Ebrietas「遅いな…」
今日はトレーナーが、飲みに誘われているから帰りが遅くなると少し前から知らされていた。知己との付き合いにまで口を挟むような子供らしさなどとうに捨てたと思っていた。にも関わらず、胸の内でついつい燻ってしまうこの心情はやはり嫉妬だと言わざるを得ない。
ただ一人でソファに座して、嫌に耳障りな時計の針に合わせて鳴る音を、所在無げに、ただなんとなく聞き続けていた。先程まではテレビから流れる人の声が部屋に響いていたが、前触れもなく飽きてしまったが為に消して、今この何も手につかぬ状態にある。
壁に掛けられたアナログ時計の針を見つめていると、規則的に動くはずの秒針がほんの少しだけ止まって見えた。確かこの現象の名前があったはずだが、なんだったろうか。それを話していたトレーナーの横顔が鮮やかに目蓋の裏に描き出されるのに、肝心の名前だけは思い出せないまま。
(…カツン、コツン)
ドアの外から聞こえる開放廊下を歩く足音が不意に聴覚を刺激する。もしかしたらと淡い期待が、ピンとそばだてた耳に現れる。
そしてすぐさま私の勘が「違う」と告げ、理性と記憶に基づいた推測がそれを裏付ける。
聞こえた足音の間隔は長めで、おそらく身長の高い人のもの。トレーナーの足音ならもっと歩幅は小さいはずだ。
答え合わせをするかのように、どこかの扉が開く音がして、余計な落胆を味わった。
*
「ただいーまー」
扉の閉じる音とトレーナーの声が私の意識を現に呼び戻す。一瞬目を閉じた隙に眠ってしまっていたらしい。
「おかえり」
トレーナーのいつもの香りの中には、お酒のアルコールが混じっている。漂う香りは意識しなくても飛び込んでくる程で、それだけ飲んで大丈夫なのかという心配と、そこまで酒を酌み交わせる相手への嫉妬が渦を巻いてしまう。その香りにはいやでも大人という差を感じさせられる。いつか共に飲める日が来るのを楽しみに待つとしようか。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「別にいい」
鞄を手に取りリビングに戻ると、ソファにトレーナーは飛び込むようにして倒れ込んだ。
「そんなところで寝るなよ」
「わかってますよー」
そう言うとトレーナーは体を起こしてソファに座り直すと、私にニンマリと笑みを浮かべた。
「隣、座って」
あまり聞かない命令口調に少しの違和感を覚えつつ、そんな些細な可愛らしいお願いを断る理由もないと、隣に腰を掛ける。
「ふふっ」
座るや否やトレーナーは私の肩に頭を持たれ掛けた。いつもは彼女が恥ずかしいからと避けられるような距離感がいきなり訪れた事に、嬉しさと困惑が混ざる。
「アイツ、全然帰してくれなくてさあ。しかも後半はノロケ紛いの話までするからもう長いのなんのって」
語尾の発音が少しだけ舌ったらずで、顔をよく見れば頬がほんのりと紅潮しているのが見てとれる。いつもは恥じらうばかりの癖にいきなり距離を詰めてこられては、私も対抗心のようなものが現れ出す。少しくらい酔っぱらいをからかったくらいで怒られやしないだろう。
「なんだ、寂しかったのか」
「うん、早く会いたいなってずっと思ってたよ」
間も開けずに、しかも嘘の気さえ感じられぬ物言いにこちらが面食らってしまう。
「…ア、アンタってやつは」
言葉に詰まる私を見据えて彼女は言う。
「ハグして」
「は」
「じゃあ、ギューってして」
「…一緒だろ」
手を繋ぐことすら未だ恥じらう彼女からは思いもよらぬ素直なお願いだ。動揺はあるが、これも断る理由は無いどころか、願ってもない申し出だ。目の前で腕を広げて笑う彼女をそっと包み込む。
「んふふ、ブライアンの匂いがする」
彼女は嬉しそうにそう言った。こちらも彼女の匂いがより強く感ぜられて、やっぱりアルコールが混ざっていた。
「温かくて、落ち着く…」
優しい抱擁は存外心地好いもので、気がつくとそれなりの時間が経ってしまっていた。
ふと我に帰ると、腕の中からすうすうと静かな呼吸の音がする。
「先にすやすやと…」
振り回すだけ振り回して、先に眠りにつく。やはり酔っぱらいの相手は面倒だ。そんな様子の彼女を見て気が緩んだのか、睡魔が目蓋に重くのしかかってきた。
「ベッドに……まあ、たまにはいいか」
強い睡魔には抗えず、また腕の中のすやすやと眠りこけている彼女を今は離したくなくて、そのままソファに身を委ねた。
*
カーテンの隙間から差し込む陽光が目蓋越しに眼に突き刺さり、脳が少しずつ覚醒する。
「お、おは、よ」
なんだか歯切れの悪い彼女の声がすぐ腕の中から聞こえて、ソファで寝てしまったこと、そして昨日の出来事を事細かに思い出す。
「おはよう。………気分はどうだ」
「おっ、おぼえてないよ?」
「そっちはまだ聞いてないんだが」
「あ」
この様子なら昨日の記憶はハッキリと覚えていそうだ。腕の中の彼女の頬は昨日とは比べ物にならないほど、赤く染まっていて、どうしても高じる想いはもはや止まるところを知らない。
「覚えてないなら仕方ない。が、それはそれとして今私は我慢の限界だ」
「まっ、待って待って」
逃げようとする彼女の背に手を回して捕らえた後、顔を逸らそうとするのを防ぐために真っ赤な彼女に顔をずいと近づけた。
「まさか逃げられるとでも?」
「こ、今回だけは、今回だけは逃がしてくれない?」
「そいつは無理なお願いだな」
やられっぱなしで終わるなど、私の心が許すはずもなく、今だ高じていく心は火の粉を上げて燃え上がる。悪いが今回ばかりは、諦めて折れてくれ。