さよならフェルンヴェー1.イチゴのクラフティ
春が来て夏が過ぎて秋を経て冬を迎える。
一生がその繰り返しだ。人も動物も植物も、何度も季節を繰り返していく。
大学を卒業してボーダーの仕事にも余裕ができた村上は、任務の傍ら鈴鳴のはずれにある小さな古民家で焼き菓子屋を営んでいる。一階が作業場と売り場を兼ねていて、二階が居住スペースになっている一軒家は来馬が“持て余している“と言って貸し与えてくれたものだ。道具一式が揃えられた調理場に村上は恐縮しきりだったが、与えられた環境を無駄にしないためにも村上はボーダーと店の経営の二足の草鞋に懸命に励んだ。
そして現在、村上によって丁寧に作られた焼き菓子たちは地元の人々に愛され、今日も慎ましやかに甘い香りを届けている。
さまざまな果物があるが、ケーキに合う最もスタンダードな果物といえばイチゴだろう。
味はもちろん、真っ赤な見た目はそれだけで菓子が華やかになる。春の訪れを感じさせるいちごの香りは、作り手の村上の気分も高揚させた。
「イチゴのクラフティを食べると春が来たって実感する」
「今年で三年めですからね」
クラフティは季節によって使う果物が変わるが、生クリームと牛乳の甘みと果物の酸味のバランスが良いと一年を通して人気の商品だ。
「どの商品も美味しいんだけどこれがあると絶対選んでしまうんだよね」
それなりに高い頻度で店を訪れる来馬だが、イチゴのクラフティがある日は迷わずそれを選ぶ。今日も来馬はイチゴのクラフティと、プレーンのスコーンを2つ購入した。会計をして紙に包みながらの雑談は村上にとっての息抜きだ。
「気に入っていただけているなら嬉しいです」
「牛乳の優しい味がしてホッとする。ケーキっていうより下がタルト生地のプリンみたいだよね」
「生クリームが入っているので日持ちはしないんですが、クラフティと他の焼き菓子とセットで買うお客さん多いですよ」
ほのかに甘い牛乳の味が良いという他の商品にはない需要があるため、村上は定期的にクラフティを焼く。基本的に店に並ぶのはスコーンとクッキーで、あとは季節の果物を使ったマフィンだったりパウンドケーキだったり焼きタルトだったりをその日の気分で仕込んでいる。あまり得意ではなかったが、今に勧められてSNSにてその日のメニューを告知するようにしていた。
「イチゴが終わったらみかんだよね。そっちも食べたいな」
「事前に来られる日を教えていただければ焼き立ても出せますよ」
クラフティは冷やして食べるのも美味しいが、焼き立てを食べても美味しい。店頭に並ぶものはしっかり冷やされたものになるが、来馬であれば二階で一緒に焼き立てを食べることも可能だ。
「優遇されてる」
「お得意様なので」
「トッピングでアイスも乗せられますか?」
「来馬先輩が買ってきてくれるなら特別に」
村上がディッシャーは用意しておきますとディッシャーを握るジェスチャー付きで伝えると、来馬は楽しみだなぁと笑う。
「一度アイスクリーム屋さんみたいにアイスをすくってみたかったんだよね」
「食べ放題とかで出来ますよ」
「ほんと?難しそうだな。鋼は上手そう」
「まあ、そうですね。ソフトクリームなんかも犬飼に手を添えてもらって学習しました」
お好み焼きは影浦から教わり、たこ焼きは水上から習った。同級生からは一家に一台村上だと言われることがある。
「鋼のサイドエフェクトって人生を豊かにするね」
「……俺もそう思います」
自分のことのように嬉しそうに微笑む来馬を見て一瞬言葉に詰まる。
学生の頃はサイドエフェクトを持て余していた時期もあったが、来馬やボーダーの仲間と出会い副作用は村上の個性の一つとして挙げられるようになっていた。初対面の相手に便利な能力だと言われても傷付くことは無いが、それでも来馬の優しい言葉は今でも村上にとって特別であることに変わりは無い。
「ボーダーでもたくさんのことを学習しましたが、ここでも自然相手に日々学ぶことばかりですよ」
「鋼は今楽しい?」
「はい。この店も俺の大切な居場所の一つです。たまにボーダー隊員も遊びにくるんですよ」
「それは良いことだね。ぼくもよく鋼と鋼のお菓子の話を太刀川たちにするよ。そういえば今度太一とさくらんぼの収穫に行くんだよね?」
太一から連絡が来たよ、と来馬はメッセージを村上に見せる。
なるべく地元の旬の果物を使いたいと決めているため、声が掛かれば農家の手伝いをして、代わりに果物を少し安くで卸してもらうこともある。さくらんぼについては去年連れて行った太一も是非と誘いがかかっていた。
「そうなんです。去年に引き続きありがたいことですね」
ボーダーで働いていた頃は市民を支えるという立場だったが、店を営むようになってからは地元の人に支えられていると感じることが増えた。店を始める前よりも、今の方がこの街のために任務を遂行したいという意志が強くなっている。
「おれ、三門で迎える春が好きです」
春が優しい思い出ばかりでない季節だったとしても、村上は桜が咲いてイチゴの香りで店が満たされる度にここに来てよかったと思う。
「だから来馬先輩にも美味しく食べていただけると嬉しいです」
とっくに包み終えていた菓子の入った袋を来馬へ渡す。手のひらの重みは幸せの重みだと、過去に客に言われたことがあった。それ以来村上は、商品を受け渡すときは食べる瞬間その人が幸せであることを祈っている。
「いつも美味しいお菓子をありがとう」
「こちらこそ。いつもご贔屓ありがとうございます。またのお越しをお待ちしてます」
鈴鳴の少しはずれにある古民家の、分厚い扉を開けて来馬が退店する。ショーウィンドウ越しに手を振る来馬に、村上は思わず笑みがこぼれた。
春が来れば夏が来る。何度も繰り返す季節の中で、春は村上にとって傷であり始まりの季節だった。
2.みかどみかんのコンポート
いつもと変わらない甘い匂い。
村上の営む焼き菓子屋は、今日も地元の人々に愛されている。
品数は多くはないが何を食べても美味しいとの評判を受け、わざわざ遠くからやってくる客もいた。あくまで前線を退いた村上が任務やボーダーの仕事合間に一人で製作から販売まで行う店であるため、どうしても不定期の営業になってしまう。にも関わらず日々菓子を求めてやってくる客に、村上は頭が上がらなかった。
本日のメニューはスコーン、キャロットケーキ、みかんケーキ、クッキーの4種類。そして瓶詰めにしたみかんのコンポート。
村上の店は、地元で取れる四季折々の野菜や果物を使った菓子作りを心がけている。春になれば苺、夏になれば桃、秋はいちじく冬は南瓜。市場に出かけておすすめされたものをそのまま買って焼き菓子に混ぜたり、ジャムやコンポートに加工して販売することもある。
学生時代の村上は日々を慌ただしく、自身の学業やランク戦のために過ごしていたが、焼き菓子屋を営むようになり四季の移り変わりを今までより細やかに感じ取ることができるようになっていた。旬の食べ物を知るのはもちろんのこと、気温や湿度によって菓子を焼く際に気をつけることが変わる。自然を相手取ることは難しくまだ失敗することもあるが、新たな学習の場を村上は楽しんでいた。それもこれもアドバイスをもらったおかげだと村上は日々来馬に感謝している。
ボーダー隊員として前線を張っていた村上だが、大規模遠征が成功し人員が増えた結果以前ほどシフトを詰める必要がなくなった。そして大きな流れとして、元々いたメンバーは大規模遠征後に入隊した新規メンバーの育成にあたり、元あった隊のほとんどが解体再編成された。鈴鳴第一も名前はそのまま引き継いでいるが、既に村上も他の誰も在籍していない。現在鈴鳴第一を名乗る子供たちは、同年代で隊を組みA級になることを目標に日々ランク戦などで切磋琢磨している。
鈴鳴支部の上席として子供たちを監督する立場にあった村上だが、ある日ふと疑問に思ってしまった。今の自分の立場は、果たして自分で望んだものなのだろうかと。
荒船は学生時代から温めていた計画を実行すべく後進育成に勤しんでいる。別役も狙撃手の経験と得意のパノラマ作りを活かしつつ、地図作成班でランク戦などで使用するマップを作ったり、遠征で得た情報の図面化を行い活躍している。皆自分の理想の実現や特技を活かして毎日を忙しく、それでも楽しそうにしているのが会って話をするたびに村上に伝わってきた。一方で村上は流されるがまま、ここまでやってきてしまった。仲間と競い合い強くなることは楽しい。守る力を身につけることで得たものは多い。しかし、今尚こうして古巣に執着しているのは成長なのだろうか。もしかするとただの未練でしかないのかもしれない。以前に比べ就くことの減った防衛任務は、大学を卒業してからは余計に空白が目立つように感じた。支部を運営するための細やかな仕事は手を付ければキリがないが、それでも村上がいなければ立ち行かないものではない。
