After rain comes fair weather「ん、あー終わった」
ようやく仕事が一段落した。両手を上へ掲げて空を掴むような動作で、凝り固まっていた背筋を伸ばす。定期的に机から立ってみたり、姿勢を悪くしてしまわないように縫いぐるみを膝に置いたりだとかは最近になって試してみている。しかし数時間ものデスクワークとなると、どうしてもこの血流が悪くなっているのを全身で感じるような、特有の疲労の感覚を覚えさせられる。
椅子から立ち上がり軽くストレッチをして、凝りを解せないかと思っていると、ガチャリと勢いよくトレーナー室の扉が開かれた。
「トレーナー」
ノックもなしに、快活な声と共に部屋へと飛び込んできたのはミスターシービーだった。ノックに関してはもうとやかく言うのをやめにした。だいぶ前に諦めた自分が脳裏を過る。
それにしても今日はトレーニングはお休みだ。勿論トレーナーの私の休みではないので、日もすがらトレーナー室に籠ってデスクワークという訳なのだが。
「何かあったの、シービー」
「一緒に帰ろ」
声色は少し愉しげで、唐突な誘いはいつも通り。なんだか勘のようなものだが、こういう時は決まって他の考えがあることが多いが、やはり何を考えているのかまでは見透せない。これも相変わらず。
「もうちょっとだけ仕事を終わらせておきたいんだけど」
「雨降ってるよ」
そう言って窓の外を指差す彼女に背を向けると、カーテンの奥の暗がりの空には確かに雨が降っていた。天気予報は確か雨が降らない予報だった気がして、スマホを取り出すとそこには何食わぬ顔で、降水確率40%という頼りない数字があった。
「結局、降るか降らないかの50%だよね…」
「何の話」
「賭けに負けたって話」
生憎傘は持ってきてないし、折り畳み傘も丁度持ち帰ってしまっていた。
「まあまあそう落ち込まずにさ。アタシが持ってきてあげたんだから」
そう言う彼女の右手には、あろうことか傘が握られていた。
「あの、シービー…が……傘を…!」
「失礼しちゃうな」
冗談半分、本当の感動も少し混じっている。言葉の間を贅沢にとって、両手で口を押さえるようにわざとらしくからかうと、少しばつの悪そうに彼女は不服を訴えた。
「そんなこと言うならアタシ一人で帰っちゃうよ」
「冗談だってば」
傘を持ってきて貰えたのはありがたい。だがそれはそれとして仕事をもう少しだけ進めておきたい。
「ありがたいんだけど、もうちょっとだけ仕事してから帰るから先に」
「それならここに傘おいて帰る」
アタシは雨に濡れるの好きだから、そんな言葉が裏に潜んでいた。遣らずの雨さえ浴びに行ってしまいそうな彼女のことだ。断れば本当に雨の中を駆けていってしまうに違いない。そうしてニッコリと笑みを浮かべる彼女の目顔には「君が折れて」と確と書かれているかのようだった。これが目的だったのか、或いはその一つといったところか。
「一緒に帰ろうか」
最近、自分を人質にするという悪どい手法に気づいてしまったようで、非常に困りものだ。
外に出ると降る雨は思いの外強く、シービーが傘を持ってきていなければ、篠突く雨に打たれてあわやずぶ濡れだっただろう。
「私が傘持つよ」
シービーから傘を受け取り傘をさすと、私が傘を持つ右手の上に彼女の左手がそっと重ねられた。
「…持ちにくいよ」
「私も持ちたかったんだよ」
不意の行動はやはり心臓に悪い。どうせ引く気もないのだろうし、このままにしよう。そんな言い訳を自分にして、拍動を宥めようとはしたものの、心の隅に「相合い傘」の言葉が引っ掛かる。
「さっさと帰るよ」
「はーい」
歩きだすと、傘に大粒の雨が当たって不揃いなリズムを刻む。濡れてしまわないようにあまり大きくはない傘の中で身を寄せているせいか、隣で愉しそうに今日の出来事を話しているシービーの声がよく耳に届くような気がした。それは雨粒のように、なんとなく玲瓏な澄んだ声に聴こえていた。
「トレーナー、ちゃんと聞いてるの?」
「ちゃんと右から左に受け流してるよ」
「そう言って一字一句聞き逃してない癖に」
そう告げるシービーの、からかいの目顔もやはり不思議な魅力を感じるのは何故なのだろうか。事実、一字一句聞き逃してないし、そのつもりでいつも聞いているが、それを表立って口にするのはまだまだ気恥ずかしい。いつかこの気持ちに蹴りを浸けられたらなと、今は問題を先送りにして、傘を打つ雨音の中でも、透き通った詩美な声にただ耳を澄ませた。
*
窓の外に降り頻る雨を見て、シービーは今日も雨に濡れて帰る様を思い描いていた。
そんな時ふと遠くの話し声が何とはなしに耳に飛び込んできた。
「知ってる?雨の日の傘の中って、相手の声が一番綺麗に聞こえる場所なんだって」
「そうなの?相合い傘最強ってこと?なんで?」
「いやそこまで詳しくは知らないけど」
なんとなくそれが耳に残っていて、いつもは持たない傘をトレーナー室に持ち込んだのだ。
それがトレーナーの声を聞きたかったのか、自分の声を聞いて欲しかったのか、或いはどちらもであるかは、自分でも計りあぐねていた。ただ、雨と傘に途絶された小さなこの空間は悪くはないと思っている。
隣にいるトレーナーの声は、近くにいる以上に綺麗に澄んでいるような気がする。例えそれが思い込みなのだとしても、それは素敵なことだと胸が踊る。
「どうかした?」
黙って横顔を見つめていると、それに気がついたトレーナーがこちらを見つめ返す。
「なんでもないよ」
「あっそう」
うん、たまには雨に濡れないのも悪くない。次に雨が降るのはいつだろうか。そんな事を考えると、ついつい尻尾が大きく揺れて、傘からはみ出した毛先が濡れてしまうことをシービーは知らない。