客席から舞台裏は見えない①起
どうか見せて欲しい。その舞台裏を、幕が降りたあとの姿を。
僕はもう客席に座っているだけの人間でいたくない。だから、もう、もう――。
【客席から舞台裏は見えない】
***
きっかけは瑞希の言葉だった。
「司先輩ってずっと舞台の上に立ってるみたいじゃない?」
昼休み、何気なく屋上に行ったら瑞希がフェンスに背中を預けながら1人で立っているのを見つけた。いつものように挨拶を交わして隣に立つ。そこでのたわいない会話の途中に鼓膜を刺激したこの言葉は、僕の心をほんの少しだけざわつかせた。いまいち具体性がない内容で、瑞希がそう思った理由すら分からなかったのに。
おそらく、司くんとともに過ごす時間が増えたことで無意識に浮上していた気持ちを代弁していたのだろう。だからこそこの日から、無意識ではなく意識的にこの想いを抱くようになったのだと思う。
「……どういうことだい?」
「んー、なんて言ったらいいのかな。司先輩っていつでもどこでもキラキラしてて、笑ってて、皆を楽しませてくれるじゃん。かっこいい主人公みたいに」
「…………スポットライトを浴びながら客席に笑顔を与えている役者のように、ね」
「そう!まさにそんな感じ!やっぱり舞台にたとえるのが1番分かりやすい!」
パチンと指を鳴らしてそう言った瑞希は下を向いたままの僕を見て、静かに笑った。
「類もボクと同じようなことを考えていたんだね」
「……」
「時々司先輩が怖いと思うときがあるんだよ。"ここまで裏表のない、暗い気持ちを全く見せずに輝き続けている人なんて存在するの?"ってね」
今まで「この人なら」と多くの人を信じるたびに裏切られてきた瑞希が言うからこそ説得力のある言葉だった。人間というのは、上辺では良い人を演じている一方で、その裏に真逆の考えを持ったもう1人の自分がいてもなんら不思議はない生き物。どんなに明るく元気な人でも、心の中には大きな悩みや不安を抱えていることもある。えむくんだって遊園地の存続について真剣に考えて、涙を流しながらもその想いを僕達に打ち明けてくれていた。そして隣にいる瑞希も初対面の人や秘密を知らない友人から見れば、元気いっぱいの明るい人としか思わないだろう。
もしかしたら悩みなんて全くない人もいるかもしれない。けれどそれはごく少数なのではないか。大なり小なり、学校や家庭内、友人関係や自分のことなど、なにかしら考え込む時間はあるはずだ。
――けれど。今まで一度たりとも、司くんの"闇"なるものを見たことがない。
これが、最近ずっと心に引っかかっている僕の想い。瑞希の言う通り、彼はずっと舞台の上に立っているのだ。学校にいるときも、ショーの練習をしているときも、僕と一緒にいるときもずっと元気で、頼もしくて、希望に満ち溢れている。もちろん怒ったり真剣な眼差しを向けたりもするけれど、基本彼は誰に対しても同じ態度で人を魅了する。そんなイメージ。
「まあ、司先輩のことだし本当にあれがありのままの姿かもしれないね」と言い残し、瑞希は屋上からいなくなった。
闇なんてものはない。あれが司くんの全てであり、心配するようなことはなにもない。それならそれで構わないとは思う。けれど、もし隠していたとしたら?
