進捗晒し※これから書く話※
・2人で朝散歩に行く話
・数年後に昔好きだったと話す村上と今でも好きな来馬の話
※書き始めてる話※
・春愁は彼方
週末はみんなで花見をしよう。
来馬先輩の金の一言で週末は花見となった。
多少嫌なことがあったとしても、週末はみんなで花見だしなと思えば全てが些事だと思えるほど俺は花見を楽しみにしていた。おそらく今も太一も同じ気持ちで、今は弁当の中身について色々試行錯誤を重ねている様子であったし、太一も1日が終わるごとにカレンダーにばつ印を楽しそうにつけていた。
「雨、ですね」
桜は一気に花をつけ、すぐに散ってしまう。瞬間の美を愛する日本人は故に桜を愛してやまないという。それでもせめて、花見が終わるまではもってほしかった。
「この勢いだと今日で散ってしまうかも」
来馬先輩の残念そうな表情に心が痛む。
いつもはみんなの意見を聞く側に回る来馬先輩が、率先して花見をしようと予定を立ててくれた。家族や友人と見るという選択肢があるにも関わらず、鈴鳴第一のメンバーを、ちょうど見頃だと言われていた週末に誘ってくれたことが嬉しかった。だが来馬先輩の言う通り、この雨の勢いでは明日にはほとんどが散ってしまうだろう。
「太一も今ちゃんも悲しむだろうな」
当たり前だけど自然は思い通りにならないねと来馬先輩は言う。先輩だって楽しみにしていたはずなのに、口にするのは他人のことばかりだ。優しい人だと思う。
「俺も。俺も来馬先輩が花見に行こうと言ってくれた日からずっと楽しみにしてました」
「ぼくも。みんなで行きたかったなぁ」
春とはいえ、雨が降っていることも合わさって空気は冷たい。先輩が外を眺めている窓は、少し結露で曇っていた。
「あの、もう夜も遅いですが今から出かけませんか。明日は時間に余裕があると言ってましたよね」
「明日は昼からだから時間はあるけど今から?未成年を23時もすぎて連れ出すなんて申し訳ないよ」
思った通り、来馬先輩は俺の申し出を断った。まだ二十歳を迎えたばかりの先輩だが、隊長という立場もあり保護者のような振る舞いをすることが多い。きっとこの提案は却下されるだろうと予測がついていた。
「塾に通う同年代は帰宅が日付を回ることも珍しくないそうですよ。学校もないので誰にも迷惑かけません」
遊びと塾は違うと言われればそれまでだが、何も非行に走るわけではない。出かけたいと強請るのも今日限りだと来馬先輩も理解してくれているのだろう。先輩の中で答えに迷っているようで、うーんと悩む声が聞こえてくる。
「今ちゃんは友達とお泊りみたいだし、太一はもう寝てる時間だから起こすのは悪いよね。でも置いていかれたってなると太一は悲しむだろうし」
来馬先輩の決断を、じっと待つ。
「よし。じゃあ約束して」
「はい」
「今から出かけることは誰にも秘密」
「村上了解」
「良い返事」
抜け駆けをしてしまう事について申し訳ない気持ちはあるが、どうしても来馬先輩と桜を見たかった。それに、俺が先輩を特別に思っていることを2人は知っている。もし後から来馬先輩と出かけたことがバレたとしても、なんとなく察してくれそうではあった。
じゃあ外は冷えるからあったかくしておいで、と先輩に言われたため、一旦自室へ戻り寒くない格好へ着替えて荷物を持って玄関口へ向かう。来馬先輩は入口の傘立てで何か探しているようだった。
「先輩の傘ならこっちかと」
「ビニール傘を借りたくて……1番大きいのはどれだろう」
共用の、誰かが適当に置いて行った傘で1番大きなビニール傘がいいと言う。70と持ち手に書かれた傘を選び来馬先輩へ手渡す。
「これならかなり大きめですよ。服も荷物も濡れないと思います」
「ありがとう。じゃあこれを借りていこうかな」
先輩が穴がないか確認するために傘を開く横で俺も適当な傘を手に取ると、先輩は鋼は傘は要らないよと俺の手から傘を取り上げる。
「せっかくだから一緒に入っていこう。少し濡れてしまうかもしれないけど」
後略
・ダンク
来馬先輩はお行儀がいい。
育ちが違うとはこのことかと思うことがこれまでに幾度もあった。
箸は見本のように扱うし、魚だって美しく食べる。フォークとナイフを扱う時だって少しの気負いも感じさせない。パンを一口サイズに千切って食べる姿を見たときは、いくつも年の違わない同性の人間で、こんなにも美しい所作をする人がいるのだと衝撃を受けたほどだ。
来馬先輩は頼れる隊長で、素敵な年上の先輩でカッコいい人だった。
