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    こにし

    @yawarakahonpo

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    POIPOI 26

    こにし

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    オーエンと抱擁にまつわる4つのお話です。オーカイです。
    全てが捏造です。栄光の街に架空の祭りがあります。オーエンとカナリアさんが喋ります。以上のことに留意してお読み下さい。
    オーエンお誕生日おめでとう。

    抱擁
     抱擁祭。人々が積極的に親愛を伝えるため抱擁を交わす、栄光の街の伝統的な祭り。元来は感謝や愛を口にする日として根付いていたものが、百五十年程の年月の中で言葉と共に握手を用いるようになり、それから抱擁へと形を変え、いつしか祭りとして街全体が盛り上がるようになった。家族や友人、パートナー、恋人……あるいは、その日出会ったばかりの者同士で抱き合うことも珍しくはない。この町の人間は肉体的なコミュニケーションを好む者が多かった。
     かたく絡まって身を寄せ合う人々の様子を、オーエンは、川沿いで賑わうレストランの屋根の上に腰掛けてじっと観察していた。魔法で気配を殺しているため彼の存在に気がつく人間は居ない。
    そのために、地上がまるで屋根の上とは違う別世界であるかのように感じられた。そう考えるとちいさなセットの上から人形劇を覗き込んでいるような滑稽な気分になるのだった。風に運ばれてくる水のにおいやそこかしこから流れるゆったりとした弦楽器の演奏が、地上の光景を現実のものとしてオーエンの瞳に映していた。
     情愛の仕草。慈しみの言葉。睦み合う、やわらかい笑顔。どうしてこの人たちは、そんなふうに愛を呼応し合うのか、分からなかったし分かろうとするつもりもなかった。実にくだらない催しである事をその目で確認し、嘲ってやる気だった。だけれども、眼下でひしめき合うそうした交流の数々を、オーエンは想定していたものとは別な心持ちで眺めていた。橙色の冷(つべた)い瓦に手のひらをつき、長い脚を幼い子どものするように伸ばして寛げると、風が裾からあらわれた足首の皮膚を撫でてゆく。
     軽くハグをしてすぐに体を離す者達や、ぴったりと身を寄せ合ったまま動かない者達、背中を撫でる者達、そのままキスをする者達、等々、姿形は様々であった。オーエンは抱擁をしたことも、されたこともないために、それらが体にもたらす感覚を知らなかった。目を瞑り、両の腕で抱擁のかたちを真似てそうっと虚空をいだく。そのまま、そこにあるなにかを象るように撫で下ろす。しばらく繰り返したのち、瞼を開くと、そこにはただ真白い手のひらが現れるだけであった。小鳥がやってきて、右肩に留まった。なにをしていたのと囀るので、馬鹿な人間の真似事、と答えて指先で頬を撫でてやった。オーエンは、なんだか、むしょうに地上の彼らをめちゃくちゃにしてやりたいような気持ちに駆られ、けれどもそれではまるで自分が一種の虚しさを覚え苛立って起こしたような感じがするために、彼の自尊心はそれを許さなかった。結局、伸ばしていた脚を組んで忌々しげに頬杖をつくのだった。
    「あ」