それは僕にも見せられないものなのだろうか。恋人である僕でさえ、その闇を見ることはかなわないのだろうか。そんな気持ちを抱えながら、ギュッと拳を握りしめた。
恋人同士になってから司くんとは沢山の思い出を作り上げてきた。初デートも、初めてキスをした帰り道も、初めて身体を重ね、愛おしさのあまり2人で涙を流したあの夜も。どんな記憶も思い出すだけで心がじんわりとした多幸感でいっぱいになる。こんな僕を見つけ出してくれた……たとえるなら、神様のような存在。「人は人、自分は自分」という言葉を都合良く利用し、どうせなにもかも人とは違うと決めつけて孤独を選んでいたあの頃の僕に手を差し伸べ、広く輝くステージへ導いてくれた、かけがえのない存在。とても、大切な人。
司くんはどんな時も僕達を支えてくれた。無茶な演出にも全力で応えてくれたり、座長として僕達をまとめてくれたり、2人きりでいるときは抱きしめれば力強く抱きしめ返して「好きだ」と伝えてくれる。時折揶揄うと可愛らしく拗ねたり頬を膨らませたりして、素直に感情を出して表情をコロコロ変えるところがとても好きだ。
このままずっと、彼と幸せな日々を積み重ねていけたらいい。そう思うたびに心の中のもう1人の自分がふと顔を出す。
「本当にこのままでいいのか?」と。
「このぬるま湯のような日々を――司くんの日陰の部分を見いだせないままの日々を、過ごしていていいのか?」と。
セカイに行ってぬいぐるみやカイトさん、ミクくんなど司くんの想いから生まれた存在と関わるほどこの気持ちは強くなる。こんなに近くにいても自分は司くんのことをほんの少ししか分かっていないんじゃないかって。
――裏を返せば、司くんは僕に自分のことをほとんど伝えていないのかもしれない。
恋人という唯一無二の存在になっても、まだ司くんと一緒に舞台の上に立てていない。たしかに、最前列のど真ん中、特等席で彼の輝く姿に魅了されているという自覚はある。その姿を最も近くで見ることができる。ただ、それだけ。スポットライトを浴び続けて幕も降りない彼の舞台を見ているだけ。
どうすれば僕は司くんの心に寄り添えるのだろう、と最近はそんなことばかり考えている。まあ、全て僕の深読みで現実は至って平坦でなんでもないものなのかもしれないけれど。
***
日曜日。普段ならワンダーステージでショーをやっている日だけど、「たまにはゆっくり休んで欲しい」というえむくんのお兄さん達の計らいで1日オフをいただけた。
そこで「皆で映画を見に行きたい!」というえむくんの提案のもと、僕達4人は一緒に映画を見に来ていた。ジャンルは僕達にしては珍しく小説が原作の本格的なミステリーで、とある殺人事件の犯人を主人公が追うというよくあるストーリーだ。えむくんがそれを薦めてきたときは正直驚いたが、実際に見てみるとシリアスな雰囲気の中にも場を和ませるシーンが沢山散りばめられていて、非常に分かりやすく、それでも核となる謎解きや伏線回収は見事なもので予想以上に引き込まれた。
特に印象に残ったのは犯人。20代前半の大学生。謎が解き明かされるまでは文字通りの好青年で、皆を元気づけたり、持ち前のリーダーシップを発揮して周囲をまとめる、そんな人間。演じていたのがアイドルを本職とする芸能人でこの映画が俳優初挑戦だったこともあり、原作を知らない多くの人はまさかこの人が犯人だなんて予想すらしていなかっただろう。
彼の演技は初めてとは思えないほど素晴らしかった。特に、主人公に犯人であることを暴かれた直後に殺害の動機を静かに語り出したかと思えば、唐突に胸の内に秘めていた悲痛な過去や壮絶な苦しみを嘆いた場面。あれを見ていたとき、それまでの雰囲気とかけ離れた本性を突きつけられて身体は硬直し瞬きをする余裕もなかった。
そして驚いたことに、見終わってから真っ先に思い浮かんだ人物が――司くんだった。
「もし彼にもこういう一面があったら?」と、そんな漠然とした不安。瑞希との会話で波打ち始めた根拠のない想い。こんな映画を見ても司くんを思い浮かべるなんて我ながら彼を理解したいという気持ちが強すぎると思う。そして4人で映画館を出たあと、頭の中にあったのは犯人が涙を流しながら放ったセリフだった。
"誰もが思い描いていた理想の姿で在り続けなければ、この世界に生きる価値などなかった"
