く時はきっちり働いてもらうから、しばらくは放っておこうかの。」
    「…そうだな。それまで、俺たちは俺たちで出来る事をしよう。」
    それからはミスラ不在の中、各自の希望に添いつつも、戦力バランスや関係性を考慮して配置を決めて行った。
    指名手配犯の捜索を、アーサーとカイン、ヒースクリフとムル。
    宵の闇市場に関する情報収集を、ブラッドリーとオーエン、ネロとフィガロ。
    賢者の奪還班は、基本的には情報収集班がメインメンバーとして、戦闘補佐役としてさらにシノとレノックスが追加となる。
    またシャイロックを中心に、クロエとラスティカ、ルチルは全体のサポートを担っていく。
    最後にファウストとオズ、リケとミチルは、魔法舎を本部として各班からの報告の取りまとめ、情報解析、連絡係として統括する。もちろん最初は、シノとレノックスはこちらで待機だ。
    ちなみにスノウとホワイトは、隠居した身だからと役割は担っていない。だがわざわざ肩書きなどなくとも、必要時的確なアドバイス、サポートをするであろう事は言うまでもない。
    希望の所につけなかった者、何で俺がと言う声も多々あるものの、賢者の為と言われれば仕方ないと特に騒ぎになる事はなかった。
    本当なら、今すぐにでも街へ出て捜索に向かいたい。しかし時は既に、日付も変わる間近。リケやミチルも頑張って起きてはいるが、もう限界に近いだろう。今日のところは各々が身体を休めることを優先して、班ごとに軽くミーティングをしたら解散の運びとなった。



    ふと目を開けたら、錆びついた鉄格子と黒ずんだ床が視界に映った。ここは何処だっけ、何をしてたのかなと寝起きで働かない頭を無理やり動かそうとすると、ギャーッと辺り一面響き渡るような悲鳴が空気を震わせた。

    泣き声、叩く音、叫び声、金属音、女の声、鞭の音、子供の声。

    信じられないことに、自分はこんな絶望と恐怖の空間で寝こけていたらしい。と言ってもほとんど気を失っていたようなものらしく、全くの熟眠感は得られていない。今は何時か、朝なのか夜なのか、どのくらいの時間が経っているのか。何一つ、賢者は知る事ができなかった。
    身を起こした拍子に、ジャラリと鎖が動いた。足首にきっちりと括り付けられたそれは、なんとか抜け出せないかと引っ張ったり、叩きつけたりしたせいで、足輪に沿った内出血が酷い事になっている。
    くぅ、と何とも間抜けな音が、賢者の腹から鳴っていた。昼に魔法舎で食べてから、食事は一度だけ出されたが、硬いパンとコップ半分の水だけ。贅沢など言ってられないが、本当に不味かった。結局一口齧って、元に戻した。生温い空気と強烈な臭気のせいで、嗅覚も味覚も役に立たなくなっているのかもしれない。
    食事を持ってきたのは、あの痩せた男だった。せめてもの情けなのか、背中側に付けられていた手錠は食事の時に外され、今は前に付けられている。一瞬、本当に一瞬だけ、手錠を外された時に逃げようと考えた。しかし、すぐに諦めた。武器を持った相手とまともに渡り合える筈もないし、仮に隙をついたとしても、場所や人数すら把握できていない中、逃走の成功率は限りなくゼロに近い。
    男は定期的にーと言っても、時間がわからないのだがー賢者の様子を見にきた。逃げていないか、死んでいないか確認しに来ているのだろう。
    コツ、コツ、と革靴の音が、悲鳴と泣き声の合間に聞こえてきた。
    ああ、男がまたやって来る。
    「よう、青年。まだ正気を保ってるか?」
    男の掛けた声に、賢者はのろのろと頭を上げる。帰りたい、ここから出してと言いたいのに、言葉が出てこない。言った所で、無駄だと分かっているけれど。
    返事のない賢者に気を悪くする事もなく、男は牢の中へ入ってきた。
    「あぁあ、"商品"なのにこんなに傷を作っちゃって。困るだろ、買い取って貰えなくなっちまったら、あとは"中身"を出すしかなくなるぜ?まあ、奴隷の道もあるけどなぁ。」
    男は賢者の両手を雑に持ち上げ、しげしげと眺めた。言われて気付いたが、手錠が触れている皮膚から、鮮やかな血がぽたりと垂れていた。一度気づくと、今更のようにズキズキと痛み出し、賢者は思わず顔を顰める。
    「これで最後だからな。つっても一人だと、舌噛み切って自殺する奴もいるんだよなぁ。かと言って口塞いでも、頭打ちつけて死ぬ奴もいたし。」
    男はポケットから再び何かを取り出し、賢者の手錠と足輪の出血部分に塗りつける。
    男の独り言めいた内容は、その牢における過去を語っているものだった。まるで何かが飛び散ったかのような黒ずんだ染みは、床にも壁にも広がっている。
    気付きたくない、それが一体何なのか、知りたくない。

    でも、きっと、それは、おそらく。

    おぇ、と賢者は嘔吐く。幸か不幸か、かろうじて胃液が喉の辺りまで迫り上がってきただけで、何も口から出る事はなかった。
    賢者の様子を冷めた目で男は眺め、仕方ねぇなと溜息を吐いた。
    「いいか、青年。お互い穏便に行こうや。」
    男はグイッと賢者の頭を乱暴に持ち上げると、言い聞かせるかのように賢者の体を背後の壁へと打ち付けた。
    かはっ、と頼りない吐息が賢者からこぼれる。あまりの恐怖で、声一つあげる事が出来なかった。
    治ったかと思っていた頭痛がまた痛み出し、賢者の目には生理的な涙が浮かぶ。
    「俺は男を抱くなんて趣味はねえがなぁ、貴族の中には、それはそれは特殊な性癖を持った輩がうようよいやがる。」
    男は空いている方の手を賢者の首元に寄せ、そのネクタイを荒々しく外した。きっちりと締められていたボタンも引きちぎられ、賢者の薄い肉付きの身体が外気に晒される。
    「今、ここで、試してやっても、いいんだぜ?」
    男の指が、賢者の首元から胸へ滑り、心臓の辺りを強く突いた。
    「……ッ!」
    するりと際どい所まで触れられそうになったが、それでも力は入らない。最後の抵抗とばかりに、賢者は嫌々と首を振る。
    気づけばいつの間にか、辺りは静寂に包まれていた。あれ程空間を占めていた悲鳴も、泣き声も、まるで最初からそんな物なんて無かったかのように、鳴りを潜めていた。
    「…っと、時間切れか。調整が面倒なんだが、出来るだけ五体満足で出品したいもんでね。次に会う時は、晴れ姿を見せてくれよ。」
    男は興味を無くしたかのように、手を離す。壁に押さえつけられていた賢者は、そのままずるずると力なく座り込んだ。男が牢から出て行った時、ようやくまともな呼吸ができるようになった。
    賢者だって、馬鹿ではない。男の言葉が何を意味するのか、何をされそうになっていたのか、残念ながら正確に理解していた。そして自分が今後、どうなってしまうのかも。

    (ミスラ、ミスラなら迎えに来てくれるんじゃない、かな…)

    時間も場所も問わず、神出鬼没に現れる、歳だけ重ねた無邪気な獣。
    魔法舎では今頃、自分を捜索してくれているだろうか。
    あぁ、なんだかまた眠くなってきた。
    自分の意思とは関係なく、目蓋が重くなっていく。薄れそうになっていく意識の中、賢者は最後まで、宙に扉が現れるのを待ち続けた。


    賢者がゆっくりと床に倒れ伏せる音が響くと、痩せた男は檻越しにチラリと見遣る。
    「…そのまま目覚めない方が、楽かもなァ。」
    男の口元には、簡易的な立体マスクが装備されている。原理も構造も不明だが、今牢内に満ちているのは北の国にある、夢の森の毒だ。此処に集められた人間は、基本的には放置だが、人間は長時間何もない空間に閉じ込められるだけでも気が狂ってしまう。そうなると身体を傷付けたり、狂気的な行動に出たり、最悪の場合だと自死する可能性だってある。それを防ぐために、出荷が近付くと、こうして毒を使って身体の自由を奪う。
    どうやって持ち出しているのか、どのように調整しているのか、一切知らされてはいない。此処に至るまで、どれ程の人体実験を繰り返してきたのだろうか。そうまで考えて、男は被りを振る。今自分はマスクを付けているが、『上』の気分次第では、いつでも簡単に殺されるだろう。
    事実、痩せた男の背後には別の人間がおり、その人は痩せた男よりも頑丈そうなマスクを装着している。
    恰幅のいい壮年の男だ。こんな場所には全く似合わない、上等な衣服を身に纏っている。
    「…ほう、久方振りに良い商品が入ったな。あれならば、買い手は多くつきそうだ。」
    「へぇ、多少身なりを整えれば、貴族様にもご満足頂けるかと。」
    痩せた男は、妙に緊張した様子で応える。何故ならば、その壮年の男は彼の上司であり、この屋敷の所有者でもありー宵の闇市場の共同経営者だからだ。
    壮年の男の号令ひとつで、簡単に命は奪われる。彼にとって、人とは金を生み出す道具に過ぎない。だから数ある『商品』と同列に、倒れ伏した賢者を不躾に眺める。賢者が起きていたならば、あまりの気色悪さに後退りしていただろう。
    やがて壮年の男は満足したのか、賢者から視線を外すと、いくつか指示を出していく。
    「目玉商品として、注目を集めさせておけ。今回は幸いにも、俺たちの拠点でやるからな。例のガキ共も、用意ができたら回収しろ。」
    「運ぶのはいつも通りで構いませんでしょうか?」
    「そうだな。」
    事務的に、単なる業務の一つとして、賢者の運命が決まっていく。本人の意思とは関係なく、深く昏い絶望がゆっくりと近づいて来る。今意識がないのは、却って良かったのかもしれない。これから先、何度だって心を壊してしまうかもしれないから。



    「ったく、何で俺が情報収集班なんだ…。もっと適した奴がいるってのに。」
    まもなく日も沈みゆく、黄昏時。
    魔法舎の食生活を支えている男ーネロは誰に言うともなく、溜息をこぼす。その服はいつもの料理人めいた私服ではなく、簡素なシャツに旅人風の外套と、何処にでも居るような商人スタイルとなっている。本当はもっと顔を覆えるような帽子も被りたかったが、それはそれで目立つだろうと却下された。
    はぁ、と再び溜息を吐くと、それに同調するかのような声が、隣から掛けられる。
    「俺も同感だよ。賢者様の為とは言え、老体には厳しすぎると思わない?」
    「…いや、あんたは適任だろ。」
    尽く年寄りアピールしてくるフィガロを、ネロは冷めた目で見遣る。あくまでも南の国の優しいお医者さんを貫き通す姿勢を見せているが、その本性はやはり北の国のものだ。
    実際の所はそうとはっきり言われた訳ではないものの、敢えて聞くのもまた薮蛇かなと思い、今に至る。
    もちろんネロもフィガロも、自ら立候補はしていない。二人とも本気で魔法舎での居残り組を願っていたが、アーサーやヒースクリフ、ミチルやルチルの真っ直ぐな瞳で請われた時は首を振る事ができず、なし崩し的に配属となってしまったのだ。
    自分の事はさておき、今回情報収集班として組まれたメンバーは、良くも悪くも妥当な人選だと思っている。なにせ、どうしたってターゲットは裏社会にいる面子だ。南の兄弟やリケ、東の主従には出来るだけ関わらせたくないし、中央の主従は顔が割れすぎている。なら西はどうかというと、そちらはそちらで、シャイロックのバーを中心に諜報活動をしていくらしい。
    そう、良くも悪くも妥当な人選なのだ。
    自分の胃が心なしかキリキリと痛み出していたが、ネロは諦めて傍に立つフィガロへ振り返る。
    「そろそろだな。行くか、『先生』」
    「君にそう言われるのは新鮮だね。さて、可愛い賢者様のためにも、フィガロ先生頑張っちゃおうかな。」
    軽く腕まくりをすると、フィガロはいつもの白衣をたなびかせてー路地裏の闇へとひっそり消えて行った。



    「おらよ、俺の勝ちだ。さっさと寄越せ。」
    顔に傷の付いた男は余裕の笑みを浮かべ、綺麗に絵柄の揃ったカードを提示した。対峙する男はチッと舌打ちすると、手持ちのコインを献上する。
    陽も沈み、災厄が照らしゆく闇世の中、欲望と喧騒が人々を変えていく。
    ある者は絶望の淵から這い上がり、溢れんばかりの富を手に。
    ある者は約束されたはずの勝利がすり抜け、手に持つ全てを奪い取られ。
    そこは表向き酒場の看板を掲げつつも、オーナーの道楽か、はたまた賭け事好きの集まりのせいか、賭場としての顔も持っていた。
    享楽主義者は何も、西の国に限った話ではない。あらゆる物流の交易地点、人の出入りが激しい"栄光の街"では、今日もまた多くの商人、旅人、街人と様々な享楽者が、退屈な日常を彩る刺激を求めて、ふらりと立ち寄っていた。
    トランプ、ルーレット、ビリヤードと各テーブルで盛り上がりを見せる中、一際高い歓声が生まれる。その中心に居座る男ーブラッドリーは、周りを取り囲む観衆を気にする事なく、相手の男を手で払う。
    「駄目だ、お前じゃ弱すぎる。おい、他に強ぇ奴はいねぇのか?興醒めだぜ。」
    「…ふざけんなよ!お前イカサマしてんじゃねぇのか!?」
    ブラッドリーの明らかな挑発に、男はいとも容易く乗った。突如上がった大声に居並ぶ客はちらりと目を向けるが、すぐさま興味を失っていく。
    騒めきも雑談も諍いも、彼らにとっては、ささやかなスパイスに過ぎない。だから男の怒鳴り声も、酒場の空気をほんの一瞬震わせても、またそれを上回る歓声が場を支配していく。
    「おいおい、負けた奴が言っても説得力はねーよ。この俺が、お前如きにイカサマだと?てめーの実力をてめーで理解してから、口にしな。」
    男の言い掛かりに、ブラッドリーは鼻を鳴らして答えた。観衆が、とりわけ華やかな装いの女性からは黄色い声が上がる。
    ディーラーは男の訴えも、ブラッドリーの反撃も黙殺し、鮮やかな手捌きでトランプを切っていく。
    この酒場、もとい賭場では、厳密にはイカサマを禁じてはいない。バレるようなイカサマをする方が、悪いのだ。正論も、正義も、法もルールも存在しない。あるのはほんの一時の、快楽だけ。
    「ねぇ、もっと遊んでよ。こんなんじゃ、まだ足りないんだけど。」
    「お前、いい加減何皿目だよ。俺の稼ぎを横から掻っ払いやがって。」
    「うるさい。こんな騒がしい所にわざわざ来てやっただけ、感謝して欲しいくらいだね。」
    ブラッドリーのそばには、テーブルに寄りかかるように軽く腰掛けたオーエンが、甘めのガレットを口にしていた。すでに彼の近くのテーブルには、いくつもの皿が積み重なっている。魔法舎の食事には劣るものの、さすが人の往来が盛んな酒場らしく、甘味もまたそれなりに豊富なようだ。制覇する勢いで食べ尽くしていたオーエンは口元を拭うと、冷ややかな目で相手の男を見遣る。

    「…ねぇ、次は何を賭けるの?」

    早くして、とばかりに圧を掛けるオーエンに対し、男はぐっと堪えるかのように口を引き結ぶ。どうやら手持ちの金も尽きたらしい。オーエンはそれを分かっていて、さらに身を乗り出して畳み掛ける。
    「金以外にも出せるでしょ。ちょうどケルベロスの散歩相手を探してたんだよね。あいつ、僕の事が大っ嫌いだからすぐ殺そうとしてくるんだけど、お前ならきっと良いおもちゃになれるよ。」
    左右で異なる色味の瞳が、ゆらりと怪しげに歪められる。内容自体は残酷な提案なのに、それを無邪気に告げるものだから、たちが悪い。男もここが引き際だろうと諦めたのか、チッと舌打ちをするとすぐさま立ち去った。
    「ったく、ちまちま賭けんのは性に合わねぇな。」
    「ねぇ何であの男見逃したのさ。僕は本気でケルベロスの散歩相手探してるんだけど。」
    「本気だったのかよ。いや人間があの化け物散歩させられるわけねーだろ。食われるじゃねーか。」
    「ケルベロスはあんな不味い人間食べない。」
    「即答かよ。グルメか。」
    「取り敢えず、適当な人間を早く見繕ってよ。」
    尚も言い合う二人に飽きたのか、周りを取り囲んでいた観衆は、気の向くまま散り散りになっていった。テーブルは目立つようにライトアップされているものの、酒場の照明は薄暗く、それがまた雰囲気を妖しげで蠱惑的なものへと変えている。盛り上がりを見せる場もある一方、数人でただ静かにグラスを傾けているグループもいた。

    そんな中、彼ら二人に近づく影がひとつ。

    「失礼。今、人が欲しいと小耳に挟んだんですが、聞き違いではありませんでしょうか?」
    手に持つワイングラスを傾け、紳士風の男が丁寧に語りかける。
    「何なのさ、お前。僕はお前に用なんかない。」
    対するオーエンは、心底嫌そうな顔を前面に押し出して、顔を背けた。そのまま何事もなかったかのように、旨めのカーケンメテオルを口に運ぶ。ちなみに現時点で、ブラッドリーの稼ぎの半分は既に消えていた。
    一方ブラッドリーは近付いてきたこの紳士風の男を胡散臭そうに見遣り、観察していた。
    外見年齢は40〜50歳程度。酒場の雰囲気に合わせて着崩した格好だが、それでいて粗野な印象は無く、身につけている宝飾類もそこそこ値が張るものだ。物腰も丁寧であり、オーエンの失礼な物言いにも動じている様子はない。
    「欲しがってるのは俺じゃなくてこいつだけどな。上手い話を持ってくるなら、まずはてめえの実力を見せてみろよ。」
    「いえいえ、貴方様の腕前は十分拝見させてもらいましたよ。私程度では、到底敵いません。」
    「ハッ、随分持ち上げるじゃねぇか。だが俺様を取引相手に選ぶんだったら、相応の人物を連れてこい。下っ端に話すことなんざねぇよ。」
    尚も言い募ろうとする紳士風の男は、菓子を食べ尽くして不機嫌になったオーエンに睨まれると、そそくさと離れていった。
    そしてブラッドリーの稼ぎは全て消えた。
    「ねぇ、何でもう無いのさ。もっと稼いでよ。」
    「あぁ!?てめえ俺の稼ぎ全部使いやがったな!?ふざけんなよ殺すぞ!」
    「うるさいんだけど。もっと稼げば済む話でしょ。ほら、早くしてよね。」
    「よし、殺す。」
    それぞれの得物へと、手が伸びそうなったその時。こほん、と軽い咳払いが、彼らの諍いを制止する。
    「…失礼。店内での乱闘は禁止しております。」
    彼らの居座るテーブル近くに立っていたディーラーが、二人に臆することなく声を掛ける。
    酒が入って気の昂る者もいるのか、そうした者を適度にいなし、武力を以ってして対処する。その役割が、恐らく彼なのだろう。
    「チッ。」
    「…。」
    ブラッドリーもオーエンも気が削がれたのか、大人しく席に座る。
    それを見たディーラーは、また静かにトランプを切っていく。その手捌きは見事であり、一切の澱みがない。
    酒場の盛り上がりは、今や最高潮に達している。