     地上が華やぐ気配があり、オーエンは再び目を向けた。するとそこには、見知った男の立ち姿があった。カインである。煉瓦色の髪をはためかせ、朗らかな笑みと芯の通った声で人々と談笑している。彼もやはり、例の祭りに倣って多くの人間と抱擁を交わしていた。自然に手を回して背中を自身の体へ引き寄せる。指先が肉体に触れた途端、ほっと安心したような表情を見せたことに気付いているのはオーエンだけであった。彼の抱擁は力強く、好意が相手に伝わるような、寂しさを互いに埋め合おうとするような、そのような仕方であった。そうして何人もの人々とカインは丁寧に抱き合った。その度ごとに、彼の視界には人が増えてゆくことだろうとオーエンは想像した。
    「可哀想な騎士様」
     そう吐き捨てると、彼がこちらを振り返ろうとする気配を感じたので、オーエンは煙になってその場から消え去った。突然止まり木を失くした小鳥が驚いてチチチと鳴きながら飛び去ってゆく。
     カインはがらんとした屋根を不思議そうな顔で見上げた。そこにはただ風が吹いているだけであった。それから直ぐに後ろから肩をトンと小突かれてハグを求められたので、彼は穏やかに応じた。抱擁をカインは好んでいた。肌で感じる血と肉のぬくもりはいつでもカインの心を安堵させた。毎日が抱擁祭なら、理由を介さずともこうして自然なままのふれあいでみんなを見つけることができるのに、と思った。体を離すと、目の前には親しげな笑顔を向ける友人の姿があった。



     雪が白いのは、光に照らされるから。光が射すのは、太陽があるから。太陽を失ったそこは、ただ果てのない暗闇が広がるばかりであった。
     北の国は、人の手の行き届いていない場所が大部分であった。そこには人工的な灯りはおろか焚き火のひとつすらあるはずはなく、魔法使いですら、一晩を明かすことは並大抵のことではない。迷い込んだまま出ることができずに石になる者が大勢いた。オーエンは、なのでそういった場所を好んだ。弱い魔法使いのものばかりではあるものの、歩けば転がったマナ石がつま先にぶつかることがあった。そこで死を遂げた者の最期を想像しながらそれらを口に運ぶことは、彼にとって実に甘美な遊戯であった。
     猛烈に吹雪く氷の粒も無限の暗闇も、オーエンにとってはなにひとつ取るに足らない障害に過ぎなかった。二本の足で堂々と雪の大地を踏み締め、ばさばさと外套をはためかせながら闊歩する。彼の進路を妨げるものは現れない。精霊や、自然そのものが、そこでは皆等しくオーエンを恐れていた。
     オーエンは立ち止まって指笛を鳴らした。甲高く刺すような音色が吹雪や木々の間を通り抜けてこだまする。しばらくすると、上ずった唸り混じりの吐息と荒々しい足音が微かに聞こえ、それらは指笛の主の方へと近づいていった。やがて、それは枯れ木の間からひょっこりと姿を現した。一匹のオオカミであった。
     暗闇の中で彼の瞳がわずかに光るのを、オーエンは確認した。彼はオーエンの指示を待っていた。オーエンがおいでと囁くと許しを得たことを理解したオオカミは大きな肢体をのそのそと歩ませた。彼は甘えるようにオーエンの膝へ鼻を擦り寄せ、寂しげに喉を鳴らした。
