封筒鶴見中尉が執務室の中央に佇み手紙に目を通している。
片手に携えられた封筒には長沢芦雪の描いた白いふわふわとした犬の絵が刷られていた。封筒の裏には、「いと」とだけ、どこか愛らしい字で差出人らしき名がしたためられている。
月島は立ち尽くした。
「おや、月島。どうかしたか?」
中尉はふと振り返ると首を傾げた。
「3点ほどご報告が。…手紙ですか?」
何気なく尋ねると
「ああすまない、私用だ」
と鶴見中尉は便箋を片手で器用に畳むと封筒に戻し胸ポケットに仕舞った。
「私用?」
短くない期間、鶴見中尉の傍で補佐をしているが執務室で私用の手紙を読んでいる所をこれまで見たことがなかった。
月島は眉を顰めた。
翌日。
「鯉登少尉殿宛に封書が届いています!」
そう言って駆け寄ってきた兵卒に少尉は振り返り、
「もしやるみ殿からか?!」
ぱぁ、と音がしそうなほど表情を輝かせて封筒を受け取った。
浮き足立った様子で机から小刀を掴むと丁寧に素早く封を切り、便箋を半分引き出したところで少尉は傍に佇んでその様子を見つめている部下の存在に気づいた。
少し怯んだ様子の鯉登少尉に月島は目を細める。
「…月島、どうかしたか?」
「いえ。」
そう言って月島は鯉登の手の封筒を見つめる。
睡蓮の絵が刷られた封筒の裏には流麗な字で「るみ」と名前が書かれていた。
「初めて聞く名前だと思っただけです。」
「初めてって…私の交友関係をさして知っているわけでもないだろう。」
少尉は眉を顰めて首を傾け言う。
否、知っている。
月島は心の中だけで囁いた。
家族構成、函館にいた頃の屋敷の使用人の名。
ただ、知識は誘拐当時のものまでだ。確かに陸軍士官学校時代の交友関係には少々疎い。
少尉はしばらく月島と手元の封筒を見比べていたが、ひとつ嘆息して、便箋を封筒に仕舞うと大事そうに胸ポケットに差し入れた。
その位置は鶴見中尉の写真を入れる大事なところだろうに。
月島の胸がまた不穏にざわめく。
「今読まなくてよいのですか」
「よい、あとで読む。私用だから。」
そう言って鯉登少尉は踵を返した。
「私用…」
一人残された部屋で月島は呟く。
(二人して一体どうしたのか)
しばらく謎の女達からの上司達への手紙は続いた。
それまで女っ気の欠片もなかった二人にいきなり繁く届く女からの手紙。不気味にすら感じていたが他人に相談してよい部類のものなのか迷い、月島は自分の胸のうちに仕舞っていた。
特に引っかかっていたのが鯉登少尉の振る舞いだった。
手紙を受け取っても淡々としている鶴見中尉はともかく、鯉登少尉の舞い上がりようといったら。なるべく抑えようと努力はしているようだったがさながら中尉から手紙が来たようなはしゃぎようだった。どんな美しい女性に微笑みかけられても微笑み返しすらしないあの少尉が。
突如現れそこまでにも少尉の心を奪っていった、一体誰なのだその女は。
それから2週間ほど経った頃。
「月島ぁ!」
弾んだ声の鯉登少尉に月島は呼び止められた。
「今夜、空いているだろう? 付き合え!」
「どこに?」
年若い上官はにんまりと笑った。
「着いてからのお楽しみだ」
そうして連れてこられた料亭の門上に掲げられた店名の看板を見上げながら、月島は顔を引き攣らせた。
どんな因果か、想像上の「るみ殿」がいかにも勤めていそうな場所だ、と以前通りすがりにふと想いを馳せたことがある店だった。
「どうしたんだ月島?」
隣で首を傾げる鯉登少尉に
「…まさか、『るみ殿』ですか?」
と月島が小声で囁くと、
「え?」
青年は目を見開いた。
「…ばれていたのか…?」
おずおずと尋ねる鯉登に月島ははぁ、とため息をついた。
「ええ。貴方はわかりやすいですから。」
「あぁ…」
片手で目元を抑えながら少尉は空を仰いだ。
「そんな、ここまできて…鶴見中尉にがられる…」
「なぜそこで中尉殿が出てくるのです。そしてなぜ私をここに?」
一介の下士官に紹介する必要もないだろうに。まさか結婚でも考えているのだろうか?
月島はじとりと目を細める。
「なぜ…?」
少尉は眉を寄せ繰り返した。
「それがわかっていないのなら…まだばれてはいないのではないか?」
「何がです。」
「まあいい、中に入れ。」
ひとつ咳払いして少尉は言った。
「『るみ殿』ももう中でお待ちだ。」
「つまりだな。」
広々とした座敷。月島の目の前に『るみ殿』こと鶴見中尉がいる。
「お前もここ数ヵ月かなりの激務だったからな。3人でささやかにお前の慰労会を執り行おうと思ったんだが、鯉登少尉と二人で打ち合わせをしようにもお前を介さないと会話が成り立たない。秘密裏に進めてお前を驚かせたいのにお前に通訳させながらお前の慰労会の打ち合わせというのもなぁ。」
「はあ。」
「それでだ。」
指を立てて中尉は言う。
「手紙で打ち合わせをすることにしたのだ。お互い苗字をかなに開いて最初の一文字を外した偽名でな。文であれば鯉登少尉も冷静にやり取りできるし、頻繁に文を交わしてもその手紙の相手が私や鯉登少尉と結びつかなければ怪しまれることなど何もないだろう?」
「最初の手紙が届いた頃から怪しんではいましたよ。」
「え?」
口を挟んだ軍曹にきょとんとして中尉は少尉と顔を見合わせた。
「お二人とも普段女性と手紙を取り交わすことなんてないではないですか。」
「おっと。」
動きを止めた中尉は誤魔化すように両手を胸の前で組んだ。
「だ、だがさっきの様子だと慰労会だとはバレていなかったのだろう?」
それならなんだと思っていたんだ? と首を傾げる少尉から月島は居心地悪そうに目を逸らした。
「…お二人共怪しい女に誑かされているのではないかと」
「…なんと。」
「そして片方だけならまだしも二人同時ということはその女達は中央からの間者ではないかと。」
「…間者。」
「『いと』さんは中尉の行きつけの小料理屋の新米の女給で中尉を無邪気に慕っており、『るみ』さんは少尉の陸軍士官学校時代の下宿の大家をしていた未亡人で、最近こちらの料亭で働き出した…という設定で近づいてきたのでは…とか…」
自分で言いながら段々いたたまれなくなってきて月島の声が段々尻すぼみになる。
「月島軍曹…意外と想像力が豊かだな…」
目を丸くしながら鯉登少尉が呟くと面白がっていそうな表情で中尉が続ける。
「流石月島軍曹、当たらずとも遠からず、だな。」
「遠…からず…?」
鯉登少尉がきょとんとしながら中尉を見つめる。
「お気持ちはありがたいですが寿命が縮みます。このような場合は私も加えて打ち合わせしてくださった方が有難いです。」
「ほう? 数多の死線をくぐり抜けてきたお前がこれで寿命が縮むとは可愛らしいことを言う。」
鶴見中尉はふふ、と笑って甘酒の注がれた盃を掲げた。
「さて、そろそろ乾杯といこうか。私の可愛い部下達に。」