    そして彼は一枚の手札を、二人の前にそっと提示した。

    「…はっ、合格ってわけか。」
    ブラッドリーの前に提示された手札は、ジョーカー。それ一枚が出されただけでは、何の変哲もない、ただのカード。しかしこの状況、このタイミングで渡された事に、意味がある。
    「聞けば、あなたがたそれぞれに、お望みのものがお有りのご様子。約束はしなくとも結構です。ほんの少しだけ、口を閉ざして頂ければ、泡沫の夢へと御招待致しましょう。」
    ディーラーは口に指を立て、緩やかな笑みを浮かべる。
    「俺たちが魔法使いだってのも筒抜けか。」
    「ええ、もちろん。貴方もそうでしょう?」
    「あぁ、ディーラーの中でお前だけが魔法使いだったからな。だから『ここ』を選ばせてもらった。」
    「おや、私が『何か』に気付いたらどうするつもりだったんです?」
    「いいや、お前は余計な事はしねぇさ。」
    ブラッドリーは渡されたジョーカーを指に挟み、ディーラーを見据える。
    人間が魔法使いを判別する事は出来ないが、魔法使いは魔法使いを認識する事ができる。個として識別する訳ではないが、例えて言うなら魔力の残滓のような物が、本人から溢れているらしい。もちろん強い者であれば完全に気配を消す事もできるし、また隠されていても容易に辿る事もできる。
    この男の場合、決して弱くはないのだがーブラッドリーは店に入った時から、このディーラーが魔法使いである事を見抜いていた。
    そして、気付いた事がもう一つ。
    「お前、ぜってー西の国の生まれか、そっちで育ったクチだろ。あそこは、面白ければ法もルールもどうだっていい、享楽主義者の集まりだからな。俺が『面白い』事をするのを、邪魔したりはしねーだろ。」
    「もちろんです。差し支えなければ、そう推理した経緯をお聞かせ頂いても?」
    「…知り合いにそっくりな奴がいるからだ。」
    苦虫を噛み潰したかのようなブラッドリーの表情に、ディーラーは先程よりも愉快な様子で笑った。
    「それは光栄ですね。」
    「僕の望みを叶えてくれるなんて、随分偉そうな物言いだよね。何様のつもりなの?興味無いけど、仕方ないから聞いてあげる。」
    つまらなそうな表情を見せながらも、オーエンは立ち去る様子もなく、挑発的に続きを促した。



    「どうやら望み通りの展開になったようだね。俺たちも頑張ろうか。」
    「あいつら割と目立ってねーか?目ぇ付けられたらどうすんだよ…。」
    「みんな自分達のゲームに夢中だから、気付いていないさ。内緒話をするのって、意外とこうした人の多い所の方が、誰も聞いていないものだよ。」
    「それもそうだな。にしても、いくらカインからの事前情報があったとは言え、冷や冷やするよ、ホント。」
    「多分事前情報なんてなくても、自力で辿り着けたような気もするけどね。」
    静かにグラスを傾けている二人組ーもといフィガロとネロは、中央のテーブルに居座るブラッドリー達を視界の隅で見届けると、ゆっくりとワインを嗜んだ。何となしに注文した料理も、そこそこネロの舌を唸らせるものだったらしく、彼は他のメニューが気になる様子で少しソワソワしている。
    栄光の街は、カインの地元だ。彼が仲間内や知り合いを駆使して(もちろん他のメンバーも協力したが)、この酒場が宵の闇市場への入り口だという事実を突き止める事ができた。しかし入り口がわかっても、参加への手段が不明だった。唯一分かったのが、"案内人"に気に入られる事。宵の闇市場へは、ただ行きたい、参加したいと言っても、気軽には赴く事ができない。"案内人"に気に入られ、誘いを受けて、初めて切符を手にする事ができる。ちなみに、最初ブラッドリー達に話しかけてきた紳士風の男はフェイクだ。こちらの誘いに乗ると、よろしくない結末が待っている。振るいにかけ、案内人が面白いと気に入った者のみ、参加の資格を得られるのだ。
    そのため取り敢えず派手に稼ぎ、注目を集め、"案内人"だろうと思われる男と接触を図ってみたのだが、上手くいったようだ。案内人が誰かも分からない中で、ブラッドリーは見事それを引き当て、予想通りに事が運んだのだから、さすがだろう。

    今回ブラッドリーとオーエン、フィガロとネロは別行動だ。

    何故ならば。

    「お久しぶりですね、フィガロ先生。」
    「やぁ、随分暫くぶりじゃないか。元気にしてる?」
    「お陰様で、食うには困らない程度には。」
    「謙遜するねぇ。ま、座ってよ。」
    給仕係に追加の注文を告げ、フィガロは挨拶してきた男を迎え入れた。ネロも顔を上げ、軽く会釈をする。歳はフィガロと同じくらいなのか、やや下か。仕事帰りのようで、傍らのカバンを下に置く。
    今回二人の目的は、この男に会う事だ。
    ネロは不自然にならないよう、ちらりと彼を観察する。
    (…この男が、『臓器売買の闇医者』…)
    外見上は、本当に普通の男だ。フィガロは白衣を纏い、いかにも医者の出立ちだが、男は簡素なシャツにズボンとその辺を歩いている街人と変わりない。好青年の度合いで言えば、フィガロよりは上かもしれない。魔力は感じられないから、人間だろうか。
    「そんなにまじまじと見られると、恥ずかしいな。初めて見るかい?僕みたいな医者は。」
    「あ…いや、悪い。そんなつもりじゃなかったんだけど…。」
    「いいよ、気にしないで。君のような『表』の人間が、僕に関わる事なんてないだろうし。」
    「そうそう、じゃあ再会を祝して、乾杯。」
    グラスを傾け合う音が高らかに響き、上質なワインが喉を潤していく。
    騒めきと歓声が重なり合い、勝者も敗者も関係なく、ひとときの宴を紡いでいく。誰もが同じ明日を迎える訳でもないのに、同じ時を共有しただけで、刹那の関係は縁となり、また繋がる。
    これもまた不思議な縁とばかりに、闇医者と名乗る青年は、微笑んだ。
    「初めまして。自己紹介は、不要かな。今回はフィガロ先生からの依頼と聞いているからね。名乗った所で、意味がない。僕の客となるなら、また名乗ろう。」
    「ど、どうも。あー、まぁ、一応俺は名乗っておくよ。ネロだ。」
    「なんか暫く見ない間に、成長したねぇ。昔はもう少し素直だったんじゃない?」
    「あれから色々あったんですよ。まぁでも、フィガロ先生を参考にしている部分は大きいですね。」
    だろうな、とネロは腑に落ちた。まるでフィガロが二人いるようで、落ち着かないのだ。物腰も雰囲気も、瓜二つとまではいかないが、人の懐に入るのは得意なのだろう。
    それはネロが最も苦手とするタイプだった。ネロ自身は顔に出さないようにしているつもりだが、残念ながら成功しているとは言い切れない。ネロは誤魔化すかのように、アヒージョを食べる事に専念した。
    「さて、先生。僕に頼むからには厄介事の匂いしかしませんが、一応その線で合ってます?」
    「もちろん、それも最大級のものさ。昔のよしみで、協力して欲しいんだよね。」
    「先生の頼みを断る事なんて、できませんよ。それでどのような?」
    「そうだねぇ…。と、その前に。」

    ≪ポッシデオ≫

    フィガロが唱えた途端、ゆらりと空気が動く気配がした。だがネロには、どこが変わったのかは分からない。不思議そうなその表情を読み取ったのか、フィガロは答え合わせの要領で、説明する。
    「防音の結界。周囲の音は聞こえるけど、俺たちの出す音は届かないよ。」
    「だが先生、魔法なんて使ったら…。」
    「大丈夫さ。酒場に入る前に、魔力を誤魔化すような魔法を掛けたから。もちろん、ネロにもね。」
    「いつの間に…。」
    フィガロは何でもないように口にしていたが、それは非常に高度な魔法だった。実際の所は魔力を完全に遮断しているので、傍目からは纏う気配も人間のそれだ。確かに酒場へ潜り込む時、ディーラーに自分達が魔法使いである事はバレるのでは?とネロは疑問を抱いていた。しかしそれを尋ねると、「大丈夫大丈夫。フィガロ先生に任せなさい。」と微笑まれ、今に至る。魔法をかけられていた事にも気付けずーネロは、目の前にいる人物の印象を改める事にした。
    「さて、ネロ。さっきも言ったけど、この人は闇医者だよ。昔色々あって、縁があってね。」
    「簡単に言うと、僕の仕事を斡旋してくれたのがフィガロ先生なんだ。」
    「ものすごく省略してるけど、そんな感じ。」
    「なんつーもん斡旋してんだよ、先生…。」
    「色々あったんだよ、色々。」
    「…えっと、その、あんたは適していると思ったのか?こんな事言ったら悪いかもしれないけど、どう考えても真っ当な職業とは思えないんだが。」
    ネロの疑問は至極もっともであり、悪いとは思いながらも聞かずにはいられなかった。対して闇医者の男は動じる様子もなく、傾けていたグラスの中身を飲み干す。そのまま満足そうな吐息を溢すと、ゆっくりと口を開いた。
    「君は臓器売買と聞いて、どんな印象を持っているかな?」
    「…裏の連中が差し押さえて押収したりとか?あとは金がねぇ奴が困った時の、最終手段とか…。」
    「まぁ、そういうケースもあるだろうね。残念ながら、僕の取り扱い分野では無いけれど。」
    「取扱分野とかあるのか?」
    「もちろん。この国に限らず、臓器売買とは違法なものさ。理由は君が言ってくれた通り。だが世の中には、法やルールに縛られていては、助けられない命がある。」
    闇医者の男はどこか哀愁を感じさせるような、寂しげな瞳でワイングラスを見つめた。闇医者と聞くと、近寄ってはならない、悪の人間のように思える。しかし目の前の男からはそのような気配は全くせず、どちらかと言えば、善側の人間のようにも見えた。
    ネロは男の言っている意味が分からず、首を傾げた。
    男は静かに、話を続ける。
    「例えば君の身近な人、大切な人が、臓器移植をすれば助かるかもしれないのに、正当な手続きでの移植を待っていたら死ぬかもしれない。あるいは自殺願望のある人間が、最期に何か人の役に立ちたいと願った時。余命幾ばくもない病気の人間が、周りに迷惑をかけた分少しでも何か返したい時。」
    男の提示した例は、ほんの僅かだったが、言葉に詰まるものだった。決して合法ではない、法の下で裁きを受けるべきはずなのに、そうしようとは思えない。
    いつのまにか、ネロは男の話に引き込まれていく。
    「僕はそうした人達の橋渡しをしている。もちろん合意の上だけど、それでも違法な事に変わりはない。僕は間違いなく『悪』の人間でありーいつか裁かれる日が来るとも、思っているよ。」
    カラン、と氷の崩れる音が大きく響いた。
    違法だけれど、だからこそ助かる命がある。男のような役割がいるからこそ、感謝する人がいる。正義とは何か、守るべき法とは何か。正解は一つではないかもしれないし、そもそも無いのかもしれない。
    男が語り終えて暫くは、何をするという訳でもなく、ただ静かに時間が流れていった。

    「さて、本題ですね。フィガロ先生、僕に頼みと言うのは、一体何でしょう。」
    「『宵の闇市場』について。君だったら、出品者側として入り込んでるんじゃない?」
    「知ってるか否か、という質問ではないんですね。さすがフィガロ先生です。」
    「そんなに褒められると照れちゃうなぁ。」
    「御謙遜を。質問にお答えする前に、僕からも質問してよろしいですか?お二方は『宵の闇市場』について、どこまでご存知なのでしょうか。」
    「いや、俺は噂程度で聞いたくらいだから、大して知らないけど。先生はもともと知っていたのか?」
    「色々あってねぇ。簡潔に言うならば、昔壊滅させた筈なんだけど。どうしてまた復活してるんだか。」
    「か、壊滅…?」
    なんだかとても不穏な単語が聞こえたような気がする。固まるネロに対し、フィガロは爽やかな笑みを浮かべてグラスにワインを注ぐ。
    「あぁ、やっぱり初期の頃の騒動はフィガロ先生の仕業だったんですね。確かに一度、組織自体は壊滅し、残党もほとんど牢獄行きで終身刑が言い渡されました。けれどやっぱり需要が拡大したせいか、別の組織が事業ルートを横取りして販売市場を拡大させたんです。」
    「ふーん、じゃあ『商品』の種類もきっと豊富になっているんだろうね。顧客の年齢層も数も、あの頃よりは多いだろうから。」
    「えぇ、中でも近年は貴族側の需要の高まりが見られますね。大いなる災厄の影響か、古代生物の乱獲や、希少価値の高い動植物もやり取りされています。ただ時代を通して変わらないものがー」
    「『人身売買』。近頃活発化してるのは、人間狩りだろうね。」
    奴隷、情婦、ペット、愛玩人形。名前や形はどうであれ、罪もない人を攫い、市場に賭け、さらなる地獄へと突き落とす。改めて言葉にすると、気色悪さに吐き気すら覚えてしまう。
    「あんたは出品者側として、市場に出ているのか?」
    だとすると、やっぱり悪側の人間だ。そう心の内が思わず出てしまい、つい口調がキツくなる。だがネロの問い掛けに対し、闇医者の男は曖昧に微笑んだ。
    「二択で答えるのならば、是と答えるしかないだろうね。誤解しないで欲しいのだけど、僕が取り扱っているのは臓器だけだ。何故なら臓器は鮮度が高いうちに、取引をする必要があるからね。提供された臓器を無駄にする事がないように、入札者も、僕が認めた者のみに限定している。臓器提供者にも、予め説明しているさ。」
    それでも褒められた行いではない事は、重々承知の上だろう。
    闇医者の男は残り少ないカルパッチョを掬い上げると、ゆっくりと咀嚼する。
    「と言っても、僕はそこまであそこに執着があるわけではありません。もう独自で取引を成立させることも可能ですし、近頃はそれほど顔も出していませんしね。フィガロ先生は、あそこに何か御用が?」
    「もしかしたら、ウチの人間が巻き込まれている可能性が高くてね。一刻も早く助けにいかなければならないと焦っているところさ。」
    「なるほど。では僕を使って、出品者側として、中に入り込もうという算段ですね。」
    「成功しても失敗しても、君は二度と参加出来なくなるけど良い?」
    「構いませんよ。さっきも言ったように、僕はあそこに未練はありません。それどころか、早く消えればいいのに、とすら思っています。取引ルートを探すために利用していた僕が言うのも、可笑しな話ですが。」
    闇医者の男はここで初めて、自虐的な笑みを浮かべた。必要に迫られてといえど、そうするしかなかった自分に対し、自己嫌悪しているのかもしれない。
    「なら、取引成立だ。ちなみに、次に開かれるのはいつ?」
    「3日後の、0時ちょうどです。完全招待制で、開催地も転々としており、公に披露されることはありません。フィガロ先生の探し人でしたら、開催前に乗り込みたい所ですが、残念ながら前日になってようやく伝えられるんですよね。」
    「早めに伝えると、密告される可能性が高くなるしね。事前に商品のラインナップとかを知ることはできない?」
    「難しいですね。当日になるまで、何が出されるか分からないのが現状です。」
    「そうか。じゃあそっちは、入札者側のルートで当たってもらおう。と言うわけでさ、ネロ。」
    「…はい?」
    とっても爽やかな笑顔を見せたフィガロが、ネロを呼んだ。反射的に、ネロは冷や汗を浮かべる。

    「『商品』になってね。」

    周囲の騒めきや歓声が、やけに大きく聞こえた。商品、品物、売り物、販売物。単語は分かるが、フィガロの言っている事が耳を通り抜ける。思わずカチャン、と手に持っていたフォークを取り落とした。
    「…聞き間違いじゃなければ、俺が出品される話のような気がするんだが…。」
    「さすがネロ、理解が早いね。じゃあ、よろしく。」
    「では、追って詳細をお伝えします。フィガロ先生は、僕の助手という形で如何ですか?」
    「任せて、優秀な助手を演じてみせよう。」
    「…それと僕の分野は臓器専門ですから、生きたヒトを出品するとなると、少し違和感を覚えられるかもしれませんね。」
    「それに関しては、ちょっと案があるんだよね。『新鮮な死体』だったら問題ない?」
    「まぁ、それなら大丈夫でしょう。では方法はお任せするので、僕はそれを出品する旨を向こうに送りつけますね。」
    完全にネロを放置して、話は進んでいく。理屈は分かる、必要性も分かる、だがそれとこれとは別なのでは。
    ネロがささやかながらも反撃しようと口を開いた時、闇医者の男がそう言えばと鞄から何かを取り出した。
    「向こうに着いたら、魔法はほとんど使えないものだと思った方がいいでしょう。」
    男が取り出したのは、黒い石。
    酒場の薄暗い照明のせいか、やや鈍い光を放っているが、形状はマナ石に近い。
    マナ石は、言ってみれば魔力の塊のようなものであり、魔法使いであれば、本能的に欲してしまう。だが目の前にある石は、何処となく生理的な嫌悪感を抱いてしまいーネロは思わず、眉を顰める。
    「ちなみに君は、僕の事を人間だと思ったかな?」
    「え?あんた、魔法使いか?」
    繰り返し言うが、この男から魔力は感じられない。ならば実力を隠しているのだろうか、だとしたら相当高位な魔法使いか。
    ネロの驚愕に、今日一番の笑い声を上げながら、男は答える。
    「僕自身は本当に普通の魔法使いだよ。フィガロ先生は何でもないように使ってるけど、魔力を隠す芸当なんて、到底できない。これはそれを実現してくれる魔道具さ。」
    文字通り、黒のマナ石というらしい。製造方法は不明だが、あらゆる魔法に対し反魔法の効果を発する。射程距離や効果範囲が限定されている分、この石の近くでは、魔法はほぼ使えない。
    「…のはずなんだけど、石の大きさによるかな。さっきフィガロ先生が使った防音結界は、きちんと僕にも作用されているからね。僕が持っているこのサイズの石だと、せいぜい僕の魔力を隠すくらいしかできない。」
    「魔力を隠す必要があるのか?」
    「まぁ、今日はあのディーラーに、顔を覚えられるのは避けたかったから。ただの人間のふりをしていた方が、無難かと思ってね。」
    「その石が、市場では至る所に配備されているのかな?」
    「えぇ、向こうの言い分だと不正を防ぐためらしいですよ。そうでなければ、偽装し放題ですからね。なのでそちらの彼が商品として出品されるんだったら、これを身に付けて人間の死体として出された方がいいでしょう。魔法使いの死体だと、恐らく厳重な警備を敷かれるでしょうし。」
    「やっぱり俺が出品される前提かよ。」
    ネロの投げやりなツッコミを流し、二人は笑顔で酒を酌み交わす。
    「では、成功を願って。」
    「乾杯。」
    一際高い歓声が、また何処かから上がった。