悩みに悩んだ結果、村上は来馬へ久しぶりに連絡を取ることにした。
来馬はボーダーから幹部にと誘いを受けていたが、やりたいことがあると言ってそれを断った。家業は弟に任せたと聞いたが、新たに事業を興しボーダーと一般人とを繋ぐ第三者としての役割を果たす仕事を行っているという。歴史の長い来馬家の持ち会社であることも幸いし、三門市内外の人々への働きかけは順調だそうだ。本部でたまたま出くわした諏訪がやり手だと来馬を誉めていた。村上に気を利かせて嘘を言うような人ではないため、諏訪の言うことは本当のことなのだろう。だからこそ自身のやりたいことを見つけ、それを実現させている来馬に村上は連絡を取った。忙しいのであれば返信はいらないと伝えたが、来馬が後輩に頼られれば応えない人間でないことは、村上が一番よく知っている。結果として、多忙な中来馬は時間を割き村上を夕食に誘った。
「久しぶり。元気だった?」
「はい、いつも通り健康です」
「鋼は自己管理がちゃんとできてて偉いね」
高校生だった頃とは違い、村上はとっくに成人している。それでも来馬は会うたびに村上をすごいね、偉いねとよく褒めた。
「悩み事があってぼくに連絡してくれたんだよね」
来馬が指定した場所はチェーン店ではないものの、特別変わったところのない普通の居酒屋だ。最初に頼んだ飲み物と簡単なつまみが届いたところで来馬は村上の話を促す。
「……実は今の自分が正しい自分なのだろうかと不安になってしまって」
「正しい自分?」
「周りは元々持っていた夢を実現させていたり、成長して新しい場所で実力を発揮していたり、みんなちゃんとしてる。でもおれは学生の頃から何か変わったのかなって……」
お前たちが羨ましいなんて、そんな事を荒船や別役に伝える事は出来ない。だからといって他の友人や同僚にも絶対に打ち明けることは出来ない不安。村上の中で澱のように溜まっていた言葉が来馬を前にして口を突いて溢れ出す。
「おれはボーダーに来てからずっと楽しくて、サイドエフェクトも受け入れてもらえて嬉しくて、がむしゃらにやってきました。でもその次のことなんて考えてなかった。来馬先輩がボーダーを辞めて俺が隊長になって、必死で隊長を務めて後輩が出来て鈴鳴第一を譲って、それから……それからは多分自分で何かを決めてはこなかったです」
ただ求められるままに求められたことをこなしてきた数年間。組織が大きくなりできた時間の余裕を実感してやっと、村上は自身の中の虚を自覚した。これでいいのだろうか。否、良いはずがない。だが、それなら一体どうするのが正解なのか。頼る先が来馬であることを情けないとは思うが、相談相手として来馬以外の相手が思い浮かばなかった。
来馬は村上の弱音を真剣に聞き、なるほどと咀嚼する。そしてしばらく黙り込んでから、丁寧に来馬は村上を諭す。
「求められることは凄いことだ。だからそれに応えて来たのは何もしてなかったことにはならないよ、鋼が今までやってきたことは無駄じゃない。まずこれは分かってほしい」
来馬が村上の不安を軽くしようと言葉を選んでくれているのが伝わる。しかし、来馬は相手をよく褒めるが嘘はつかない。優しい人だが、決して相手のためにならない忖度はしない。だから村上は来馬を頼った。
「でも、今の居場所を停滞だと思うなら、環境を変えてみると良いかもしれない。例えば一人暮らしとかどうだろう」
「一人暮らしですか?」
鈴鳴支部への執着を気取られたのかと村上は思わず身構える。
「そう。支部だとどうしても常に後輩が側にいるし、鋼はその後輩のことを気にかけたりしてしまうだろう?自分のことだけ一生懸命考える時間が鋼には必要かもしれないし、鋼はきっと探せば自分でやりたいことを見つけられると思うんだ」
「俺だけのこと?」
自分のことばかり考えた結果が今なのではないかという不安もあるが、無意識下で村上は一人になることを恐れていたことに気がつく。今や別役が支部の住み込みを出た時、同級生から実家を出たと話を聞いた時、村上はいずれも一人で暮らすことを考えたことはなかった。三門はもう知らない土地でもないのに、賑やかな暮らしを捨てられなかった。
「自分で物件を探すのもいいし、特にこだわりがなければぼくのツテも紹介できるよ」
「……確かボーダーにも暮らしの窓口があったかと」
「そうなの?ぼくがいた頃はなかった部署だな。組織が大きくなると必要だよね」
寄宿舎でのトラブルや相談、一人暮らしをする隊員の斡旋などを引き受ける窓口が本部には存在しているが、来馬の言う通り人員増加に伴いできた窓口だった。
「ぼくの方でもいいところがあれば……あ、一件おすすめがあるよ。古民家をリノベーションした空き家で二階建てなんだけど、本部への通路も近くて支部も近くて、何より賃貸に出せない事情があって格安で紹介できる」
そう言って紹介されたのが現在村上の住まう家だ。来馬は村上へ二階の居住スペースをを紹介しただけで、一階部分に関しては使いたければ自由に使っても問題ないとだけ伝えた。しかし村上は中を確認して一階も貸して欲しいと来馬に申し出た。それから本格的に菓子作りを学び資格をとり、ボーダーの任務のかたわら店を営むようになった。
過去の村上の抱いていた悩みが、今の村上で解決できているのかはわからない。ただ、間違いなく今の村上は自分自身にしっかりと向き合っている。毎日を村上の意思で必死で生きている。たった一人での運営のためいつまで続けられるかわからないが、村上はできる限り続けたいと思っていた。
そして、村上が一等来店を楽しみにしているのは来馬だった。仕事の合間を縫ってやってくる来馬は、やはり多忙なのか日によっては疲れた顔をしていることもある。村上の前で弱音を吐くことはないが、村上が焼いた菓子で来馬を癒すことができればと、気持ちを込めて袋を手渡すようにしていた。
「みかんのコンポートだ」
「今年は綺麗に沢山作れたので店頭に出してみました」
去年までみかどみかんは焼き菓子のみを店に出していたが、今年は焼き菓子とは別にみかんを丸ごと煮たコンポートも用意した。
「涼しげでいいね。鋼が一つ一つ皮をむいたの?」
「実は裏技がありまして。煮るときに重曹を使いました」
重曹やクエン酸を使えば薄皮が溶けて缶詰のようなつるりとした食感になるのだと伝えると、来馬は感心したように頷く。
「そうなんだ……重曹にはそんな力が」
「先輩帰りにみかんと重曹買うつもりですね?」
「バレちゃった」
「買うなら食用のにしてください」
村上はおそらく来馬は掃除で重曹を使ったことはないだろうと思いつつも念のため伝えておく。
「重曹って種類があるの?」
「食用だとアク抜きとか臭み抜きとか、あとはちょっとしたふくらし粉的な使い方とかしますよ。でも掃除にも使えて、掃除用の重曹も売ってます。みかんに使うならスーパーの食品売り場のを買ってください」
「ありがとう勉強になるよ。でもみかんのコンポートは欲しいな。一つ入れてもらってもいい?」
「ありがとうございます。あとはどうしますか?」
「全部一つずつで」
「かしこまりました」
村上は来馬の言う通り棚から取り出し、あらかじめ梱包されているクッキー以外を一つずつ薄紙に包んでいく。
「瓶だけ重いので袋分けでもいいですか?」
「お願いします」
緩衝材で包み、コンポートの瓶は別の袋を用意し、二つの袋を来馬へ手渡す。
「生のケーキより日持ちはしますけど、コンポート以外は二日以内に食べてくださいね」
村上は言外に全て一人で食べるのかと尋ねると、来馬は少し気まずそうに村上から視線を逸らす。
「今日は甘いものをたくさん食べても良いということにしたので……」
「お仕事、忙しいんですか」
普段来馬は健康的な食生活を送っている。村上の店で商品を買う時も、どれも美味しそうだと悩んだ末に一つか二つを選んで買っていく。複数購入するときは誰かとお茶をする時と、あとは仕事が立て込んでいる時だけだ。
「あと少ししたら大分落ち着くから、それまでは頑張るよ」
「あまり無理しすぎないでくださいね」
昔であれば来馬の仕事を村上も手伝うと申し出ることができたが、部外者である今はそれが叶わない。できることは、作った菓子を来馬へ手渡すことだけだった。