高校生とはいえ、さすがは舞台に立つ役者や演出家の集まり。映画を見終わってからはそれぞれ感想やら「あのシーンは自分達のショーでも使える」といった意見やらで言葉の大渋滞という状況になっていた。幸せな時間ではあるが話が収まらないということで、ショッピングモール内にあるフードコートで存分に語り合うことになった。
休日のお昼時のため、フードコートは沢山のお客さんで溢れていた。空席を見つけるのに苦労したが、手分けして探していた途中で1番動き回っていた司くんが手を振って「あったぞー!」と大きな声で教えてくれたときは周りのお客さん達の目線が一気に彼に集まっていて、さらには「フッ、ここまで賑わっている場でも注目を集めることができるとは、さすがオレ……!」と自信満々な顔で言ったものだから、なんだか可愛くて「そうだね」と微笑んでしまった。寧々は両手で顔を覆って「恥ずかしいったらありゃしない」とげんなりしていたけれど。
席について、各々食べたいものがあるお店に向かう。そして再びテーブルに集まったところで中断していた「映画の感想のぶつけ合い」を再開した。
「――えへへ!皆に楽しんでもらえたみたいで良かった〜!」
「たしかに楽しかったけど、えむらしくないチョイスだったというか……もっと明るくて元気な感じの映画を薦めてくると思ってた」
「寧々と同意見だ。えむくんはどうしてあの映画を選んだのかな?」
「あのね、CMを見たときにシュパー!ビビビーッ!てなったの!」
「「シュパー、ビビビ……?」」
「フフ、直感というものは時に考え抜いて出した結論より良いものを生み出すこともあるからね。ナイスだよ、えむくん」
「わーい!」
「……直感……」
「どうして類には伝わるのよ……」
いつものように賑やかに話しながら、あれこれと映画の話を続ける。楽しくて仕方がない。この輪の中に自分がいるという事実に喜びを隠しきれなくて、ついつい口が忙しなく動いてしまう。
――ふと、隣に座っていた司くんが語り始めた。
「やはりオレが最も胸を打たれたのは、犯人が心の内にある悲痛な想いを叫んだシーンだな!」
ピタッと料理を食べる手を止める。
「たしかに。あの犯人役の人、演技上手かったよね。表向きは朗らかで明るくていつも笑顔でいたのに、犯人だって明かされた瞬間にその雰囲気が一気に全部なくなって……。叫び出したときはすごい衝撃的だった」
「うんうん!まさか犯人だったなんてびっくりしたよ〜!」
「あの笑顔の裏にはあんなにも悲しくつらい想いが隠されていたとはな……度肝を抜かれたぞ」
どうにもフィクションに思えなかった。それを君が言うのか、と。当の本人は普段通りの表情で寧々とえむくんと話しているが、情けないことに僕はこの話題に簡単にのることはできなくなっていた。急に黙り込んだ僕に真っ先に気づいたのか、司くんに「類?」と声をかけられる。
「どうした?お前もあのシーンは気に入りそうだと思うんだが」
「…………」
形容しがたいむず痒さを発散するために無言で司くんの肩に顔を乗せて、ぐりぐりと動かす。首元に僕の髪の毛が当たるのがくすぐったいのか、司くんは肩を震わせて笑い始めた。
「ちょ、やめ、ひぃ、なんだ急に!」
「こんなところでイチャイチャし始めるのやめてくれる?」
「違う!類が勝手に!」
「へへへ、仲良しさんだね〜」
「全く……。どうしたんだ」
急に落ち着いた声色に変わり、ポンポン、と頭を撫でられる。その手つきは優しくて甘えたくなるほど心地が良い。相変わらずのお兄ちゃん力というか、なんというか。同い年だけどどこか人を包み込むような安心感があった。そのあたたかさに身を任せて、思ったことを素直に口にする。
「……司くんはどうなんだい」
どうなんだい、とは「あの犯人みたいに、本当は叫び出したくなるほどの苦しみやつらい気持ちを抱えているのか」という意味だが、もちろんそんなことが分かるはずもない司くんは頭の上に疑問符を浮かべて「はあ?」と眉間にしわを寄せた。その様子を肩口から覗き込むように確認したあと、ゆっくりと司くんから離れた。下を向いたままギュッと彼の袖を掴む。
「つらいこととか、ないのかなって」
周囲の喧騒に吸い込まれて、この小さな呟きは向かい側にいる寧々とえむくんには届かなかったらしく、えむくんは「ほえ?」と声を漏らした。数秒後、隣にいた司くんだけが僕の声に反応した。
「なにを言うのかと思えば……。あの犯人とオレを重ね合わせたのか?」
パッと顔を上げて司くんを見れば、いつも通りのよく見る呆れた顔で、声で、腕を組んで、一度だけため息をついた。
