身が灼かれるその日まで 光しか身に宿さない人間だと思っていた。
幼少期から妹に尽くし、幼馴染ともいえる男の子に寄り添い、孤独だった青年に手を伸ばした。学校ではいつも注目の的で、周囲の人々を惹きつけて、誰からも好かれる人間。自分とは真逆だと初めて目にしたときから思っていた。だからこそ深いかかわりを持つのが嫌で、「中学からの友人の仲間」なんて一歩引いたこの関係でいるのが最も心地良く感じられた。浅くも深くもない、挨拶を交わしたり一緒にお昼を食べたりするくらいで互いの内面には決して踏み込まない。それで良かった。
天馬司という神のような人間にとって、暁山瑞希は光を遮る闇であり、純水に垂らされてしまう1滴の毒である。汚してはならない。だから近づこうとは思わなかった。
学校で司先輩を見るときは大抵、旧知の仲である類と一緒にいる。中学時代に屋上で孤独を分かち合った彼は司先輩に会ってから変わった。諦観した目で景色を眺めていた姿はもうどこにもなくて、心から楽しそうな顔をして司先輩のそばにいる。
よかったね、と思う。同時に、置いていかれた、とも思う。羨ましくはない。自分は今のような人生を送るのが当然だと思っているから。
おそらく類は司先輩を好いている。神様に恋焦がれている。少なくとも、ただの友情では済まされない気持ちがたしかに芽生えているのだろう。自分と話しているときはいつも司先輩に関する話ばかりしてくるために、自分は特に頻繁に会話をしているわけではないというのに彼の人間性を嫌というほど知っている。
そうやって類から聞く話を頼りに考えれば、司先輩はただの善人だ。それだけ。だから自分とは別世界に生きる人。そのくせに類のように闇にいる人間を善意で引き上げるのだ。別世界にいる全ての人間を救うのだ。彼によって光を見出した人は、崇拝にも似た尊敬を彼に抱き、明るく純粋たる世界に足を踏み入れる。そんな力が司先輩にはある。
ボクは司先輩に救われたいと思ったことはない。そんな価値は自分にはないから。――というのは建前で、本当の理由は別にあった。
怖いのだ。あの光に一度吸い寄せられてしまえば、自分がどうなるのか分からない。それがとてつもなく怖い。二度と離れられなくなるかもしれない。それこそ、類のように。
彼に手を伸ばしてはいけない。魅入ってはいけない。引き寄せられてはいけない。だから必要以上に関わらないで、程良く、付かず離れず、内面に干渉しすぎない今の関係性のままでいたかった。
買い物のために1人で街に出たある日、全国的に展開されているチェーン店のカフェで1人、珈琲を飲んでいる司先輩を見つけた。窓際の席に座って、頬杖をついて外を眺める彼の表情はまるでこの世界の全てに興味がないといった、色のないものだった。今まで目にしてきた司先輩の豊かな感情表現や態度が一瞬で霧となって消えるほどの衝撃を受けて、思わずその場で立ち止まり彼の様子を見続けてしまった。
迂闊だった。目を、奪われてしまったのだ。
視線に気付いた司先輩と目が合う。呆気に取られて驚愕の表情を浮かべている自分を見て、彼はなにかを悟ったように微笑み小さく手招きした。人目を気にせずに手を大きく振って「暁山!」と大声で呼んでくるものかと思っていた。いよいよ、「見てはいけないものを見てしまった」という想いが強くなった。
誘いを断ることはできず、吸い寄せられるように店に入って、司先輩と向かい合って座った。
普段と同じ言動ができなかった。「司先輩、偶然だね」と明るい声で挨拶をすることが。目の前の人間を、自分の知る天馬司と同じ人物だと定義していいものなのか分からない。不思議な感覚に包まれた今の自分にいつも通りを演じられるはずもなく、そのまま数分間、無言を貫いた。司先輩も黙っていた。カフェの店員が注文を聞きにきたところで慌てて甘いココアを頼んだボクはようやく顔を上げて、司先輩を見た。
彼は「どう思った?」と聞いてきた。「なにについて?」と聞き返すほど自分は天然でも察しの悪い人間でもなかった。外で司先輩を見つけたときにどう思ったか。それ以外考えられなかった。
責めるとか、怒るとか、そんな雰囲気は微塵も感じられないのに、怖いくらい美しく目を細めて笑う司先輩に、正直に答えなければならないという妙な義務感に襲われる。