     オーエンはこのオオカミのことを彼がまだ赤子だった頃から知っていた。その時には母親も兄弟も居て、片時も離れずに行動を共にしていた。けれども、ある日母親は魔法使いによっていたずらに殺害され、兄弟はすべて魔物に襲われて死んでしまった。辺りで暮らす動物たちにとっては珍しいことではなかった。動物も人間も魔法使いも、等しく力の弱いものから死んでゆく。それはどこで産まれついたとしても同じことで、命を奪い去る手段がこの国にはありふれているというだけの話に過ぎなかった。彼の母親を殺した魔法使いも数ヶ月後には別の魔法使いによって石になり、兄弟を喰らった魔物は崖から足を滑らせ、そのまま谷底へと潰えた。
     ひとり残された彼はなんとか気高く生き続けた。群れることはせず、母親から学んだ狩りによって飢えを凌ぎ続け、魔力がさほど強くない魔物になら勝てる程度に強く逞しく成長した。オーエンは賢い彼のことを気に入っており、時折気まぐれに遊んでやったり餌を与えるうちに慕われるようになったのだった。
    「可哀想なおまえ。寂しかったの?」
     オーエンは膝元に押し付けられた彼の濡れた鼻に触れ、そのまま硬い毛並みを撫でてやった。手を止めると、顔を見上げて小さな遠吠えを繰り返す。オーエンは、彼のことを本当に哀れに可哀想に思っていた。だから彼のことが好きだった。
     今晩はずっと一緒にいてあげる。オーエンの言葉に彼は歓喜した。おいでと先導すると弾むような足取りで後ろに続く。彼らが歩けば、そこは路となった。
     雪壁に穴ぼこを開き、洞穴になったそこへ入ってゆく。穴の中は、外に居るよりも世界の音がより鮮明に聞こえるものであった。オオカミが雪を払うために大きく体を振るわせると水滴が飛び散り、オーエンはこらと彼を叱りつけた。オーエン自身も帽子を脱ぎ去り、外套や靴に付着した雪を指先で払うと、奥の方で炎を焚いた。辺りは夕暮れの色に染まり、そうして、初めてオオカミの姿がくっきりと現れた。大きな筋肉質の、先が灰がかった白い毛並みの、目にはりっぱに強かな光を宿していた。彼はやはりオーエンの目をじっと見つめて言葉を待っていた。
     オーエンは壁際に腰を下ろし、傍で利口に座っている彼に手を伸ばしてこちらへ呼び寄せた。オオカミは直ぐに駆け寄り、大きな分厚い舌でオーエンの頬を舐めた。
    「おまえ、いい子でいたら、ここでは死んでしまうんだよ。悪い子にならなきゃ」とオーエンは言った。オオカミにはオーエンの言った言葉の意味が難しくて理解できないようであった。続けて、馬鹿な子も死んじゃうんだから、賢くならないとだめだよと言うとやはりそれも難しかったようで、ただ叱られたと感じたのか許しを乞うように今度はオーエンの唇を舐めた。舌べろの粘膜はあついのに、唾液が付着した部分は外気に触れてすぐに冷たくなるのだった。
     彼はたくさんのことを話した。仕留めた獲物のこと、魔法使いを追い払ったこと、別のオオカミと遊んだこと、太陽や星やオーロラのこと。オーエンは話を聞きながら、マナ石を磨いたり、靴の汚れを綺麗にしたり、焚き火の炎を波のようにうねらせたりしていた。炎のゆらめきは、彼らの影を大きくしたり小さくしたり様々にその形を変えた。彼の話が終わると、オーエンは口を開いた。
    「人間は、他の誰かの体をぎゅうとするのが好きなんだって」
     オーエンは、祭りの抱擁のことを彼に話した。愛や、感謝を伝えるために、人は体と体をぴったりくっつけてそのまま両の手で包み込んで、撫でて労ったり、キスをしたりするのだって。僕はそれをしたことがないから分からないけど、そうすると皆、幸福そうな顔をしていたよ。おまえはハグをしたことはある?
