オレのシリウス星人 暗い部屋にデスクライトが煌々と光り、まろい頭を照らしている。人も街も眠りつき、カリカリとスチールが紙を削る音だけが響いている。
「ケチャップ、寝るぞ」
「……うん」
返事はしたものの視線は机上から動かない。時計の針は真上をとうに過ぎてしまっているが、まだ眠る気は無いようだ。
地上に出て数年。今では、同じ家で暮らしている。『同棲』という面映い響きにも慣れ、お互いに仕事やプライベートでの付き合いでのすれ違いや喧嘩もしてきたが、今のところ特に大きな問題は起こっていない。そんな日々を過ごしているとパートナーのあらゆる顔を知ることになるのだ。そう、今まさにケチャップのその一端が顔を出している。
諦念や怠惰といったものは彼を取り巻く環境によるものであって、ケチャップはもともと好奇心旺盛で物事を突き詰める研究者としての気質がある。今回は何を追い求めているのか。ここ数ヶ月、仕事から帰ると寝食も忘れて小難しい資料とにらめっこしている。
「オメェも寝るんだよ」
『どうぞ先に寝て下さい』と言わんばかりのケチャップから取り上げたペンを、開いている本に栞がわりに挟んだ。
いつも理性的なケチャップが、今は無邪気に自分の好きなことをしている。それを邪魔しようとは思わないが、これは体力のない恋人を気遣ってのことだ。現に、ベットに寝かせるだけで手を出す気は無い…今のところ。
ようやく視線をこちら向けたケチャップは不服気な視線を向けたが、マスタードの気遣いを感じ取り、文句を言うことはなかった。集中が切れ、疲れが襲ってきたのだろう、力の入らない腕をマスタードの首に絡ませた。
「…寝る」
運んでほしいという甘やかなわがままを受け取ったマスタードは、ケチャップの腰と背中に腕を回し抱き上げた。素直でも甘えたでもない二人は、平素なら気味が悪いと言い合っているところだ。しかし、もう夜も深く、睡魔が頭を支配していた。そしてここは二人の家。建前も去勢も今は必要ないのだ。
「それは、"お誘い"ってことでイイな?」
どんどん力が抜けて重くなっていくケチャップの身体をしっかりと抱え直す。ベッドに着くまでに眠ってしまうだろう。返事は期待していないが、こんなに素直に甘えられては少しくらい軽口を叩きたくなる。とろりと落ちていく眼窩から見える真白な瞳がわずかにマスタードを捉え、そして目の前の肩に顔を埋める。
「…ちょっとだけなら」
「……チッ」
腰から背骨をはい上がってきた言いようのないものを舌打ちでごまかした。ケチャップの気まぐれでマスタードの柄にもない気遣いが簡単に無駄になる。
_____
「海に行こう」
部屋に引きこもっていたケチャップが晴れやかな顔でそう告げた。『ちょっとだけ』から数日が経ち、何かしらの研究は、一段落ついたのであろう。しっかり寝ましたと顔が物語っていた。
何を企んでやがる。
冬が明け、日中は暖かくなってきているが朝夕はまだ肌寒い季節。海水浴にはまだまだ早いはずだ。何より随分とご機嫌な笑顔が嫌に引っかかる。
「隣町のハンバーガー屋でドライブスルーできたはずだ。今から出てブランチにしよう」
海に行くのは決定事項らしい。バックパックから覗いているのはタオルやケチャップの持ち物だけでなく、マスタードの着替えもあった。とにかく準備は万端のようだ。テキパキと身支度を済ませていくケチャップの眼窩に普段は柔らかく浮かぶ月が、今はシリウスのような輝きを見せている。
必要なものはケチャップが用意しているようなので、カーゴパンツにスマホと車のキーだけを突っ込む。黒いTシャツの上で金のチェーンが太陽光を反射した。日差しが強いので、ダッシュボードに入れっぱなしにしていたサングラスをつけ、車のエンジンをかけた。荷物を積み終えたケチャップも助手席に乗り込む。
「こっちは何だ?」
バックパックの隣に置かれた黒いボストンバック。何かは分からないが、なかなか大きなものが入っているようだ。
動きを止めたケチャップが、サプライズを用意した少年のように笑う。
「ひみつ」
シリウスがまた一段と煌めいた。
「…ハァ、何でもいいけどよ」
面倒くさい事が起こる予感がするが、ゆったりしたショート丈のジーンズから見える膝も、くるぶしの上でクシュクシュさせている靴下も、張り切っている表情と相まって妙にかわ……庇護欲を誘うので、ため息ひとつで諦めることにした。
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季節外れの海は、遮るものはなく視界を青で占領した。日差しは暖かいが潮風が涼しい。車に寄りかかりながら煙草をくわえる。開放的な場所で吸う煙はいつもより旨い。
一方、ケチャップはいつになく機敏に動いている。荷物を砂浜に運び出し、キャンピングチェアを組み立てている。煙を燻らせながらケチャップに近付くと、例のボストンバックを開けているところだった。