    はらはらと、雪が静かに舞い落ちる。
    極寒の大地を吹き荒んでいた風は止み、新雪を踏みしめる音が、またひとつ。
    死の湖に佇むミスラは、もう何度目かも分からない呪文を唱える。

    ≪アルシム≫

    だが目の前に、いつもの豪奢な扉は現れない。
    賢者の元には、繋がらない。
    何回も、何十回も、何百回も唱えても、賢者のところへ行く事ができない。
    会いたいのに会えないという状況が、ミスラには初めてだった。元々は魔法舎まで行くのが面倒で覚えた空間転移魔法だったが、今では自分の代名詞となっている。それなのに、肝心な時に限って、使えなくなるとは思わなかった。
    だがどうすれば良いのか分からなくて、また狂ったように唱え続ける。
    ≪アルシム≫

    ≪アルシム≫

    魔法で払ったはずの霧が、再び湖畔を緩やかに覆い尽くす。骨と氷に囲まれたこの島で、まるで小さな子供が愚図っているかのように、もはや意味を成していない呪文を唱え続ける。

    「ミスラや、その辺りにしておくんじゃ。」
    「己の身体を見てみるが良い。死にかけておるぞ。」
    背後から掛けられた声に、ようやくミスラは我に返る。見ると指先が凍傷を起こしており、壊死寸前だった。空間転移魔法だけに集中していたせいか、自身にかけていた防寒魔法の効力が失われている事に、気付いていなかったのだ。
    「仕方ないのう。」
    「しょうがないのう。」

    ≪ノスコムニア≫

    ぽう、と灰色の景色に、温かな光が浮かび上がった。それは身体の中心から指先へと広がると、瞬く間に壊死した指が再生していく。全てが終わっても、ミスラの表情は変わらなかった。スノウとホワイトが近寄ってようやく、視線を動かしたくらいだった。
    「ミスラや、恐らく賢者の元には強力な反魔法結界が為されておる。このまま続けても、意味はないじゃろう。」
    「フィガロちゃんが、それらしきものの情報を掴んできてな。今は皆で対策手段を講じておる。」
    「…はぁ、そうですか。」
    そう呟くと、ミスラは力尽きたかのように、ゆっくりと骨の山へと沈み込んだ。仰向けに寝転がった彼の動きに合わせて、骨同士の擦れ合う音が湖畔に響く。
    見上げた空は相変わらず灰色で、どこまでも続いていた。頬に触れた雪は緩やかに溶け、雫となって身体に染み込んでいく。
    「それと朗報…と言って良いものか、分からぬが。」
    「賢者の情報も、シャイロック達が掴んできてな。…『宵の闇市場』で、出品されるそうじゃ。」
    瞬間、びりびりと空気が震えた。
    それはまるで、空間に裂け目が出来るほどの振動だった。ミスラの魔力が暴走し始め、双子が慌てて止めに入る。
    「今は耐える時じゃ、ミスラ。賢者を迎えにいくその時まで、温存しておくが良い。」
    「そなたは魔法舎きっての、期待のエースじゃ。賢者もお主が迎えに来るのを、待っておるじゃろう。」
    ミスラの身体にしがみつき、説得をし続ける事で、ようやく魔力の暴走は収まった。だがその視線は、未だ凍てついたままだ。瞬きすら躊躇わせるほどの緊張感の中ーミスラはようやく、口を開いた。
    「…分かりました。」
    その返事を聞き、スノウとホワイトはやっと安堵の息をつく。実は夕暮れも近づき、割と時間的な意味でも危なかった。ミスラの気が変わらないうちに、魔法舎への帰還を促す。
    しかしミスラは、首を振って拒絶した。
    「今は戻りませんよ。どうせ寝れないでしょうし、だったら此処に居ます。」
    「でもミスラちゃん、さっき死にかけてた事気付いていなかったもん!また死にかけたらどうするの!」
    「我ら、夜は迎えに行けないもん!だから目の届く所に居てほしいんだけど!」
    「さっきはうっかり死にかけましたが、もう大丈夫ですよ。それはそれとして、頼みたい事があるんですが。」
    死にかけた事をさらっと流し、ミスラは己の要求を伝える。普段自身の欲望を貫き通す北の魔法使いが、珍しく他者へ依頼の形をとり、尋ねた事に双子は驚いた。もちろん、その要求の内容にも驚愕したのだが。
    「…えぇー、ミスラちゃん、マジギレじゃのう。」
    「いやこの場合だと、ガチギレと言うらしいぞ。それはそれとして、全くとんでもない事を考えつくのう。」
    ミスラの要求に、双子は若干言い淀む様子を見せながらも、最終的には是と返した。
    「いつ市場は開かれるんですか?」
    「2日後の0時じゃ。場所は明日分かると聞いておる。」
    「ミスラや、間に合うかのう。」
    無表情だった彼が、そこで初めて挑発的な笑みを浮かべて答える。
    「1日あれば、充分です。」

    ただ静かに降り積もっていた雪が、次第に荒れ狂う吹雪へと変わっていく。
    湖畔に忍び寄る霧が、視界を閉ざしていく。
    双子が帰った後、ミスラは死の湖にまた、独りで佇んでいた。



    「それでは、作戦内容を改めて整理しよう。」
    ファウストの声に、皆が背筋を正して聞き耳を立てる。いよいよ今夜が、正念場だ。
    誰もが緊張を隠さずに、険しい表情を浮かべている。
    皆の視線が集まった事が分かると、ファウストは再び口火を切った。
    「まずは潜入班を二つに分ける。一つはブラッドリーとオーエン、そしてミスラ。こちらは入札者側として、市場への潜入を試みる。もう一つは、フィガロとネロ。こちらは出品者側として、より内部からの捜査を試みる。」
    ディーラーとの交渉により、無事にブラッドリー達は招待券を手に入れる事ができた。本来ならば、直接やり取りをしたブラッドリーとオーエンのみの招待枠だったのだが、そこはディーラーとの勝負に持ち込み、無事に勝ち取る事ができたのである。つくづく悪運の強い男だと、誰もが思っただろう。
    そしてフィガロは闇医者の助手として、ネロは『商品』として、出品者側のルートから賢者の捜索をしていく。
    「ネロを商品として出品すると聞いたが、その手段はどうするんだ?」
    カインの疑問に、フィガロは予め回答を用意していたのか、淀みなく答えた。
    「新鮮な死体として、出品する予定だよ。そこで、クロエの出番と言うわけさ。ね、クロエ。」
    「えぇ!?俺!?…あ、そっか!」
    突如自分が指名され、クロエは困惑の声を上げるが、同時に理由も分かったようだった。
    「俺の得意魔法で、ネロを仮死状態にするんだね。」
    「なるほど…その手があったのか…。」
    仮死状態と言えど、その精度はかなり高い。
    そもそも死をどのように定義するのか、実は曖昧であったりする。各国の法や文化、国民性、時代背景などにより変化していき、明確な答えが未だに出ていないのが現状だ。
    しかし、今回はそこまで細かく定める必要はない。外見上死亡が確認できれば、中へ入り込める。中に入れさえすれば、後はタイミングを図って捜索へ向かい、脱出する。多少騒ぎにはなるだろうが、これだけの規模の市場だ。ネロ一人の捜索に、それほど多くの人材を投入するとは考えにくい。
    「クロエの魔法だと、どこまで"死"に近いかな?」
    「あくまで仮死だから、本当に心臓や呼吸を止める訳じゃないよ。ただ、かなり遅くなると思う。自分の意思で身体を動かす事は、もちろんできないかな。」
    「拍動を意図的に調節しているのか…。だとすると、循環機能の低下から体温も必然的に下がるだろうね。そうすれば、呼吸回数や量も最低限で済む。随意運動はもちろんだけど、不随意運動の抑制はできるのかな。」
    「そんなに長い時間使った事はないんだけど…。お店にいた頃、お客さんに魔法を使った時、うっかりまち針を刺しちゃった事があるんだ。でも何にも反応はなかったから、多分大丈夫だと思う。」
    俺も未熟だったから、とやや目を伏せるクロエだが、話を聞けば聞くほど、その魔法の特異さが際立つ。鼓動や呼吸の頻度を限りなく落とすのならば、動物の冬眠状態と類似している。しかしクロエの場合、恐らく脳幹に直接作用して、擬似的な死をもたらしているのだろう。一歩間違えれば脳死を引き起こすだけに、実はかなり高度かつ危険な魔法とも言える。本人は全く自覚していないだろうが、使用用途が今の所、試着や採寸の時じっとさせるためとかなり限定されているのが、救いかもしれない。
    ネロの意識が閉ざされるため、本人が意図的に仮死状態を解除するのは難しいだろう。解除するにあたっては、クロエ本人でなくても可能だと言うが、フィガロや闇医者の男がずっとそばにいる保証はない。
    だが、それについては問題ない。
    「恐らく市場には、例の石が配備されているだろうからね。最初の関門さえ突破できれば、あとは自然解凍されるだろうさ。」
    「なんかそれ、めちゃくちゃ嫌な言い方なんだけど。」
    「小一時間前に仮死状態にすれば、体温は下がるだろうし。最悪検分の時に生き返っても、回復までには時間かかるから、誤魔化せるよ。」
    「俺じゃなくて、先生がやった方がいいだろーが。」
    「え?闇医者の助手ってかなり演技力求められるけど、そんなにやりたい?」
    「…………………。」
    にっこりとフィガロに微笑まれ、ネロは答えに窮する。十中八九、面白がっているだろうが、だからと言って代替案の方が良いとも思えない。よってネロが出来るのは、これ以上余計な役目を背負う事がないよう、沈黙することだった。
    「あとは、例の石ですね。中ではほとんど魔法が使えないんだったら、なにか対策を考えないと…。」
    「ヒース、それについては、西の国から意見があるようだ。安心しなさい。」
    「おや、お呼びのようですよ、ムル。」
    「なになにー?」
    くるりと宙で一回転したムルは、猫のようなしなやかさで床に降り立った。
    まるでこれから舞台でも始まるかのように、そのまま優雅に一礼すると、皆の視線が集まる。
    「"黒いマナ石"っていう名称は、初めて聞いたけどね!俺、見た事あるよ。作り方も知ってる。」
    「そうなの!?っていうか、あれは作れるものなんだ…。」
    クロエの驚きに、皆が続く。
    「そもそもムルが作ったんじゃないのか…?」
    「んー、ファウスト、それは失礼だよ!」
    稀代の天才、科学者、知恵者と称されるムルならば作ったと言われても、そこまでの驚きはない。だからこそ、ファウストもそう呟いたのだが、ムルは意外にも怒ったように口を尖らせた。
    「あれは例え正当な目的であったとしても、作るべきものじゃない。俺も興味はあったけど、自分の手で作ろうとは思わなかったよ。」
    「珍しいですね、貴方が興味を示しながらも手に掛けなかったなんて。」
    シャイロックが緩やかな微笑を浮かべ、生じた疑問を紫煙に乗せた。
    ムルは大きく伸びをしたかと思えば、シャイロックに向かってにっこり笑みを浮かべて返事をする。
    「だってシャイロックは嫌いだと思うから!」
    曇りなき眼で伝えられた言葉に、やや毒気が抜かれた様子でシャイロックは目を見開いた。
    「作り方なんて知る必要ないし、そんなもの無い方がいい!…知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。」
    ふいに、ムルがどこか遠いものを見るような目をして、独り言めいたように呟いた。
    まるで、どこまでも深く、昏い闇を覗いてきたかのように。
    ムルの言葉は誰もが理解したわけではないと言うのに、誰もが言葉を発せないでいた。

    「それで、どうすれば良いのか、貴方なら考えが思い浮かぶのでしょう?」
    「もちろん。」
    至極当然のように、ムルはあっさりと返事をした。魔法を封じ込め、強力な反魔法作用が働くそれらに、どのような対抗手段があるのか。自然と皆はムルの元に集まり、その内容を吟味していく。
    賢者奪還作戦も、いよいよ大詰めとなってきたのだった。



    「…い!……おい!」
    「…………ッ?」
    何か音が聞こえる。そう認識できていても、身体がだるく、動かせない。
    音は段々大きくなっていく。
    「…起きろ!」
    (…声?…誰の…?)
    誰かが自分を起こそうとしているのか。誰の声なのかは分からない。だがそう気づいた瞬間、急速に意識が覚醒していく。
    靄がかかったような頭は、突如感じた痛みによってー賢者はようやく目を開ける。
    「あ…れ…?」
    賢者の呟きに気付いたのか、先程まで呼びかけていた声の主は安堵の息を吐く。
    「はー、死んじまってるかと思ったぜ。焦らせるなよ、坊ちゃん。」
    「あ…なた、は…?」
    定期的に来ていた、あの痩せた男ではない。ひょっとして外からの助けが、と淡い期待を抱いたが、男の返事で見事に打ち砕かれる。
    「お前さんの出荷の時間だよ。俺は運び屋だ。さっさと着替えて、身なりを整えろ。」
    男の手には紙袋が提げており、袋の隙間から衣類が垣間見えた。
    (出荷…出荷って、もう、みんなに会えなくなるかな…)
    ここに居るのは、魔法使いの皆と心を繋ぐ賢者なのではなく、ただの人間。何処の誰とも知れぬ貴族の手に渡り、日の目を見ることもなく朽ちてゆくのか。
    賢者の目に浮かんだ涙を見ても、男はつまらなそうな表情をするだけだった。彼はもう何人も、何十人も、賢者のような『商品』を出荷しているのだから、今更良心が痛むようなこともないのだろう。そもそも良心なんてものが、存在しないのかもしれないが。
    手錠と足輪を一度外され、男から紙袋を押し付けられる。賢者が袋から取り出すと、中から簡素な衣服が出てきた。それは一枚のワンピース風になっていて、元の世界でいえば手術時に着るような術衣に近い。太腿の横部分には深めのスリットが入っていて、本当にこれを着るのか、賢者は不安になった。
    しかし男は微動だにせず、早くしろ、と目で訴えかけてくる。仕方なく、本当に仕方なく、賢者は渡された衣服を手に取った。再びちらりと男を見ると、相変わらず賢者の方に視線を向けている。
    (着替える時、せめて向こう向いてくれないかな…)
    賢者の切ない表情とその意図に、男は気付いたらしい。しかし男はどうでも良いように、それこそぶっきらぼうに言い捨てる。
    「あん?男なんだから、裸くらいどうだっていいだろう。時間がねーんだよ、早くしろ。」
    「…はい。」
    賢者の意思など、ここでは一切関係ないのだ。促されるままに、賢者は服を脱ぎ捨てる。肌が外気に晒されて、思わずぶるりと身体が震えた。思い切って下着のみになると、そのまま急いで渡された服に着替える。靴はもう一度履き直そうとしたら、男に取り上げられたので、仕方なく素足のままでいる。
    新しい服に着替える時、いつも心が弾んでいた。でもそれは、クロエがみんなの為を思って丁寧に作られた服だったからに過ぎない。いま自分が袖を通しているこれは、まるで死装束のようなもの。
    暗い気持ちになりながらも、賢者が着替え終わると再び手錠と足輪を付けられる。
    ガチャンと無機質な金属音が、監獄に響き渡る。
    男に連れられて歩く賢者の耳には、悲鳴一つ聞こえなかった。



    「どいつもこいつも悪そうな顔してやがるなぁ。」
    「自分の顔を鏡で見たら?」
    「そもそも全員仮面を付けてるんだから、見えないじゃないですか。ひょっとして、視力落ちました?」
    「うるせぇな、殺すぞ。」
    大いなる災厄が煌々と輝く、決戦の夜。
    次々と到着する馬車の群れに、華やかな装飾を身に纏った貴族の談笑が、隠しきれない興奮を露わにして、夜会に満ちていく。
    一見すると、貴族主宰のありふれたダンスパーティーにも思えるが、違いは一つ。全員が目元を隠す仮面を飾り付けている事だ。形状や色に統一性はなく、ただ仮面であれば良いらしい。好きな宝飾類で固める者、思い切って顔全てを覆う者、身内であるのか連れ同士で揃いのものを身につける者等様々であり、それがまた、耽美で蠱惑的な雰囲気を作り出していた。
    斯く言う北の3人も、クロエプロデュースの夜会衣装となっていた。タキシードをベースに、それぞれに合うフリルやレースを散りばめ、煌びやかなアクセサリーが彼らの魅力を充分に引き立てている。
    「にしても、まさか中央の国のお膝元とはな。奴ら、相当バレない自信があんのか…いや、ひょっとすると、国の上層部と繋がってる可能性が高いか。じゃなきゃ、留置所の情報も手に入らねーだろうし。」
    ブラッドリーの推測通り、彼の視線の先には政治に関わる重鎮が、ちらほら写っていた。ミスラは茶化していたが、仮面を付けていようと、顔以外でも人は人を把握する事ができる。身なり、所作、連れの人数、移動手段等ほんの僅かな情報だけでも、実は特定できるのだ。ブラッドリーは長年の経験からか、持ち前の鋭い観察力と洞察力で、夜会に集う人々のおおよそを把握する事ができていた。
    「北の国だったら良かったのに。そうすれば手加減せずに全員殺しても、文句言われない。中央の国の奴らって、ほんと退屈。ねぇ、ミスラ。」
    ため息を吐きながら、オーエンはミスラに同意を求めるが、隣からの返事はない。仕方なくそちらを見遣ると、ミスラは何処か遠くを見るように、翡翠の瞳を瞬かせていた。
    本人は全く自覚していないが、気怠そうに寄りかかったその姿からは、ただならぬ色気が漏れており、居合わせた淑女の視線を集めている。何人かは熱っぽい視線を向けているのに対して、当の本人は完全に無関心だ。だがそれもまた、野性味溢れる殿方として魅力さを増しているのだった。
    閑話休題。
    ミスラの様子を見たオーエンとブラッドリーは、再びため息を吐いて、呼び掛ける。
    「おい、ミスラ。今ここに賢者が居るわけねーだろ。ここは『表』の会場だ。無関係の貴族もごちゃごちゃいるんだから、ここで暴れると面倒だぜ。」
    「『裏』に行ったとしても、魔法は使えないからね。暴れようにも、出来ないよ。わかってる?」
    「……はぁ。知ってますよ。」
    面倒そうにくしゃりと片手で髪をかきあげ、ようやくミスラは会場全体から視線を戻す。見る者全てを楽しませる為の装飾も、料理人が腕によりをかけて作ったディナーも、華やかな装いに身を包んだ紳士淑女も、今のミスラにとっては何の価値もなかった。いつもだったら真っ先に向かうはずの、料理が並んだテーブルにも目を向けず、つまらなそうに佇んでいる。お腹は空いていないと言ったら嘘にはなるが、何かが足りない。何かがそばにいないと、自分の隣りで、『仕方ないですね』と笑いながら一緒に食べてくれる人が。
    そこまで考えて、ミスラは思考を放棄した。