しかし、最近は少し認識を改めつつある。
「お湯が沸いた!」
来馬先輩は俺にそう告げてキッチンへ向かい、ケトルで沸かした湯をポットに注いだ。本日のお茶は先輩のお気に入りの紅茶だそうだ。先輩が好むほどなのでさぞ高級なんだろうと身構えたことがあるが、商品を教えてもらったときは想像していたより手頃な価格で驚いた。先輩曰く、茶葉が良ければティーバックでも美味しいんだよとのこと。イギリスのメーカーのティーバックはこれまでの紅茶観が一変するほど美味しかった。
来馬先輩はきっちり4分計ってからティーポットとマグカップを2つ持ってリビングへ戻ってくる。
「ありがとうございます」
「変わり映えしないお茶でごめんね」
「とんでもない。俺の知ってる紅茶じゃないって毎回驚いてます」
簡単にいれられて美味しい紅茶なので今度親に送ってもいいかもしれない。俺自身が好んで紅茶を飲むとは親も思わないだろうから、色々勘ぐられてしまうだろうが。
「ありがとう。ぼくもお茶といえばこれなんだ。昔から飲んでる味でホッとするんだよね。あ、でも今日はちょっと特別なおやつがあるよ!」
来馬はそう言って缶を取り出した。シンプルで美しい缶から取り出されたのは四角いバーのようなお菓子だ。来馬先輩はそれをショートブレッドだと説明した。
「お気に入りのお店のものなんだ。運良く買えたから鋼と食べたいなって思ってた」
自分の幸せを他人と分け合うことに、少しの躊躇いもないところが好きだ。幸せそうな来馬先輩を見ると、こちらも胸がいっぱいになる。
先輩と後輩。隊長と部下。そのいずれかでもない恋人同士になった来馬先輩は、もちろん優しいしかっこいいし素敵だが、それよりも愛らしいと感じることが増えた。
来馬先輩はショートブレッドを躊躇いなくマグカップの紅茶に浸して口に運ぶ。その表情は幸福そのもの。
初めて俺の前でダンキングをした時、先輩は少し恥ずかしそうにお行儀が悪いよねとはにかんだ。たしかに、行儀作法の完璧な来馬先輩が飲み物にお菓子を浸すことに驚きはしたが、それよりもそういった隙を見せてくれたことに対する喜びが勝った。恋人になれてよかった。大袈裟でなくその瞬間喜びを噛み締めたことを覚えている。
「やっぱり格別だよね……!個人のお店だから日によって商品も違ってくるし数も少ないから出会えるのは貴重でさ」
にこにこと焼き菓子店について話す来馬先輩を見つめながら、俺も先輩に倣ってショートブレッドを紅茶に浸す。少しずつ紅茶を吸って重くなる指先に幸せを感じながら、今度俺もその店連れてってくださいとお願いした。
紅茶にビスケットを浸して食べるということはイギリスではメジャーな食べ方らしい。かしこまった場ではやらないが日常的になされている、といった扱いだそうだ。飲み物にお菓子を浸して食べる。コーヒーでも同じような食べ方があるらしい。
俺も先輩に何かできないかと考えた結果、自然とコーヒーについての知識が身についていた。今では趣味の一つと言ってもいいかもしれない。出先で好きな豆を探すことにも楽しみを見出している。来馬先輩へコーヒーについて話したことはなかったが、部屋に漂うコーヒーの香りや豆のストック、ブレンダーなどで気がつかれているかもしれない。知識の広いひとだから、きっと美味しいコーヒーについても詳しいだろう。それでも先輩に美味しいと言ってもらえたら嬉しいと思ってしまう。
コーヒーに合わせるならビスコッティが良い。
生地を一回オーブンで焼き、熱いうちに切り分けたら再度焼き固める。普通には食べられないような硬さの仕上がりだが、これをコーヒーに浸して食べるとたまらなく美味しい。先輩はどんな顔をするだろう。俺はワクワクしながらビスコッティの焼き上がりを待った。
後略
・水葬
村上は電車や船を乗り継いで、遠く日本の端までやってきた。失踪した来馬がいると言われている場所へ向かうためだ。
来馬は数年前に実家の手伝いをすると言ってボーダーを辞めている。わざわざ三門市から出てまで村上が追いかける必要は、本来無いはずだ。だが、来馬が消えたと知った後の村上の行動を止める者は誰もいなかった。
今に渡されたデータを持って、キャリーケースを引きずる。途中までは舗装されていた道も、今ではアスファルトが消え砂地になっていた。村上の逸る気持ちに反比例して、砂に兄を取られて歩みは遅くなる。
来馬に比べれば荷物なんて大したものではない。捨ててしまおうかとすら考えたが、後のことを考えて村上はキャリーを持ち上げて運ぶことに決めた。