「さっそく答え合わせか?」
ボストンバックの中の物は数が多く大きさや形もそれぞれ。そして、それらが全て新聞紙で包まれていた。
「割れ物か?」
「硬度はあるけど作りが繊細なんだ。開けるの手伝ってくれ」
マスタードは煙草を握り潰し火を消すと、ケチャップの言う通りに1つ大きめのものを手に取り新聞紙を剥いていく。
「…これは…魚の骨、か?」
「流石、よくわかったな」
マスタードが手に取ったのは、魚の脊椎にあたる部分だった。ただし、脊椎が椎間板で繋げられておらずバラバラだ。サイズは実際の魚の何倍もあり、大きなものはヒトの脊椎の太さと遜色ない。そして、尾鰭にあたる部位も精巧に作られていた。一つ一つに小さく番号が記されている事から組み立てるのだろうとは思うが、しかし。
「頭骨や肩甲骨がねぇな」
「それは自前のものを使おうと思って…よっと」
「自前って…、…?!」
『自前』という言葉に引っかかり緻密な骨から視線をあげると、目に入った光景に思考が止まった。
ケチャップが自分の右の寛骨から大腿骨をもぎ取っていたのだ。理解が追いつかず、言葉が出ない。そのかわりマスタード本能的なものが働き、無意識にケチャップの腕を掴み、その愚行を止めようと動いた。
「…っバカヤロウ!何やってんだ!!」
遅れてやってきた言葉がケチャップを怒鳴りつける。しかし、ケチャップはキョトンとした表情でマスタードを伺っていた。マスタードの言動が理解できないと言わんばかりだが、それはこちらのセリフである。マスタードはまとまらない思考のままにケチャップを視診する。痛みは無いのか顔色は普段と変わらない。しかし、笑顔の鉄仮面を常備しているような奴だ、本気で隠されては察せる気はしない。慌ててステータスを覗こうとするが、それより先にケチャップが声を発した。
「ごめんな、驚かせたみたいだ」
ケチャップは申し訳なさそうにマスタードの冷えた頬を撫ぜる。柔らかく触れるそれはマスタードをひどく安心させ、詰まった息をようやく吐き出せた。
「…ソレは大丈夫なんだな?」
「うん」
それからケチャップは、落ち着かなさそうにケチャップの足を見つめるマスタードを案じて一度足を元の場所に戻すと、丁寧に説明を始めた。
いわく『生物の生息環境に対する適応と進化』の研究実験だそうだ。
「地上の生物が非常に興味深くてな。オイラたちモンスターはそれぞれの特徴に合った環境に身を置いてきたが、地上の動植物は過酷な環境下でも子孫を残すため、長い年月をかけて少しずつ身体を環境に適応させていったんだ。そしてオイラは、身体を作り変えさえすれば、どんな環境でも生活することが可能ではないかと思い至った訳だ。」
なぜそうなるのか、そう至ったとしてなぜ実際にやろうと思うのか、というツッコミはもう無しだ。どこぞの偉人が、『天才とは1%のひらめきと99%の努力だ』と言ったが、その1%が常人には理解できないのだ。
「…ハァ…で?」
理解することを諦めて先を促しますと、ケチャップは嬉々として話し始めた。
「そこで、オイラは自分の骨格を魚の骨格に作り変えることにした」
いや、だからなぜ?なぜ自分の体でやろうとするのか。
「まず、関節を安全に取り外しできるか実験を始めた。モンスターの体のほとんどが思いと魔力、そして僅かな物質でできている。オイラたちの身体もそうだが、他のモンスターと違うのは関節を繋ぐ椎間板や靭帯に当たる部分は全て魔力で代用されているところだな。魔力のみで繋いでいるなら、魔力のコントロールで簡単に関節を外せることになる。懸念があるとすれば、外した側の骨がどうなるかということだ。魔力の根源であるソウルから切り離された部分が塵になってしまっては困るだろ?そこでオイラはまず両足の小指を使うことにした。片方の小指は空のシャーレに、もう片方は魔力を回復・巡回させる培養液を注いだシャーレにいれて一晩放置し対照実験を行うことにした。」
実験すな。
マスタードは自身の頬骨が引きつるのを感じた。苛ついてはこちらの負けだとも思うが、怒りと呆れが混在して情緒が忙しい。
ケチャップは説明しながら再び大腿骨に手をかけた。カコッと軽い音をたて容易く外れる様子は本当に痛みはない様子だが、腰椎と仙骨に手を添えたのを目の当たりにし、マスタードは思わず顔を顰める。そうだろうな、魚の骨格に下半身の骨は必要ないと理解はできるが、上半身の骨を支え、骨盤と背骨を繋ぐ役割を果たす重要なソレを躊躇なく外すとは…。正直ドン引きしている。
「この実験は望ましい結果が出た。自身のコントロールで魔力を断ったからかHPの変化なく小指は外れた。そして切り離された小指は、どちらも魔力を巡らせたまま、状態を維持した。そこからは海洋生物の資料を読み込み、コツコツと骨格づくりに取り組んだ。カルシウム、リン、マグネシウムなど実際の骨の成分を基礎に、魔力を流し込んで1つずつ骨を作った。これには骨が折れたぜ。でも自分の魔力を練り込んだことで魔力の伝導率か上がり、無事にオリジナルの身体と作った骨は繋がり、然程不自由なく動かせるようになった。そして、カエルや水鳥の水かきに着想を得て、骨組みの間に目に見えないくらい薄く魔力を張ることで水の抵抗を利用した推進力を生み出す事に成功した!」