    …これ以上考えると、飢えが酷くなる。

    眠気とも相俟って、不機嫌さが増すミスラだったが、そこでようやく主賓が顔を出した。溢れんばかりに湧き上がる拍手の中、朗々と開会の儀を執り行う。
    「紳士淑女の皆様。大変長らくお待たせ致しました。これより仮面舞踏会を開催致します。歌うも良し、踊るも良し。語り合うのも、また一興。どうぞ今宵、心ゆくまでお楽しみくださいませ。」
    大ホールの中央で、夜会の主催者が仰々しく一礼した。挨拶の終了と同時に楽器団の優雅な演奏が始まり、美しくも妖艶な貴族達の宴が幕を開ける。
    「ようやく始まったか。ったく、とんだ茶番だぜ。」
    ブラッドリーはそうぼやきながら、グラスに注がれたワインを豪快に飲み干す。その傍らでは、オーエンがテーブルに盛られたデザートを端から食べ尽くしていた。
    「おいミスラ、食わなくてもいいが、後でぶっ倒れるなよ?」
    「…はぁ、そんな気分じゃないのでいらないです。」
    ミスラはやはり気怠げな様子で、ぼんやりとデザートを頬張るオーエンを見ている。
    もちろん彼らは、ただ所在なさげに立ち尽くしているわけではない。

    彼らは、合図を待っている。

    人の果てない欲望と、繰り返される悲劇の幕開けを。
    今宵も始まる、仮初の楽園へと誘う時を。

    突如、ホール内の照明が全て落とされた。何の前触れもなく暗闇に包まれる会場では、疑問と困惑の声が上がる。しかしそれも束の間、次の瞬間にはまるで夜空を鮮やかに彩るような無数の花火が挙げられた。
    「素敵なサプライズだわ!」
    「驚いたが、これは素晴らしい!」
    「あは、触れそう!」
    人々が天井に描かれる華やかな軌跡に目を奪われる中ー手元に忍ばせていた1枚のカードが、淡い煌めきを密やかに放つ。そこには、流れるような、上品な筆跡が浮かび上がっていた。

    "宵闇の中、深紅の幕の向こうへ"

    ミスラがちらりと視線を上げると、楽器団の傍らにひっそりと佇んでいるバーテンダー風の男と目が合った。向こうもそれに気付いたようで、緩やかな笑みを浮かべている。
    そしてその男の背後にはー暗闇の中でも、派手に打ち上がる花火のお陰で認識できるー深紅の幕。
    ブラッドリー、オーエンも気付いたようだった。
    人々が未だ続く花火の演出に目を向けている中、彼ら3人はまるで闇へと溶け込むかのように姿を消した。



    時はほんの少し、遡る。
    それはミスラ達がクロエプロデュースの衣装に袖を通し、会場へと向かった頃。
    魔法舎では、第二陣の出発準備が整いつつあった。
    「それじゃあ、衣装はばっちりだね!えへへ、なかなか無いオーダーだったから、ちょっと不安だったけど、二人ともよく似合ってるよ。」
    クロエの張り切ったような声に、外で待機していた面子がぞろぞろと室内へと顔を出す。お披露目された衣装は2種類。いつもの医者風の格好をさらに着崩し、暗めな色を全体的に落としたフィガロ。一方のネロは、たっぷりとレースや豪奢な飾りボタンをあしらった貴族の子爵風スタイルだ。今回、ネロの格好をどうするかで割と揉めた。当の本人は行き倒れた旅人として、至極簡素で粗末な服を着ようとしていたのだ。しかしそこはフィガロの口八丁が災いし、「その辺で倒れている人の臓器を欲しがるわけないでしょ。せめて非業の死を遂げた、由緒正しい箱入り息子を演じなよ。」と言い含められ、今に至る。
    理屈は分かるが、心情は納得していない。とは言うものの、せっかくのクロエの力作にケチをつける訳にもいかない。なのでネロは、仏頂面で視線を心許なく彷徨わせていた。
    「ミチル、ルチル、俺の格好はどう?よく似合ってると思わない?」
    「…何と言うか、信頼をしてはいけない感じがします。」
    「フィガロ先生、早く帰って元の格好に戻ってくださいね。」
    「えぇ?俺、そんなに不評なの?」

    一方、東の国のメンバーからは。
    「ヒースの次に格好いいぞ、ネロ。そのまま社交会に行ける。」
    「こんな時にまでそんな事言うなよ、シノ。ネロ、とっても似合ってるよ。」
    「やれやれ、今回は死体役で良かったな。じゃなきゃ、ヒースにマナー講座を開いてもらうところだったぞ。」
    「はは、それは勘弁してくれ…。」

    和やかな時間がほんの僅か流れるも、支度が済んだのならば、あとは最終調整だ。
    フィガロとネロは、この後闇医者の男と落ち合い、宵の闇市場の裏側から潜入する。事前にブラッドリー達から聞いていた、『表』側からのルートとは全く異なるようなので、無論気を引き締めなければならない。
    また、反魔法作用の施された会場であれば、中に入ると通信手段は無いに等しい。北の3人組はともかくとして、フィガロとネロは何処かでバラける可能性が高いだろう。臨機応変に状況を判断し、対応していく手腕が求められる。
    例の黒いマナ石への対応策も、事前に共有はしている。実際には試していないので、ほとんどぶっつけ本番に近いが。
    上手く行けば、賢者を救出した後に、戦闘補佐役として会場外に待機しているシノやレノックスと合流する予定だ。ちなみにフィガロとネロが、賢者が出品者される前に救出出来なかった場合、北の3人が"穏便に"正規ルートで賢者を取り戻す事となっている。
    シャイロックを中心にしたサポートメンバーも、念の為会場近くに待機しているものの、あとは出番がない事を祈るばかりだ。
    オズ、ファウストの指揮官組と年少留守番組は、引き続き魔法舎で待機する。
    「うぅ、緊張するなぁ…洋服の採寸以外でこの魔法使うの、あんまりないから…。」
    「クロエ、自信を持って。僕はクロエが出来ると信じているよ。」
    「ふふ、可愛らしい人。必ず成功すると言うのも味気ないですから、そんなに気構えなくても結構ですよ。」
    「いや、そこは成功してくれないと…俺、死なないか…?」
    「冗談です。場を和ませようとしただけですよ。」
    「成功するか失敗するか、どっちに賭けるー?」

    西の冷やかしや軽快なトークで、不安や緊張に包まれていた空気が、ほんの少し緩む。誰もが平気そうな顔をしているが、内心では穏やかでない心地だろう。それでも賢者を助けたい、賢者のために、皆で協力しようとしている。

    ほんの少し前まで、仲間内ですら争いが絶えなかったと言うのに。

    賢者不在が、こうまで魔法使いを変えるとは。
    否、正しくは、賢者が魔法使いを変えたのか。

    長らく賢者の魔法使いを務めている魔法使い達は、眩しそうにその光景を眺めていた。

    「それじゃあ、いくよ。」

    ≪スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク≫



    ガタガタと、車輪の揺れる音がする。
    外を伺おうにも窓はなく、時を知ろうにも手段はない。
    呼吸困難にはなっていないので、何処かに空気の出入りはあるのだろうが、生憎この暗闇の中で探すのは危険だ。
    何処に向かっているのか分からないまま、賢者はただただ耳を澄ます。
    車輪の音に混じって、よく分からない動物の鳴き声も聞こえてくるけれど。
    時折吠える声も上げるので、その度に賢者はビクッと身体を縮こませる。
    あの運び屋の男に連れて行かれた先は、屋内にずらりと並んだ馬車の群れだった。馬車といっても、馬が連れているのはおよそ人が乗るような物ではない。例えるなら鉄製の箱、それこそ元の世界でいうトラックに近いかもしれない。その中の一つに無言で連れて行かれると、「乗れ」と短く命令された。重々しい音を立てながら、後ろに設置された扉を開くと、いくつもの金属製の檻が並んでいた。
    色鮮やかな極彩色の鳥、名も知らぬ奇怪な動物、床に固定された蕾のままの植物など、ありとあらゆる"商品"が詰め込まれている。
    その一角に、空いたスペースがあった。言うまでもなく、賢者を収容する為の檻だ。
    その光景に立ち竦んでいると、運び屋の男に強く背中を押される。
    逃げようかと思うも、忙しそうに走り回る男達は皆武器を所持しており、現実的では無い。
    諦めたように俯く賢者は、そろりと貨物庫に乗り込んだ。詰め込まれた商品の間を歩くと、視界の端にとある光景が映る。
    (ー人間だ!)
    賢者と同様の衣装に身を包み、床に座り込んでいる人間が、宙をぼんやりと見ている。10人はいるだろうか。数々の商品に囲まれていたせいか、入り口からは見えなかったが、紛れも無くそれは人間だった。
    「ここに入れ。」
    運び屋の男に示された檻に賢者が入ると、ガチャンと硬く鍵を掛けられる。さらに男が立ち去るときに、唯一の出入り口である扉がまた重々しい音を立ててー闇に包まれた。
    どのくらい時が経ったのだろう。
    賢者は隣だと思われる方向を、ちらりと見遣る。
    「あの…えっと、大丈夫、ですか…?」
    勇気を出して声を掛けてみたものの、相手からの返事はない。幸か不幸か、人間は一纏めの区画に押し込められていた。個別に閉じ込められているものの、手を伸ばせば届く距離だ。コミュニケーションは容易に取れる、はずだった。
    賢者の呼び掛けは、宙に消える。
    聞こえなかったのだろうか、ならばもう少し近くに寄ろうか。足輪は外れたものの、相変わらず付いてる手錠を懸命に動かし、賢者は隣の檻へと近づく。
    だが、そこで気付いた。
    相手が何か、うわ言のように呟き続けている事に。

    嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
    怖い怖い怖い怖い
    殺して殺して殺して

    それはまるで、呪詛のようだった。
    どうしたって相手が悪いのに、今の境遇に嘆いて、これから起こる結末から目を逸らしたくて、己をただただ苦しめている。

    死を選びたいほどに、生きる事に絶望している。

    賢者はそれに気付くと、声を掛けるのを止めた。一緒に逃げようという甘い考えは、目の前に広がる現実によって、簡単に消え去った。
    ガタンと一際大きな音が、貨物庫に響く。車輪が乗り上げたかと思ったが、徐々に速度が緩やかになっていくことから、どうやら目的地に着いたらしい。
    動物達が落ち着きもなく、怯えたような声を上げる。
    やがて何処かに停車したかと思うと、ほんのひと時を経て、またあの扉が開いた。暗闇に僅かばかりの光が差し込むと、賢者は眩しそうに目を細める。
    運び屋の男がゆっくりと足音を立てる度に、未来への絶望をひしひしと実感していく。
    檻が一つ一つ運び出されるのを、ただ視界の隅に捉える。やがて賢者達人間の番が来ると、厳重に掛けられていた鍵を外され、外へと連れ出された。
    あの子は、と慌てて隣にいた人を見ると、ちょうど別の男に立たされる所だった。しかしその子は泣き疲れたのか、もう意識が曖昧なのか、男の指示には従わず座り込んでいる。すると男はあろう事か、いきなりその子の頭を掴むと床に叩きつけた。
    「おい、起きろ!歩け!」
    叩きつけられた時に痛みを感じていたはずなのに、男の怒号にも、その子は何の反応を示さなかった。ただ虚ろに宙を見遣るだけで、口の端からは涎が流れている。

    まるで、廃人だ。

    男はやがて諦めたのか、その子を雑に抱えると、貨物庫の外へと連れ出す。賢者を連れ出したのはあの運び屋と名乗る男だったが、外には他にも多くの人がいるらしい。入れ替わり立ち替わり、人間を連れ出そうとするも、自力で歩けるのはどうやら賢者のみらしく、他の人は皆その子同様に抱えられ、運ばれていった。
    外に出ると眩しい太陽の光がーと期待したが、相変わらず薄暗い屋内だった。申し訳なさ程度に灯された蝋燭が、ゆらりと揺らめている。
    足先が冷たい床に触れる度に切ない気持ちになったが、男達に遅れないよう歩いて行くのに精一杯だった。
    やがて何処か一室に入れられると、男達は無言で出て行く。すると入れ替わりのように、フードを被った人が数人、するりと入って来た。賢者以外の人間は皆、床に座り込んでいたり、倒れていたりしていたが、入ってきた人物達は手を貸すこともせず前に立つ。賢者の前にもフードを目深く被った人が、威圧するように立った。背格好から、男だろうか。一体何をされるのか皆目検討が付かないが、賢者はせめてもの抵抗とばかりに、手錠が嵌められた手を前に突き出す。
    頭の中には、先程の子が受けていた暴力が映し出される。
    だが予想外にも、賢者に暴力が向けられる事はなかった。代わりに男が、小声で何度か呟く。その呟きは聞き取れなかったけれど、賢者は全身を何か、得体の知れないものに包まれているような感覚に陥った。
    (何だ、これ…。治癒…?)
    気付くと手錠や足輪の擦りにより生じていた赤みが取れていた。頭を殴られたときに出来たたんこぶも、触って確かめる事はできないが、治っているような気がする。と同時に、身なりが整えられていることも分かった。あの鼻が曲がるような臭気の中に閉じ込められていたので、すでに嗅覚は役に立っていなかったのだが、どうやらそれも綺麗になったらしい。
    魔法使いの皆が掛けてくれる治癒魔法と同じはずなのに、いつもならば優しい気持ちになれるはずなのに、賢者が感じたのは不快感と気持ち悪さだけだった。何処の誰とも分からぬ魔法使いに、まるで全身を犯されたような、強烈な生理的嫌悪がふつふつと湧き上がる。だが感じたところで、どうにもできない。男はもう用が済んだとばかりに、賢者から離れると、すぐ次の人間に移った。
    まるで流れ作業のように、淡々と時間が過ぎていく。全てを回り終えると、扉からまた新しい小柄な人物が入ってきた。その人物はぐるりと部屋を見渡すと、フードの集団に目を向ける。集団の一人が頷くと、小柄な人は自分を肩車させ、天井に何か嵌め込んでいる。賢者がぼんやりとそれを見遣ると、そのフードの集団は入ってきたのと同様に、するりとまた部屋から出て行った。
    鍵を回す残酷な音が聞こえたのち、再び静寂が空間を支配する。
    (もう、逃げ場はない、か…)
    床に座り込む賢者の頭上では、天井に嵌め込まれた黒い石が鈍く光っていた。



    「こんばんは、フィガロ先生。彼はここに?」
    「やぁ、良い夜だね。準備は万端だよ。」
    にっこりと人好きのする笑みを浮かべるフィガロは、持参した棺をこんこんと軽く叩いた。近づく闇医者の男は白衣を着ているわけではなく、ちょっとした余所行き風の衣装だ。何でも、顧客は皆自分の事を医者だとわかっている為、敢えてそれを示す装いは不要らしい。
    「久しぶりの君の出品を、心待ちにしている人がいるんじゃない?」
    「ご心配なく。今回はギリギリのエントリーにしましたからね。本当に僕の事が必要な人には個別に連絡を取るとして、そこまで注目はされないでしょう。まぁ、いつもはメンバー内限定での公開にしていた僕が、珍しく一般公開するにあたって、多少気に留めるやもしれませんが。」
    中央の国グランヴェル城のお膝元とでも言うべきこの城下町で、今宵の市場は開かれる。とある貴族の館で盛大なパーティが開かれているが、それはカモフラージュ。フィガロ達が居るのはそこから離れた、名も知らぬ川にかかった橋の下だ。大いなる災厄が雲間から顔を覗かせている闇夜の中、川のせせらぎが静かに響き渡る。
    「中身確認する?」
    「もちろん。では、失礼しますね。」
    一声かけて、闇医者の男は棺の蓋に手を掛ける。中を覗くと、"死体のネロ"が眠ったように目を閉じていた。
    「これは驚きましたね。先生の魔法ですか?偽装するにしても、相当高度な技術をお持ちですね。」
    「残念ながら俺ではないけれど、これなら合格かな?」
    「えぇ、外見上は問題ないでしょう。体温も下がっていますし、死後硬直はしていないようですね。死斑はどうですか?」
    「厳密には心臓が止まっているわけじゃないから、出ていないけどね。多分。」
    「結構です。商品としては綺麗な状態で出品したいので、問題ないですよ。死にたてほやほや大歓迎です。検分する際にも、この敷き詰められた花達が、上手く誤魔化してくれるでしょう。」
    「設定としては、非業の死を遂げた裕福な箱入り息子って事にしてるけどどう?」
    「あぁ、だからこんなにも豪華な衣装と棺にしてるんですね。そうしたら、妾の子というのも追加しましょうか。」
    「いいね。そうすれば、なんで貴族の息子が出品されてるんだ?って疑問も払拭されるだろう。なんせ妾の子だから。」
    「妾の子だから表立った葬儀が出来ない代わりに、こっちで片付けたいという、如何にもな理由が出来ます。」
    闇医者の男の納得したような口振りと次々に並べられる設定を、もしネロが起きて聞いていたら、苦い表情を浮かべていたに違いない。
    細かい設定や手順を最終確認して、棺の中にそっと小さな黒いマナ石を隠し入れると、闇医者の男とフィガロは互いに頷く。
    「じゃあ行こうか。いつもこういうルートを使ってるの?」
    「人や場所によりけりですね。出品者側に直接、行き方のルートが送られるんですよ。僕達が使うのは、あくまでその内の一つに過ぎません。まぁでも、多い手ではありますね。」
    闇医者の男が指し示した先には、ぽっかりと穴が空いたような空洞があった。否、先程までは、そこには何もなかった。だが男がとある手順を踏み、魔法を使って幻影が解かれたのだ。それは地下深くへと続く迷宮への入り口のような、下水道だった。
    「ふぅ、強烈な匂いだね。辿り着いた時に、嫌な顔されそうだ。」
    「こればっかりは、慣れるしかないですねぇ。」
    懐から目元を覆い隠す仮面を付けると、棺を魔法でふよふよと浮かし、二人は暗闇へと足を踏み入れた。