潮の匂いがする。民家と道路と海以外何もない道を、ただ歩く。止まっているのかと錯覚しそうなほど穏やかな道は代わり映えがなく、永遠に続くのではないかと村上を不安にさせた。それから歩き続け、遠くの建物に書かれた看板を見て村上はやっと人心地がついた。
廃墟に見える建物に足を踏み入れると、一面が青に染まる。まるで海の中に飛び込んだかのような世界が、村上の目の前に広がっていた。大小の水槽が幾つもあり、その中を魚が自由に泳ぎ回っている。雑音以外何も聞こえない静寂の中、村上はしばらく水槽に目を奪われた。
まるで海をそのまま切り取ったようだ。村上は数々の水槽たちを見て、そう思った。そして村上はその水槽を知っていた。優しくて温かで、穏やかで完璧な世界。それはかつて来馬がいた頃の鈴鳴第一そのものだった。
懐かしい。間違いようのない来馬の気配に、村上は砂だらけになっていたキャリーをその場に捨て置き走り出した。
「先輩!来馬先輩!」
果たして一番奥の特別大きな水槽の前に、来馬は立っていた。
「……鋼?!」
静寂を裂いた村上の声に来馬は振り向き、驚きの声を上げる。
「どうしてこんな所に……」
どうして、来馬がそう思うのは仕方がないことだ。三門市を守るために他県からやってきたはずの村上が、三門市から遠く離れた土地に、ボーダーの関係者で無くなった来馬を迎えにきたのだから。
「どうしていなくなったんですか」
「言えない」
「だったら帰ってきてください」
無茶苦茶なことを言っていると村上はわかっていた。それでも村上に言えない理由で来馬が消えることを、受け入れられなかった。
「帰れないよ。鋼が迎えにきたのなら尚更」
「それはどういうことです」
「自分の意思で辞めたのに、ぼくの知らないお前ばかりになっていくのが耐えられなかったんだ。どうして鋼の話なのに他の誰かから聞かなきゃいけないんだろうって思ってしまって、良くないと思った」
来馬の言葉はゆっくり諭すように響く。
「ぼくの身勝手な言葉でも、鋼は真摯に受け止めてしまうだろう?全部捨ててぼくのために尽くしてくれそう」
「それは……」
もしも来馬が全て捨ててそばにいて欲しいと願ったとして、村上はそれに応えないと断言できない。
「だから帰れないんだ」
水槽の青にきらめいていた空間に大きく影が落ちた。来馬の表情を隠した大型の魚は、ゆっくりと旋回して遠くへ消える。
「だめだよそんなの」
「俺がだめじゃないって言ってもですか」
「ぼくがだめだから」
「でもそれだと俺がだめなんです。今度から逃げるなら俺も連れてってください」
駄々をこねる村上に、来馬は一瞬沈黙した。
「……許されないよ」
「誰か咎める人がいるでしょうか」
来馬は再び沈黙する。
部外者の村上が無断で入っても、来馬と話し込んでいても、誰も様子を見にこない。なぜならこの建物は来馬のためのものだからだ。来馬が県外へ出たいと家族に申し出た時、工場跡地にある研究所の管理を任せたいと言われたそうだ。基本的に来馬1人が管理をし、必要がある時にのみ研究者がやってくるという。だから来馬は失踪したわけではなく、あくまで仕事の一環としてこの地で魚の面倒を見ている。
それは来馬とやりとりを続けている二宮から聞いた話だ。別役に“来馬が失踪した“と話を聞かされる前に、村上は二宮から来馬の近況について聞かされていた。村上を煽るための方便だとわかっていても飛び出さずにはいられなかった。ただそれだけの話だ。
それに、別役の見えすいた嘘を咎めなかったのは今だけではない。誰から見ても村上には来馬が必要で、たとえ来馬自身が村上を遠ざけたとしても、素直に聞き入れることができないほどに何にも代え難い存在だった。
「帰りましょう。俺と一緒に」
来馬のためにあるような仕事を捨てて、帰ってきてくれと村上は懇願する。来馬は村上に“来馬が望めば全てを投げ出しそうだ“と言ったがそれは村上に限った話ではない。
「いつまでも鋼が三門を離れてたらみんな困っちゃうからね」
村上が全てを捨てて戻ってきてくれと言えば、来馬はそれを無下にはできない。狡くてごめんな。村上は来馬の背後で泳ぐ魚たちに心の中でそう告げた。
・掌から滑り落ちて御覧
「来馬先輩と一緒にいられるのってあとどれくらいなんだろうって考えてしまうんです」
村上が残り少ないカレンダーを捲りながら呟く。
「春夏秋冬365日じゃ全然で、あと2つくらい季節を増やしたって足らない」