「ここが踏ん張りどころって時に鋼のお菓子が食べたくなるんだ」
「少しでもお役に立てているならよかったです」
「いつも本当にありがとう。落ち着いたらまた来るね」
「来てくださるのはもちろん嬉しいですけど、それよりゆっくり休んでほしいです」
「ぼくにとってここに来るのはご褒美みたいなものだから」
「それは光栄ですが……」
来馬のことは確かに心配だが、やはり来馬と会えることは素直に喜ばしいことだ。その上この店が来馬にとって特別な場所であるなら尚更来ないでほしいとは言えない。
「またね」
村上はいつものようにありがとうございました、と退店の挨拶をする。その声が震えていないか自信がなかった。間接的にとはいえ、来馬の役に立てているならこれ以上に嬉しいことはない。
村上は高校生の頃から今に至るまでずっと、来馬のことだけが好きだった。
3.さくらんぼの焼きタルト
「鋼さんって何でボーダーやりながらお菓子も売ってるんですか?やっぱ来馬先輩っすか?」
高い梯子が必要な場所は村上が、比較的地面に近い梯子は別役が。それぞれの高さのさくらんぼを丁寧に収穫していく中で、別役は唐突に村上へ問いかけた。
「なんでそこに来馬先輩が?」
「なんとなく。そうかなと」
別役の直感はよく当たる。
本質を見ることに長けているのだと昔来馬が誉めていた。しかし見抜きすぎるのも問題かもしれない。
「違うんですか?」
「いや……違わないよ」
「ですよね。鋼さんは絶対そうなんですよ」
何となくと言った割には確信めいた物言いに村上は不安になる。
「そんなにわかりやすかったか」
「それは付き合いの長さユエというやつです」
「つまり太一と同じくらい付き合いがある相手には筒抜けってことになるんだが」
別役と同じだけ付き合いのある相手とは、つまり同年代のボーダーで知り合ったメンツほとんどということだ。
「鋼さんわかりやすいんで。あとフェアじゃないんで言っちゃいますけど、高校卒業の時に鋼さんが来馬先輩に告白してフられたのも知ってますよ」
フられてもずっと来馬先輩のことが好きってことも知ってます。と別役は続ける。さくらんぼの収穫をしながら明かされる事実にしては衝撃的で、村上は一瞬思考と作業の手が停止した。
「もちろん来馬先輩が俺に話してくれたんじゃなくて、鋼さんの雰囲気で勝手に察しました!」
「……それは付き合いの長い相手ならみんな察してるか?」
「それはさすがに……今先輩くらいじゃないですか?だってあの頃はおれたち毎日一緒に過ごしてたんですよ」
別役の言い分は尤もで、当時の別役のテストの点数も今のダイエット事情すらも村上は知っていた。であれば村上の淡い青春も二人に知られているのは当然かもしれなかかった。
「太一の言ったことであってる。正解だ。だけどいつかもう一度告白しようとか、付き合いたいとかそういうのは無いんだ」
幸い周りには誰もいない。いるのは村上の声が届かない程遠くで作業をする果樹園の持ち主だけだ。村上は作業を再開しながら罪を告白する気持ちで別役に吐露した。
村上は高校生の頃からずっと来馬を好いていて、きっとこれからも好きなままなのだろう。ただ、村上が来馬に対して抱く感情は一切来馬には関係が無い話でなければならない。ふられてから数年経つが、村上は自身の気持ちが報われることなく一生を終える覚悟はできていた。
「じゃあ鋼さんの好きはどうなるんですか?」
「どうもしない。だから俺は菓子を焼くんだ」
「それって何か関係あります?」
「あるよ。なんなら俺はずるいと責められても良いくらいだと思ってる」
来馬に提案された物件は二階建ての一軒家で、二階部分だけ利用すればいいと紹介されていた。しかし物件の本来の目的と自由に使っていいと言われた一階部分を見て、村上は菓子屋を営みたいと申し出た。それは昔、来馬が村上の作る菓子を美味しいと誉めたからだ。今に教わったことをそのまま再現しただけのものを、村上自身の性格が出ていると微笑んだ来馬を思い出したからだ。
「俺は多分、誰かに必要とされたいし喜んでほしいんだと思う。だけど自分が何をしたいのか当時わからなくて、それで結局過去に来馬先輩が喜んでくれたことを思い出して焼き菓子屋をやると決めたんだ。狡いよ」
本来、村上とは別の誰かが店を開くために古民家をリノベーションし、器材を用意したことが一目でわかるキッチンを見て、村上が勝手に哀愁を感じたということも理由の一つではあるが。それでも始まりはちょっとした好奇心のようなものだった。
まさか来馬が店に足繁く通ってくれるようになるとは流石に村上も思ってはいなかったが。
それでも良い思い出のうちの一つに製菓の記憶があり、今の村上はその延長線上にあることは間違いない。結果的にこれまでになかった意味合いでの地域の人々との交流の場となり、いい方向に転んでいるが、別役に“来馬が関係しているのだろう“と見透かされてしまったのは決まりが悪かった。
「おれも鈴鳴のみんなが褒めてくれたから今でもボーダーにいられてるんすよ。誰だって人から必要とされたい気持ちはあると思います。だから鋼さんが特別狡いとかありえないですよ」
「ありがとう。太一は強くなったよな」
「鋼さんは今も昔もめちゃくちゃ強いっす」
チームでも個人でもランク戦に参加しなくなり久しいが、それでも村上のポイントを超える若手は数えるほども出ていない。別役はそのことを言っているのだろう。
「今と昔じゃ事情も違うから」
「太刀川さんは今でもたまに個人戦に参加して荒らししてます」
太刀川は現在も個人総合一位をキープしていた。
ボーダーの強さの象徴であり、忍田同様ピークを過ぎても一線で戦うことが可能であると言う生きた証拠でもある。
「太刀川さんくらい強い人がいた方が盛り上がるだろ」
「それを言うなら鋼さんだって行けば盛り上がると思いますけど」
だって別に衰えてないでしょう?と別役は作業の手を止めて村上を下から見上げた。別役の丸くて大きな輝く瞳が村上を見つめる。村上はそのまっすぐな瞳に見つめられると弱い。
「……トリオン器官に年齢による影響は出ていないらしい。訓練もしているからいつでも闘える用意はある」
何なら今行われているランク戦についてのログも確認しているため、ほとんどの相手に対して一方的に負けることは無いだろう。
「ただ、今は戦うこと以外のことを学習していたいんだ」
「それがあのお店ってことなんですか?」
「ああ。店を始めて本当に良かったと思ってる」
何のために戦うのか。
三門出身の人間であれば家族のため、育ってきた土地のため、復讐のためといった理由が自然と生まれる。もちろん自身のため戦うことも立派な動機だ。しかし村上や別役のように外から来た人間は何を担保に戦うのかが曖昧になりやすい。トリオン体での戦闘が主であるため、普段の任務であれば命を賭けている意識も高くない。が、遠征となれば話は変わる。
豊かな食を楽しみ、当たり前に安全な場所で眠ることのできる普通の日々を捨てるだけの覚悟を決める何かがなければいけない。
数年前は幼さ故に日常を離れることに理由は必要なかった。しかし大人になればなるほど日常を棄てるだけの理由が必要になってくる。何のために戦うのか。今何をしたいのか。自身の軸が必要、らしい。
村上にはいまいち理解できていない話だったが、上層部は村上に自身の戦う理由を見つけた方がいいと言った。それを受けて村上は自分自身の人生について悩み、その道中で自身の中の空白に気がつき来馬に助けを求めた。
「来馬先輩もこの街の人たちも守りたい。生まれた土地は違えど大切な人たちなんだ、俺は戦えるよ。本部の人たちにもそう伝えておいてくれ」
「別役了解。鋼さん、さくらんぼあとどのくらいで終わりそうですか?」
「俺はもうすぐ終わるぞ。太一は?」
「おれも終わり見えてきましたー」
「慌てずにな」
時おり梯子の位置をずらしながら、無事作業は終わった。あとは収穫した分から仕入れ分を抜いて、果樹園の持ち主に声をかけて支払いをすれば完了だ。呼んでもらった礼と別れの挨拶を告げると、謝礼とまた来年も別役と二人で手伝いに来てほしいという言葉を貰い受けた。
「さくらんぼはパイとジャムにするけど太一は食べるか?」
「当たり前じゃないですか!焼いたら教えてください。今先輩の分もお使いしに行きます」
「ありがとう。今に他に何かリクエストがあったら教えてほしいって伝えといてくれ」
「わかりました!それじゃお疲れ様でした!パイ楽しみにしてます!