    カツン、カツンと革靴の音が、地下に響き渡る。奥へ奥へと進んでいくうちに匂いが濃くなるかと思いきや、それ程でもないようだった。下水道に沿って行くというよりも、下水道を元にした、巧妙に隠された正しいルートを歩いているのだろうか。
    それ程短くも長くもない時間が過ぎた頃、ぐにゃりと空間が歪む。ほんの一瞬だけ感じた違和感は、結界に足を踏み入れた事を意味する。
    フィガロはもちろん気付いていたが、それよりもなかなかの強度と高い擬態技術に驚いていた。一個人として構築するならば、それこそ高位な魔法使いに違いない。しかしよくよく観察すれば、様々な魔力が複雑に絡み合って一つの魔法として完成されている。恐らく何人もの魔法使いが、それも結界形成に修練を積んだ者達が、今もなお維持し続けているのだろう。
    結界をくぐり抜けると、途端に下水道の臭気が消えた。等間隔に配置された蝋燭が妖しく揺らめいていることから、何処かから風が入り込んでいるか、空気の循環がされている事がわかる。一歩ずつ進み行く内に、静寂から喧騒へ、人々の忙しない足音が増えていく。闇医者の男の先導で曲がり角を曲がると、フィガロの目には多くの人が飛び込んできた。フィガロ達は下水道から潜り込んできたが、いつの間に辿り着いたのか、ここは何処かの地下空間のようだった。行き交う人は皆何かしらの荷物を抱えているか、荷馬車を連れている者もいる。荷台に乗っている物には垂れ幕が掛けられているか、あとは鉄製の箱そのものを積んでおり、外から窺い知る事は出来ない。
    と思いきや、よく見れば後ろの扉が開かれている。さりげなく視線を向けるが、どうやら既に運び出された後らしく、中は空だった。
    「フィガロ先生、まだあまり目を向けない方が良いです。余計な火種を生むやもしれません。」
    「了解、了解。ここで騒ぎになったら面倒だしね。」
    棺をトン、と床に下ろし、フィガロ達は待機する。適当に雑談をしていると、前方にあった人だかりが幾分か解消されたようだった。居並ぶ人々の隙間から、衛兵然とした格好の男が見え、通行証ならぬ招待状を確認しているらしい。男の背後には深紅の垂れ幕がかかり、チェックが終わった人々はそこをくぐり抜けていることから、商品の検分は別室で行うようだ。
    それにしても、とフィガロはぐるりと室内全体を見渡す。仮面で顔を覆い隠し、正体を秘したまま、欲望と快楽に身を落とす彼らは、明日からも何食わぬ顔で街を歩くのだろう。自分達の手で、悲劇を生み出しているという自覚もないままに。それは正しく傲慢であると同時に、人間らしいとも思えた。
    千年経っても、二千年経っても、人間というのは変わらない生き物だ。
    フィガロはつまらなそうに人々の群れを見遣ると、衛兵風の男に呼ばれて前に進み出た。

    入り口での顔合わせー実際は仮面を被っているがーが終わると、衛兵風の男の背後へと誘われる。垂れ幕を手で払うと、整然と並んだ扉が目に入った。
    「空いている所に行きましょう。そこで検分が行われます。」
    「なるほど。分かりました、"先生"。」
    手近な部屋は既に埋まっており、幾分か歩かされるも、二人は空き部屋へと足を踏み入れる。中は家具も何もなく、当たり前だが窓もない。そして天井に嵌め込まれているのは、鈍く光る黒いマナ石。
    扉を開ける前から、身体が拒否反応を起こしていた。闇医者の男はいつも持ち歩いているからか耐性があるようで、平気な顔をしている。もちろんフィガロも表面上は何食わぬ顔をしているものの、内心は穏やかではなかった。
    棺を念の為部屋の前で下ろしていたが、そのまま入って行ったら間違いなく落ちていただろう。二人で運び入れると、ようやく肩の荷が降りたとばかりに、溜息をこぼした。
    ただ残念ながら、まだ第一関門をようやく突破したに過ぎない。続く第二関門の検分が、山場とも言えるだろう。部屋に入った時から、ネロに掛けられた仮死魔法は解けている。ちなみに、隠し入れた方の小さな黒いマナ石は仮死魔法を解くほどの力はなく、あくまでネロの魔力を隠す程度に過ぎない。
    さすがに1時間も待たされる訳はないだろうが、それでも早いに越した事はない。二人の祈りが届いたのか、それほど待たされる事もなく、扉が開かれて、フードを被った検分役が入ってきた。
    無言で棺の前に立つと、闇医者の男に視線を向ける。
    「どうぞ、こちらを。」
    闇医者は朗らかな声で、棺の蓋をゆっくりと開けた。中には彩り豊かな華たちに囲まれたネロが、青白い顔で眠っている。
    じっくりと丹念に、検分役はネロの身体を調べていた。
    時間にしてほんの数分、あるいは10分も経っていたかもしれない。やがて検分役は顔を上げると、闇医者の男に向かって頷く。
    どうやら合格らしい。朗らかな笑みを張り付けたまま、フィガロは検分役が立ち去るのを待っていたが、一向にその気配はない。
    「出品まで、別室で待機ですか?」
    闇医者の男がそう問いかけると、検分役は再び頷く。一応可能性として考慮はしていたが、こうも早く分断されるとは。下手に抵抗する訳にもいかない為、指示に従うしかないだろう。
    検分役に連れられ、フィガロと闇医者の男は部屋を出る。背後では扉がゆっくりと閉じられていきーネロはただ一人、取り残された。
    やや古びたような鍵穴に鍵が差し込まれると、ガチャリと寂しい音が廊下に響き渡る。

    (そっちは頼んだよ)

    フィガロがそう心の内で呟くと、彼は闇医者の男と共に、部屋をあとにした。

    (ったく予想通りとは言え、もう勘弁してほしいんだけどなぁ…)

    入れ違いともなるように、棺の蓋がゴトリと動く。指先は冷えてるし、長らく同じ姿勢で居た所為か、身体の節々が悲鳴をあげている。ネロはため息を零しつつ、外を窺うようにして、ゆっくりと起き上がった。
    検分役が自身の身体をじっくりと触っていた感触が、今になって甦ってくる。厳密に言えば、その時のネロは半分意識が覚醒している状態であっただけで、五感(特に触感)はほぼ無いに等しかったのだが。
    それでも赤の他人に無遠慮に触られていた事実が、生理的嫌悪感を抱かせる。幸か不幸か、検分役は隅々まで見る事はなかった。賢者の紋章付近に触れられた時はひやりとしたもののーもちろん対策はしていたがー、向こうも一つ一つに構っていられないのだろう。
    相変わらず、魔法は使えない。
    天井付近にある黒いマナ石を、ちらりと見る。手が届かないわけでもなさそうだが、下手に刺激して余計な注目を集めるのも面倒だ。ならばとネロは冷え切った身体を充分にほぐすと、鍵穴のピッキングに取り掛かった。
    外から鍵を掛けたのならば中から開くのではないかと思うが、実際は"商品"が脱走するのも想定していたのか、思いの外手こずる。だがそこは長年の経験が功を成し、僅か数分で望んでいた音が聞こえた。
    カチャリと用心深く扉を開けると、素早く周囲を確認する。運が味方したのか、廊下を行き交う人はいない。
    「遠回りだが、一つ一つしらみ潰しに調べるしかないか…。」
    無論、その分だけネロの身が危険に晒される。しかし賢者の気配を追えない以上、時間は掛かっても可能性を潰していくしかない。商品をネロが直接調べるならば、別室に連れて行かれたフィガロには出品者達を調べてもらう方がいいだろう。
    周囲の気配を確認し、ネロは手近な部屋から手掛けることにした。



    (寒い…もう、感覚が、ない…)
    賢者は精一杯身体を縮こませると、手を擦り合わせた。生まれるはずの熱も、吐かれる吐息も、期待するほど身体を温める事はなく、ただ虚しさだけが残る。
    部屋の中は依然として、静寂に包まれていた。寝転がる人も、壁に寄りかかる人も、皆が虚空を見つめている。
    絶望、不安、恐怖、緊張全てを宿し、変えられない現実に打ちのめされて、心を壊してしまった。彼らが何をされたのか、賢者には分からない。分からないから、彼らの痛みも苦しみも、掬い上げる事が出来ない。
    でもいっそのこと、彼等のように、心は手放した方が良いのかもしれない。これから先に起こる悲劇を受け入れたくないのなら。
    (みんなに、会いたい…)
    最後まで諦めたくは無いけれど、信じ続けるには心が疲れてしまった。
    冷え切った体は、温もりを求める。
    孤独には、誰かの優しさを。
    彷徨う手には、繋ぐ手を。

    (ミスラ…)

    力なく伸ばした、賢者の手を掴んだのは。

    「立て。お前の番だ。」

    無情にも出荷を知らせる、あの痩せた男だった。



    「さて、この後はどうしますか?聞き込みなら協力はしますが、僕にあまり期待しない方が良いかと。」
    「ありがとう、気持ちだけで充分だよ。君はもう手を引いた方がいい。」
    「お役御免というわけですね。」
    「なんだか棘を感じるなぁ。」
    「はは、冗談です。もっと力になりたかったのは、本当ですけどね。」
    フィガロからの退場勧告にあっさりと頷き、闇医者の男は一礼する。さすが、伊達に『裏』を渡り歩いていたわけではないのだろう、己の役割と引き際をきちんと見定めている。
    フィガロ達はあのあと、とある一室に連れて行かれた。其処では出品者と思しき人たちで溢れかえっており、隠しきれない興奮と抑えきれない情熱とで満ち満ちていた。
    仮面を付けたままとはいえ、傍目からは和やかに談笑しているその姿は『表』に生きる人たちと何の変わりもない。自分達が悲劇を生み出しているとは、思いもせずに。
    だがそれが、この場では普通なのだ。欲しい人がいて、それを準備する人がいる。金が動き、経済が回る。市場としては当然の原理であり、それはきっと需要がある限りこれからも続くのだろう。
    (本当、まったく変わらないよねぇ)
    かつて滅したはずなのに、かつてと同じ光景が広がっている。
    あの時は確か、人間が子供の魔法使いを攫って、売り捌いていた。子供といえど、魔法使いだとバレた時点で人権は無くなる。酷い時は、親が自らすすんで売り渡していることもあった。
    その組織はそれなりに大きかったけど、所詮は人間。人と魔法使いが仲良く暮らす為には邪魔だなぁと思ったから、潰したのだが。
    残念ながら、取りこぼしがあったらしい。
    ならば今度こそ、根刮ぎ消してしまわねばならない。

    「あぁ、最後にひとつだけ聞きたいことがあるんだよね。」
    「何でしょう?」

    「…此処を仕切っているのは、魔法使い?それとも人間?」
    フィガロの問い掛けは、人々の騒めきの中でも容易に聞き取る事ができた。だから男は寂しそうに、目を細める。

    「そのどちらも、ですよ。」

    「…そっか。ご苦労様。」
    男は再び一礼すると、雑踏の中へと姿を消した。男の返答は、ある意味で、人と魔法使いの共存を意味するものだった。誰かの悲劇や犠牲の上で成り立つものだけれど、だからといって、フィガロの心が揺れ動く訳ではない。"良い人"なら、憤ったり激昂する場面だよなぁと頭の片隅で考えるくらいだ。こういう時、自分はやはり北の出身であることを実感する。
    「…つくづく救いようのない奴らばっかり」
    またあの時みたいに、殲滅してしまおうか。
    そうちらりと考えた矢先、かざした手が止まる。

    "もう、フィガロ先生!"
    "フィガロ先生!"

    ミチルの怒った声、ルチルの穏やかな声。

    "フィガロ!"

    そして、優しい笑顔を向ける賢者の声。

    「まいったな、こんな事は優しいフィガロ先生には向かないね。」
    そう一人呟くと、かざした手をゆっくりと下ろす。
    自分は今、南の国の優しいフィガロ先生だ。自己暗示のように、繰り返し言葉にしてきた。しかしそうして被っていた仮面を、いつしか『本当』にしたくなった。
    そのきっかけは。

    あぁ、そうか。
    ー繋いでくれた手を、離したくないんだ。

    昔の自分が見たら、笑うだろうか。弱くなったと軽蔑するだろうか。
    そこまで考えて、被りを振る。
    あの時繋いでくれた賢者の手を、身体がまだ覚えている。
    理由なんて、それだけでいい。

    フィガロの目の前に広がるのは、浅ましい欲望と果てのない渇望渦巻く人の群れ。
    今か今かと始まりを待ち侘びる彼等は気づかない。ひっそりと心を支配されていく感覚に、内面からじわじわと何かが侵食されていく違和感に、彼等は夢中で気付けない。
    我に返ったその時には、既に身体も心も奪われている。背後に佇む、柔らかな微笑を浮かべる男の一挙手一投足に、目も奪われる。
    あくまでも優しく、まるで街中ではぐれた迷子を探しているかのような口調で、フィガロは尋ねた。

    「ねぇ、俺の賢者様を奪ったのは誰?」

    熱気が溢れていた屋内だったのに、今では打って変わって静けさに包まれている。誰もが金縛りにでもあったかのように、指一本動けずにいた。

    ケンジャサマ?
    ケンジャ?
    誰だ?

    心当たりのないものは、フィガロが何を言っているのか分からない。だが分からないことすら、何故か口に出来なかった。そうすれば、かつてないほどの恐怖が襲ってくるような感覚があったから。
    皆の様子を見て、フィガロは「あぁ、そっか。」と一人腑に落ちた様に呟いた。
    「お前達が『賢者様』と知って攫った訳じゃないなら、知るはずがないか。いいよ、記憶を見せて貰うからさ。」
    優しげな口調、緩やかな微笑みなのに、その瞳は氷のように冷たい。
    室内にはそれなりの人数がいるが、フィガロはそれを苦にすることなく、一人一人の記憶を覗いていく。

    部屋の外からは、一際大きな歓声が聞こえてきた。



    「くっそ、ここもハズレか…!もう半分以上は見たはずなんだが、俺の運が悪いだけか…?」
    扉を開けては確認し、また違う部屋に行くことを繰り返す。表面上は冷静を保ちつつも、ネロは内心焦りを感じていた。
    そろそろ自分が不在な事に気づかれるかもしれない。いつ見回りが来るかもしれない。極限の緊張感と疲労で、やや手癖が悪くなるのは致し方ないだろう。
    扉を開ける度に、次はどんなゲテモノが出てくるのか、割と覚悟しないといけないのもストレスが溜まる。
    動物の毛皮や剥製はまだ良い方だ。水槽内を漂うよく分からない水生生物も、まぁ襲ってこないからセーフ。だが生きたままの、極彩色の羽を纏う鮮やかな鳥がいたり、なぜか密林のような部屋から甲高い声をあげる猿っぽいものがいたりとなると、次に扉を開けるのも警戒せずにはいられない。
    早く賢者と合流したいのに、こんな時、自分の運の無さを痛感する。
    ネロは再び素早く周囲を警戒し、慎重に扉を開ける。さて、次はどんな部屋かと思いながら、そっと覗くと。
    「なっ…。」
    思わず、息を止める。
    目の前に広がる光景が、信じられなかったからだ。たくさんの子供が、虚な目をして、床に倒れ伏している。
    呼吸はしている。瞬きもしている。だが、それだけだ。物言わぬ人形の様に、ただ其処に在る。
    10人、20人はいるか。充分な食事も与えられていなかったせいか、哀れにも痩せ細った身体で、粗末な服を纏っている。
    「おい、大丈夫か!?」
    ネロは慌てて近くに居た子供に呼びかけるが、もちろん反応はない。
    だが何度か呼び掛けを続ける内に、何も写していなかった虚な瞳がゆっくりと瞬いた。
    「…あ…。」
    「生きてるよな、しっかりしろ!」
    けほっ、とか細い咳が溢れる。それに伴い、子供の目から生理的な涙が一筋流れた。
    その姿はあまりにも弱く、そしてあまりにも残酷な仕打ちに、ネロは行き場のない怒りを感じていた。
    「治癒魔法は得意じゃないが…。」
    せめてと願い、子供の体に手を翳す。

    ≪アドノディス・オムニ…≫

    慣れ親しんだ言の葉は、最後まで紡がれる事はなかった。
    パキン、とあっけなく、子供の体が砕け散った。ネロの手から、零れ落ちるかのように。
    最初から居なかったかのように、子供の姿は消えていく。
    あとに残されたのは、鈍い光を放つ、黒い石。
    ーまさか、黒いマナ石の正体は。