     当然、オオカミは四足歩行なので、したことがないし、それがなんであるかを知らなかった。オーエンは座っている彼の胴に腕を回し、首元に顔を寄せてぎゅうと抱き締めた。彼の毛は溶けた雪で濡れて冷たかったが、皮膚は温かかった。腕の中で彼の命のかたちを感じた。顔を埋めてにおいを嗅ぐと、土や氷や彼と彼以外のたくさんの血の匂いがした。抱擁はオオカミにぬくもりをもたらした。彼は抱き返すことができないことを惜しんで小さく喉を鳴らし続けた。
     彼らは朝になるまで一緒であった。体を丸めて眠るオオカミの腹を枕してオーエンも眠った。オーエンは眠っているあいだじゅうずっと彼の鼓動や血の循環を聴いていた。子守唄のように心地よく鼓膜を震わせ、それは世界が終わりゆくような外界の音などものともしないような力強い鳴動であった。オーエンは産まれる前のことなど覚えてはいなかったが、母の腹の中とはこんな風なのだろうかと夢想し、その日はなにかの胎の内側で猫のようにただ丸まっている夢を見た。
     朝になると、オオカミは傍らから居なくなっていた。オーエンは起き上がると、彼が洞穴の入り口でこちらを向いて座っているのを確認した。朝陽を浴びて伸びた彼の影は穴の奥まで続いていた。白い光は眩しく、オーエンは手の甲で目を擦ったり何度もまばたきを繰り返した。吹雪は止み、静かで厳かな朝であった。
     彼の元へ歩いてゆくと、小さな赤い実をずっしりとつけた枝と沢山の茶色い木の実が彼の足元に置かれていた。オオカミは誉められたがっていたので、オーエンはかえっておまえはやっぱり生きてゆくのには向いてないよと叱った。彼は昨日出会った時と同じようにしてオーエンの膝下に穴先を押し付けた。


     早朝に魔法舎に戻ったオーエンが目にしたのは、裏庭でひっそりと抱き合うカナリアとクックロビンであった。箒に乗り、はるか上空から見出したために、ふたりがオーエンの存在に気付くようすはない。光に照らされ、目を閉じ、それはなにか互いの胸のうちで共通のことについて祈りを捧げる儀式であるかのように感じられた。そうしてしばらくが経ち、やがてふたりはゆっくりと体を離すと、はにかんだまま見つめ合い、今度は照れるように笑った。一言二言ことばを交わし、時計を確認するような仕草を見せたのち、クックロビンはカナリアに手を振りながらばたばたと慌てた様子で去っていった。カナリアは彼の背中が見えなくなるまでじっと見守り続けた。それを終えるとうんと大きく伸びをし、道の端に置いていたらしいシーツのたっぷり入った籠を持ち上げる。ハミングを歌いながら踊るようなステップで歩みを進めた。オーエンは降下し、立ち塞がるように彼女の前に現れた。
    「こんなに朝早くからいいようにこき使われて、かわいそう」
    「あら、オーエンさん。おはようございます」
     カナリアは突然現れたオーエンに特に驚くようなそぶりは見せず、にこりと笑って挨拶の言葉を口にした。身長差があるため、彼女は上を向いてしっかりとオーエンに目を合わせた。そのアーモンドの瞳はあまりにも純粋で健やかな輝きに満ちていたので、オーエンは曇らせてみたい気持ちになるのだった。
    「魔法使いは呑気に眠っているのに、きみはまだ陽の高くないうちから起きて忙しなく働くなんて、理不尽だとは思わない?」
     オーエンはカナリアに歩み寄り、籠の一番上に被さったシーツを指先で摘み上げた。シーツは汚れてはおらず、白く柔らかであった。
    「本当は魔法でいつだって綺麗にできるのに、面倒だから人間のきみにそうやって押し付けているんだよ。さっきの男だってそうさ。魔法舎と中央の城の伝書鳩みたく使われて、哀れったらありゃしない」
     オーエンが口早に告げる言葉を、カナリアは口を開けたままぽかんとした顔で聞いていた。それからかあっと顔を赤くして、狼狽した様子で「まあ、まあ、見ていらしたんですか!」と言った。それは想定から外れた反応であったため、オーエンは眉間に皺を寄せた。
    「は?」
    「あの、さっき……」
    「さっきって」