別役とわかれた村上は帰宅してそのままさくらんぼの種取りに取り掛かる。
一つ一つ丁寧に種を取り、さくらんぼと同じ重さの砂糖をまぶしたところで村上は一息ついてスマホを取り出した。
「来馬先輩、今お時間大丈夫ですか?今日太一とさくらんぼの収穫を手伝ってきたんです。次いつ頃来られそうですか?」
あなたの来る日に合わせてさくらんぼのパイを焼きます。来馬先輩が来るとわかっている日は特別美味しくなりますようにといつも思ってしまうんです。来馬先輩だけ贔屓をするようで良くないとはわかってますが、ままならないものです。
ボーダーでもこの店でもたくさんの人と出会ってきましたが、それでも俺の好きな人は来馬先輩だけなんです。
泡のように浮かんでは消える村上の感情は、今日も電話の向こうに伝えられることなく消えていく。それは村上の秘めた想いだった。
4.実山椒
元々は来馬の父親の友人が店を開くために用意したのが現在村上が暮らす家らしい。会社に勤め、資金を貯め、早期退職をして一階では夢だった菓子屋を営み、二階を終の住処とする。小さな庭には山椒やいちじくなどの実のなる木なども植えて、時期になればそれらを使った商品を店に並べたいと来馬の父親に語って聞かせたそうだ。
しかし、遠い親戚の介護が必要となりその夢は潰えた。三門に戻ることも無いと、夢を詰め込んだ一軒家を来馬の父親に託した。通常の民家と異なる建物を賃貸へ出すこともできず、かと言って壊すことは忍びなく、それでも人の住まない家は劣化が早い。誰か住んでくれればいいのだけれど。
そのような話を聞いていて、立地はボーダーに所属する人間にとっては便利だなと来馬は記憶していたそうだ。そこに自分一人が鈴鳴に残り続けている現状を憂いた村上が相談を持ちかけ、来馬は村上へ件の一軒家を紹介した。もちろんボーダーの斡旋があるだろうから気が向いたらで構わないと何度も来馬からは言われていたが、最終的に村上は紹介された物件で建てられた目的通りの暮らしを送っている。もしかすると、来馬が熱心に店に通ってくれるのは物件を紹介したことで村上が菓子店を営むことになったという負い目からなのかもしれない。
実際は菓子を焼くことで来馬が喜んだことを思い出し、その思い出が良い思い出だったため新しく始めるならこれにしようと村上が自発的に決めたものだ。来馬が申し訳なく思う必要は無い。それでも常連と言えるほど足を運んでくれる来馬に会えることは村上にとって喜ばしいことだった。
「立派になってるね」
「そうなんです。全部収穫するのは大変そうです。でも放っておくと虫に食べられてしまうのが勿体無くて」
夏の訪れを感じられるような五月の終わり。
庭には美しい緑色をした、そこそこ大きな山椒の木が一本。所々弓なりにしなる枝先には立派な実が連なっている。
来馬から週末店に行ってもいいかと連絡が来たが、村上はその日は山椒の収穫を予定していたため店が休みであることを伝えた。せっかく連絡いただいたのに残念ですと答えた村上に、来馬は迷惑でなければぼくにも手伝わせてほしいと申し出た。果物ほど繊細ではなく高所に登る作業もなかったため、村上は来馬の申し出を快諾した。ただし外での作業となるため必ず長袖であること、首元はタオルか何かで日焼け対策をすること。村上側で軍手は用意できるが、それ以外で必要なものは用意して欲しいと事前に伝えておいた。そのため、今日の来馬は珍しくカジュアルな格好をしている。
「来馬先輩がスーツじゃないの新鮮です」
「新鮮かあ。大体仕事の合間か終わりに駆け込みで行くからね」
動きやすい格好でって言われたから今日はこのままスポーツもできるような格好できたよ、と来馬はでぽすぽすと軍手を付けた両手を合わせるように叩く。
「お仕事柄、定期的なお休みがなさそうですけど」
「殆どぼく一人で走り回ってる会社だからね。でも休みが不定期と言えば鋼もだよね?」
実は村上は来馬の仕事が具体的に何なのかは把握していない。殆ど一人で行っている仕事であることも今初めて知った。来馬は聞けば教えてくれるだろうが、部外者の村上がどこまで踏み込んでいいのかを掴みあぐねている。
「店は水木定休であとは土日のどっちかを休みにしてますよ。ほとんどの日が午後からの開店にしてますし」
案外時間はあるんです、と村上は答える。
来馬が隊を率いていた頃よりも本当に随分と組織に余裕ができた。
かつてカツカツで回していた防衛任務は、稼ぎたいB級の希望者で回るようになっている。そのため村上は人手が足りない時以外は防衛任務に就いていない。後輩指導やSEに悩む新人のケア、あとは本部で行う開発やシミュレーションのテスト対応が現在の村上の主な役割だ。これまでのような戦争はこの先減っていくだろうが、逆に他国との交流は活発になるだろう。そうなると遠征もそれに向かう部隊も、今以上に数が必要になる。
ボーダーは人員が増えたことも鑑み、今までの組織の在り方を根本的に見直すことも視野に入れて動いているらしい。具体的なところでは、遠征を希望する隊員としない隊員とを分けて扱うことが出来ないかなどを検討していると村上は聞いた。
「ぼくのいた頃とかなり変わったって話は加古さんや二宮からも聞くけどイメージ湧かないなぁ。鋼がちゃんと休めてるならそれで良いんだけど」
「ありがとうございます。影浦からは隠居した後の老人みたいだと言われたくらいなので。のんびりやってますよ」
「影浦くんも長いことボーダーとご実家の手伝いで忙しそうにしてるよね。今度二人でお店に顔出す?」
昔、何度か四人でかげうらに行ったことがある。しかしそれは鈴鳴第一という団体としてであって、村上と来馬という個人でのものではなかった。
「おれと、先輩とでですか?」
「ごめん友達の家にぼくと行くのは恥ずかしいよね。忘れて」
来馬は慌てて発言の取り消しを求めたが、村上は違うんですと否定した。
「忙しいなか誘っていただけて嬉しかったんです。時間空けます。連絡してください。その時は事前にカゲにも伝えておきます」
「こっちの都合に合わせちゃってごめん」
「いいえ。今回は融通が効くのがおれの方だったってだけですから」
もし来馬の方が自由度が高ければ来馬は村上の都合に合わせるように話をしただろう。日程の調整については村上が自由が利きやすい。それだけのことだ。
「ありがとう」
「とんでもないです。さて先輩、あとは山椒を取りながら話しましょう」
収穫のためのザルとハサミを来馬に手渡し、村上も山椒の収穫のためにハサミを持った。
「父の友人もなかなか渋いよね。お菓子のお店をやりたくて建てたらしいのに庭に植えたのは山椒だなんて」
実の部分を切り落としながら来馬は村上へ話しかける。
「確かに。初めからお菓子屋をやるつもりで建てた家ならラズベリーなんかが生えていても良さそうではありますね」
「だよね?もちろん鋼が植えたかったら植えてもらって良いんだけどね。山椒って薬味として使う以外に思いつかないや」
京都のちりめん山椒とか知ってる?ぼくあれ好きなんだ、と言いながら来馬は丁寧に山椒の実の部分を切り落としていく。
「山椒って確かにふりかけとか佃煮とかのイメージが強いと思うんですが、実はお菓子にも使われるんですよ」
「そうなんだ」
「アクセントとして山椒の香りがいいらしいですよ。韓国では実山椒を蜂蜜に漬けてシロップにするらしいですし」
チョコレートやクッキーに胡椒が用いられることがあるように、山椒もチーズケーキなどに混ぜ込むことで味が華やかになるらしい。
「山椒の香りはさっぱりしてるし夏にはいいかもね」
「実は用意してて、よければ試食お願いしてもいいですか?」
「いいの?押しかけておいて悪いな」
「おいしい保証がないので逆に申し訳ないですが」
事前に収穫しアク抜きをした山椒を使い、村上はベイクドチーズケーキを用意していた。攻めたメニューにはなるため、誰かの意見が欲しかったからだ。
「綱のお菓子はいつだって絶品だから心配してないよ」
「…………」
「照れた?」
「照れました。休憩しましょう、ケーキ持ってきます」
庭に来馬を残し、村上は一階の冷蔵庫に向かった。来馬の何気ない無邪気さが、優しさが恐ろしい。その言葉に何の意図もないことを村上は知っている。一度告白してフられてからは、好きと同じくらい来馬の表裏のない優しさが怖い。
テリーヌ型に焼いたベイクドチーズケーキを切り分けて二人分の皿を盆に乗せ、一度外に出る。
「来馬先輩、おやつの時間です」
「山椒が乗ってる!」
建物の構造上、一階から二階の居住スペースに行くためには外の階段を使うしかない。庭の来馬を拾い、村上は外の階段で二階に上がる。何度か二階を訪れたことのある来馬は大人しく村上の後に従った。
「山椒のベイクドチーズケーキなので。正直な感想教えてくださいね?」
「もちろん」
後日、店に出した実山椒のベイクドチーズケーキはクセになる味だと好評だった。