    「それで、ムル。貴方は黒いマナ石の正体を知りながらも、皆には教えなかったのですね。」
    「さっきも言ったよ!シャイロックが嫌いだと思うから。」
    「私のいないところで話す手もあったと言うのに。」
    やれやれと肩をすくめて、シャイロックは大いなる災厄を眩しげに見上げた。
    彼を中心に、ムル、クロエ、ラスティカ、ルチルは上空でサポートメンバーとして待機している。
    ルチルと箒で追いかけっこをしていたムルは、くるりと宙返りをするとシャイロックの側に近寄った。
    「んー、でも俺よりも、クロエやラスティカの方が詳しいと思う!」
    「えぇ?そうなの、ラスティカ?」
    クロエは慌てて師匠の方へと視線を向けるが、当の本人はこれまた緩やかな微笑を浮かべてティーカップを傾けていた。
    「緊張を和らげるハーブティーだよ、クロエ。」
    「もうラスティカ!こんな時にまで、優雅にお茶を飲んでる場合じゃないよ!」
    「こんな時だからこそだよ。心に余裕があれば、手を差し伸べられる。心が空っぽで、隙間だらけだと、あっという間に砕けてしまう。だからいつでもお茶を飲んで、僕は僕らしくいられる時間を作るんだ。」
    ラスティカはいつの間にか出現したテーブルからティーポットを持ち上げると、空中で器用にカップへと注いでいく。緊張感のかけらもないその姿に、皆がいささか毒気を抜かれたのは否めない。
    だが、ラスティカの言った事も的を得ていると言えよう。緊張感も大切だが、どんな時でも自分らしく、変化には柔軟に。
    「もう、あんたはしょうがないなぁ。」
    そういうクロエの表情は、苦笑を浮かべながらも柔らかい。
    「俺も賛成!お茶会しよう!」
    「あら、素敵ですね!私も参加します。」
    「おやおや、ファウストが知ったら、嫌味の一つでも言われそうです。」
    「ちゃんとピンチの時は助けるよ!」
    「当然ですよ、賢者様のためですから。」
    宵闇の空で、宙を漂う奇妙なお茶会。
    眼下では、興奮冷めやらぬ人々が邸から溢れ出し、逢瀬を楽しんでいる。
    ゆっくりとティーカップを傾けたクロエは、ハッと思い出したかのようにラスティカに問いかけた。
    「あ、そうだよ、ラスティカ!ムルが言ってたけど、俺とあんたの方が"黒いマナ石"について詳しいってどういうこと?」
    「……どういう事だろう、僕は知っているのかな。」
    問い掛けられたラスティカは、はて?と首を傾げている。
    「賢者様から聞いたよ、クロエ。昔、悪い人に付いて行ったんだって!」
    「あ、うん、たしかにそんな話したけど…。それが何か関係あるの?」
    「そこでマナ石たくさん見たんでしょ?だったらそれが答えだよ!」
    ムルはクッキーをぱくりと口に入れると、指に付いた欠片を舐めとる。
    「まさか、黒いマナ石って、子供の魔法使い?でも俺があの家で見たのは、普通のマナ石だったけど…。」
    「……そういう事ですか。」
    シャイロックが珍しく、本当に珍しく、苛立ったような声で呟いた。それは一瞬の事だったけれど、場の空気を変えるのには充分だった。
    解説を求めるクロエとルチルの視線に気付き、シャイロックは口直しするかのように、愛用の煙管を取り出して紫煙を燻らす。
    「…恐らく"実験"をしていたのでしょうね。魔法使いが死ぬ前に抱いた感情が、どれほどマナ石に色濃く残るのか。抱いた感情によって、マナ石にどんな効果が宿るのか。そういえばムル、貴方そんな論文を発表していましたね。」
    「にゃーん。」
    「貴方は珍しく、あくまで文献発表に留めていましたけれど、それを見た誰かが思わず検証してみたくなったのでしょう。子供を使ったのは、一番身体的、精神的支配をしやすいから。素直な感情をそのままに、遺してほしかったのでしょうね。」
    それも彼等が欲していたのは、恐怖と絶望を秘めたマナ石。何も知らない子供の魔法使いが、この世全てを恨んだ憎しみを映したもの。安定した供給までに、どれ程の仕打ちを受け、どれ程の子供が犠牲になったのか。言葉にするだけでも、あまりにも惨すぎる。
    一歩間違えれば、自分も同じ目に合っていたのかもしれない、とクロエは息を呑む。あの時ラスティカが来なかったら、自分はその身を変えていたのだろうか。
    「俺、本当にラスティカが来てくれて、良かった。ありがとう、ラスティカ。」
    「どういたしまして、クロエ。」
    突然感謝を告げられたラスティカは、相変わらず優雅にお茶を楽しんでいる。恐らくクロエがどういう意図を持って告げたのか、正確には理解していないかもしれない。でも、それでいいとクロエは思った。それが一番、ラスティカらしいから。
    「さて、種明かしをした所で、そろそろ終幕へと近づくようです。お茶会は全てを片付けてから、また心ゆくまで楽しみましょう。」
    「今度は賢者様も一緒に!」
    「西の国随一のケーキとお茶を用意して」
    「みんなで祝いましょう!」
    「いっくよー!終わりの始まりだ!」

    大いなる災厄が煌めく宵闇の空で突如開かれた、ひとときの奇妙なお茶会はこれまた突然閉会する。次に開くときは、皆で楽しめることを祈って。



    シャイロック達がまだ、優雅にお茶を楽しんでいた頃。
    賢者は痩せた男に連れられて、冷たい床を囚人のように歩いていた。歩く度に大きな歓声がどんどん近づき、賢者の気持ちもまた沈んでいく。
    実はネロがたどり着いた部屋は、賢者が居た部屋ではない。ネロが見つけたのは魔法使いの子供達が閉じ込められていた部屋であり、また黒いマナ石生産の地でもあった。しかし全くの見当違いという訳でもない。本当にあと少しの距離で、ほぼ入れ違いのように、賢者は人間達が閉じ込められた部屋から連れ出されていたのだった。
    もちろん賢者は、魔法使いの皆が今、自分を血眼になって探している事実は知らない。
    信じたい、もう無理だ、まだ助かる、もう駄目だ。
    何度も頭の中で繰り返してきた言葉。
    あと少しで、自分は誰かのものになるかもしれない。もしかしたらそこでは、想像もつかないような酷い仕打ちを受けるかもしれない。
    でも、と賢者は思い直す。まだ希望を捨てるわけにはいかない。誰かの所有物になった時、どんな場所かは分からないけれど、逃げ出す隙を何としてでも作る。
    (絶対、みんなの元へ戻るんだ…!)
    賢者の決意を他所に、痩せた男はつまらなさそうに顎で行き先を示す。いつの間にか、歓声が聞こえてくる場所の裏手側に辿り着いたようだった。深紅の垂れ幕が、風も無いのにゆらりと揺れ、賢者においでと誘い掛ける。
    痩せた男をちらりと見遣るが、それよりも早く、背後から二人組の男に組み伏せられた。
    「なっ…!?」
    「死にたくねーなら黙っとけ。」
    それでも嫌々とばかりに僅かな抵抗を見せる賢者だが、生憎大の男二人に押さえつけられては成す術もない。
    涙目を浮かべる彼の手錠は一回外され、背中に手を回されると後ろ手にきつく縛られる。目元には目隠しをされ、ガチャンと金属製の何かが首に回された。幸いにも声は出せるが、突然の事に動揺したあまり、ガチガチと歯が震えるばかりで何も話せない。
    だが聞かなくても、分かる。
    これが、『出品』だと。
    まるで家畜のような仕打ちに、自分は抵抗することすら許されないのだと。
    誰かもわからぬ声が、「立て。」と賢者に命令する。後ろ手に縛られているせいで上手く立てない賢者に痺れを切らしたのか、突然グイッと首と腰を引っ張られた。
    金属製の音、もとい鎖の擦れ合う音が響き、これは首輪なのだと分かる。
    首輪、手錠、目隠し、粗末な服。
    あぁ、自分は今なんて滑稽なんだろう。
    こんな姿は誰にも、ましてや魔法使いの彼等に見られたくない。
    だが現実は無慈悲にも、待ってはくれない。
    男に引っ張られて、賢者は深紅の垂れ幕をくぐり抜けた。



    「残念、ここに居るお前達はハズレかな。となると、既に出品の準備をされているってとか。」
    フィガロはため息を吐いて、最後の出品者を雑に放り投げる。記憶を覗いたはいいが、予想通り胸糞悪いものばかりだった。良かったと思うのは、それに賢者が含まれていなかったことくらいか。しかし取りこぼした奴らの下で、今以上に悪い扱いを受けている可能性もある。
    フィガロが当たっていたのは、これから出品する待機者の群れだ。この中に該当者が居ないとなると、既にオークションにかけられているか、その準備をされていることを意味する。前者であれば北の3人組が何らかのアクションをするはずなので、音沙汰が無いとなると後者の可能性が高い。
    ここの惨状がバレる前に早くネロと合流し、賢者を救出する必要がある。
    幸いにも例の黒いマナ石が設置されていなかったお陰で、予想よりも早く事を成すことができた。あとは面倒だから全員眠らせて、外にいた監視係に暗示の魔法を掛ければ、しばらくは保つだろう。
    そう思案している合間にも、通路からは歓声と拍手が聞こえてくる。フィガロは外にいた監視係に素早く魔法を掛け、するりと廊下へ出て行った。闇医者の男からは、基本的には出品時に呼ばれ、商品もその時一緒に運ばれてくると聞いた。しかし中にはそれを疑う者もおり、自身の手で見届けたいと希望する場合もあると言う。
    だとすれば、舞台間近で張っておくのが吉か。ネロが見つけてくれればそれに越した事はないが、未だその気配はない。
    通路の奥へと進むと、人だかりが見えてきた。揃いのローブを着ているものは、このオークションを仕切っている組織の者だろう。見つかると面倒だと判断したフィガロは、自身に透明化の魔法をかける。
    足音や呼吸音も消す事はできるが、この歓声を前にそれは不要だ。
    さらに歩を進めると、深紅の垂れ幕が見えた。その奥から、人々の騒めきが聞こえてくる。
    ここに待機者はいない、だとすると舞台の上に今居るのは。



    「落ち着けミスラ!今出て行っても取り返すのはリスクしかねぇ!!」
    「例の石が舞台の上に配置されてるの見えないわけ?あそこじゃ魔法は使えないでしょ。大人しくしなよ。」
    「うるさいですね。魔法は使えなくても、あの人抱えて逃げればいいでしょう。何でそれが駄目なんですか。」
    北の3人はあくまで保険のようなポジションで、今回の作戦に当たっていた。しかし残念ながら、今彼等の目に映っているのは、粗末な服に首輪を付けられた賢者の姿。陽だまりの様に、朗らかに笑う普段の賢者とはかけ離れたその姿は、賢者の魔法使いでなくても憤りを禁じ得ない。
    外見上からは怪我の類は見えないが、目隠しの隙間から幾筋もの涙が頬を伝っている。綺麗な体に痛々しい様子が嗜虐心や保護欲をそそるのか、会場はかつて無いほどの興奮に包まれていた。後ろ手に縛られ、膝をつく賢者に群がるかの様に、観衆は次々と金額を釣り上げていく。
    「チッ、他の奴隷は十万スタートなのに、賢者だけ一千万スタートかよ。いや、愛玩人形としての価値も加味されてるっつーことか。」
    「はぁ?誰がなんの人形なんですか。」
    「何で俺にキレてるんだよ。事実を言ったまでだっつーの。」
    「気に入りません。奪い返します。」
    「だからまだ乗り込むのは早えーんだよ!」
    今にも身を乗り出しそうなミスラを二人が無理やり押さえ込む絵面は、ちょっとした騒ぎになっているのだが、幸か不幸か、客は皆舞台に夢中だった。次第に入札者も数が絞られていき、周囲の観衆はその行く末を愉しげに眺めている。
    人の命を余りにも軽く、そして人を人とすら認識していない異様な光景に、ブラッドリーはチッと舌打ちする。一応ミスラを抑え込んでいるが、割と彼もさっさと乗り込みたいクチだった。別に賢者なんて毎年来るし、大した思い入れもないーと本人は言っているーが、守るべき者、弱い者を痛めつける様な所業に、元盗賊団首領としてのプライドが許さなかった。だが頭の片隅に鎮座している僅かな判断力のおかげで、かろうじて冷静さを保っている。確かにミスラの言う通り、賢者を抱えて逃げればいいとは思うが、この規模と人数を相手に、そんな大立ち回りをこなせる程現実は甘くない。ここは穏便に、"正規のルート"で奪還するに限る。
    「1億きました!他にございませんか?なければー」
    「2億だ。」
    ドン、とまるで札束を叩きつけたかのように、ブラッドリーは静かに司会へ告げた。会場内が驚愕に包まれた中、金額を倍に釣り上げた当の本人は臆する事なく、さらなる交渉に踏み切る。
    残るは3人。いずれも仮面で顔を隠しているが、こんな所に来る以上、まともな人間性を有しているとは思えない。
    「2億きました!さて、他にいませんか?」
    「2.1億!」
    「…2.2億…!」
    「ハッ、ちまちまうざってーなぁ。3億。」
    2人脱落し、残りは1人。

    一方、舞台上の賢者は、耳を澄ませていた。この声はもしかして、ブラッドリーだろうか。目では確認できないが、魔法舎で幾度となく聞いたあの声を間違えるはずがない。何故、どうやって、と疑問ばかりが頭の中を駆け巡るが、それでも自分を助けに来てくれたという事実が、絶望の底にあった賢者を掬い上げてくれる。
    興奮を抑えながらも、しんと静まり返った会場内にブラッドリーと司会、もう1人の男の声が響き渡る。
    (…なんか億単位の金額が聞こえるんだけど…)
    賢者は他の出品情報やオークション状況を知らないので、これが普通なのか?とやや混乱しているが、もちろん異常である。既に今日一の入札額を更新しており、ブラッドリーと男の一騎打ちを余興の様に、観衆は愉しんでいる。
    知らずして安心してしまったせいか、開始直後は怯えた様に震えていた賢者だったが、今では口をギュッと引き結び、耐え忍んでいる。だがその姿が、傍に控えていた男には良くなかったのだろう。何故なら賢者が脅え震える程に、愛玩人形としての価値は上がるのだから。
    だから男は首輪の付いた鎖を、勢い良く引っ張った。それに引き摺られ、賢者は頭から床へと突っ伏す。
    「痛っ……!」
    観衆はその姿に興奮し、色めき立つ。それが愛玩人形としての、望まれる姿だからだ。

    だが次の瞬間、賢者の傍にいた男の首が飛んだ。

    バシュッと風の刃の如く鋭い音が聞こえたかと思えば、その直後夥しい量の血が飛び散っていく。それは当然床だけではなく賢者にもかかり、生々しいその匂いに、賢者は「ひっ…」と思わず息を呑んだ。首と体が別々に落ちていく音が、振動が、嫌でも床を通して伝わってくる。
    つい先程まで生きていた男は、あまりにも一瞬でその命を失くしていた。

    「こんばんは、初めまして。」

    ああ、その声は、ずっと聞きたかったはずなのに。自分に向けられたものではないのに、身体の震えは止まらない。
    「全員、死んでください。」
    礼儀正しい挨拶とは裏腹に、いつの間にか舞台に上がった青年は、凶悪な気配を纏っている。慌てて舞台横から警備員らしき人達がミスラを捕まえようと襲いかかるが、それらを皆蹴り飛ばし、殴り飛ばし、息の根を止めていく。頭蓋骨が割れ、腕や足は在らぬ方向に曲がり、血反吐を吐いた彼等はぴくりとも動かない。観客は呼吸すら忘れて、ただ目の前で繰り広げられる残酷な舞踏を、呆然と見つめていた。
    「何あれ、ミスラ1人だけで充分じゃん。」
    「ったく、手間をかけさせるなよな。しょうがねぇ、作戦変更だ。」

    ≪アドノポテンスム≫
    ≪クーレ・メミニ≫

    ブラッドリーの強化魔法で強化されたケルベロスが、会場内を蹂躙する。

    「きゃああああ!!」
    「た、助けてくれぇえ!!」
    「殺されるッ!」

    恐怖と混乱、そして絶叫が、会場内に膨れ上がった。

    やがて誰かが何かしたのか、甲高い警告音が響き渡る。それを皮切りに、会場内を占めていた観客は我先にとばかりに、外へと出ようとする。
    「そうら逃げろ逃げろ!んでとっととお縄につきな!」
    「あいつも食べていいよ」
    「どさくさに紛れて何つー命令してんだ!」
    会場外へと雪崩れ込む客を待っていたのは、いつの間にか待機していたアーサー・カイン率いる中央の警備隊だった。事前にブラッドリーやフィガロから聞いていたルートを元に、会場全体を割り出し、中へと侵入していたのだ。市場が始まるまでは厳しいチェックがあるが、一度始まってしまえばあとは最低限の警備になる。その隙をつき、オズやフィガロの指示を仰ぎながら、中から出てくる客達と組織の人員の確保を待っていた。
    「大人しくしていれば危害は加えない!しかし反抗するならば容赦はしない!」
    「殿下、頼みますから前に出ないでくださいよ。それは俺の役目です。」
    「すまない、だが一刻も早く捕まえなければ。」
    「わかってますよ、殿下。どうぞご命令を。」
    カインに促され、アーサーは勢い良く配下の者へと命令する。
    「会場内にいる参加者及び組織の人員を全て確保!出品された生き物や攫われた人は、手当てをした後に保護を急げ!」
    なす術もなく囚われた客達は、未だ恐怖に震えている。命の危険からは逃れられたものの、今度はどんな社会的制裁を受けるのか、気が気でないのだろう。
    アーサーとカイン率いる警備隊は、会場から出てくる人々を次々と捉えていった。

    怒号も悲鳴も行き交う場内で、賢者は未だ震えている。むせ返るほどの血を浴びて、声すら上げることもできず、ただただ息を殺していた。
    だがそれも、舞台の乱闘が収まるまで。
    ゆっくりと近づいてくる足音に、賢者は顔を向ける。目隠しをしているが、この気配は、ずっと自分が待ち望んでいた。
    「賢者様。」
    「ミ、ミスラ…?」
    「はい、迎えに来ました。」
    目隠しをやや雑に剥ぎ取られ、恐る恐る目を開けると、あの燃える様な赤毛が目に飛び込んできた。いつものように眠そうで、無邪気に笑って、返り血なんて気にもせずに、佇んでいる。ミスラは床に座り込んでいる賢者に合わせて屈むと、目尻に浮かんだ涙をぺろりと舐めとった。
    舐め終わった後も、もう涙なんてないのに、頬、鼻、顎、首元とゆっくり舌を這わせていく。大きく開いた襟元から肩にまで舌が入り込んだ時は、さすがに賢者も羞恥心が勝り、「ミスラ!」と慌てて呼びかけた。呼ばれた当の本人は、「はぁ、何ですか。」と首を傾げていたのだが。
    「は、恥ずかしいので…!助けに来てくれたんですよね?」
    「そうですよ。全く目を離した隙に、居なくなるのはやめて下さい。」
    ミスラはバキッと力だけで賢者の手錠を外すと、膝の下に手を滑り込ませ、抱き抱える。俗に言うお姫様抱っこの状態なのだが、賢者はそれについてとやかく抗議する暇はなかった。何故なら突然ぐるりと舞台を取り囲むように、火の手が上がったからだ。
    轟々と勢い良く燃える炎は、何かしらの呪いでも掛けられているのか、青白く広がっていく。
    「へぇ、そこそこ強い呪いですね。これを壊したら、同時に発動する様仕組まれていたみたいです。」
    「チッ。壊されることも前提にしたトラップかよ。証拠隠滅でよく使う手ではあるがな。おいミスラ、もうそっちでも魔法は使えんだろ!さっさと賢者連れて逃げろ!」
    「本当に壊すだけでいいんだ。なんか拍子抜けなんだけど。」
    ミスラの視線の先には、粉々に砕かれた黒いマナ石があった。どんなに優秀で強い魔道具であっても、万能ではない。反魔法について強力な作用があるのならば、その分物理的な弱点がある、と提言したのはムルだ。ミスラはその指摘通り、乱闘の合間に舞台上の黒いマナ石を確認すると、そこら辺にある石と同様に砕いた。恐らく魔法は使える様になっている。しかしなんだかとてもむらむらしていた事もあり、結局襲いかかって来た奴等は全て物理攻撃で斃してしまったが。
    青白い炎は全てを飲み込むかの様に、その勢いを増していく。心なしか空気も薄く感じ、賢者は堪らずゴホッと咳き込んだ。それを見たミスラは、いつもと変わらない気怠そうな声で、帰りを促す。
    「じゃあ戻りますよ、賢者様。」
    「ま…待ってください!」
    ゲホッと咳き込みながらも、賢者はミスラの服を掴み、涙目で訴える。長居をしてはいけないと分かっていても、どうしても気掛かりなことがある。
    「まだ、俺の他に人がいます!助けなきゃ!」
    「はぁ?あなた、自分の状態分かってます?そんなのは中央の警備隊に任せておけば良いでしょう。」
    賢者の目にも、アーサーとカイン率いる警備隊は見えていた。否、見えていたからこそ、彼等にも伝えなければならないのだ。
    「何処にいるかは俺が知ってます!だから俺が案内した方が早いです!お願いです、ミスラ。」
    荒れ狂う炎の中、賢者の訴えは朗々と響く。
    「助けたい、助けなきゃ。じゃないと、俺は一生俺を許せなくなる…!俺は優しくも、誠実でもないけれど、だからこそ、見て見ぬふりは出来ません。」
    賢者がどう言ったところで、ミスラに影響があるとは思えない。ましてや赤の他人を助けろなんて、随分虫のいい話だ。だから賢者は駄目で元々のつもりで、自分だけでも地下に行こうとしていた。
    しかしミスラは特大のため息を吐くと、「…分かりました。」と呟いた。
    「ですよね、俺1人で…えっ。」
    「あなたの意識を奪ってここから立ち去る事も出来ますが、まぁ賢者様をこんな目に合わせた親玉とやらにも興味があります。そいつを殺すついでで良ければ、付き合いますよ。」
    「ミスラ…ありがとうございます!」
    なんだかとても物騒な言葉も聞こえた気がするが、幻聴だと思いたい。
    「やぁ、お取り込み中の所ごめんね、賢者様。怪我はないかい?」
    「フィガロ!」