骨盤が外れ、支えを無くした身体をキャンピングチェアに預けたケチャップは、瞳を瞬かせながら研究の成果について語っている。熱い演説をし、器用に魚骨を体に繋げるケチャップを見ながら、マスタードは様々な感情の激流をどうにかいなしていた。
事のあらましを理解することはできたが、全く納得はできない。
「…オメェがやろうとしていることは一応理解した。でもなぁ…、対照実験だぁ?!ステータスオール1のオメェがやって良いことじゃねぇんだよ!そもそも体を付け替えるっていう発想が頭イカれてんだよ!!プラモデルか!あと、急に骨外すのやめろや!バカに知識と行動力を与えると碌なことやらねぇなぁ?!つーかテメェ、言ったら怒られるってわかってたから黙ってたろ?!!」
ここまで一息である。怒られて口を尖らせたケチャップは「だって…」と言いながら上目にマスタードを見やる。そうやって幼気な瞳をすれば許されると思うなよ、と眼尻に力を入れケチャップをにらみ返した。
「アンタにはやく見せたくてはしゃいでたんだ…」
「そんなに心配させるつもりじゃなかった、ごめんな」と小さい体を更に竦ませる。…そんな風に下手に出れば許されると、思うなよ。しかし、ごめんなさいをしたガキをいたぶる趣味はない。
「それで、オレは何すりゃ良いんだ」
これ以上ケチャップが馬鹿をしないか見張る必要がある。決して許した訳では無いのだ。ケチャップがタレた目元が弧を描くのが見え、マスタードは取り繕うように大きく息をついた。
ケチャップは数十個の腰椎をテキパキと組み立てると、肩甲骨から右上腕骨を外し、そこに胸鰭を模した骨をあてがった。片腕になったケチャップを目に、ふと残りの腕とそこにつくであろう鰭はどうするつもりだ、と思い至った。まさか。
「マスタード、左腕持って」
『トイレ行くから傘持って』くらいのノリで頼んできたケチャップに、「げっ」と顔を顰める。「魔力を断てば簡単に外れるから大丈夫」と言うがそんな問題ではない。暴力や悪意に慣れているfellの住人だからといって、わざわざ恋人という立場のモンスターの腕を外したがるやつはそういない。そもそも、部分的に魔力の流れを断つなんて器用な芸当、普通はできないし、しないのだ。誰だ、バカに技術を与えたやつは。
渋々、左上腕に手を添えると、大した手応えもなく落ちてきた。なんかキモい。
ケチャップは接続した腰椎をしならせ、胸鰭をゆっくり回す。可動域や動作の確認をしているのだろう。マスタードから見ても仮の骨格は不思議なほどスムーズに動いていた。
「よし、早速行くか」
動きにに納得がいったのであろうケチャップはニパッと笑うとマスタードに向けて短い両胸鰭を伸ばす。
「あ?」
「沖まで連れて言ってくれ」
それもそうか。両手足がないから陸では自分で移動することも叶わないのだ。それに腰から下につけた魚骨格は上半身の2倍ほどある、浅瀬では鰭を動かせないのだろう。マスタードは、ケチャップの背中に腕を回し胸鰭の下付近に片手を添え、もう片腕は迷った末に下半身の中央あたりを下から救うようにして抱き上げた。
波打ち際に向かって砂浜を歩いていると、なにやらケチャップからの視線を感じる。マスタードが目をやると、困ったように瞳を右往左往させている。いや、言わんとすることは分かる。
「あー…、なんと言うか…コレははちょっと、アレだな」
「うるせぇ」
「お姫様抱っこは流石に照れるな」
「黙れっつってんだろ」
ケチャップをボディーボードに乗せ、沖まで押し進む。大きな波はなく穏やかな海だ。波乗りには向かないが、素潜りには丁度いいだろう。
「とりあえず10秒ほど潜水して浮上するよ」
「わかった。そう言えばオメェ、この骨格でどれくらい潜水したことあるんだ?」
ケチャップはマスタードの目を見てハッキリとこう言った。
「コレが初めてだよ」
自信たっぷりな表情で爆弾が落とされる。マスタードが再び思考を止めている間に「じゃあよろしく」と言って、ケチャップはサーフボードから勢いよく海へ飛び込んだ。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10…
「ハァっ?!!」
マスタードが動き出すまでたっぷり10秒。というか全然上がってこねぇじゃねぇか!!マスタードは、ボディーボードを放り直ぐ様水中に顔をつけた。すると目に入ったのが、美しく組み立てた魚の骨格をまるで池に落ちた芋虫の様に蠢くケチャップであった。それで優雅に泳いでいるつもりなのか?と言うか…
(普通に溺れてんじゃねぇかっ!!!)