「このオレに限ってそんなものがあるわけないだろう!人を笑顔にするにはまず自分が笑顔でいなければその想いは伝わらないし、たとえつらいことがあったとしても、全てプラスに捉えて笑顔にするのが真のスターだからな!」
――眩しいなあ。
最前席で司くんを見てると、目がチカチカして、顔を逸らしたくなる。けれど決してそれを許してはくれないんだ。
「……フフ、その通りだ。いきなり変なことを聞いてすまなかったね」
「類は?」
「え?」
「類は大丈夫なのか?急にそんなことを聞いてくるということは、お前はなにか……」
「…………」
そうやって自分よりも人のことばかり気にかけるのは彼の癖なのだろうか。前々から思っていたのだが、どうにも司くんは他人を優先するきらいがある……気がする。特に咲希くんの話をするときなんかはその性格が顕著に表れていると思う。僕は1人っ子だから実際のところどうなのかは分からないけれど、あそこまで……そう、過保護と言われてもおかしくないほど妹を溺愛し、心配し、見守る兄はそうそういない。もちろん咲希くんは病弱で長い間入院生活を送っていたし、あのセカイだって咲希くんを笑顔にしたいという幼少期の願いが大きく関係している。ああなるのは当然だ。それは理解できる。
ただ、年下ならともかくその態度を同い年であり恋人でもある僕にも等しく見せているのは少しモヤモヤする。
「心配いらないよ。僕にはなにもない」
「そうか。ならいいんだが」
「……話が終わったなら、そろそろ次にどこ行くか決めない?」
寧々が料理の最後の一口をゆっくり飲み込んでから僕達に声をかけた。時間を確認すると、腕時計は午後2時をさしていた。
「そうだな。……あ、1つ寄りたい店があるんだが付き合ってもらってもいいか?」
「もちろんだよ〜!どこどこ?」
「本屋だ!さっき見た映画の原作を買いたいと思ってな!きっと面白さも感動も倍になるだろう」
「たまには司もいいこと言うじゃん、私も買お」
「毎度お前は失礼な奴だな!」
全員が食事を終えて、おぼんを両手で持ちながら立ち上がる。こんな元気な司くんを見ていたら自分だけ変に悩んでいるのも馬鹿らしく思えてきたな、と同じ店で料理を頼んだえむくんと歩きながら自嘲する。
一方えむくんはなにか考え込んでいるようで、「む〜」と口を尖らせながらトコトコと僕の後ろをついてくる。それが気になって、返却口におぼんを置いたところで問いかけた。
「えむくん、どうしたんだい?」
「……あ、うんと、えっとね、大したことじゃないし、あたしの勘違いかな〜とも思うんだけど……」
「?うん」
横で僕と同じようにおぼんを返したえむくんは俯いたまま、普段の様子からは想像もつかないほど小さく、それでも確かに僕に聞こえる声で呟いた。
「さっき類くんと司くんがお話ししてたとき、ほんの一瞬だけ、司くんからどよーんってね、暗くて重たい感じがしたからどうしたのかなーって。類くん、なにか分かるかなあ?」
数秒間、息をすることも、動くこともできなかった。
***
えむくんは人の感情の変化にいち早く気づくことができる。幼少期の頃に実現できなかったショーをすることになったときも、彼女は僕の心の変化にすぐ反応したし、おそらく寧々も司くんもその気配りや優しさに救われたことはあるのだろう。そんなえむくんが発したあの言葉の信憑性は高い。だから恐ろしい。根拠のない不安が徐々に根拠のある不安へと変わっている。
「……い、類ってば」
「……あぁ、なんだい?」
「さっきから全然喋らないから調子狂うんだけど。なんかあった?」
「少し考え事をしていただけだよ」
「そう。ならいいけど。この前外で遊んだときみたいに類までああなっちゃったら、また引きずるの疲れるから」
そう言いながら寧々は前方を指差した。その先ではあちこちへ走り回ろうとするえむくんを司くんが必死に引き止めている。よく見るその光景に寧々が呆れながらも「全くもう」と小さく笑った。
「こら、えむ!好き勝手動くな!人にぶつかったらどうする!」
「だいじょーぶだよ!あ、このお化粧道具、とってもかわい…………ぷぎゅっ!」
「ああほら!言わんこっちゃない!」
どうやら人にぶつかってしまったらしく、雑貨屋さんの入り口に司くんが向かっていった。僕達も彼らの後を追い、近くに寄ると見覚えのある薄いピンク色の髪の毛が目に映った。同時に、えむくんの「ひいっ!」という短く甲高い悲鳴が店内に響き渡る。……なぜ、悲鳴が?