5.きゅうりのシロップ
あっという間に夏が来て、エアコンがなければ寝苦しい日々が続いている。蝉の鳴き声が聞こえてくるのも時間の問題だろう。
「今日も暑いね」
額に汗を滲ませながらも来馬はいつも通りスーツを着こなしている。
「これだけ暑いと外に出るのも億劫ですよね。来てくれてありがとうございます」
村上は試飲用のカップを来馬に差し出す。中身はきゅうりシロップを炭酸で割ったドリンクだ。
「ありがとういただきます。これ何?スパイシーで美味しいけど初めての味がする」
「実はきゅうりなんです。ライムとスパイスで煮詰めたシロップなんですよ」
実は夏場はスコーンやクッキーの売れ行きが悪くなる。対策として村上は夏になると比較的さっぱりしている果物の入ったパウンドケーキや、タルトの種類を増やすようにしていた。そして今年からはきゅうりシロップの量り売りも始めていた。ただ、いきなりきゅうりのシロップが置いてあっても買う人間は少ないだろう。販売促進と暑い日に店まで足を運んでくれたお礼を兼ねて、村上は希望者にドリンクを出すようにしていた。
「きゅうりってシロップにしてもこんなに美味しいんだね……」
「不思議ですよね。量り売りをしているんですが、意外と皆さん買ってくださるんです」
最近クラフトコーラが流行ってるからですかね、と村上は空になったカップを来馬から受け取る。
「ぼくもお願いしてもいい?この前加古さんの家にみんなで遊びに行った時に炭酸水メーカーがあって、便利だったから注文してるところなんだ」
「炭酸水メーカーですか、聞いたことはあります」
「ガスさえ買えば炭酸が作れるみたいでね。ペットボトルを買わずに済むなら良いなぁと思って」
来馬は最近になって一人暮らしを始めたらしい。望めば全ての家事を代行に任せることができるだろうが、今のところ人を入れる予定はないそうだ。
「ゴミが減るなら楽ですね」
「そうなんだよね。せっかくだから鋼の作ってくれたシロップも使わせてもらうよ」
「どれくらい必要ですか?」
「今度みんなを呼ぶから多めがいいな」
「承知しました。あとはどうしますか?」
「ちょっと考えさせて」
「ゆっくりどうぞ」
本日はアプリコットの焼きタルト、ユスラウメのジャムとマスカルポーネチーズを使ったスコーン、プレーンのスコーン、チョコのスコーン、紅茶のパウンドケーキが並んでいる。来馬がショーケースを見て悩んでいる間に村上は大きめの瓶にきゅうりシロップを移しておく。自分の食べられる量と食べたい商品とを天秤にかけて唸る来馬を眺めるのが村上は好きだった。
しばらくすると女性客が店にやってきた。
村上はきゅうりシロップを紹介し、興味があると答えた女性にきゅうりシロップのソーダ割を手渡す。
「涼しげでいいですね。いつまでやってますか?」
「特に決めてないんですが、材料が比較的手に入りやすいのでご要望がある限りは……といった感じです。量り売りなので入れ物は持ってきてもらうか購入いただくかになりますね」
来馬はショーケースの前から一歩下がり、会釈で女性に会計を譲る。女性はありがとうございますと礼をしショーケースの前に立った。
「今度入れ物持ってきます。今日はアプリコットのタルトとスコーン一種類ずつお願いします」
「ありがとうございます」
女性は何度も店に来ているが、必ずスコーンを選ぶ。時折それ以外の商品も買うことがあるがスコーンは必ず三つ買う。薄紙にスコーンとタルトを包み、紙袋に入れた商品を会計をしてから手渡す。
「またのお越しをお待ちしてます」
村上はいつも通り退店の挨拶をし、女性客を見送った。すると来馬は笑顔で村上の側にやって来た。
「大瀬さんの娘さんだったね。元気そうでよかった」
「お知り合いですか?」
「父君がね、支部に何度か相談に来たことがあって」
「そうだったんですね。お嬢さん、常連ですよ。いつもスコーンを三つ買っていかれます」
村上は個人戦などのランク戦に勢力的に参加していたが、支部は本来ランク戦に参加をしない方針で隊員が在籍している。中には事務員と一緒に地域に暮らす人々の相談口として対応にあたる者もいた。来馬は隊長としての役目や大学生としての責務と並行して窓口での対応も時間を見つけは行っていた。大瀬という男もその際に対応した一人なのだろう。来馬が多くを語らないので村上もそれ以上を知るつもりはない。だがおそらく、来馬と大瀬の娘に面識はほとんどないはずだ。先方は来馬を見ても何か気がついた様子はなかったし、来馬自身も声をかけたりはしなかった。来馬は自身が大瀬の娘に認識されないことを知っていたということだ。
「来馬先輩はここに住む人たちのことをとても大切に思ってますよね」
「ずっとお世話になっているから」
来馬も来馬の父親も、その父親もずっとこの土地に暮らしているのだという。来馬という名前は三門ではそれなりに有名で、長い歴史を持っている。そのせいか、来馬は当たり前のようにこの土地に住む人々を愛していた。
「ぼくができることは少ないけれど、できる範囲で守りたいって思うんだ」
来馬の言葉に気負った様子はなく、ただ自然に来馬が人々の平和を願っていることがわかる。そのために日々この人は忙殺されているのだ。愛するたくさんの人たちのために。村上はそれを知っているから、今もボーダーに残っている。
「立派なことだと思います。俺もボーダーの隊員として精進しなければと思いました」
「今もボーダーで戦い続けている鋼には頭が下がるよ」
防衛機関としては目立ちすぎるほどの組織力を持つボーダーだが、国による援助を一切受けていないため向けられる猜疑の目は少なくない。三門に住む人間であれば恩恵を受けているため疑わしく思っていたとしても表に出す人は少ないが、それが遠い土地に住む人々となれば話は変わる。そんな人々へ向けての活動に対する支援の一助を担うのが来馬なのだそうだ。
「来馬先輩が選んだ今の仕事、尊敬してます。だから俺も先輩を前にしても恥ずかしくない自分でいたいと思ってます」
「ありがとう。そう言ってもらえると背筋が伸びるよ。ぼくも頑張らなきゃって」
「もうずっと頑張ってると思います。暑い日が続くので無理しないでくださいね」
来馬は基本的に健康だが、夏の暑さにはあまり強くない。村上と比べると筋肉の薄い身体であちこち走り回るのだから心配にもなる。
「炭酸水メーカーときゅうりシロップでなんとか頑張ってみる」
「ほどほどにしてください」
村上の言葉が来馬に影響を与えられるとは思っていないが、心配しているということは伝えておきたかった。こんな時、今であれば来馬を叱ることができたのかもしれない。別役であれば無理しないでくださいと懇願するのかもしれない。しかし、そのどちらも村上には不可能だ。
「うん。鋼に心配かけない程度に気をつける」
来馬の優しいその言葉を、ただ信じることだけが村上にできる唯一だった。
6.あなたの為のケークサレ
焼き菓子といえば甘いものと認識する人は多いだろう。実際、甘味を求めて村上の店に客はやってくる。
本日のラインナップは桃のパウンドケーキ、チェリートマトのマフィン、バナナのタルト。スコーンはプレーンとチョコとレモンの三種。あんずのジャム、そして夏野菜とベーコンのケークサレ。
ケークサレとはチーズと野菜などを生地に混ぜ込んで焼く、通称おかずケーキのことだ。
野菜を使った焼き菓子を出すこと自体は珍しくないが、夏場だけはショーケースの隅に甘くない商品が並ぶ。
今日は夏野菜のケークサレが並んでいるが、日によってはそれが野菜のガトーインビシブルに変わったりもする。もちろん主力商品ではないため売れ行きは他に比べて良くないが、それでよかった。なぜならケーキやスコーンはたくさんの人においしいと言って食べてもらうための商品だが、ケークサレは村上が来馬のために用意している商品だからだ。
「夏になるとどうしても食べのもを食べようって気持ちにならないんだよね」
まだ鈴鳴第一が来馬を隊長としていた頃の話だ。普段から多いわけではない食事の量が更に減ってしまったことを今が指摘したことがある。
夏バテという単語とは無縁だった村上は驚いた。夏になると何もしなくても汗をかくせいで普段より腹が減りやすい。というのが村上の持論だったが、来馬はその反対だった。
普段から上品に適量食事を摂る来馬が、セミがうるさい季節になると霞を食べて生きているのかと錯覚するほど食事をしなくなる。それを憂いた今がお菓子ならと焼いたのがケークサレだった。来馬は今の作った食事を残すことはなかった。当時村上は献身的に食事を作る今を応援することしかできなかったが、焼き菓子屋を始めて一年目の夏、村上は蝉の鳴き声を聞いて来馬の顔を思い浮かべた。きっと食事をまともに摂れない日々が続いているのだろう。昔は見ていることしかできなかったが、いまは違う。今には劣るかもしれないが、とレシピを調べてケークサレを焼いた。初めて焼いたのはほうれん草とサーモンのケークサレだ。押し売りする勇気はなくて、ただショーケースに並べて来馬を待っていた。だから来馬が店にやってきて迷わずケークサレを買った時、村上は救われたような心地がした。