「……いつもの司先輩とはちょっと違うなって、思ったよ」
届いたココアはまだ自分にとっては熱くて舌先に触れることさえできないと分かっていたのに、気を紛らわせたくてつい口の中に入れてしまった。必死に熱さに耐える自分を見る司先輩の目は据わっていた。
数秒後、フッと目線を逸らし再び外を眺め始めた司先輩は「いつものオレなんて、周囲の人間に作られたハリボテでしかないぞ」と呟いた。予想外の言葉に開いた口が塞がらなくなって、ただただ、瞬きもせずに彼を見続けることしかできなくなった。必死に口元に力を込めて弧を描いてみせる。ああ、なんてぎこちない。
「……あはは、どうしたの、司先輩。そんなこと言われたらさ、今まで見せてきた先輩が全部嘘ってことになっちゃうじゃん」
「その通りだ」
「い……や、いやいや、なに言って」
「今目の前にいるオレを見ても否定できるか?」
その微笑にゾクリと背筋が震えた。あまりにも美しいものを見ると、この世に存在するのかわからなくなって恐怖心すら湧いてくるのだと分かってしまった。
一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。司先輩の言っていることが真実ならば――真実であると思わざるを得ない状況ではあるが、今自分と話すこの男が本当の天馬司ということになる。そして、ずっと見てきた、皆を導く光の姿が偽物だ。司先輩の言葉を借りれば彼に出会った多くの人間は「ハリボテ」を崇拝し尊敬し愛しているということになる。
とてもじゃないが信じられない。これは、自分という不完全で曖昧な存在が踏み込んではいけない領域だった。偶然が重なった結果、本来は知らぬまま通り過ぎるはずだった彼の内側に足を踏み入れてしまったのだ。
「…………類が見たらびっくりすると思うよ。こんな、他人に興味なんてありませんって顔した司先輩、正直、怖い」
「あいつは本当にオレが大好きだからな」
「気付いてるの?類の気持ち」
「あの態度を見ていて分からないほどオレは鈍感じゃない」
「……司先輩は類のこと、どう思ってるの」
「大事なショー仲間だ。それ以上でも以下でもない。それでも、求められればその分だけ応えるつもりではいる。告白されれば了承するだろうな。類に関することだけでなく、何事も、応え続けるぞ。それが皆の理想によって生まれた天馬司の在り方だから」
悲しみを表しているわけでも、申し訳なさそうでもない。ただひたすらに"無関心"。さすがに類が不憫に思えてしまう。
「――どうして、理想像を演じ続けるの?疲れちゃうよ、そんなの」
自分を偽って生きている自分に問いかけているようだ。
「存在価値がなくなるからに決まっているだろう」
さも当たり前だと言うように返事が返ってきて声が詰まる。自分の心を掠めるような発言だった。そんな困惑を見抜いたのか、司先輩はボクの声を待たずに話を続けた。
「昔から人の望み通りに動いていたら誰からも感謝されたし必要とされてきた。そんなオレじゃなくなったらどこに居場所がある?……もう、離れられないんだ、理想像である天馬司からは」
なぜか脳裏をよぎったのは、サークルの仲間である朝比奈まふゆの姿だった。周囲の期待に応え続けた結果自分を見失った彼女と司先輩の生き方が多少なりとも重なるときがくるなんて、思いもしなかった。真逆のタイプだったのに、真逆じゃない。しかし、なにもかもが同じだとも思えなかった。司先輩は周囲の期待に応え続けてハリボテを作り上げることに一切の不満を感じていないように見える。その在り方が当然だと、抑圧を受容しているのだ。
「ところで」と前置きをして、司先輩は珈琲をすすった。
「オレの様子がいつもと違うと、見ただけで分かったのは暁山が初めてだった。他の奴らはオレを見てもいつも通り笑顔で手を振ってきていたというのに、お前は困惑したままオレから目を逸らさなかったよな」
やはり迂闊だった。司先輩の隠れた部分を見ただけで分かってしまったのは。なぜ他の人には分からなかったのに、自分は分かってしまったのか、なんて、くだらない問いに答える余裕もつもりもない。