「じゃあ増やしてみようか。例えばどんな季節がいい?」
「例えば……春より暖かくて夏より涼しい季節とか……天気が良くて湿度の低い季節とかはどうでしょう」
「いいね、過ごしやすそう。名前はどうしようか」
有り得るはずもない戯言に、来馬は楽しそうに応えた。村上はなんとか会話を続けなければと必死で思考を巡らせる。覚えることは得意だが、その場その場でのウィットに富んだ会話は得意ではなかった。
「えっと、ええと……」
「……ぼくもすぐには思いつかないや。いっそ方角みたいに春春夏とか夏夏秋とかにしちゃう?」
雑談の一部に過ぎないはずの言葉だが、来馬の物言いがあまりに神様めいていて本当に“そう“なってしまいそうだと村上は思った。
よく来馬は村上に大きな世界へ出て行けと諭すが、もう暫くは来馬の側がいい。来馬辰也という人間の作り上げた世界がいい。たとえ付け足された季節が夏より冬より過酷でも、来馬の側で生きることを許されたかった。
「来馬先輩の作る季節ならきっと素敵なんでしょうね」
「ぼくが作るの?!」
責任重大だなあと来馬は嘯く。
貴方の掌の上は居心地がいい。まるで迷路に迷い込んだみたいにずっと彷徨い続けられれば良いのに。
しかし村上は自分の願いが叶わないことを知っている。
「ほら、鋼もちゃんと考えて……流石に春春夏はだめだよ」
「えー……っと、でも既存の言葉だと違和感がありますね……」
「言葉を一から作るのはハードルが高いなぁ」
来馬と村上とで勝手に季節を増やしても、春夏秋冬365日が変わることはない。それはお互いにわかっている。ただ無為に戯れている間だけでも、想像だけでも1年を伸ばすことが出来るのなら、このままずっと戯れていたいと村上は願ってしまう。
そのまま2人は、まるで魔法が解けるまでとはしゃぐ子供のように自由に言葉を並べては世界を組み替えた。
「こんなにたくさんの時間を鋼と過ごせたなら、きっと幸せだね。今だって幸せなんだからそれがもっと増えるってことだもんね」
来馬は微笑んで村上の頭を撫でる。きっと、来馬はこの会話が村上の悪あがきだと知っていた。抗えない別れが目前に迫っている。
「だったら、この先も一緒にいたいです」
「……ごめんな」
来馬は尚も微笑んで、ただそれだけを答えた。
来馬は一度決めた答えを覆さない。
「今生の別れってわけじゃない。ただぼくの生きて行く世界が今までと少し変わるだけ。だからご飯とか旅行とか、誘うよ」
未来の約束を村上は喜ぶべきだ。しかし、村上にとっての素晴らしい世界が終わってしまうことに変わりはない。苦楽を共にし、共通の課題に立ち向かい、同じ方向を向いていられたことが全て過去になってしまう。
「でもその時の先輩はボーダー関係者でない来馬先輩なんですよね?」
「同じ隊でなくなっても鋼はぼくの大切な人だよ」
来馬は分かっていてはぐらかす。ボーダーから離れた人間に対して、村上が日々を余すことなく話すことは許されない。
「どうにもならないんですか」
「鋼は優しい子だよね」
村上の言葉を遮って、唐突に来馬は村上を褒めた。
「それは、だとしたら来馬先輩のおかげです」
「うん。だからこれからは鋼の美しい世界に新しい子たちを入れてあげてよ。お前にはお前の未来が待ってるんだ」
いよいよ来馬との別れが避けられない未来なのだという実感が、涙となって村上からこぼれ落ちる。
「ああ、泣かないで。ぼくはお前に泣かれると弱いのに」
「泣き落としで絆されてくれますか?」
最後の最後の、最後の足掻きだ。それで何が変わるわけでもないと知りながらも、村上は諦められなかった。
「……ボーダーにはいられないけどさ。鋼はぼくの恋人になる気はない?」
「えっ」
来馬の発言が理解できず、村上は涙を流すどころではなくなってしまう。呼吸すら忘れた様子で静止する村上に何を思ったのか、来馬は少し拗ねたように言葉を重ねた。
「鋼が絆されてくれないかって言ったんだよ」
「い、言いました」
「ぼくは来馬の人間としてボーダーには残れない。鋼はボーダーに残ってやることがある。でもぼく個人なら鋼の側にいられるんだけど、どう?」
どう?と質問形式ではあるが、来馬の言葉は断らせるつもりのない強い言葉だ。しかし、その強さが来馬が抱く不安を証明している。
「本当を言えば、ボーダーに残って隊長を続けた上で恋人になって欲しいです」
「なるほど?」