おそらく来馬は夏だけ甘くない商品が並ぶ理由を知っている。村上も隠すつもりはない。ただ、来馬のことを心配している人間がいるのだと伝えたいが為の行動だった。
「この前のズッキーニのガトーインビシブル美味しかった。今日は夏野菜とベーコンのケークサレなんだね。美味しそう」
「本当ですか?ありがとうございます。普段はリンゴとかでやるので野菜で作るのは新鮮ですよ」
果物や野菜を薄くスライスして焼くガトーインビシブルは切ると断面が層になる焼き菓子だ。焼く前に具材の配置をこだわることでより美しい見た目にすることができる。
「リンゴのガトーインビシブルも好きだけど野菜のも好きだな。お昼とか夜にご飯がわりにいただいてるよ」
「それは何よりです。今みたく三食用意できたら良いんですけど、そういうわけにもいきませんから」
「心配かけさせてごめん」
本当は食欲がなくて、焼き菓子だって食べたい気分ではないかもしれない。それでも村上は夏の期間中は食事の代わりになりそうな焼き菓子をショーケースに並べるだろう。そして村上の気持ちを汲んだ来馬は必ずそれを購入する。
村上の親切というよりは来馬の優しさで成り立っているような状況だった。
「どうしてですか?俺はただ商品を置いているだけで、それを先輩が買ってくださってるだけですよ」
「前に鋼のお菓子を食べると頑張ろうってなるんだって言ったけど、疲れてどうしようもない時に食べると元気が出るんだ。だから助かってるよ」
あと、果物も華やかで良いけど夏の野菜って色鮮やかなのもいいよねと来馬は微笑む。
来馬は誰にでも分け隔てなく優しい。村上は欲しい言葉を偽りなく差し出すことの出来る来馬のことが好きで、そしてそれが少しだけ歯痒い。
「バナナのタルトとケークサレを2つと梅シロップもお願いします」
「かしこまりました」
食事の代わりになるようにと作るケークサレは、他の焼き菓子よりも大きく切り分けられている。いつもの薄紙ではなく大きめのフィルムに個別でケークサレを包み、バナナタルトはいつも通り薄紙に包む。梅シロップは来馬の持参した瓶に入れた。瓶は元々はきゅうりのシロップを入れていたものだ。
「みんな忙しいと思うけど、今ちゃんと太一と鋼と揃ってご飯とかいきたいね」
「誘ったら喜びますよ」
「嬉しいこと言うね。じゃあみんなの予定聞いてみる。あ、でも早くても九月になるかもしれない」
「多分一番忙しいの来馬先輩ですよ」
正直に村上が言うと、来馬は気分を害した様子もなくそうかもしれないと答えた。
「鋼は何食べたい?」
「……俺ですか?」
「蕎麦は美味しい店を見つけたから今度二人で行こっか」
せっかく四人で食事に行くのに蕎麦や白米と答えるわけにはいかないと悩む村上を見て、来馬が助け舟を出す。
「じゃあ洋食で。普段自分からは選んで食べないので来馬先輩のおすすめの店がいいです」
「わかった。二人にも伝えておくよ」
「よろしくお願いします。忙しいのにお任せしてすみません」
「ううん。こっちこそいつもありがとう。蕎麦も誘うね。またね」
待ってますと村上は模範的な解答をする。
しかしフられて数年経つとはいえ、気兼ねなく二人きりの食事に誘う来馬に対して思うことがないわけではなかった。
「また、お待ちしてます」
貴方のためのケークサレなんですよ。
今でも貴方のために菓子を焼くような男なんですよ。
伝えられない感情が、どうか伝わりませんように。
村上は二人で蕎麦を食べに行く機会はないだろうなと思いながら売れてしまって空いた分、ショーケースを整理をした。
7.レモンケーキ
スコーン、キャロットケーキ、マフィン、パウンドケーキ。焼き菓子を専門に扱う店で比較的よく見かけるラインナップの中にレモンケーキがある。
味はもちろん形も店によって様々で、パウンド型で焼くこともあればレモンの形をした型で作ることもある。村上は小さな花の形をした型で焼き、表面をアイシングでコーティングしたものを出していた。黄色い花の形をしたレモンケーキはひまわりのようだと小さな子供からも人気な商品だ。
通年を通してショーケースにならぶレモンケーキだが、秋から冬にかけての間で何度かは特別なレモンケーキになる。
「いつものお花とは違うんだね」
「ええ。質の良い国産レモンが手に入ったので」
丸い型で焼き、レモンを薄く輪切りしたものをあしらった姿は普段並んでいるレモンケーキとは異なる形をしている。
「上に乗ってるのはレモン?」
「はい。緑色のレモンです」
収穫されて間もない新鮮なレモンは見た目が鮮やかな緑をしている。出回る量が少なく時期も限られているため、来馬が来店した日に緑のレモンケーキが並んでいるのは初めてだった。
「旬の時期で良いものが手に入った時だけこっちにしてるんです」
「じゃあずっと前からあったんだ」
惜しいことをした、と来馬はつぶやく。確かにSNSにはレモンケーキと書くだけで特別な記載はなかったかもしれないと村上は気が付いた。
「レモンケーキは絶対欲しいな。あとはどうしよう」
レモンケーキ以外で並んでいるのはいちじくの焼きタルト、りんごとクリームチーズのマフィン、スコーンはプレーンと栗の二種類だ。
「全部おすすめですよ」
秘密を打ち明けるように村上が来馬に囁くと、来馬はそれはわかってるんだよねと悔しそうにする。
「夏はあんまり色々食べられなかったから全部いっちゃおうかな」
「無理のない範囲でお願いしますよ」
まだ暑さは残っているが、風は少しずつ冷たくなっていると感じられる季節になった。来馬の食欲も通常に戻ったらしく、先週は約束していた通り来馬、今、別役と村上の四人で食事に行ったばかりだ。そこでしっかり一人前を食べる姿を見ているため、もう体調は大丈夫なのだということは知っている。しかし元々一般的な成人男性より食の細い来馬が全部買う、というのは心配だった。来馬が数を買う日は、仕事が立て込んでいて忙しい日が多いせいで尚更。
「大丈夫!生ケーキと違って日持ちがするし」
「日持ちはしますけど、ちゃんと食事をとった上でお菓子も食べてください」
母親みたいなことを言っているなと村上は思ったが、隊長とその部下だった頃は来馬に母親のような物言いをしたことはなかった。そういった役割は自分ではなく今の役割だと認識していたところがあったのかもしれない。
「大丈夫、食欲の秋っていうくらいだし最近はちゃんと食べてるよ」
「なら良いいんですけど」
「でもケークサレも美味しかったから夏バテも悪くなかったな」
「あれは夏季限定です」
本当は夏季限定ではなく夏バテ期間の来馬限定のようなものだが。あえて村上はそれを言わない。
「よし決めた、プレーンのスコーン以外一つずつにしてください」
「わかりました」
ショーケースから注文された商品を取り出し、包む。来馬に対しても、それ以外の客に対しても何度も何度も繰り返した作業だ。
「そういえば今週の金曜にぼくの家で堤たちと集まるんだけど、ホールケーキをお願いしたりできる?」
「できますよ。何がいいとかありますか?」
誕生日ケーキなどは取り扱っていないが、ホールで焼いて欲しいといったリクエストに関しては受け付けていた。果物やケーキの種類を指定することも、全て村上に任せることも可能だ。
「タルトがいいな。果物はおまかせで」
「承知しました」
「あとはイギリスっぽい食事を用意したら完璧」
「イギリス?」
「テーマがイギリス飲みなんだ」
来馬が言うには部屋を提供する人間が食事を用意し、招かれる側は酒を持ち寄るのがルールなのだそうだ。前回は加古の家、今回は来馬の家。次回は二宮の家に行くという。
そして食事に関してはなんでもいいらしいが、今回はイギリスっぽい飲み会がテーマらしい。
もしご迷惑でなければなんですが、と村上は一言置いてから来馬に提案する。
「スターゲージパイも焼きましょうか」
「どっちの見た目?」
「どっちにします?」
日本ではスターゲージパイよりカボチャとニシンのパイと呼んだ方が伝わりやすいかもしれない。有名なイギリス発祥のパイだ。
「どっちも盛り上がるだろうから悩むな」
「突き出しますか?映えにしときますか?」
どちらにしても話題になるに違いないが、話題の方向が違うため来馬はしばらく無言で考え込む。
「突き出してください」
「星、見上げておきます」
「ここはお菓子屋さんなのに悪いなぁ」
「いえ、皆さんの反応が楽しみですし」
パイを突き破って魚が頭を覗かせる姿は珍妙で、盛り上がること間違いなしだ。
「前も言ったかもしれませんが、皆さん仲がいいですね」
「ありがたいよね。ぼくと堤以外はみんなまだボーダーにいるから全員で集まれる機会ってなかなかないんだけど。鋼達も人数が多いし全員で集まるとなると難しそうだ」