「――お前も、なにかを隠しているんだろう?」
肩が小さく跳ねて、思わず膝の上に置いていた両手の拳をギュッと握りしめてしまった。ああ、手汗がすごい。拭かないと。そう思っても身体は金縛りにあったかのように動かない。"いつも通り"ができない。適当にごまかしてのらりくらりと躱すことができない。さっきから嘘か本当か分からない世界に浸っているようで、どうにも思うように息ができない。
「…………ないよ、そんなの」
確実に嘘をついていると分かる声色で否定を述べたが、司先輩は追及せず「そうか」と即答して立ち上がった。これは、嫌というほど見てきた、変な気遣いでも、憐憫でも、同情でも、平等に人と接するよう意識しているわけでもない。興味がないのだ。ボクの秘密なんて。知ることができたらできたで、右から左に受け流すつもりだったのだろうか。
――ああ、ダメだ。
こんな気持ちは初めてだ。自分を気にかけてくれている人達にだって抱いたことのない高揚と緊張。これは、ダメだ。
「全てを明かしたい」なんて。能動的な意志で自分の内側を人に曝け出すことを望んだのは生まれて初めてだ。この司先輩なら言える。言ったところで受け流されて終わるだけなのだから。同時に「突き放されてしまいたい」とも思った。ただの善人である司先輩がハリボテだったとはいえ、自分にとってその光が毒であることに変わりはない。引き寄せられてはいけない。いや、むしろ、彼の内側にある一寸の闇――光に覆われ続けた黒――の方が危険だ。飲み込まれてはいけないんだ。これ以上、司先輩に興味を持ってはいけない。自分が自分ではなくなってしまいそうだから。
結論。全てを知った自分はやはり天馬司と距離を縮めてはいけない。
しかし、「またな」と言って立ち去った司先輩の後ろ姿に手を伸ばし、見えなくなるまでその背中を目に焼きつけてしまった自分の行動が、思考とは正反対のものであると分かってしまい、両手を顔で覆った。もう手遅れだった。
テーブルの上には珈琲の代金である330円が無造作に置かれていた。
次の日の月曜日。学校へ行くと杏や弟くんから「金曜に続いてまた来るなんて珍しい」と口々に言われた。自分でも驚いているのだが、あの男に会いたいと思ってしまっているのだ。それが自分をこの場所へと導く大きな動機になっている。
昼休み、屋上に行くと類と司先輩が楽しそうにお昼ご飯を食べていた。並んで座って、次のショーはこうしよう、ああしよう、野菜はちゃんと食べろ、そういえばこの前良い演出が思い浮かんだから実験に付き合ってはくれないか。騒がしさのなかにもたしかな信頼関係が築けているその光景に微笑ましく思うと同時に、なんとも言えないむず痒さに襲われて笑みがこぼれた。
嘲笑だった。
「……おや、瑞希じゃないか」
「おお!偶然だな!」
「……あは、やっほー」
太陽のような笑顔と遠くにいても聞こえてくる大きな声。今まで、この姿が本物だと信じて疑っていなかったが、昨日の出来事によって全てが覆されているために、隣にいる類が哀れに思えて仕方がない。いや、類だけではない。学校の生徒も、家族も、自分以外の全ての人間が、この偶像に気づいていないんだ。
全身が優越感の雨でびしょ濡れになっていくのが分かる。司先輩の闇を知るのはこの世界で自分しかいないという事実が想像以上に心を満たしていた。
2人の輪に入ってたわいのない話を繰り広げたその間も、司先輩は"いつも通り"だった。周囲の望みによって生まれた人間像が天馬司なのだから、誰もが彼に惹かれるのは当然だと今ならはっきりと理解できる。
ドクン、ドクン、と、心臓が徐々に速度を上げて高鳴っていく。近くにいるだけで体温が上がっていく感覚に陥る。
やがて、昼休みが終わるまであと5分というところで教室に戻ろうと類と司先輩が立ち上がり、出口に向かって歩き出そうとした。ボクは立ってフェンスに背中を預けたまま動かずに、ただじっと司先輩を見つめた。
「おい、暁山。せっかく来たんだから授業くらいは最後まで――」
「司先輩。ここで一緒にサボろうよ」
「……は?」
ぐいっと腕を引っ張って猫撫で声で話しかけると、彼は驚愕してピタリと立ち止まった。出口の近くにいた類もパチパチと瞬きをして「どうしたんだい、急に」と口にした。