村上も自分で言いながらかなりわがままな発言をしているという自覚はあった。しかしそれは紛れもない本音だ。
「…………覆すことは出来ないんですよね」
「決めたことだからね」
「好きです、来馬先輩」
「うん。ぼくも」
村上は来馬という掌の世界から滑り落ちてしまった。その喪失ごと、村上は来馬を抱き締めた。
・余さず頂戴
目的もなく、ただ自身を何かに役立てたくてやってきた土地で宝物に出会った。
能力を厭わずそばにいてくれる友人達。
実家のように温かな帰る場所。
そして、村上の人生を根幹から揺るがせた来馬辰也。
村上は全てを守りたいと思った。
一等来馬を守りたいと願った。
それでも戦いに身を投じれば、一つ傷なくとはいかないのが現実だ。
トリオン体での戦闘は替えが効く。そのため捨て身の戦法も合法とされる。鈴鳴第一はそんな中、珍しいくらいトリオン体を傷付けないように戦う部隊だった。特に隊長の来馬を、村上も別役も身を挺して庇う。誰もそのあり方を攻めはしないが、ボーダーの中でも少し毛色が違うのは彼らが支部所属だからだろうかという声も存在するのは確かだった。
中略
村上の部屋のクローゼットには、幾つもの来馬の破片が転がっていた。
腕、脚、指先、胴体、眼球、首。
まるで死体をバラした様な有様に絶句する。が、よく見るとそれは生身ではなく戦闘で破壊されたトリオン体の成れの果てだと言うことがわかった。
村上は大切にしまわれた来馬の首をそっと持ち上げる。美しい断面の、破損のない首はまるで眠っているようだった。
「これは俺の罪なんだ。来馬先輩を守れなかった俺の弱さそのもの」
・本日麗かなり
いつだったか、村上は来馬のことを知りたくて来馬の休日について訊ねたことがある。
「予定がない日の休日の過ごし方?……アクアリウムの様子を見たり好きなことをしてるけど……直近だと革靴とか革の小物の手入れをしたよ」
「手入れ、ですか」
「うん。長く使うには手入れが必要だから。ちょっと磨くだけでピカピカになるから結構楽しいんだ」
スニーカーを履くことが多い村上は、革靴=仕事で使うものというイメージが強い。
そのため休日に革の手入れをするという来馬の発言がひどく大人びて聞こえた。
「良い色になってきたね」
「そうですね。頂いた頃に比べて随分光沢が出てきたと思います」
クリームを塗って乾燥待ちの財布を見つけた来馬は、村上へ声をかけた。シンプルなヌメ革の財布は、丁寧に使い込まれた飴色をしている。クリームは1時間ほどで完全に乾くだろう。あとは乾いた布で拭いて手入れは完了だ。
「ぼくも隣いい?」
「もちろん」
「ありがとう」
来馬も自身の用具入れと靴やキーケースなどを村上の隣に広げる。
埃をブラシで払い、汚れをクリームで落とす。その後に保湿クリームを塗布し、乾燥を待つ。手慣れた動作の来馬を、村上はじっと見つめる。
「好きだよね」
「ええ。来馬先輩が大切そうに持ち物を手入れする姿を見るのが好きなんです」
村上は何でも新しく揃えることの出来る出自にも関わらず、持ちものは長く大切に使いたいという来馬の感性を素敵だと思っているし、手入れをする来馬の指先も眼差しも堪らなく好きだった。
「何度も言ってくれてるよね」
「毎回好きだなと思うので」
「ありがとう。ぼくも鋼のこと好きだよ」
村上は何も予定のない休日が好きだ。
来馬からプレゼントされた財布が使い込まれていく様子に満足感を覚える。
隣で持ち物を手入れする来馬の指先や、優しげな横顔を見ると安心する。
そして、クリームの乾くまでの間に交わす些細な会話が1番好きだった。
「昔、休みの日に何をしてるか聞いたことがあったでしょう?」
「あったね」
「あの時からずっと、かっこいいな素敵だなって思ってたんですよ」
村上が懐かしむように過去を告げると、来馬も思い出したように微笑む。
「ぼくもあの頃からずっと鋼のこと可愛いなって思ってたんだ。ぼくのこと知りたいって気持ちが伝わってたよ」
2人で茶をいれ菓子を用意して、のんびりと近況報告や過去の思い出を語る。穏やかな時間を過ごす時、村上は最も満たされると感じる。来馬もきっとそうなのだろう。お互い大人になり生活がすれ違うことも増えたが、こうして隣り合って小物の手入れをする時間は学生の頃から変わらず続いている。
「えっ……じゃああの後“鋼のことも大切だから手入れしなきゃ“って俺にハンドクリーム塗ってくれたのってわざとなんですか?」
「わざとわざと」
「悪い大人じゃないですか……」