「あ、類!」
見覚えのあるその姿の正体は予想通り瑞希だった。隣には瑞希の仲間と思われる人(僕はそう信じている)がえむくんに「大丈夫?」と声をかけていた。
「やっぱり瑞希だったんだね。それと……」
「初めまして。朝比奈まふゆです」
「ああ、初めまして……」
長い髪を1つにまとめたその人の笑顔を見て、理由もなく口の端が引きつり、寧々は人見知りを発揮してさっと僕の後ろに隠れた。本当に理由が分からないが、なんとなく、怖い、と思った。初対面の相手にこんなことを思うのは非常に失礼だけど。
「……?あの……」
「ああ、いや。えっと、これは一体どういう状況なのかな?」
「ここの雑貨屋さんで瑞希が私に似合うコスメを探してくれていたんです。そしたら正面から急に鳳さんが突撃してきて……」
「ごっ、ごごごごめんなさい!あの、そのっ」
「気にしないで。鳳さんがいつも通り元気そうで嬉しいよ」
「ひゃ、ひゃい!」
「類とショーをやってる子だよね。知り合いだったんだ〜」
「うん。宮女の後輩なの」
悲鳴とともに司くんの後ろに隠れたえむくんの反応を見る限り、僕の中にあるもやっとした謎の違和感は勘違いではないのだろう。
「買い物の邪魔をして悪かったね、瑞希。それに朝比奈くんも」
「いいえ」
「いいのいいの、学校以外で類と司先輩に会えたのすごくレアだし!いつか2人のデート現場も目撃してみたいな〜」
………………。おや?
瑞希にこんなことを言われたら真っ先に聞こえてくるであろう彼の声が聞こえない。それどころか隣にいるのは分かっていたけれど、さっきから一度も彼の話し声を聞いていない。瑞希や寧々、えむくんも同様の疑問を抱いたのだろう、一斉に彼を見た。瑞希の表情がだんだんと強張っていく。
「……つ、司先輩?どうしたの、そんな怯えちゃって……」
軽く俯いて垂れた髪の毛に隠された表情を見ることはできず、僕と司くんの後ろにいる寧々とえむくんも彼の状況を把握できない。真正面に立っていた瑞希と朝比奈くんだけが、その表情を伺えた。
「怯えちゃって」と言った。
少しの間黙っていた朝比奈くんは瞬きを数回繰り返して、一歩だけ司くんに近づいた。そして、にっこりと、不気味なほど綺麗な微笑みで、凛とした声で語りかけた。
「素でできるの、すごいですね」
司くんが、ヒュッ、と息を呑んだのが分かった。握りしめた彼の拳は震えている。僕は言葉の意味なんて理解できず、呆然と司くんを見ることしかできなかった。
「……え、えっと!ほら、ボク達そろそろ行かない?まふゆの家って門限厳しいから今のうちに沢山買い物しないと!」
「うん。それじゃあ」
そう言って、2人は颯爽と僕達の前から去って行った。
「……司くん?」
見たことない司くんの様子に戸惑いながらも声をかけると、彼は一度肩を揺らしてすぐに顔を上げた。
「……すまん!少し呆けていて話が全く耳に入ってこなかった!」
その振る舞いに、僕達はいつもの反応を示せなかった。寧々はじっと司くんを見つめ、えむくんはいつのまにか彼から距離をとって眉を八の字に曲げていた。いつもの笑顔を向けられているのは分かるが、なにかが違う。そのなにかが分からない。ただ、あえて表現するならば、その笑顔はほんの少しだけ、先程朝比奈くんを見たときと同じ違和感を感じさせた。
「寧々、お前も本屋に行くんだろう。とっとと行くぞ!」と催促して、神妙な面持ちのままの寧々を連れて司くんは歩き出した。えむくんと目を合わせて同時に首を傾げる。
ざわざわ、ざわざわ、と木々が風に吹かれて次第に大きく揺れ動くように、僕の心の中の不安は徐々に大きくなっていった。
***
「ちょっとまふゆ!さっきのどういうこと⁉」
「さっきのって?」
「司先輩に言ったこと!"素でできるのがすごい"ってどういう……」
「言葉通りの意味だけど」
「んー……。もっと分かりやすく説明して!」
「……私が普段人前でやっていることを、あの人は素でやっていた。だからすごいなって思った」
「え……」
「初めて見た。私と似てるけど全然違う人。素で演じている人」
「んー……。なにー、その矛盾だらけの言葉」
「そういう人だった」
「…………。どうして、まふゆを見てあんなに怖い顔してたんだろう」
「さあ。自分と似てる人を見つけて驚いたんじゃない?」
***
戻ってきた司くんと寧々と合流したあとはゲームセンターで寧々の圧倒的な強さをこの目で見たり「お兄ちゃん達とお揃い!」と嬉しそうに色違いのマグカップを手に取るえむくんを見守ったり次のショーに使えそうな物を探したりした。