    ≪ポッシデオ≫

    途端に炎の勢いが衰え、幾分か開けた空間が出来る。舞台袖からやってきたフィガロを見つけると、賢者は嬉しくなって手を伸ばす。
    パッと花開く様な笑顔を見せた賢者を眩しそうに見つめると、フィガロは賢者の伸ばした手を恭しく取り、口付けた。
    「本当は俺か、ネロが格好良く賢者様を助け出すつもりだったんだけどね。お前、本当に美味しいところを持って行ったな。」
    「知りませんよ、触らないでください。」
    「あのねぇ、賢者様はお前だけのものじゃないんだけど。」
    「け、喧嘩は今やめてください…。」
    ちなみに手の甲にキスされた賢者は、それが挨拶となる文化を知っていたので、特に動揺はしていない。しかしミスラはどうやら違うようで、フィガロの手を払うと抱えていた賢者ごと距離を取った。
    その独占欲丸出しの態度に、フィガロは苦笑する。
    「ま、俺は大人だから良いけど、帰ったら、ちゃんと皆と賢者様を分けるように。」
    ミスラはどうやら無視を決め込んだらしい。

    青白い炎は時間が経ったせいか、またその量を増やしたようだった。屋内の空気量は減っているはずなのに、やはり呪いの類のためか衰える気配はない。
    そういえば、と賢者はフィガロに問う。
    「ネロ?ネロも来ているんですか?」
    「そうだよ、多分まだ地下にいるんじゃないかな。だから早く回収しないと。それとミスラも言っていた通り、『親玉』がまだ姿を現していないのが気になるね。」
    「何にせよ、長居は無用です。とっとと済ませますよ。」
    「わっ、ミスラ、俺歩けますよ!」
    「あなた、こんなヒラヒラしたもの着て歩いていたんですか?どっちにしろ、俺が抱えて歩いた方が早いです。大人しくしてください。」
    「そう言う事だよ、賢者様。とっても扇情的だから、ミスラに抱えてもらった方がいい。」
    「ひえっ…」
    指摘されて、賢者は再び恥ずかしさに身体を縮こませる。確かに、太ももに深く入ったスリットからは歩く度に肌が空気に触れていたし、腕を動かすと、大きく開いた襟元からは肩が見えそうになっている。
    もちろんそんなことは着る前から分かっていたが、あの時は羞恥心よりも恐怖が上回っていた為、こうして改めて言われるととんでもなく恥ずかしい。
    「色っぽい衣装で驚いたぜ、賢者。1億2億がつけられてたのも頷けるって。」
    「3億つけた男が何か言ってる。ねぇ、賢者様、あとでたっぷり働いてもらうからね。」
    ブラッドリー、オーエンも合流し、口々に賢者の服について指摘してくるものだから、賢者はただただミスラの肩に顔を埋めることしかできなかった。
    会場の外では未だ参加者や関係者を捕縛している最中なのか、時折悲鳴や怒号も聞こえるけれど、その数も徐々に減っているようだ。
    「賢者、無事か!?」
    「賢者様、怪我はありませんか?」
    大きな鎌が一閃したかと思うと、炎の向こうからシノとレノックスが駆け寄って来た。次々と仲間が揃っていくのを見て、賢者は再び涙が溢れそうになる。それほど日にちは経っていなくとも、体感としてはもう何年も会っていないかのような寂寥感が、心の大部分を占めていたのだ。一人一人抱き締めて、言葉を交わしたいけれど、残念ながら状況は待ってくれない。賢者は駆け寄って来た2人に笑みを向けると、皆に自分の意思を伝える。
    「まだ、下に人がいます。俺を探すために来ていたネロも、恐らくまだ居るはずです。俺はみんなを助けたい。だからお願いです、力を貸してください。」
    自分を助けて来てくれただけでも充分に感謝するべきなのに、更に願いを口にしてしまって良いのだろうか。そんな不安もあった。
    けれど例え反対されようと、賢者は折れるつもりはなかった。これは自分のエゴかもしれない、自己満足かもしれない、それでも後悔することだけはしたくなかった。
    恐る恐る伺うように皆の顔を見ると、揃って同じ表情を浮かべていた。
    しょうがないなぁと苦笑しながらも、賢者の意思を、心を、存在をも守るように、誰もが是と応える。
    「そんなに可愛くおねだりされたら、フィガロ先生照れちゃうなぁ。」
    「まだまだ暴れたりねぇんだ。とっとと親玉引っ張り出して、恩赦も貰わなきゃな。」
    「ボスは俺がもらう。俺に任せろ。」
    「賢者様、安心してください。皆で帰りましょう。」
    皆の心強い返事に、賢者は笑みを浮かべる。オーエンはそっぽを向いていたけれど、立ち去る素振りは見せない。
    誰一人、賢者に反対する者はいなかった。
    「賢者様、我々はこちらの捕縛が終わった後すぐに向かいます!もう間も無く増援も来ますので!」
    「それまではシャイロック達がサポートしてくれるから大丈夫だ。ムルなんて、あちこちで花火上げてるよ。」
    重量すら感じさせない見事な剣捌きで、カインは歯向かってくる組織側の関係者を次々に打ちのめしていく。床に倒れてはいるものの、きちんと手加減はしているのだろう。シャイロック達の姿は見えないが、何処かから花火の上がる音が聞こえて来た。間違いなくムルの仕業だ。
    役者は揃った。あとは覚悟を決めて、乗り込むだけだ。
    賢者は無意識に、ギュッとミスラの服を掴む。心の内を、押し寄せる不安と恐怖を、外へ出さないために。在るべき『賢者』の姿を、瞬く間に取り戻していく。
    「それでは皆さん、行きましょう。」
    青白い炎に呑み込まれるかのように、賢者とその魔法使い達は深紅の垂れ幕の向こうへと消えていった。



    痩せた男は焦っていた。舞台裏から自分の商品が落札されていくのを愉しんで見ていた筈が、いつの間にか恐怖のどん底にいる。
    あれは間違いなく北の魔法使いだ。何故こんな所に、いや居てもおかしくはないのだが、どうしていきなり乱入してきたのか。
    襲いかかってくる者全てを、魔法すら使わずにあっさりと殺していく姿を見て、男は最後まで立ち会うことなく逃げ出した。本来ならルール違反だが、緊急事態だ。事実、男が立ち去った直後から、会場の妨害システムが稼働し、至る所から青白い炎が噴き出ている。それはまるで業火の如く全てを飲み込んでいき、此処に市場が在ったという証拠そのものを消し去ろうとしていた。
    幸いにも今回の開催地は元々拠点としていた場所であったため、ここの構造はそれなりに知っている。最短経路で男は自身の上司、もといオーナーの元へと急いだ。案の定壮年の男は警報が鳴り響く中、私室から持ち出したと思われる札束や装飾類を、持てるだけ鞄に詰め込んでいた。常ならば周りを取り囲んでいた護衛もどきの輩も、今は出払っているか、はたまた舞台での乱闘騒ぎに駆り出されー捕まったか。いずれにせよ、やや心許ないが逃げる分には問題ないだろう。
    だが最後に、壮年の男は舌打ちしながら部下へ命令する。
    「例のガキ共の部屋に行って、"石"を回収するぞ。あれを手放すのは惜しい。」
    「ですがもう火の手が…!」
    「裏道を使え!全部回収できなくても良い!」
    「わ、分かりました。」
    「全く、先代もとんだシステムを考えたものだな…!」
    壮年の男の指示には逆らえず、仕方なく再び青白い炎が燃え上がる廊下に足を踏み出す。途中組織が雇っている魔法使い達とも合流できれば良いがと頭を掠めるが、生憎と現実は上手くいかない。
    誰ともすれ違わぬまま男達は炎を潜り抜けると、目的の部屋へと到達する。
    だが、おかしい。この部屋は、鍵が掛かっていたはず。何故、扉が開いているのかー?
    「な、何だお前らは!?」
    痩せた男の怒号に、中にいた人影がぴくりと肩を揺らす。ゆっくりとこちらを振り返る者は、一人ではなかった。
    ナニカを抱えて座り込んでいるネロは、感情の消えた瞳で、否、瞳の奥に激しい怒りを込めて、男達を見据える。
    「………お前達こそ、何だ?」
    パキン、とネロの腕からナニカが砕ける音が響く。それはかつて、不思議の力を宿し、あらゆる可能性を、未来を信じた子供達の成れの果て。その身に深い悲しみとそこはかとない絶望を抱いて、世の全てを憎んだ結晶。
    黒いマナ石に囲まれた部屋の中で、賢者と魔法使いは男達と相対する。
    「…どうして、こんな酷い事をするんですか…!?」
    賢者は、今自分の目の前に起きた現象を信じる事が出来なかった。この部屋で何が行われて、どのような末路を迎えていたのか。例え一から説明されたところで、理解はできない。理解なんて、したくない。
    震える声で問うた賢者に対して、男達は反省も罪悪感も抱いていないような声音で返事をする。
    「ハッ、酷い?ただの商売だよ、お前だって育てた家畜は最終的に食ってるだろう。それと一体何が違うって言うんだ。」
    「宝飾的価値も研究的価値も、今や天井知らずだ。むしろ有意義に使って、社会貢献にも該当するだろう。」
    男達のあまりにも勝手な言い分に、賢者は頭が真っ白になった。賢者の周りにいる魔法使い達は、既に戦闘体制に入っている。
    残念ながら、魔法は使えない。使うにはあの石を、かつては子供の魔法使いだったマナ石を砕かなければならない。舞台の上で砕かれたマナ石を見た時は思わなかった感情が、今溢れそうになっている。仕方がなかったとは言え、あれを砕いたのは、あれを砕かせるようにしたのは、間違いなく自分のせいだ。もうあの正体を知ってしまった以上、同じ事はできない。
    男達もそれに気付いたのか、魔法は使ってこないと踏んで、余裕を取り戻したらしい。だから、ゆっくりと懐から拳銃を取り出した。青白い炎は今やもう、この部屋の廊下前まで到達しそうになっている。
    「ほら、お得意の魔法が使えない状況はどうだ?お前達の命を握っているのは、こちらの方だぞ。全員殺したって良いんだ。全く、私の拠点でとんだ被害を出してくれたものだな。」
    壮年の男は下卑た笑みを浮かべながら、銃口を賢者達に向ける。痩せた男は逃げるべきか加勢するべきか判断に迷っているようで、うろうろと視線を彷徨わせていた。
    壮年の男の方は初めて見るが、内容や立ち振る舞いからして此処のトップのようだった。
    一歩でも動いたら、誰かが傷付く。だが、男の方も馬鹿ではないのだろう。迂闊に撃ったらその隙を突かれて反撃される事が目に見えているのか、四方八方に乱射するような真似はしなかった。
    双方がともに動けない、まさに膠着状態に陥っていた。

    「……賢者様、手を握ってください。」
    ミスラはそばに居た賢者に、突如そう呼び掛けた。炎が部屋に到達し、黒い煙がじわりと侵食していく。
    「…え?ミスラ、何を…?」
    「おい、妙な真似をするな!」
    「良いから、早くしてください。」
    有無を言わせず、賢者の柔い手が包まれる。
    いつものように繋いだ手は、確かな意思を持って握り返される。
    それはまるで、あの時のオズのように。
    「俺の力を引き出してください。」
    「…はい!」
    何故、ともどうやって、とも、疑問に思う事はなかった。賢者はただ、願いを込める。
    この状況を打破してくれると信じて、祈りを捧げる。

    ミスラは向けられた銃口を気にもせず、男を見据えた。そして当たり前のように、慣れ親しんだ言の葉を紡ぐ。

    ≪アルシム≫

    すると、魔法が使えないというハンデを打ち破って、ミスラを基点とした魔法陣が突如現れた。黒いマナ石がごろごろと反魔法結界を構築していた中で、それをものともせず強大で禍々しい気配を帯びた『何か』が浮き上がる。骨と骨が擦れ合う音と、圧倒的な質量がズシンと響き、ソレは鳴き声のような雄叫びを上げた。
    それなりの広さだった部屋の中央に呼び起こされた『何か』は、いつの日か死の湖で見たものだった。
    遊び相手欲しさに禁忌を犯し、大いなる厄災の影響で蘇り、ミスラの手で消えていったはずの『何か』は、あの時よりも強く、凶悪な生き物へと転じていた。
    「どう言うことさ。お前、あの時消したんじゃなかったの?」
    「おい、暴走してんなら、俺たちも死ぬぞ!」
    オーエンとブラッドリーが口々に、ミスラはと問い掛ける。対してミスラは面倒そうに、気怠げな口調で答えた。
    「双子が預かっていたので、返して貰いました。別に使う気はありませんでしたが、使ったら使ったで面白いでしょう。」
    「…よく言うよ、絶対に相手を殺す気で『調教』してるくせに。」
    召喚されたモノをちらりとみたオーエンは、嫌そうに顔を歪ませる。オーエンの言う通り、ソレは魔法陣から現れると他方に襲い掛かることなく鎮座していた。ミスラと賢者の傍で行儀良く四肢を折り畳み、低い唸り声を上げながらもミスラの指示を待っている、ように見える。
    散らばった黒いマナ石は魔法陣出現の際に、それらを押しのけるように生き物が現れたため、慌てて近くにいた魔法使い達が回収した。
    唯一の出入り口である扉に陣取っていた男達のは、突然現れた生き物ー生物と言って良いのか不明だがーに、ただぽかんと口を開けていた。青白い炎と黒い煙が、彼らの背後からゆらりと侵食するも、後ろを気にする事は許されなかった。
    「ここは良い『場』に成り得ました。俺が弄らずとも、この地に染み込んだ呪いや怨みは勝手に貴方達へ向かって行きます。」
    ミスラの得意魔法は、土着呪術。数ある呪いの中でも、その地に溶け込んだ思いを体現するには、この部屋はうってつけだった。何故なら此処では、悪虐の限りを尽くされた子供達の怨念が渦巻いているから。何人、あるいは何十人にも及ぶ呪詛を吸い取り、その生き物ー『死の湖』は高らかに吼える。
    それは男達への、断罪の音。
    「お好きにどうぞ。」
    ミスラの囁くような声で、『死の湖』はゆっくりと魔法陣から這い出る。前からはドラゴンのように巨大な怪物、後ろには呪いの炎で、男達に逃げる術はない。ソレは翼のようなものを大きく広げて、口と思しき部分をぱかりと開いた。骨と骨の隙間から、べろんと舌を覗かせて、涎が床に滴り落ちる。
    「ひ、ひぃ…!」
    一歩ずつソレが脚を踏み出す度に、圧倒的質量が床に沈む。腰が引けたのか、男達は座り込んだまま、今や哀れにソレを見上げていた。『死の湖』が男達の頭をぱくりと飲み込もうとした瞬間、賢者の視界が覆われる。
    繋いでいた手を引かれ、男達ではなくミスラと向き合うように、抱き締められる。

    背後で、ぐしゃりと潰れた音がした。
    叫び声すら上げる事も許されず、男達だったモノは一瞬で物言わぬ死体となって、『死の湖』の餌食となる。
    賢者はミスラの手を強く握り締め、抱き着いたまま震えていた。目を閉じていても、背後から聞こえてくる音が、今何が起こっているのかを伝えてくる。
    それはあまりにも悲惨な結末だった。だが、誰も責める事は出来ないだろうし、同情すら湧かないだろう。
    それでも賢者は、彼等が死ぬべきだとは思っていなかった。そうしなければこちらが殺されるという状況だったにせよ、彼等が悪虐非道の限りを尽くしていたにせよ、殺すべきとも殺して欲しいとも思わなかった。もちろんそれは、平和な日本で生きてきたからこその甘い考えなのだろう。
    だから賢者は何も言わなかった。ミスラも黙って、賢者を抱き締めていた。