「それだけぼくも昔から好きだったんだよ」
来馬があまりに愛おしそうに“ごめんね“と言ったため、“俺今でもあの匂いを嗅ぐとドギマギするんですよ“と村上は言うことができなかった。
・遠い国の香り
長い遠征だった。大規模遠征と呼ばれた過去の遠征に比べれば小規模だが、それでも数ヶ月三門を離れているため、やっと帰ってこられたという気持ちが村上にはあった。
遠征期間中の単位に関しては、きちんと大学側から救済措置として出されるレポートや課題で補っている。村上不在の来馬隊は、その時々で手の空いているアタッカーを入れてつつがなく防衛任務に当たっていると聞く。
遠征は何度参加しても学ぶことばかりで、飽きることはない。かつて来馬に言われた「戦う時はボーダーのみんなが味方」という言葉を無駄にしないためにも、村上は選ばれれば積極的に遠征に参加している。
村上がいない間の穴は誰かが埋める。大学の単位だって自分でなんとかしている。案外なんとかなるものだというのが村上の所感だった。
だが、一人ではどうにも解決できない穴というものも存在している。
「来馬先輩!」
本部に来馬がいることは珍しい。たまたま出会ったのではなく、遠征部隊の帰還に合わせて待ってくれていたのだろう。ずっと会いたいと思っていた。村上は疲れを忘れて来馬へ駆け寄る。
「お帰り鋼。体調は大丈夫?一旦本部で様子を見る?」
「いえ、このまま鈴鳴へ戻ります。先輩はどうされますか?」
来馬はちょうど村上が遠征へ出る少し前から一人暮らしを始めていた。村上は、自宅へ帰るのであれば送っていきたいというオーラを出す。いつもは村上の無言の圧を察した来馬が自然と促してくれる。年上の恋人に甘えているという自覚はあったが、それでも来馬から「鋼ともう少し話したいからぼくの家までついてきてもらってもいいかな?」と声をかけてもらえるのが嬉しくて、村上は来馬の言葉を待ってしまう。
特に、今回は数ヶ月ぶりの再会だ。村上の本心を隠さずに伝えるなら、このまま来馬にも支部へ戻ってもらい、夕飯を共にして会えなかった期間の話をしたいし、聞きたい。しかし来馬にも予定があるかもしれないと、村上は希望を伝えることが出来ないでいた。
「今回はすごく長い遠征だったから鋼も疲れてるだろう?体調に問題がないなら帰ろう。今ちゃんがご飯用意して待っててくれてるみたいだよ。ぼくはこのまま月の報告をしたら帰るよ」
「えっ」
「やっぱり何かあった?体の不調があれば遠慮せずに教えて」
「いえ、元気です……」
「本当?無理だけはしないでね。ほんとに、長い期間お疲れ様。ゆっくり休んでねおやすみ」
来馬は村上の体調面をひどく気にかけたが、それだけだ。会えて嬉しいとも、もう少し話したいとも言ってもらえず、よくできた隊長としての来馬のまま、報告のために村上の前から去ってしまった。
村上と来馬は、村上が大学へ進学したタイミングで恋人として付き合いを始めた。お互い素直に気持ちを表すため、喧嘩をすることもなく円満に関係を築けていたはずだ。
村上は充実した遠征で、来馬と会えないことだけが辛かった。それを遠征メンバーに漏らすと「来馬ロスだな」と周りから励まされたりなどもした。それだけ来馬を愛しく思っているし、久しぶりに会えるのを心待ちにしていた。来馬に会えない寂しさを埋められるのは来馬だけだ。だからこそ、事務的な会話で終わってしまったことが村上はショックだった。
もしかして、この数ヶ月の間に来馬の心が自分から離れてしまったのだろうか。と村上は落ち込む。鈴鳴のことは気にせず行っておいでとは言ってもらっていたが、その間の来馬の気持ちの所在がそのままであるとは約束していない。普通、何ヶ月も音信不通になれば気持ちも離れていくだろう。なぜその可能性に思い至らなかったのだろうと、村上は己を責めるが今更遠征がなかったことにはならない。
「今や太一が待ってるな……」
落ち込んだ気持ちを切り替えるため、あえて声に出して村上は本部から支部へと進み始めた。
意気消沈で支部へ戻ると、村上があまりに悲壮な顔をしていたため今に一旦仮眠を取ることを勧められた。ご飯の用意ができたら呼んであげるからと言われ、申し訳ないと思いつつ村上は自室へ引き上げた。
片付けは明日以降でいいと荷物を入り口付近に放り投げる。何も考えたくないが眠るのも嫌だなとベッドへ沈み、違和感にそのまま村上の思考は停止した。
「えっえっ……え?…………えっ?俺の部屋で間違いない……よな?」
