知らない人だった。
深い夕焼けの中に、その人はぼうと立ち尽くしていた。橙に照らされながら、その口は何も紡がない。その目はこちらに向けられていない。なにか遠くを、たとえばあの太陽なんかを見つめているのか、はたまた、ただ眼前の赤色を眺めているだけなのか。
自分は、どうしてここにいるのだろう。ただ一人、目の前の綺麗な男——そうだ。綺麗だと思ったのだ。彼がそこで、一心不乱に何かを祈っているような、そんな光景を幻視した。声をかけようかと逡巡する。視界の外でぱしゃりと何かが跳ねるような音がして、そうして、ここは海だったのだと気がついた。
「……」
夕と夜の間。そんな淡い色をした男は、数瞬かけてこちらを一瞥し、落胆したようにまた遠くを見る。その視線を追うようにして、夕陽に目を向けた。熱された鉄塊のようにあかあかと燃える陽が、海に沈もうとしている。斜陽が世界を照らす。眩しくて、灼けついてしまいそうで、たまらず目を逸らしてしまった。潮の匂いが、それを咎めるように鼻につく。
「ねぇ」
知らない人だった。
知らない男が振り返る。波が、彼の足首を狙い澄まして、今にも引き摺り込まんとしているような、そんな気がした。
「……何かな」
「……」
男は何も言わない。黙って、下手くそな笑顔を薄く貼り付けて、そのまま落日に向かって歩き出す。ざぶざぶと音を立てて、海が抵抗するのも構わず、進んでいく。
「待っ……」
思わずその無謀な背を追いかけた。進むにつれ肌に張り付く衣服が邪魔をする。潮風でべたついた髪が鬱陶しい。果たしてその手首を掴んだころには、腰上まで海水に浸かっていた。
「……何」
彼は抵抗しない。けれど頑なにその表情を見せようとしなかった。俯いて、掴まれたままの手首を睨みつけているようだった。陽が落ちる。薄紫の天球に輝く夕星が、何も言わずにこちらを見つめている。
「そんな顔をしたキミを、放っておけない」
知らない人だった。
けれど素直にそう告げる。捕まえていた手首からふっと力が抜ける。彼は、泣いていた。その涕泣が、次第に嗚咽へと変わる。
「全部……全部覚えてないくせに」
「そうだね」
「あんた、誰だよ」
「キミが教えてくれるんだろう」
「オレのことだって、また」
「うん」
「明日になったら、全部また、忘れるくせに」
彼は、自分の発した言葉で、自分自身が傷ついているようだった。目を閉じる。その手は離さないで、彼の言葉に耳を傾けていた。水が冷たい。濡れそぼった服がじわじわと体温を奪っていく。余計に触れたその肌の熱さが、彼の存在を主張していた。そっと目を開けて、視線だけで彼の様子を窺った。ひとしきり泣いて、彼は片手だけで乱雑に涙を拭う。瞼はほんの少し赤く腫れていた。
「はー最悪、こんなつもりじゃなかったんスけど……」
「ごめんね」
「あんたが謝ることじゃないでしょ、夏目さん」
知らない人だった。
それが、私の名前? そう訊ねるつもりで、ゆっくりと瞬いた。彼は戸惑ったような顔をして、それからすぐ、視線を下に落とした。黄昏時の空の色をした瞳が伏せられる。
「……や、もう、あの人じゃないか」
諦めたように彼はそう呟く。なんとなく、もう彼はその人に会えないのだと悟った。その感情だけは、どこか、記憶にある。もうすっかりと夜の帳が下りていて、顔を上げれば月が輝いていた。
「今は記憶が安定してないみたいですけど。あと一週間くらいしたら、前向性健忘? は落ち着くらしいから」
蛇のようにするりと、ゆるい拘束を抜け出される。途端に、空気の冷たさを知った。びしょびしょだ、と顔を顰めて、彼は大義そうに月光の下で瞬きをしていた。
「風邪ひきそー……さっさと戻りましょ、って戻る場所も覚えてないのか」
苦笑しながら今度は彼がこちらの腕をそっと掴んだ。冷えてしまった指先が、遠慮がちに手首の辺りを握る。何かを躊躇うような手つきだった。来たときとは打って変わって、やけにゆっくりとした足取りだった。何も言えないで、目線の少し下に位置する彼の後頭部をじっと見つめる。
「これも忘れちゃうだろうから、今言うんですけど」
振り返ろうともせず、足を止めもせず、彼は無感動な声で、ただ一言「オレのこと、ゆるさないで」と、そう言った。寄せては返す波の音が、嫌に耳に響く。何かを洗い流していく。
「ごめん。ごめんなさい」
彼がまた泣いているような気がしたのに、先を行く彼の表情はどうしたって窺い知れない。彼も、自分も、足を止めない。海面に反射した月光は、どこか青白くて白々しい。
「あなたは、あなたの罪も、オレの罪も、忘れていて」
砂浜に上がって最初に、彼も自分も靴を履いたままだったな、と思った。彼はぱっと手を離すと、先ほどまでの様子が嘘のように、穏やかな笑顔を見せて振り返った。黄昏の名残はどこにもない。夜の空気が辺りを染めている。
「キミは、誰なのかな」
その質問に彼はもう驚かないようだった。その目に諦めが滲む。彼の淡い期待に気づいていながら、落胆させてしまったのは自分だった。一拍置いて、彼は息を吸う。
「……知らない人ですよ。オレにとってはあんたも、知らない人。」
知らない人だった。
ただただ、どうしようもなく。