ふ、と小さくため息を吐いて、俺は綺麗に磨いたグラスを置く。最近、仕事が多い気がする。いや、観光区長の、ではなくて。とはいえ別段、困っているというわけでもないのだが——
「太緒くーん」
「あ、はい。何かありました?」
「んーん、発注作業覚えといてもらおうかなーって。今すぐ頼むってわけじゃないけど!」
ゆくゆくはフレアバーテンディングもやってみちゃう? なんて明るく言ってのけた元凶その本人は、どこか上の空。ただ、なんとなく彼の——ゆんゆんさんの真意はそこにないような、そんな予感だけがあった。何かを誤魔化すとき、喩えるなら、一緒にやろうと約束したゲームを、先んじて一人プレイしてしまったときの千弥みたいな。
気づいてほしい、でも気づいてほしくない。咎めてほしい、でも酷いことは言わないで。つい最近そのことで千弥と揉めたばかりの俺は、ゆんゆんさんの一瞬に、それと微かに似た何かを見た。
「……あの」
「んー?」
違和感をそのままにするのもどこか気まずくて、俺はやんわりと彼の説明を遮った。しきりにスタッフルームを気にしながら、ゆんゆんさんの横顔は笑顔を崩さない。すこしだけ長い、けれど清潔に切り揃えられた爪の先が、画面をかつかつと鳴らした。
「転職、とか……考えてるんですか」
かつん。ささやかなホワイトノイズに似たそれが、中断される。在庫管理用のタブレットからぱっと目を離して、怪訝そうな視線を寄越したその人は、反面気を悪くした様子もなく、俺の顔を矯めつ眇めつ神妙にこう言った。
「太緒くん……オレに辞めてほしい感じ?」
オレの立場を狙ってるとか? それともパワハラ!? なんて真面目くさって言うから、慌てて弁明の言葉を探す。
「ち、違います! なんつーか……引き継ぎみたいだなって、思っただけで。本当に、他意はないんです」
パワハラもないです! と必死に言い募る俺がよほど可笑しかったようで、明るく軽やかなバイトの先輩はからからと声をあげて笑い出す。つられて俺も笑ってしまうから、もうお互い仕事にならなかった。
「あー面白かった……いーね、二十歳」
「関係あります? それ」
「良い反応するなーって」
ひとしきり笑って満足したのか、ゆんゆんさんは再び端末の画面に視線を落とし説明に戻る。営業時よりもやや光量を落とした照明の下で、無機質なブルーライトがいたく眩しい。俺には馴染み深いはずの、アナログ時計の針の音が、なぜだかとても耳障りに思えた。
その頃になってようやく、俺は俺の好奇心と老婆心を半ば後悔していた。いや、違う。後悔というよりも、それは申し訳なさと寂しさに似た何かだった。
「オレから辞める気は、一ミリもないけど」
視線は店の奥に注いだまま、その人は思い出したように呟いて、静かにタブレットの電源を落とした。
「オレがいなくなっても、この店が回るようにはしとかなきゃ」
『辞める』のと、『いなくなる』のと。その違いが俺には判らなくて、何を言えばいいのかも解らなくて。背中にいやな汗をかく。スタッフルームの扉は閉ざされたまま。バーカウンターには、俺とゆんゆんさんの二人だけだった。
「……ゆんゆんさん」
「——なーんて。ここより待遇いいとことかないし! 太緒くんがおろおろすんのウケちゃって、ついからかっちゃった。そんだけ!」
ぱっと普段通りの笑みを浮かべて、その人は言う。やはり俺は、同じだと思った。気づいてほしい。咎めてほしい。何を? 分からない。分かるべきではないし、気づくべきも俺ではなかった。控えめに差し出された冷たい端末には、気が付かないふりをする。上手に笑うゆんゆんさんに、曖昧に頷いた俺は、やはり何も言えなかった。