「それは本当にそうで、全員だとなかなか……集まれるメンツで飯に行くみたいなことは多いですけどね」
それでも比較的ボーダーに残った人間が多いため、メンバーは少しずつ変わるが任務終わりのタイミングなどで飲みに行く機会は多い方だ。
「何時くらいに取りに来ます?」
「七時前くらいになると思う。細かい時間がわかれば連絡するね」
「わかりました」
村上はレジ前のメモ帳に金曜、七時前、来馬先輩、と記入した。他の客から大型の注文が入ることもあったため、来馬への対応は特別贔屓にしているわけでない。ただ、焼き菓子ではない魚のパイを焼くのは初めてだ。店では焼かない方がいいかもしれない、と少し悩む。
「そういえば、タルトタタンは今年も焼く予定はある?」
「タルトタタンですか?そうですね……タイミングが合えば出す予定です」
タルトタタンは普通の焼き菓子より大量にリンゴを消費する。作るのに時間もかかる。リンゴの仕入れがうまくいき、村上に時間があるタイミングでなければ作ることができない。そのため、一年で何度も作ることはなかった。
「去年食べてとても美味しかったから今年も狙いたいなと思って」
「光栄です。出す日はちゃんとSANで告知しますね」
特別なメニューを逃さず食べたい、と言ってもらえるなら他の客への配慮も含めてレモンケーキもレモンケーキ(青)と記載すべきかもしれない、と村上は思った。
「その日は何としてでも早めに行かないと」
「取り置きしますので仕事が終わってから来てください」
実際タルトタタンは出せる数も少なく人気で、場合によっては数時間で売れてしまうこともある。去年来馬がタルトタタンを買うことができたのはその日たまたま仕事が空いて昼過ぎに顔を出したからだった。
「ありがとう。こういった特別扱い本当は断るべきなんだと思うんだけど……」
「お得意様ですから」
「前にも聞いた気がする」
来馬先輩だからですよ、と言えたなら良かったが、それを言える間柄ではない。
「アイスでも付けますか?」
「ぼくが買ってきたら乗せてくれるやつだ」
「ディッシャー、結局一回しか使ってないですから」
閉店のタイミングで来馬が来た日、次の日お互いがオフの日に限りそのまま二階に上がり村上の部屋で飲むことがあった。条件的に今まで数えるほどしかなかったが、来馬は律儀にバニラアイスを用意して店に来た。村上はその律儀さに笑って用意してあったディッシャーを使い温めたケーキの上にアイスを乗せて提供したことを覚えている。
「タルトタタンにアイスを乗せたら絶対美味しいね」
「それは間違いないです」
「ケーキに合うお酒も用意できたらいいなあ」
蕎麦屋に行こう、タルトタタンを一緒に食べよう。未来の話を来馬は惜しむことなく口にした。その全てを楽しそうだと感じ、その全てを叶えられたらいいなと村上は思っている。
「ケーキに合う酒って例えばどんな酒ですか?」
村上の問いにそうだね、と酒の名前を挙げていく来馬を目に焼き付けるように見つめた。
昔も今も村上は来馬が喜ぶ姿を見るのが何にも変え難いほど好きだ。例えば、実現しない未来の話も素知らぬ顔でできるほど。
「お酒といえば最近大学の同級生が次々に結婚しててさ。飲む頻度が上がったかも知れない」
「俺は親戚の式以外行ったことがないのであまりぴんときませんね」
「あと二、三年したらラッシュだよ。式によって全然違うけど、どれも幸せそうで素敵だったな」
仕事の折り合いがつかなくて何件かは欠席してしまったのが残念だ、と来馬は言う。
村上は結婚式をよく知らないが、何度も呼ばれるということは来馬がそれだけ人から愛され必要とされているということなのだろう。大切な友人の式ということで、金銭的負担について惜しむ様子もないのができた人だと思う。
「そういえば鋼は好きな人とかできた?」
その問いは客と店員、先輩と後輩、親しい間柄であれば何もおかしいことはない自然な会話の流れだろう。しかし、そこに被質問者から質問者への恋愛感情がなければの話だ。
「好きな人、ですか……」
村上は高校の卒業式の日に来馬へ思いを告げた。ずっと好きでした。先輩じゃないとダメなんですと、今思い返しても恥ずかしくなるほど素直な気持ちをそのまま来馬へ伝えたはずだ。それなのに来馬の中ではたった数年でその告白は無かったことになっているらしい。村上は頬から血の気が引いて冷たくなっていくさまをどこか他人事のように感じていた。
「まあ、そうですね」
自身の中にあるずっと言えずにいた感情を衝動的に目の前の来馬へぶつけたくなったが、なんとか自制して来馬を傷つけてしまわないように、その中でどうにか自分の気持ちを来馬に理解してもらえないだろうかと深く静かに息をした。
涙を堪えるために握り込んだてのひらの中に来馬の購入した商品の入った紙袋があり、音を立てて潰れる。
中身は無事でありますように。こんな時にまでそう思ってしまう自分が少しだけ滑稽で、染みついた作り手としての無意識が少しだけ誇らしくもあった。
8.『 』
「言うつもりはなかったんですが」
息を吸った唇がわなないて、それを抑えるように一度強く噛み締めてから村上は言う。
「俺は今でも来馬先輩が好きです。昔のことなので記憶にないかもしれませんが、卒業式で俺が好きなのは先輩だけだって言いました」
覚えている。来馬はあの桜舞う季節の出来事を驚くほど鮮明に記憶していた。
「俺は、それを違えたことは一瞬もないです」
来馬は何と答えればいいのかわからず、頷くこともできず、無言で村上の言葉を受け止める。村上の叫びのような苦しみに喘ぐ声が辛い。できるなら今すぐ震えるその拳を解いて手を握ってやりたい。涙を零さないようにと力んだ目元を撫でてやりたい。
だが、今の来馬ではその役目を担うことはできない。
「来馬先輩のことを好きなのはおれの勝手だって分かってます。告白したことだって忘れてもらった方がきっと先輩は気が楽になるって分かってます。でも、それでも貴方には好きな人はできたか、なんて聞いてほしくなかった」
来馬に嫌いな相手はいないが、特別大切な人間はもちろん存在している。その特別な人からの好意であれば、嬉しくないわけがない。
それなのに、来馬はたった一言で村上の今も過去も否定してしまった。
「イチゴのクラフティも、ケークサレもレモンケーキも、来馬先輩が美味しいって言ってくれたらいいなと思って焼きました。タルトタタンもそうです。この街の人達のことはボーダー隊員として勿論大切に思ってます。でもそれ以上に俺は来馬先輩が大切にしているこの街と人々を守りたいんです」
分かりますか?と村上は黙ったままの来馬へ返事を求める。
村上の言っている言葉の意味は理解できる。そこに含まれる感情もわかる。しかしその膨大な熱量を持った感情を向けられているのが自身であるという事実だけが、来馬の中で上手く結びつかなかない。そんな中で何を言っても村上のことを傷付けてしまうのは間違いなかった。
「安易におまえの気持ちをわかるとは言えない。だけどぼくをとても……大切に思ってくれているんだよね?」
「ええ。……でも先輩からの返事は大丈夫です。これは俺の問題なので」
来馬に発言の隙を与えないように村上は言葉を重ねる。村上が来馬の言葉を意図して遮るなんて、今まで一度だってなかったのに。
「一方的に話をしてすみません。来馬先輩は何も気にしないでください。忘れてもらっても、構いませんので」
村上はカウンターから新しい袋を取り出して中身を入れ替える。それから皺のない綺麗な紙袋を来馬へ手渡した。一連の動作はいつもと同じで、本当に何もなかったことにしたいのだと来馬に伝えるには充分だった。
「まって、鋼、ぼくは忘れたいとか思ってない」
「大丈夫です。数年経てばきっと忘れます。その頃には俺も大丈夫になってます」
ありがとうございました。と事務的な挨拶を告げられ、来馬はそれ以上食い下がることができなかった。また来るから、と言い残し重い扉を押して店を出た後、飛び込んできた青空が目に沁みた。
「そんなの分からないよ」
太刀川と加古と約束していた飲み会で、来馬は浴びるように酒を飲み管を巻いていた。それを三人は面白そうに見ている。
かねてより約束していた来馬の自宅での飲み会。流石に予約していたケーキは無かったことになるだろうと予想していたが、村上からは至って事務的な文面でケーキとパイを用意したという連絡が来た。少しでも話ができればと思い仕事終わりに店に寄ったが、金曜の仕事終わりというタイミングが悪かったのか店内が混み合っていて、とても話せるような状況では無かった。さらに予約して先に支払いを済ませてしまっていたせいで、来馬への対応は用意された袋を受け取る一瞬しかなかったのも痛手だった。
来馬が事あるごとに村上のケーキは美味しいのだと話していたこともあり、スターゲージパイに関しては太刀川が若干怯んだものの楽しく美味しく飲み会は進行した。しかしデザートの洋梨と紅茶の焼きタルトを食べている途中で来馬はとうとう机に頭を伏せた。