全く前進する様子がなく、ゆっくり沈んでいくケチャップに面食らいながらも急いで追いかける。幸い、大きな鰭がある分体積が増え、重量の少ない骨身は沈んでいくスピードが遅いので直ぐに追いついた。今だに変な動きをするケチャップの尾鰭を掴んで引き上げると助骨の下を肩に担ぎ、海面まで全力で水をかく。
「ぶあっ!」
「ぶはっ…、ゲホゲホッゴホッ!」
ケチャップが咳込む音が聞こえたが、とりあえず浅瀬まで泳いでいく。両足が地についたところでケチャップの体を抱き上げ、顔を突き合わせる。
「テメェ!初潜水なら言っとけっ!!」
「ケホッ…んぐ…っん…ふ、フフ…」
「あ?」
「ん…ヒヒ…へへへっ…、あはははは…ッ!はーっ…、全然浮かねぇの、うひひっ!流石に失敗かぁ」
何笑ってんだコイツ、もっぺん沈めてやろうか。
想定以上に形にならなかった上、間抜けな遊泳を披露したことに笑いが止まらなくなったようだ。マスタードが人間であれば頭の血管が何本かちぎれているところだが、馬鹿笑いするケチャップを見て、気を揉んでいた自分が馬鹿らしくなってきた。
「…あー、もうボディーボードに掴まってバタ足から始めろマヌケ」
_____
水中で体を動かすという基礎から始めたケチャップは、持ち前の器用さで少しずつコツを掴んでいった。休憩を挟みながら数時間で、5メートル程潜水し水中で自由に動けるようになっていた。今は、乱反射する水面を滑り、逢魔が空を見上げている。ひれを波に揺蕩わせる姿は、それが生得のものであるかのようにごく自然で、海の一部に溶け込んでいる。潮が引き晒された岩礁の上でケチャップの様子を眺めていたマスタードは、溜息を紫煙と共に飲み込んだ。
ふとケチャップが視線を海岸に向けた。暗い眼窩に浮かぶ最も明るい恒星が確実にマスタードを捉える。緩り、眼窩が細まる。緩り緩り、口角を上げる。緩慢な動きに目を離せずにいると、音もなく、水面に浮かんでいたケチャップの上半身が海底に溶けるように沈んでいった。優美な動きで尾鰭が海面を蹴り上げた。
とぷん
1、2、3、4、5…
波が砂粒ををさらう、ささめく音が耳をつく
6、7、8、9…
影もあぶくも何も伺えない
10
「………おい…」
広大な海の中から返事が返ってくることに期待が持てず大きな声で呼びかけることができないまま、片足を踏み出そうとした。
「ッ!」
波が岩を叩くような音が聞こえたかと思えば、白く細いものが現れ、マスタードの足を引っ掛けた。
盛大な水飛沫を上げ、マスタードは海にのまれていく。緋の光が水面を刺すが、いくら夕日に照らされても中に潜れば海は青いまま。そして、逆光を浴び眼窩がさらに暗く影に覆われながらもシリウスは瞬いたまま悪戯な表情を浮かべている。
細い骨格の隙間からあざやかに光が漏れ、きゃらきゃらと笑うので、眩しくてマスタードは目をすぼめた。
ああ、もう仕方ねぇな。