「司くんがそんなことを許すわけがないだろう?」
「いいじゃんたまには!ボクもっと司先輩とお話ししてたい!」
類の目に嫉妬の炎がじわじわと浮かび上がってきているのを感じながらも、ためらわずに司先輩にひっつくと、彼はため息をついて「仕方ないな」と呟いた。
「ほんとに!?」
「5分だけだ!1時間全てをサボるのはさすがに許せないからな!」
「やったー!」
「類。ほんの少しだけこいつに構ってやるから、先に戻っててくれ」
「…………あ、うん」
司先輩ならボクを引きずってでも教室に戻そうとするとでも思っていたのだろう。類はほんの少し動揺の色を見せながら大人しく屋上から去っていった。「僕も一緒にいたい」と言わなかったのはボクと司先輩に漂う雰囲気の異変を、無意識に悟っていたからだろうか。
――今が、ボクが司先輩から離れる最初で最後のチャンスだ。
「……で、一体なにがしたいんだ、お前……ッ、はッ」
掴んだ腕を離さずに乱暴に司先輩を押し倒して、跨った。突然の出来事に頭がついていかないのか、それともなにも考えていないだけなのか、司先輩は乱れた前髪を直そうともせずに呆然とボクを見つめていた。素晴らしい光景を目の前にして、舌でペロリと自分の上唇を舐めて目を細めると、司先輩の喉が鳴った。
「暁、山」
「昨日さ、本物の司先輩を見てからずっと先輩が頭から離れないんだよ。出会ったときからずっと、ずぅっと、この人はボクと違う世界に生きる正しい人間だからって近づき過ぎないように意識してたのにさ」
リボンを乱暴に放り捨てて、カーディガンを脱いだ。静電気が髪の毛をチリチリに乱すが、今はそんな些末なことは気にならなかった。
「……え、ちょ、なにをして、」
「あんな先輩を見たらさぁ……手を伸ばさずにはいられなくなるじゃん」
シャツのボタンを1つずつ外し始めたボクを見て、いよいよ大変なことが起きていると判断した司先輩がボクを退けようと必死に抵抗してきたが、片手で彼の両手を頭上にまとめあげたら動かなくなった。見た目にそぐわない腕力に驚いたのか、「暁山……?」と疑惑の目を向けており、思わず「ふふっ」と乾いた笑いが漏れた。
「黙って見てて。それでさ、思いきりボクを突き放してよ。伸ばした手を振り払って、二度とボクに構わないで」
完全を纏った空っぽなこの男になら全てを曝け出してもいいと思えるほどに、自分は彼に惹かれてしまった。でも、引きずり込まれたくはない。そんな矛盾を抱えたまま、ボタンを全て外して制服の中身を暴いた。きっと、あの司先輩なら無関心を貫いて「なるほどな」とでも言ってくれる。それだけでいい。それか、ハリボテとはいえたしかに形作られた善性の塊が「正しくない」と判断して、嫌悪感を露わにするのかもしれないがそれはそれで構わない。
この男の中身を知ってしまった自分への罰なのだ。ダメだと分かっていても、あの闇の前ではこちらも隠していたものを見せなければならないと思った。等価交換といえば聞こえはいいが、単なるエゴだ。「曝け出したい」と思ってしまった自分が招いた奇妙で意味不明な行動だ。
結局自分も、天馬司という人間に魅了されてしまった。
「気持ち悪い?おかしい?それともやっぱり、なにも感じない?興味も持たない?そんな感じなんでしょどうせ。本当の司先輩のこと、誰にも言わないでいてあげるからさ、ボクのコレも内緒にしていてくれる?まあ学校でも同級生は大体知ってるんだけど。もうこれで、司先輩には必要以上に関わらないから。終わりにするから」
自分に言い聞かせるように早口で言葉を紡いで、湧き上がる感情を必死に抑え込んだ。口角は上がったまま下がらないし、司先輩の顔もうまく視界に入らない。ただ、声が聞こえてこないことから唖然としているに違いないと思った。それでいい。二度とこの光と闇に惑わされずに済む。満足感と妙な寂しさに襲われながらも、両手を拘束していた手の力を弱めたあと、ボタンを閉めて司先輩から離れようとした。
「…………じゃあね、司せんぱ――」
「本当の暁山はどっちなんだ?」
動きを止めた。
……誰?
今、ボクの名前を呼んだのは、誰?