「はあ……。疲れた……」
日中の大半を遊びに費やしてさすがに疲れたのか、寧々が肩を落とした。
「たまにはこういう時間の使い方もいいね。とても楽しかったよ」
「類の言う通りだな。全力でショーに取り組むためには適度な休息も必要だし、良いリフレッシュになる」
「うんうん!また皆でいーっぱい遊びたいなあ!」
ショッピングモールを出ると鮮やかな夕日が街を照らしていた。
「じゃ、僕達はここで」
「また明日」
大きく手を振るえむくんと「じゃあな!」と笑う司くんに見送られて、寧々と帰り道を歩く。クレーンゲームで手に入れた大きなぬいぐるみを両手で抱えながらとぼとぼと歩く寧々を横目に、今日の司くんの様子について思考を巡らせる。とにかくそれしか考えられなくて、目に見えないなにかに勝手に追い詰められているような気がした。
「また考え事?」
寧々に問いかけられて、僕は素直に「ああ」と答えた。
「司くんのことを考えていたんだ」
「……惚気?」
「いつもならそうなんだけど、残念ながら今は違う」
「ふーん。司、途中少しだけ様子がおかしくなってたしね」
「…………ねえ、寧々。司くんにはつらいこととか、悩みとか不安とか、そういった類のものはないと思うかい?」
「……それは今日の司を見て思ったこと?」
「実は少し前から、なんとなく」
真剣に聞いていると判断してくれたらしい寧々は一度ギュッとぬいぐるみを抱きしめて、少しの無言のあとに「そんなの本人じゃないから分からないけど」と前置きをして、話し始めた。
「あったとしてもそれに気づけるのは類しかいないと思う」
「……僕だけ?」
「今司のそばにいて支えられるのは類だよ。だって恋人でしょ。あいつ、天馬さんのこととかあったからどうしたって年下の私やえむの前ではかっこつけて、頼れるお兄ちゃんのままでいる。でも類の前なら司もそういう、ネガティブな部分も吐き出せるんじゃないの」
「……そうだったら嬉しいんだけど、今のところ客席に座っていることしかできていないんだよねぇ」
「は?客席?」
「フフ、こっちの話さ。……でも、そうか。僕だけ、か。ありがとう寧々」
「役に立てたならよかったけど」
やはり客席に座って眺めているだけではダメだ。最前列、特等席に座っているからこそ、近くにいるからこそ、できることがある。僕にしかできないことが。ここまできたら今度は僕が君を助ける番だ。そう決心して寧々と別れる。
家に帰って部屋に入った瞬間、ポケットに入れているスマートフォンが小刻みに震えたのを布越しに感じた。画面を見ると、そこに映っていたのは瑞希の名前だった。
『あ、もしもーし。さっきぶりだね』
「珍しいね、君の方から電話をかけてくるなんて。どうしたんだい?」
『んー、司先輩のことでちょっとね』
その名を聞いてドクン、と心臓が揺れた。やはり瑞希も彼の様子が変だったことが気になっているのだろうか。
『あのときの司先輩の表情を見て……あと、まふゆが司先輩に言ったことを聞いて、確信したんだ』
「なにを?」
「絶対司先輩はなにか隠してる。救わなきゃダメだよ、類」
こんなに真剣に、そしてきっぱりと断言する瑞希の声は初めて聞いた気がする。妙な緊張感が押し寄せてきて、鼓動がうるさく身体を支配する。
『まふゆについては詳しく話せないけど、信じて欲しいな』
「……信じるよ。ほかでもない瑞希の言葉だからね。というより、ちょうど僕も司くんを助けなければと決心したところだったから、より自信がついた」
『それならよかった。じゃ、話はそれだけだから。またね』
「ああ、また学校で」
どうすれば司くんの本音が引き出せるか分からない。どんな闇があるのか想像もできない。とにかく、動き出さなければ始まらないんだ。司くんはいつだって僕の隣にいてくれて、どんな不安も取り除いてくれて、孤独だった人生を変えてくれたから。
さあ、客席から立ち上がる準備を。
***
と、決意はしたものの特に光明が見えることもなくあっという間に数日が過ぎた。当たり前だ、なんの算段もない、気持ちだけが先走っている状態だから。それに、司くんは瑞希と似ていて真正面から問いかけても素直に答えてくれない人だと先日のフードコートでの出来事で十分分かっているから話題に出すことも難しい。間接的にそれとなく聞き出せれば1番いいんだけれど……。
「おい、類。聞いているのか」