村上は一度ベッドから降り、掛け布団をまくって再度布団に入る。
「来馬先輩の匂いがする」
夜明けの森のような少し湿度をはらんだ森の香りは、来馬が好んでいる香水に間違いない。
布団からは、まるで来馬の家のベッドで寝てしまったのかと勘違いするほど当然のように漂う来馬の匂いと、支部の嗅ぎ慣れた洗剤の匂いがした。
「なぜ?」
幻覚ならぬ幻臭だろうか。だとすれば流石にやばいだろうと村上はベッドから抜け出し一人用の狭い室内をうろうろしてみるが、布団だけではなく空気そのものが村上の部屋ではなくなっていることに気が付いてしまった。
「今、もしかして来馬先輩おれの部屋使ってた?」
「そうだけど、シーツ類はきちんと定期的に洗濯しているから綺麗よ」
今のいるキッチンへ突撃し事実を確認すれば、当然の顔で肯定された。
「せっかく一人暮らしを始めたのに?」
「寂しかったんじゃない?」
来馬は一人が寂しいからといって、無断で他人の部屋を利用するような人だっただろうか。村上の認識と事実とがひどくずれているように感じる。
「嫌だった?汚さないだろうし先輩が使った方がこまめに掃除するし良いんじゃないですかって私言っちゃったけど」
「いや、別にそこは気にしてない」
「忘れ物でもあった?」
「何も。でも来馬先輩らしくなくないか?」
部屋そのものに変化は一つもなかった。来馬はシーツを取り替えても匂いが残るくらい頻繁に利用してたようだが、それがむしろ不自然なほど最後に村上が利用したままの状態だった。
「来馬先輩だって寂しく思うことくらいあるでしょ」
「だとしても俺の部屋を使うかな」
一人暮らしを始めて人恋しくなったなら実家に顔を出せばいいし、親に格好をつけたいのなら村上の部屋を使わずに支部の来客用の部屋を使えばいい。
「違うわよ。寂しかったのは鋼くんがいなかったからよ」
だから私も太一も来馬先輩を止めなかった、と今が言う。
「それはおかしい」
「どうして」
「だってさっき会ったけど普通だった」
普通の顔をして挨拶して、普通の顔をして村上に一人で支部へ帰れと言った。入り浸るほど利用しているなら、そのまま一緒に帰ってくれても良かったのに。
「会って確かめたら?」
「忙しいかもしれない」
「明日は学校もゆっくりでボーダーの方でも予定入ってないみたいよ」
「先輩は俺に会いたくないかもしれない」
「用事もないのにわざわざ本部まで鋼くんに会いに行ったのに?」
村上の弱気な言い訳を、今は淡々と封じていく。強い語気はいつも通りだが、それにしても今の言葉にはどこか確信めいたものがあった。
「何か知ってるのか」
「それは直接来馬先輩に聞くべきね。でもその前にご飯できたから配膳手伝って」
村上が戻ってくるのに合わせて、今は村上の食べたいであろうメニューを用意していた。白米、味噌汁、魚の煮付け、ほうれん草の白和。定番の食事は、胃にも精神にも優しい。
「お腹いっぱいになったら落ち着いたでしょ?来馬先輩はちゃんと聞けば答えてくれるんだから、行きなさいよ」
「ああ、ありがとう」
「太一には鋼くんは明日戻ってくるって言っておいてあげるから」
「悪い」
食事を終え、食器の後始末を済ませた村上は来馬の自宅へ向かうことにした。
念のため食事の前にメッセージを送り、自宅への訪問については許可を得ている。後で自宅へ伺ってもいいかというメッセージに対し、来馬からの返答は「暖かくして気をつけておいで」というごく普通の肯定的なものだった。
「遅くにすみません」
「大丈夫だよ、上がって」
「お邪魔します」
来馬の家には鈴鳴のメンバー全員で来たことも、村上一人だけで来たこともある。大学生の下宿にしては立派な、オートロックもエレベーターもある普通のマンションの一室。来馬はオーナーが知り合いなんだと言っていた。そんな立派な部屋に、村上が遠征に行く前には引っ越しを終えていた。なんなら村上も別役も荷解きを手伝っている。それなのに。
「……この部屋、どうしてこんなに何もないんです」
細かな日用品はこれから買い足していくと言っていたが、村上の目につく範囲では新しく増えたものはほとんどない。この部屋で十分に暮らしていけるかと言われれば、それは不可能に近いだろう。
「使ってないからだよ」
「どうして」
「わかったから鋼はここに来たんだよね?ごめん、勝手に部屋使ったりして」
「そんなこと謝らないでください。気にしてません」