    「いやだ、恥ずかしいですわ。やっぱり外でするものではないですね」
     彼女の言葉に、さっきとはおおむねあの抱擁を指すものであろうことを察し、オーエンは首を傾げた。栄光の街では皆、堂々と抱き合っていたのに、どうして彼女がこんなにも動揺を見せるのかが分からなかった。カナリアは再びよいしょと籠を置き、熱を冷ますようにぱたぱたと手で顔を仰いだ。風が吹き、彼女の金糸の髪やバンダナや膨らんだスカートを揺らした。
    「あんな行為、何の効力もないのに。弱いやつらほど寄り添ったりなんかして大丈夫であろうとする。あの男、いまごろ馬車に轢かれたり魔物に襲われて死んでいるかも。そうなった時、本当にさっきみたいなことに意味があったと思える?」
     オーエンは火照ったままのカナリアの顔を覗き込んだ。抱擁について考えると胸がざわざわした。弱い人間同士が互いに縋り合っている姿ほどオーエンの心を苛立たせるものはないのだった。彼女の口から、一言でも失意や悲しみの言葉を引き出せればそれで今は気が済むような気がしていた。
     カナリアは、クックロビンの去って行った方角を振り返った。眉を下げ、少し不安げな色を見せた瞳が揺れる。オーエンは期待した。けれども、彼女がオーエンに向き直った時には、また強い光を宿していた。カナリアは首を横に振って口を開いた。
    「そうならないように、ああして祈っているんですよ。どうか危険な目に遭いませんよう、病気をしませんよう、素敵な一日を過ごせますようにって。確かに、それは他の人にとっては意味のない行為かもしれませんけど、互いの身を預けあった本人たちにとっては神聖な、かけがえのない時間なんです」
     うちの旦那はほら、特にそそっかしいですから。そう付け足してカナリアはウインクをした。オーエンは、なにか言葉を発しようとしたものの、結局どれも音にならないまま胸の中で消えていった。オーエンには祈りとか、神聖だとかそうした意義を伴う行動のことが理解できなかったが、彼女らが本当に深く心の内で同じように清らかに愛し合っているということだけは自明であるように思われた。
    「それから、私は好きでそうしているので、ちっともここでのお仕事を理不尽だとは思っていませんよ。皆さんにはおひさまの匂いがするお布団で眠って欲しいんです。けれど、お気遣い頂いてありがとうございます」
     カナリアはそう言って慇懃にお辞儀をすると、再び籠を持ち上げた。それはあくまでもオーエンを咎めるような物言いでも、嫌味や皮肉なんかでもなく、彼女が思っていることのありのままであった。それから、オーエンの姿をまっすぐと見てまあ、と声を上げた。
    「裾、汚れていますよ。一緒に洗っちゃいますので、よかったらそのコートも乗せていってください」



    「戻っていたのか」
     冷たい雑草の上にごろりと身を投げ、まばらな雲がゆっくりと流されてゆく空模様をぼんやりと眺めていると、突然上からひょこりと顔を見せた人物に、オーエンは眉を顰めた。
    「昨晩は居なかっただろう」と言って、カインはオーエンの隣に腰を下ろした。
    「どこに居ようと僕の勝手だろ」
    「そういうわけにはいかない。共同生活なんだから」
     言葉と共に再び上から覗き込まれ、オーエンの首から上はすっぽりカインの影に覆われた。その拍子に、揺れた髪の隙間から彼のものでない方の瞳がちらりと光る。それは柘榴色をしているはずであったが、こうして暗い影から見たものは灰がかってあまり色が分からなくなるものであった。オーエンは物理的に、上から話しかけられていることを不愉快に思ったのでカインの胸元を押し退けて起き上がった。
    「お説教でもしにきたわけ」
    「それは違う。走っていたら、おまえの姿が見えたから」
     カインはそう言って額の汗を手の甲で拭った。見えたから、何なのだとオーエンは思った。彼がどうして自分の姿を見出したからと言ってのこのここちらへやってくるのかオーエンには理解できなかった。