    やがて満足したのか、『死の湖』はぐしゃぐしゃになった死体をぽいっと炎の向こうへと投げ捨てると、主人を窺うように振り返る。
    「…あぁ、もう用は済みましたね。賢者様、これで帰れますか。」
    見上げた先には、深い隈を宿した眠そうな顔。ぐずるように問うた彼に、賢者は悲しげに首を振る。
    「此処じゃないんです、俺が居た部屋は。まだ先に、俺と同じような目に遭った人達がいるはずです。」
    実は、この部屋にたどり着いたのは偶然だった。炎を避けながら走っていく中で、半開きの扉があった。賢者の指示の元、先行していたシノが、中にネロが居たことを教えてくれたのだ。探し人が無事見つかった事に安堵したのも束の間、ネロが抱いていたものを知る。この部屋の惨状を見て、全てを知る事になったのだ。
    だから本来の目的の部屋ではない。賢者が居た部屋は、もう少し先だ。つまり、轟々と燃え上がる炎の向こう。
    「急がないと、炎の所為で逃げられなくなる…!」
    「はぁ?全くしょうがないですね。」
    嫌そうに呟きながらも、ミスラは賢者を抱える。煙がどんどん充満していき、実は息をするのも苦しいのだが、急がなければならない。
    「ちょっとミスラ、あの生き物帰しなよ。入り口封鎖してるんだから。」
    「うるさいですね。ちょっと黙っててもらえますか。」
    オーエンの指摘にイラッとした口調で返事をするも、ミスラは『死の湖』に魔法陣の中へ返るよう促した。
    その間にもフィガロは、ネロとシノに指示を出す。
    「二人はこの石を回収して、先に戻った方がいい。一刻も早く、カイン達と合流するんだ。」
    「あ、あぁ。でも先に戻っていいのか?」
    「それが近くにあると、魔法は使えないからね。でもだからと言って、置いていく訳にもいかないだろう?」
    「…そうだな。」
    「シノ、この先は多分戦闘になることはないと思うよ。だからネロを護衛して行きなさい。君だったら魔法が使えなくても、手段はあるだろう?」
    「当たり前だろ、その辺の棒切れだけでも十分だ。」
    ネロとシノを送り出すと、部屋に残っているのは北の3人とフィガロ、レノックスだけになった。ミスラにしっかりとしがみ付き、賢者は再び呼び掛ける。
    「では、行きましょう。」

    燃え盛る炎の中、いくつもの扉が開いた部屋を通り過ぎていく。檻に入れられた数々の生き物は、柱が壊れたり、何かが倒れたりした影響で檻がひしゃげ、逃げ出したようだった。記憶を照らし合わせながら、賢者は部屋を次々に確認していく。
    「…!此処です、この部屋です!」
    やがて、ようやく御目当ての部屋にたどり着いた。鍵が掛かったままだったが、ブラッドリーが魔法も使わずに手早く解錠し、扉を開く。閉められていた事が功を奏し、部屋には未だ炎は迫っていないようだった。だが煙は充満しており、長居は危険だ。
    勢いよく扉が開かれても、いきなり人が入ってきても、中に居た人達は何の反応も示さなかった。あの時と変わらぬまま、虚な目で宙をぼんやり見つめている。
    「あの、逃げましょう!今ならまだ間に合うから、早く!」
    抱えられていたミスラの腕から飛び降りるようにして賢者が近付いても、肩を大きく揺さぶっても目は合わない。ただゆっくりと瞬きを繰り返して、浅い呼吸をしているだけ。
    このまま説得しても、否、説得するには時間が足りない。賢者は諦めて、目の前にいた人の手を引っ張る。
    「早く逃げ…えっ?」
    ぱしん、と弾かれるような音がした。
    手を引いていたはずの賢者が、驚いたようにして目を見開く。
    賢者が引いた手を、振り払ったのだ。
    ぼんやりと焦点の合わない目を眠るように閉じて、その人はゆるりと首を振る。
    「もう嫌…嫌なの…。」
    「違う、逃げるだけです!何も怖いことなんてありませんよ!」
    賢者の必死の訴えに、その人は懇願するかのように口を開いた。

    「お願い…もう…死なせて…。」

    悲しくて、絶望に満ちた声だった。虚な目に光が戻るも、浮かんだ涙が一筋、頬を伝う。
    勢いよく燃え上がる炎が、もう部屋を侵食し始めている。ピシッと壁にヒビが入り、もう部屋だけでなくこの建物の耐久性も危ういものとなっているだろう。
    だからこそ急がなければならないのに、その人は、いやその人だけでなく彼等は皆、賢者の助けを拒んでいる。ただ、死にたいのだと口にして。
    「でも…ゲホッ、ゴホッ…!」
    黒々とした煙が、賢者の喉を脅かしていく。浮かんだ生理的な涙を拭う事すらなく、賢者は必死に声を掛けようとした。
    しかしその口元には、大きな手が添えられる。煙を吸わせないように、賢者がこれ以上言葉を紡がないように、ミスラは後ろから賢者の口を塞いだ。
    「…賢者様。助けた所で、この人たちはまともに生きられませんよ。」
    それでも死んで良い理由なんてない、と言おうとしたが、口から漏れるのは吐息だけ。喋ろうにも喉には激痛が走り、反射的な咳嗽が止まらない。
    (喉が…!?)
    知らず知らずのうちに煙を吸い込み続けていた影響が、今になって賢者を襲う。助けるための言葉が、自分の思いが伝えられない。
    それがもどかしく、だがどうしようも出来ないままー賢者の意識は遠ざかっていく。
    倒れゆく賢者の身体は、ミスラによって抱きとめられた。意識を手放した賢者の耳が最後に聞いたのは、「帰りましょう」と言い切るミスラの声だった。



    「……?」
    ゆっくりと瞬きを繰り返して、天井を見上げる。此処はどこだろうと起き抜けの頭で考えながら、もぞりと身体を動かした。
    「あ、おはよう、賢者様。調子はどう?」
    予想よりも近い所から、フィガロの声が聞こえた。どうやら自分は今ベッドで寝ているらしい。賢者の顔を覗き込むようにしてフィガロは近づくと、コツンと額同士を合わせた。
    「うん、熱はないみたいだねぇ。良かった良かった。」
    「…っ…。」
    「賢者様、喋らないで。多分話したら、もっと痛くなるよ。」
    思わず手を喉へと伸ばすが、やんわりと押し留められる。唾を飲み込むのも、咳をするのも激痛が走った。かろうじて呼吸だけはなんとか出来ているものの、それでもぎりぎり我慢できるか範囲の痛みだ。
    「あなた、声が出ないんですか?」
    突然、傍から聞き慣れた声が掛けられた。咳を我慢しながら横へと振り向くと、ミスラが肘をついてこちらを眺めている。
    何故一緒に寝ているのか疑問に思うものの、賢者はミスラの質問を肯定するようにゆっくりと頷いた。
    「どういう事ですか、しっかり治してくださいよ。ヤブ医者なんですか。」
    「お前失礼だな、ちゃんと治せる所は治したよ。幸いにも、表面上外傷は殆ど無かったけど。」
    「じゃあなんで声が出ないんですか?」
    フィガロ曰く、賢者が吸い込んでしまった煙はただの煙ではなく、呪いの炎から生まれたものであったため、一筋縄ではいかないのだと言う。
    「直接呪いを掛けられたのとは違うから、解呪できるものでもないし。治癒魔法を使うにしても、炎症部位を直接見ながら正確に治していかないと、大惨事になるよ。お前だって、賢者様の喉を切り開くのは嫌だろう?」
    「役立たずですね。」
    「何とでも言うがいいさ。しばらくは回復を促す魔法薬を飲んで、自然治癒に任せるしかない。あ、もちろんフィガロ先生特製のシュガー付きだよ、賢者様。」
    ぱちりとウィンクしながらそう説明するフィガロに、賢者はコクコクと頷く。差し出された魔法薬は意外にも飲み易く、飲み終えた後には幾分か喉の痛みが落ち着いた。
    「それでシュガーも…ってお前さ、何やってるの。」
    「見て分からないんですか?シュガーをあげています。」
    魔法薬を片付けたフィガロが見たのは、次から次へとシュガーを賢者の口へ放り込むミスラの姿だった。可哀想に、賢者は断ることも出来ず、頬袋にたくさん詰め込まれている。一見親鳥が雛に餌を与えているようにも見えるが、親の方は雛の様子を全く見ずに与え続けているため、割と拷問に近い。
    やがて賢者もさすがに我慢できなくなり、ミスラの胸をー本人としては力一杯ーバシバシ叩いた。
    「これくらい与えれば、治りますか?」
    「あのね、一気に詰め込めばそれだけ賢者様の体に負担が掛かるから。人間は回復するにも体力がいるんだよ。だから与えるんだったら少しずつ、長い期間を掛けなさい。」
    「…そうですか、分かりました。」
    意外にもミスラはフィガロに反発することなく、大人しく引き下がった。
    詰め込まれたシュガーを、ゆっくりと懸命に咀嚼する音が響く。普段は頼んだ所で袖にされるミスラのシュガーが、図らずともこんな形で得ることが出来て、少し驚いた。口の中で甘く溶けていくそれは、火傷で傷んだ喉に染み込むように流れていく。全てを飲み込む頃には、もう痛みを気にすることもなくなっていた。
    「ま、しばらくは念の為にも声を出さない方がいいね。みんなにもそう伝えよう。」
    いつ声が出るようになるかは分からないが、しばらくは不便な生活が続きそうだ。賢者は早くも憂鬱な気分になるがーそれ以上に、体が疲労を訴えていた。力なくベッドに倒れ込む賢者を見て、フィガロは穏やかな笑みを浮かべて声を掛ける。
    「賢者様は気にせず眠ると良い。此処には君を傷つけるものなんて、いないよ。」
    「さっさと出ていってください、俺も寝たいので。」
    「此処、俺の部屋でもあるんだけど。」
    「あなたの部屋は別にあるでしょう、そっちにいってください。」
    賢者達が今いるのは医務室であり、ミスラの指摘通りフィガロの私室は別にある。だが一応仕事部屋でもあるので、部屋の主はフィガロなのだが、賢者が眠る以上もうやるべき処置はない。見守るにしても、凶悪な獣が傍に居るのだから、何処よりも安全なはずだった。
    「やれやれ、邪魔者は退散するかな。」
    そう出て行ったフィガロに目を向ける事なく、ミスラは欠伸をすると、傍らの賢者を抱き枕のように抱えた。陽は既に中天を過ぎていたのだが、まだまだ寝足りず、隈は濃いままだ。もう一度強く抱き締めると、ミスラは賢者と同じようにすぅすぅと寝息を立て始めた。

    再び賢者が目を開けると、窓から差し込む光は夕暮れのものとなっており、室内は薄暗い。やや寝過ぎたせいか、身体が凝り固まっているようにも感じる。無意識にグッと伸びをしようとしてー何処も動かせないことに、目を見開く。
    (お、重い…)
    賢者の体に巻き付くようにして絡んだ足はもちろんのこと、半ば乗っかるようにしてミスラが強く抱き締めていた。お陰で寒くはなかったものの、身体が悲鳴を上げている。耐えきれず、賢者はバシバシと唯一動かせる手でミスラを叩いた。
    (起きて、ミスラ、起きてください!)
    賢者の願いが届いたのか、硬く閉じられた瞼がぴくりと動くと、やがて翡翠の瞳が賢者の顔を映す。向こうも寝起きでぼんやりしているのか、じっと賢者を見つめると、くぁと欠伸を漏らした。
    「…おはようございます、賢者様。」
    (もう夜ですけどね)
    「あぁ、夜ですね。じゃあ寝ます。おやすみなさい。」
    (起きてー!起きてー!)
    尚も寝入ろうとするミスラを必死に叩き、ようやく起床の準備をし始める。しっかりと寝たお陰で、疲労感はかなりとれた。代わりに猛烈に襲ってくるのが、空腹感だ。そう自覚した途端に、くぅと何とも切ない音が腹から鳴る。
    「あはは、あなたお腹減ってるんですね。だから必死だったんですか?」
    (そう言うわけでもないですけど、でもお腹は減りました)
    「ふーん、まぁ良いですよ。ご飯食べに行きましょう。」
    無邪気に笑うミスラに、賢者は赤面する。
    とここで賢者は一つ、疑問が頭に浮かんだ。
    賢者は今に至るまで一言も発していないのだが、何故かミスラとは普通に会話している。いや話していないのだから会話ではないのだろうが、別段支障は出ていない。
    (何でだろう、魔法かな?)
    「魔法は使ってませんよ。何となくあなたが考えてそうな事に返事してただけです。だってあなた、とても分かりやすいですし。」
    確かに小さい頃から表情に出やすいとは言われていたが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。この世界の言葉の読み書きが未だ不得手なため、今後どのようにコミュニケーションを取るか不安だったが、杞憂だったようだ。
    そんなに分かりやすいのかぁと些か気落ちするも、ミスラは楽しそうだ。
    そうしてミスラを見て、その燃えるような赤毛を見て、賢者はぴたりと動きを止める。
    浮かんだのは、ゆらりと燃える、青白い炎。全てをも飲み込むように、こちらへと侵食する呪いの火。
    あの人達は、助けようとしたあの人達はどうなったのか。
    窺うようにして見た賢者の問いかけは、さすがに伝わらなかったのか、ミスラは首を傾げると賢者の手を引っ張る。そうして勢いよくミスラの胸へと飛び込むと、見上げた途端に額をくっ付けられた。

    ≪アルシム≫

    ミスラの行動の真意が分からなかった賢者だが、それには構わずミスラは目を閉じたまま問い掛ける。

    「賢者様、今何を考えてますか?」
    (あの人達は、どうなりましたか。)

    賢者の言葉に、ミスラはぱちりと目を開く。
    チクタクと秒針の刻まれる音が、嫌に響いた。僅かに差し込んでいた陽は沈み、大いなる厄災が顔を覗かせている。
    やがてミスラは、ゆっくりと口を開く。

    「…望み通りにしましたよ。」

    誰の望み通りなのかは、答えてくれなかった。



    ミスラに連れられて、食堂に賢者が姿を現すと、皆が歓声を上げた。まだ本調子ではないけれど、それでも笑顔を浮かべる賢者を見て誰もが安堵したのだろう。終いには、食堂がパーティ会場のようになってしまった。あちこちで花火や花吹雪が舞い、次々と豪華な料理が出されていく。残念ながら喉を痛めた賢者はほとんど食べられなかったが、それでもネロお手製のスープを口に入れた時は感動のあまり泣きそうになった。
    事前にフィガロが通達してくれたお陰で、声が出せない事は皆が知っており、意外にもすんなり溶け込めた。

    お風呂に入り、自室へと戻った賢者はいつものように就寝の準備を整える。既に今日はたくさん寝てるが、夕食時にはしゃぎ過ぎたのか疲れがまた出てきたようだ。
    ミスラは今、スノウとホワイトに捕まっている。本人はそのまま賢者と寝ようとしていたが、宵の闇市場で召喚した例の生き物について、説教されているようだった。
    「全く、あれを我らの元へ返すんだったら封印も一緒にしろと言ったじゃろう!」
    「いきなり返ってきて、我ら驚いたんじゃけど!」
    絵画から抜け出した双子はフィガロにそれを抱えさせると、自室へと引っ張って行った。
    今頃絵画を前に、はぁとかそうですかと気のない返事をしているに違いない。
    自室のベッドで寝るのは久しぶりだ。大きく伸びをすると、開放感にあふれる。
    そのまま欠伸をすると、賢者は目を閉じた。


    何かを打ち付ける音がする。
    誰かの悲鳴がこだまする。
    叩き付け、泣きわめき、鞭のしなる音が加速する。
    そこから逃げたいのに、手も足も縛り付けられて動けない。助けを呼びたいのに、声が出ない。いつの間にか侵食していた青白い炎が、身体を焼いていく。
    そうしていつ終わるかも分からぬ拷問が続くと思ったら、炎の向こうに人がいた。
    そこは危ない、早く逃げようと手を伸ばすも。
    「もう…殺して…」
    その人の体をも、青白い炎は飲み込んでいく。


    「…様、賢者様。」
    「………ッ!?」
    身体を揺さぶられ、賢者はぱちりと目を開けた。まるで全力疾走したかのように息が上がり、指先は氷のように冷たい。
    無感情にこちらをじっと見つめる翡翠に、青白い自分の顔が映っていた。
    今のは夢だ。それも、とびっきりの悪夢。
    けれど確かに、あの何かを打ち付ける音や叩く音、泣き声、悲鳴も怒号も聞いた。青白い炎の向こうで助けられなかった人たちも、鮮明に思い出せる。
    助けたかった。助けられなかった。
    それが賢者を苛む。許されてはいけない、自分以上に苦しんだ人たちを忘れてはいけない。頭の中を占めるのは、そんな後悔と懺悔。
    「やっと泣きましたね。」
    ミスラはそう呟くと、賢者の目に浮かんだ涙をあの時のように舐めとる。以前と違うのは、次から次へと涙が溢れていくことだけ。
    賢者に覆い被さったミスラは、ゆっくりと丁寧に舌を這わせる。声を上げずに泣く賢者はただ、ミスラの服を掴んだ。もっと近付いて、抱き締めてとでも言うように。
    やがて這っていく舌の動きは大胆になっていき、遂には口の中まで入り込んだ。口腔内を歯列に沿って舐めたかと思えば、その奥で縮こませていた賢者の舌と絡めていく。
    ぴちゃ、じゅるりと卑猥な水音が、静かな部屋で響いた。どちらのものとも分からぬ唾液が賢者の顎から首へと溢れると、それを追いかけるようにして舐めとり、ミスラは賢者の首筋に噛み付く。獣のように、獲物の急所を的確に狙って。
    「……ッ!」
    噛み付かれた瞬間、はふっ、と賢者から頼りない吐息が溢れる。手はいつしかミスラの背に周り、強くその身を引き寄せていた。
    そうしてじっくりとその柔肌に歯形を残したかと思えば、すぐにまた吸い付き、紅い花を散らしていく。それは首筋だけに留まらず、ボタンが外された隙間から覗く肩から鎖骨へ、胸板へと広がっていく。
    いつの間にか、涙は引っ込んでいた。ミスラが舐める度に、あの音も、あの光景も消えていく。頭の中も視界も、ミスラでいっぱいになっていく。
    そうして自身の肌に吸い付くミスラを見遣り、賢者は背に回していた手を動かすと、ミスラの頭をゆるりと撫でた。柔らかな毛がくしゃりと動き、ミスラは気持ちよさそうに大人しく撫でられている。その姿がまるで本当に猫のようで、賢者は思わずくすりと笑いを溢した。
    やがてミスラも満足したのか、欠伸をしたかと思うとそのまま賢者の上に覆い被さる。僅かに重心を傾けているのか、そのままのしかかられるより重くはないものの、身体は全く動かせない。
    だが今は、その重さが安心する。自分を確かに抱き締めるこの腕も、絡んだ足も、不安定に揺れる賢者をこの場に留めようとしているかのようで。
    眠れなかった彼を、導きの力とやらで眠れるようにと祈っていた日々を思い出す。
    今ではどちらが眠れないのか、どちらが温もりを欲しているのか。
    ミスラの熱に包まれながら、賢者は静かに目を閉じる。
    穏やかな寝息を立てる二人を、月が静かに見つめていた。
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