ぺしっと頭に軽い衝撃が走る。顔を上げると司くんがしかめっ面で僕を見ていた。どうやらぼうっとしているうちに叩かれたみたいだ。「ごめんよ、聞いていなかった」と正直に言うと「全く……」と呆れられた。下駄箱付近の廊下で寧々が来るのを待っているところで、どんどん思考が司くんのことに囚われていたらしい。
「ええと……。なんの話をしていたのかな」
「ショーの練習が終わったらオレの家に来ないかと誘っていた」
「……え?それってつまり家に誰もいな、」
「いわけがないだろう!馬鹿!」
「えー」
「えー、じゃない!お前の頭の中にはそれしかないのか!」
「それって?」
「…………意地悪な奴め」
あ、顔が赤い。可愛い。というか男なら恋人にこうやって家に誘われたら誰だって期待するものだろう。僕達の周りにいる生徒も何人かチラチラこっちを見ているし。
「うちの母さんが"類と話してみたい"と言っているんだ。"どんな恋人なのか知りたい"とも。咲希も"るいさんに会いたい"とはしゃいでいたしな。だったらうちに招き入れるのが1番良いと…………ちょ、は⁉重い!なんだ!急に抱きつくな!」
「……皆、僕達の関係のこと、知ってるんだね?」
「そっ、それはまあ……。えー、と。類と付き合うことになったその日に、嬉しすぎてだな、咲希につい話してしまって、そしたらいつのまに家族全員に……苦しい苦しい苦しい!周りの奴らも見ているから離せ!!」
背中を何度も叩かれているが気にせず腕の力を強める。この、嬉しいという単純で膨大な気持ちをめいっぱい伝えるように。だって、こんな僕を、司くんにとっての大切な人達が認めてくれているんだ。ああ、嬉しい。しかも僕と付き合えたのが嬉しすぎてご家族に全てを語ってしまうなんて、やはり彼は僕を喜ばせる天才のようだ。
「ぜひ行かせてもらおうかな。司くんのおうち」
「そうか。それなら話は終わりだ。いい加減離れろ」
「嫌だ。好き」
「あああああもう!オレもだ!」
男同士で急にこんなことをしているのを目撃したら誰だって困惑するだろうが、この学校の生徒にとってはこれが日常茶飯事だから「またやってる」「お幸せに」と生ぬるい目で見守ってくれる。それがどれほどありがたいことか彼らは分かっていないだろうけど。
ふと、青柳くんと東雲くんがこちらに向かってくるのが見えた。
「司先輩、神代先輩。こんにちは」
「……ちわっす」
「本当は知らんぷりして通り過ぎたかったけど」という本心丸見えの態度で東雲くんが頭を掻いている。どうやら青柳くんの用事に付き合ってあげているようだ。
「おお、冬弥、彰人」
「突然すみません。司先輩、草薙から伝言です。"先に行く"と」
「はあ?そんなの、ここに来て直接オレと類に伝えればいいものを……」
「"あのバカップルと関わりたくないから"と言ってました」
「……寧々の奴……。まあいい。ところで冬弥、こいつを引き剥がすのを手伝ってくれないか?」
「……その、司先輩も神代先輩も幸せそうなので、このままの方がいいと思っていたのですが……」
「その通りだよ青柳くん」
「断じて違う!!!!」
本気で嫌がられたら悲しいし、そろそろ良いかなと思って自分から離れると、司くんは「全く……」と項垂れた。校門まで一緒に歩こうということで、司くんは青柳くんと、僕は東雲くんと並んで昇降口を出た。
前を歩く司くん達と青柳くんはまるで兄弟のように仲が良さそうで、特に司くんに頭を撫でられたときの青柳くんは心から彼を尊敬し慕っていると目に見えて分かるくらい、柔らかく笑っていた。微笑ましく見守っていると、隣で東雲くんから「神代センパイ」と呼ばれた。そっちから話しかけてくるなんて珍しいと思いながら返事をすると、彼は「神代センパイって兄弟います?」と、ぶっきらぼうに質問を投げかけてきた。
「?いないよ」
「ですよね。そんな感じがしてました。ならいいです」
「おや、話は終わりかい?気になるから教えて欲しいな」
「…………はあ。オレ、姉貴がいるんです。1つ上、センパイと同い年の。そいつと司センパイを比べてちょっと思ったことがあって」
「思ったこと?」
また、司くんの話。つくづく司くんは誰からも愛される人気者だと実感する。嫉妬はしないわけではないが誰よりも司くんがこれ以上はおなかいっぱいだというくらいの愛を注いでくれるから、そこに関して焦りや不安はないに等しい。
「あの人、いつでもどこでもなにしてても"お兄ちゃん"じゃないですか?」