他の人間ならともかく、来馬が村上の部屋を利用していたことについて村上は一切咎める気は無い。なぜ部屋を黙って利用したのか、村上に一人で帰れと言ったのか。建前ではなく、来馬の本心を聞きたいだけだった。
「俺はただ、来馬先輩が人の部屋を意味なく勝手に利用する人とは思ってないので、理由だけ知りたくて」
「今ちゃんや太一から聞かなかった?」
「本人から聞くべきだと言われました」
村上が素直に答えると、来馬は少し困った顔をした。
「寂しかったから……なんだけど」
「一人暮らししたてだと寂しいのは珍しくないと思います。鈴鳴は賑やかなので、それで気が紛れるなら良かったです」
「鋼がいなくて寂しかったからなんだけど!」
「俺ですか!?」
村上が来馬をじっと見つめると、さらに困った顔になる。しかし、その表情はもしかすると、困った顔ではなく恥ずかしくて照れている顔なのかもしれない。
「鋼がいなくて寂しくて、最初は気の迷いで鋼の部屋を開けたら落ち着く匂いがするし一回泊まったら、もうそこからはズルズルとだよ」
今ちゃんも太一も支部長も何も言わないから余計に、と普段の来馬より大分早口で一気に説明される。その言葉全てが村上にとって驚きで、咄嗟の反応に困る。無言の村上が堪えたのだろう、来馬は焦ったように付け足す。
「ひ、引くよねぼくもずっとわかってはいたんだけど」
最終的に来馬は呻いて両手で顔を隠してしまった。
嫌われてなかった。想像以上に来馬は村上のことが好きで、会えない期間を寂しいと思ってくれていた。村上はようやく人心地がつき、深く呼吸することができた。そして、冷静になり、一番気になっていた部分に触れる。
「どうして本部ではあんなにそっけなかったんですか?」
「どうしてもおかえりって言いたくて迎えに行ったんだけど、会った瞬間自分の所業がかなりアウトなことに気がついてしまったんだ」
恥ずかしさを振り切って冷静になったのか、来馬は顔から手を離し、正面から村上を見た。
「……もしかして、それで鋼をぼくは傷付けてしまったのかな」
「正直、そうです。長い間連絡も取れないでいて、先輩は魅力的な人だから俺のことをずっと好きでいてくれる保証なんて何もないんだと思いました」
来馬を傷つけないようにするなら、嘘を言っても良かった。しかし、村上は正直に胸の内を明かす。きっと、来馬は来馬の為の嘘より村上の本音を聞きたいはずだと村上は判断した。
「ああ、ぼくの自分勝手な思いで鋼に悲しい思いをさせてしまってごめんね」
来馬は慰めるようにして村上を抱き締める。
「でも見ての通りぼくは鋼がいない間、ずっと鋼のことばかり考えていたよ。この部屋が引っ越してきたそのままのくらいずっと、鋼の部屋にいた」
「俺も、遠征中ずっと来馬先輩に会いたくて、先輩のこと考えてました。話したいことが沢山あるんです。先輩の話も沢山聞かせてください」
「もちろんだよ」
村上は来馬の薄い体を潰しすぎない程度に強く抱きしめ返した。素直に話せてよかった。背中を押してくれた今に、村上は心の中で感謝する。
「ところで、どうして鋼はぼくがずっと部屋を使ってたのに気がついたの?太一から聞いた?」
来馬の声の振動や顎の動きが、直接村上の体を伝って村上の耳まで届く。
「いえ、自分で気がつきました。だって俺の部屋なのに先輩の部屋みたいになってたので。匂いも空気も全部」
「えっ嘘」
「本当です。でも何ヶ月も使ってたらそうなりますよね」
「嘘、うそうそ本当に!?」
どうりで支部の人たちの視線が優しいわけだよ!と来馬は一通り叫んで、そのまま脱力したのか村上の腕に一人分体重がかかる。
「俺の匂いも何もしないのに、部屋で待っててくれたんですか?」
「いまとても居た堪れなくなっているので少しだけそっとしておいてください……」
「このまま?」
「このまま」
「いいですよ」
「ありがとう」
村上は来馬の言いつけ通りそのまま待機した。
来馬の気持ちに整理がついた後、会えなかった数ヶ月間について話すことができた。
「来馬先輩、もしまた俺が遠征でいなくなることがあったら部屋は好きに使ってください。元通りに戻す必要もないですし、なんならそのまま私物化してくれても問題ないので」
「それは……流石に人の目があるから遠慮したいかな。ぼくが支部に行かなくてもいいくらい鋼がここにきてくれればいいんじゃないかな」
村上は自分の発言を棚に上げて「来馬先輩はもう少し発言に気をつけてください」と来馬を真新しいベッドへ誘導しながら注意した。