「やけに飛ばすと思ったら。どうかしたの来馬くん」
シードルの瓶を片手に加古は珍しいわね、と来馬の隣に座り直す。
「だって、だって今までそんなこと一度だって無かった……みんな最初はぼくだけなんだって言ってくれたとしてもその後すぐに本当に特別な人と出会ってしまうじゃないか」
具体的に何があったのかを言わずとも、付き合いの長い三人はおおよその流れを察したらしい。食べた後の食器を片付けていたはずの堤もいつのまにか向かいに座っている。
「誰に告白されても全部断ってたくせにそんなこと考えながらフってたんだ?」
来馬って思ったより疲れそうなこと考えるんだなと太刀川はビールを煽る。
「太刀川からみたぼくは何も考えてないようにみえてる?」
「考えてないんじゃなくて、もっと健康的な感じなのかと思った」
「……自己肯定感が低いとか卑屈とかそう言うんじゃないからね」
複数人の同い年の友人に自身の取り留めのない感情をぶちまけている時点で信憑性はないかもしれないが、来馬は自己肯定感がそれなりに高く、おおらかで感情も揺らぎのないようにコントロールが出来てきてきる。しかしその揺らぎのないあり方のせいで村上を傷付けてしまった事実に来馬は上手く整理がつけられないでいた。
「事実としてぼくは比較的人当たりがよくて、対人関係に悩んでいる人とも上手く話せたりする。そして相手はぼくに救われたって思うらしいんだ。これは相手から言われたことだから主観的発言じゃないと思う」
救おうと意図してのものではないが、来馬がそうあるべきと思って行動した結果、あなたのおかげで救われたのだと感謝されることは珍しいことではなかった。
「それで相手に盲目的に来馬くんしかいないって思わせた結果告白されるのよね」
「ぼくが意図的にやってるみたいな言い方をするね加古さん」
「違うわよ。来馬くんは誰にでも全員に平等に優しいじゃない」
そういうあなたを見て素敵だなって思うわよ、と加古は言うが来馬としては褒められた気がしない。
「でも来馬が年下キラーなのは間違いないんだろ?」
「高校の頃の話?それは否定できないわね」
太刀川と加古は来馬の高校時代の話で盛り上がる。根も歯もない噂であればいいが、当時クラスメイトだった加古の話は全て事実だ。
「年下キラーがどうかは知らないけどさ、来馬は村上からの告白を他の奴らと同じようにフッたのか?」
「堤ももしかしてぼくに冷たい……?というか鋼だって言ってないよね?」
加古も堤も、発言にどこか棘があるように感じるのは来馬が傷心しているからだろうか。ちなみに太刀川はいつも通りだ。
「俺らが知らない相手ならここでぶちまけたりしないだろ。そうなったら村上しか出てこない」
堤の発言は確かにその通りで来馬は反論ができない。例えば相手が村上ではなく誰も知らない相手なら、今日この場でやけ酒などはしなかった。
「他の人と同じようにって……もちろん鋼の告白が嫌だったわけじゃないよ。でもきっと鋼が大学へ行って大人になって社会人になったら人間関係ももっと広がって、きっとぼくしかいないなんてそんなの気の所為だったって気がつくと思ったんだ」
来馬を慕ってくれる人間を、来馬は歓迎する。好意には好意で応えたい。しかし全ての人に対して同じ熱量で応える来馬に対し、人は特別を欲する。結果、来馬を唯一だと言った彼や彼女は少し経てば新しい誰かと出会い、その誰かに特別は変わっていった。
来馬でなければならないと言った人が、事実そうであったことは一度もない。
「だから村上もその他大勢と同じだろうって判断したのか?」
「鋼には申し訳ないことをしたと思うよ」
村上からは揺れる空気の一瞬すら来馬のことが好きなのだと伝わってきていた。その一途さを村上に言葉にされるまで気が付かなかった自分を呪ったくらいだ。
「村上に対して申し訳なく思っても意味ないだろ」
とっくにケーキを食べ終えていた太刀川は冷蔵庫を開け、二つ目のピースをサラに取り出しながら口を挟む。
「村上から告白された、それに対してお前がどうしたいかってだけだろ」
「ぼくもそれを悩んでるんだよ」
好意は全てありがたく受け取ってきた。ただそれを自分が受け止めて相手に同じ感情で返したことがない。
来馬が気まずい空気の中エールを煽っていると、インターフォンが鳴った。急な用事があるといって後から参加になった二宮だ。
「遅くなった」
「いらっしゃい二宮くん」
「お前の家じゃねぇだろ」
「あなたの家でもないじゃない。食事は?デザートもあるわよ食べる?」
テーブルで深酒をしている来馬の代わりに加古が二宮から酒を預かりリビングまで運んだ。腹は減っていると答えた二宮には堤が温めたスターゲージパイとフィッシュ&チップスを出す。魚の頭が勢いよく突き出したパイと二宮が無言で見つめ合うのを他所に、二宮が持参した酒を太刀川が勝手に開封していた。
ホストが機能しないことを察した面々が自由に、適当に寛いでいる様子を来馬は悪いなぁと思いながら眺める。
パイを見た堤や太刀川、今現在無言でパイと対面している二宮の反応を村上に話して聞かせたい。パイもケーキも美味しかったと伝えたい。何より無神経な発言を謝りたい。それが偽りない来馬の本音だ。だが、村上の感情にどう答えればいいのかが来馬にはわからなかった。
「あら、二宮くんはジンにしたのね」
「加古ちゃんがシードル、俺がウイスキーで太刀川がビールだからいいチョイスだよ」
「俺ジンの飲み方知らないんだけど」
来馬の家って炭酸作れたよな?と堤が聞いてきたので来馬は自由に使ってと炭酸水メーカーの方を指差した。
「二宮は急な任務とかだった?無理して来てたらごめんね」
「来馬お前飲み過ぎだ。急も何も、長期の遠征が決まったからその引き継ぎだ」
「二宮選ばれたの?すごいね。いつから?」
ライムジュースが有ればギムレットだったなと堤はキッチンで太刀川と並んでジンソーダを作っている。全員で集まって酒を飲むのもしばらく出来なくなるなと来馬が寂しく思っていると、二宮は怪訝そうに眉を顰めた。
「村上から何も聞いてないのか?」
「鋼?」
「来馬くん知らなかったの?来週の頭には出ちゃうって」
「まって、どういうこと?」
二宮は村上から聞いていないのかと言った。
来週の頭には遠征に出てしまうらしい。
それは誰の話をしているというのだろう。
「村上も俺も遠征に行く。しばらくは帰ってこられないし、戻って来てもまたすぐ出る」
「俺も行くー」
太刀川は手を上げるが二宮はそれを無視した。
「……初耳なんだけど」
「多分俺たち全員来馬は村上から聞いてると思ってたぜ」
太刀川の発言に皆は頷く。堤はとっくに諏訪から聞かされていたらしい。
遠征自体は前々から計画されていて、タイミングだけが急遽決められたそうだ。だから、二宮は今日の飲み会に遅れて来た。
「村上はあえて言わずに出ていくつもりだったのかもな。今回特に家族友人には遠征に出ることは口止めされてなかったし」
「なんで」
「なんでってそりゃずっと片想いし続けるのは辛いからだろ」
太刀川の悪意も遠慮もない言葉は、キャパを超えてアルコールを摂取していた来馬には大きな衝撃となった。
それ以降の記憶がないまま朝来馬が目を覚ますと、部屋は綺麗に整頓された状態で、リビングのソファに太刀川一人だけが眠っていた。
「太刀川は遠征に行っちゃうんだ」
「……行く」
太刀川は寝ぼけた様子で来馬体調は?と呟く。それに対して大丈夫だよ、と答えた。
「ぼくはひどい奴だね」
「それは違う。ただ村上が来馬じゃなきゃダメだった、それだけの話だろ」
「鋼はちょっとぼくのこと過信しすぎてたんだ。今回のことで失望されたと思う」
今思えば、金曜の夜とはいえ店内の混雑は普通ではなかった。おそらくSNSか何かで店を閉じるような内容の告知をして、それを見た人々が店にやって来ていたのだろう。
「村上がどう思っているか、来馬がどうしたいか。それだけだろ。考えすぎんなよ」
「昨日も言ってたよね、それ」
「加古も言ってたじゃん。お前、なんで村上には優しくできなかったわけ?って」
来馬は酒で曖昧な記憶を辿る。
「数年前とはいえ告白して来た相手に住む家を紹介したり店に通ったり、来馬はそんなこと普段しないはずってさ」
確か、加古はこう言った。
『今までずっと告白を断った後は相手と上手く距離を取っていたのに、村上くんにはそんな配慮をしてあげなかったのね』
「どうしてお前は村上にだけは優しくできなかったの?」
太刀川が昨夜の加古の言葉をなぞる。
昨日答えられなかったその問いかけ。
「ぼくは鋼と一緒にいられなくなるのが嫌だったから……」
いつか夢から覚めるようにしてなくなってしまうような“特別“で終わらせてしまいたくないと、無意識に思ってしまうほど来馬はずっと村上のそばにいたいと思っていたらしい。