そういえば寧々も同じようなことを言っていた。年下である東雲くんもやはりそう感じていたのか。
「それに比べてオレの姉貴はこれっぽちも姉らしくない。良い意味で。オレとしてはそっちの方が変に頼りすぎなくて済むし、素直に感情をぶつけてもらった方が気使わずに話せるからいいけど」
「爪で引っかかれたことも八つ当たりで怒鳴られたこともありますし」と聞いて、少し驚いた。司くんと咲希くんじゃ想像できない光景だ。
「そんなオレからしたらあの人の態度に違和感ありまくりっつーか……。だからまあ、もし神代センパイに兄弟がいたらその兄弟とはどういう関係性なのかって気になって。冬弥からも色んな話を聞くんすよ。小さい頃から弟のように可愛がってくれた、助けてくれた、本当に尊敬している人だって」
「ああ、なるほど……。青柳くんの気持ちも分かるな。僕も司くんに助けられたうちの1人だから。本当に感謝している。寧々やえむくんだって……」
心の底からにじみ出た気持ちを素直に口に出すと、東雲くんはどこか納得いっていないような、まだ疑問に思うことがあるといった表情で司くんを見つめた。
「……?東雲くん?」
「――――司センパイって、」
「なんだ?オレへの感謝を存分に伝える会でもしているのか?」
東雲くんの話を遮るように 前にいた司くんと青柳くんが振り返った。僕達の会話が聞こえていたらしい。どのあたりから聞いたのかは分からないけれど、僕や青柳くんが司くんにこれ以上ないほど感謝しているという話は伝わっているみたいで司くんは誇らしげに笑っていた。
「ハハハ!悪い気はしないな!どんどん話すがいい!オレの武勇伝を!」
「疲れないんですか?」
「――え?」
司くんの声を最後に時が止まったかのように思えた。
「司センパイって、ずっとそうやって"お兄ちゃん"でいて、疲れないんですか?」
司くんの目が一瞬だけ見開かれ、大きな瞳が揺れたのを、僕は、見逃さなかった。
「……あんな姉貴がいるからより一層思うのかもしれないですけど、別に、みんながみんな、あんたの妹や弟じゃない。そんな、いつでもどこでも頼られてて、あんたは誰を――」
「彰人。オレは大丈夫だ」
司くんが微笑む。それを見て、東雲くんは小さく舌打ちした。そして「深入りしすぎました。すいません」と言って困惑している青柳くんの腕を引っ張って先に行こうとする。
「全部受け入れて、求められるままに生きて、導いて、頼られて。神様かなんかかっつーの」
――神、様。
その単語が脳内でズシンと重く反響する。思わぬところで心がまた強くざわつき始めた。具体的な理由はなにも思い浮かばないのに、今の会話は司くんの心の内側を知るうえで大切な部分なのではないかと。このモヤモヤはなんだろう。その正体が、今の僕には分からない。
「行くぞ、類!」
「あ……。うん」
分からない。分からないよ、司くん。こんなに近くにいるのに、僕は君が分からない。
***
「彰人、どうしたんだ。急にあんなことを言って……」
「冬弥。お前この前話していたよな。"お前の人生なんだから、お前がやりたいようにやればいい。嫌なものは嫌と言っていい"って、司センパイが言ってくれたって」
「あ、ああ」
「それを聞いてから司センパイが冬弥とか神代センパイとか色んな人といるときの態度を見てると、すっげえモヤモヤするんだよ」
「……?」
「絵名はオレに対しても、きっと友達に対しても馬鹿正直に感情をぶつけるし、わがままだし、うるせえなって思うこともある。けどその分あいつの素直な気持ちやつらい気持ちも理解できるし、ここぞというときには姉貴らしく、弟のオレに道を示してくれた。そんな絵名は嫌いじゃない」
「……その話と司先輩に一体どんな関係が……」
「真逆なんだよ。どんな人にも頼られて、どんな人も助けて、受け止めて……。それじゃああの人は一体誰を頼って、誰に素直な気持ちをぶつけて、"お兄ちゃん"じゃない素の自分を受け止めてもらうんだよ。疲れて潰れちまうだろ、こんな人生」
「……ッ」
「ま、あれが素なんだろうけど。でも、確実になにかを抱えてる」
「……どうして、そう思うんだ」
「見てなかったのかよ、オレに"疲れないのか"って聞かれたときの司センパイの顔。冬弥みたいにずっとあの人の近くにいる人だからこそ分からない部分かもしれねえけど。……なにが"大丈夫だ"だよ。やりたいようにやれてないのはあんたの方じゃねえのか。……司センパイ」