いつもの元気で明るくて皆を導く司先輩の声でもない。昨日の、カフェで1人耽っていたあの司先輩とも違う。おそるおそる、彼の顔を見た。
「やっと目が合った」
"欲"だった。周囲が描いた理想を表現したわけでもなく、関心を持っていないわけでもなく、心の底から湧いてくる自分自身の欲をそのまま表したような恍惚とした表情が目に映ったのだ。
「……え?」
「だから、本物はどちらなんだ。お前はどう在りたいと思っている」
「…………ただ、可愛く在りたい、だけ、だけど」
素直に答えれば欲に塗れた瞳が大きく見開かれ、ゆっくりと片手を伸ばしたかと思えば、外気に晒されたボクの上半身に慈しむように触れたのだ。急にくすぐったさを感じて短い悲鳴をあげた。なおも撫でるのをやめない司先輩から与えられる刺激に耐えられなくなって、上半身がぐったりと重力に沿って落ちる。司先輩の上半身にぴったり密着する形になって、顔の横には彼の耳が見えた。
――離れないと。そう思って、地面に置いた手に力を込めた。
「オレは暁山が羨ましい」
「…………え?」
「つらい経験をいくらでもしただろうに、自分の信条を曲げずに在り続けている。人によって作られたオレには自分が望む在り方なんてない」
2つの鼓動が交わっている。身体が磁石のようにくっついて離れない。肯定でも否定でもなく、おかしいと思われ続けた自分の在り方を「羨ましい」と言った男の心に、ズブズブとはまっていく。
「ショー関連と家族以外の人間にここまで興味を持ったのは初めてだ」
ヒュッと息を呑む。同時に、全てを悟った。この男から逃れることはできないと。
「――もっと、知りたい。暁山のことを」
その声で、全身の血が沸騰したかのように騒ぎ、強烈な熱に目が眩む感覚を覚えた。今度こそ顔を上げて、司先輩を見下ろす。長く伸びた薄い桃色の髪の毛が彼の顔にかかり、とんでもない至近距離で密着していたのだと改めて思い知らされ、人をここまで近づけたのはこれが初めてだと、自分が引き起こした突拍子のない行動の珍しさに自嘲した。
「…………ボクも、司先輩のこと、もっと知りたくなっちゃったなあ」
「そうか。オレはどこまでも罪な男だな。暁山にこんな顔をさせるなんて」
「なに。どんな顔してんの?」
「オレから離れたくないって顔だ」
「抽象的すぎて伝わらないよ」
「だろうな」
――これは、恋?
「…………求められればその分、応えてくれるんだっけ」
「…………。ああ。オレはスターだからな」
「その微妙な間はなに?ていうか、そんな顔で言われても説得力ない」
「どんな顔をしているんだ?」
「スターなんて言葉が全ッ然似合わない顔」
「抽象的なのに伝わってしまった」と儚く笑う司先輩は美しかった。完全で不完全な人間に心臓を握られてしまったのだ。
「ここまでオレを虜にしたんだ。お前になら、なにをされても、なにをしても構わない。もう一度言うが、お前を知りたくて仕方がないんだ。そのためだったらなんでもする」
嘘はついていないとよく伝わった。美しい微笑が、するりとボクの頬に触れた手のひらが、ボクという人間に対する興味を存分に表していたから。温もりを感じながら、抑えきれなくなった感情が言葉となって口から吐き出されていく。
「ボクを救ってよ。全部受け止めてよ。ボクの内側も外側も、男も女も、この世の全ても、なにもかもどうでもよくなるくらい愛して」
「いいぞ」と聖母のように笑って答えた司先輩の目を手で覆い隠して、無防備になった唇と自分の唇を重ね合わせた。醜く縋るボクの姿なんて見られたくなかったが、胸中で蠢く巨大なこの感情が少しでも伝わるように、と考えたら、身体が勝手に動いていた。
――恋なんかじゃない。そんな陳腐なものじゃない。これはまるで、神様に助けを乞うような、縋るような、恋よりもっと大きくて、偉大で、深い愛だ。執着だ。依存だ。独りよがりで一方通行の求愛だ。
司先輩は唇の感触に一瞬だけ身体をビクッと跳ねさせたが、すぐに両手をボクの腰に回して全てを受け入れ始めた。
ハリボテの太陽が放つ強烈な光と熱、それから奥に潜む暗闇に引きずり込まれた人間は、自分の身が灰になっていくのを感じながらも、二度と元の居場所に戻れない。