     カインは黒色のランニングシャツにハーフパンツという格好であった。むき出しになった右腕には百合の紋章がありありと刻まれている。オーエンは、こうしてカインの肉体を見るのは初めてであることに気が付いた。肌は朝陽の下で健康的な色をしていた。硬そうなまるい肩から指先にかけてはしっかりと筋肉の陰影がついており、太い緑色の血管が浮き出ていて、所々に鍛錬や任務で手負ったのであろう切り傷や火傷の跡が残っている。それは立派に騎士の肉体であった。
    「栄光の街に来てただろう」
     カインはシャツの胸元をぱたぱたと仰がせながらオーエンを見遣った。首元にはうっすらと汗が光っている。
    「だったら何?」
    「ほとんど人が見えない状態だと、やっぱりおまえは俺の視界で目立つんだなって」
     それに屋根は橙色で、おまえはこの通り白いからさ。とカインは言った。オーエンはスーツの襟を摘み、俯いて己の格好を確認して、それからむっとし顔でカインを見たので、彼は首を傾げた。気配を消していたんだよ、という言葉が喉元でつっかえた。オーエンは代わりの言葉を探した。
    「あんなくだらない祭りに参加するなんて、おまえは本当に弱っちい」
     地面についた手を握るとぶちぶちと雑草が抜け、オーエンはそれをカインの方へ投げ去った。握った拍子に爪の間に砂利が入り込み、指先に不快感をもたらした。カインは少々驚いた顔を見せたものの、すぐにやわらかい色をたたえてオーエンに目を合わせた。
    「くだらなくないさ。そんなこと言うなよ」
    「くだらないよ。あんなのはこの世になんの影響力を持たない弱くて無価値なやつらがそれを認めたくないがために他人の優しさとかぬくもりだとかそういいものを必死で拠り所にしようとしているだけだ」
     オーエンは一息にそう口にしながら、栄光の街での光景と先程のクックロビン夫妻の抱擁を頭に思い浮かべた。隣合う頬、絡まる髪の毛の先、眠るように閉じられたまぶた、背中をぎゅっと握る手、本来はひとつのであったかのようにぴったりと相手の腕に収まる互いの体。離れる時はいつでも、指先が惜しむように滑ってゆく……命のかたちを確認する行為。
    「影響力を持たない人なんて居ない。人は影響し合って生きるものだ」
    「おめでたい奴」
    「それに、優しさやぬくもりを拠り所にしたっていいだろう。俺だってずっとそういう風に生きてきてる。けれど自分のことを弱いなんて風には思わない」
     カインはそう言って、オーエンの土の汚れた手指を掴んだ。オーエンは突然の温度に驚き、退けようとしたものの、握る力が強いためにそれは叶わなかった。オーエンは恨みがましくカインを睨みつけた。それでも彼は怯まなかった。
    「見えなくなってからは一層、人恋しくなっちまったからさ。一人で生きてゆくのは本当に恐ろしいことだと痛感したよ」
     オーエンはぎゅうと力が強くなるカインの手の内で血豆の潰れてまた作るのが繰り返されて硬くなった皮膚の感触や彼の従来の陽光のような熱を持った体温を感じ、それが指先からじわりじわりと全身に侵食してゆくような心地がして恐ろしかった。懸命に彼を愚弄できる言葉を探した。
    「ははっ、おまえ、寂しいの? なら僕が抱き締めてやろうか」
     オーエンはにやにやと知りうる限りで彼のいちばん嫌がる笑みを浮かべ、握られた手を引いて前方にバランスを崩したカインに躙り寄った。額がぶつかる。カインの息遣いを肌で感じた。誠実な、落ち着いた呼吸……
    「うん、じゃあ、ほら」
    「は?」
    「抱き締めてくれるんだろう」
     カインの握っていた手が離れ、彼はそれから両手を少し開いて抱き締められるのを待つような姿勢をとった。オーエンは、これ以上なく目を丸くして口をあんぐりと開いた。カインは初めて見せるそのオーエンの表情がおかしかったのか笑いを堪えるように口許を緩めた。
     オーエンは一方で、カインの放った言葉を理解できずにいた。こんなのは想定外であった。オーエンの見立てでは、抱擁を拒絶したカインをおまえは所詮抱き締められる者を選ぶ実に冷血で差別的な人間なのだと詰って罵って深く傷付けるはずであった。そして己の心の矛盾に苦しむ彼を否応なしにとびきり優しく抱き締めて、偽善者の騎士様、と囁いて消えてやるのだ。そのはずだった。そうでなければ、だのに。
     呼吸を乱すオーエンと規則正しさを保ったままのカインは対照的であった。けれども朝陽は等しく彼らを天井から照らした。オーエンは俯いてゆっくりと、首を横に振った。
    「なら、俺が抱き締めても?」
    「おまえ、何を言ってるの」
    「何って、ハグをしてもいいかって」
    「どうしてそんなこと聞くの」
    「おまえが嫌なら、無理にはしたくないよ」
     オーエンは優しく言い聞かせるようなその声に耳を塞ぎたかった。顔を上げてカインの目を見るのが怖かった。そうすると我を失って思ってもいないようなことや真意と反対のことを口走ってしまうような気がしてならなかった。本当はそのように思ってなどいないのだということを心の中だけには留めておかなければならないのだった。
     地面についた手を眺めた。砂利で汚れた指先。彼のぬくもりが余韻する手のひら。それは草花や土の自然のもつ冷たさによって再び温度を失っていった。己の身ひとつの体温が徐々に取り戻されてゆく。本来の、あるべき姿へと戻ってゆく。
     オーエンが最後に見たのは影と影が重なって緑が色を濃くする光景であった。遅れて身体が何かに包まれる感覚が訪れ、全身の毛穴が粟立つ。陽の光よりもずっとやわらかくてあたたかな何か。背中を掴む大きな手のひら。汗と血潮の匂い。
    「……嘘つき……いいって言ってない」
    「ごめん、でもやっぱり、おまえを見ていたら俺がそうしたくなったんだ。抱擁って、そういうものだから」
    「僕のこと、見えているのに」
    「見えてるさ。だけど触れてみないと、存在は実感できないだろう」
     嫌なら攻撃してくれていい。カインはそう囁いた。彼がそんな風に言うのはそうしないことを知っている時だけであることを理解していた。オーエンは、返すべき自分らしい振る舞いの言葉を見つけあぐねたままふるえて唇を噛んだ。
     左胸が重なり合うとカインの心臓がどくりと動いているのをじかに感じた。生きている。あの時は止まりかけていたもの。目を瞑ると、あまりにも近しいために、オーエンは自身の心臓もそこにあって共に鼓動しているかのように錯覚した。二つの生命は緩やかに死へと前進している。
     背を掴む手はやわなものを壊しては仕舞わない、けれども決して離れることは許さない強さを持って皮膚に触れていた。乱れていた呼吸が整ってゆく。彼の抱擁は力強く、好意が相手に伝わるような、寂しさを互いに埋め合おうとするような、そのような仕方であった。
    「よかった。おまえ、ちゃんと暖かいんだな」
     こうして触ってみないと知らないままだった。カインが笑うと肩口で零れた息が首筋を擽った。こわばっていた筋肉が弛緩する。まどろみに包まれて、オーエンはこのまま眠ってしまいたかった。
     地についたままだった手を離し、カインの背中へ指先からそうっと這わせてゆく。はじめて触れた刹那、それはあまりにも熱を持っていたので驚いた。それから手のひらの触れる面積をゆっくりと時間をかけて大きくしていった。人の形をしたカインの魂を抱き締める。しなやかで逞しい、けれども寂しさを孕んだ、騎士の魂。
    「生きてる」
    「ああ」
    「零さないでね」
    「大丈夫だよ、これからは」
     風に吹かれてふたりの髪が絡まった。体温は溶け合ってひとつの温度へ至ろうとしている。そうして彼らは全身で互いの存在を感じた。それは言葉を紡ぐことすら惜しい、神聖な、かけがえのない時間であった。陽が昇り、彼らの祈りをいつまでもいつまでも照らし続けた。
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