Win-Win 愛する人の首を絞めたいという衝動は、さほど異常なものではないらしい。
ふと「司くんの首を絞めてみたい」と思ったときにネットで調べてみたら、どうやらセックスをしているときに男性が女性の首を絞めることで互いに更なる快感を得られると知って、ほんの少しだけ腑に落ちた。
ただ、僕は別にセックスの最中に彼の首を絞めたいわけではない。セックスのときは苦しみに歪む彼よりもトロトロに溶けて喘いでいる彼を見て、存分に甘い時間を過ごしたいと思っているからだ。
――それじゃあ、普段からこんな衝動に駆られている僕は一体、首を絞めることでなにを得たいと思っているのだろう。
それを知るには、実際に行動に移してみるしかなかった。
***
放課後、休息日ということでショーの練習がなかった金曜日、僕は自分の家で司くんと過ごしていた。片付けを手伝ってもらうために前々から約束を交わしていたのだ。ガレージに入った瞬間に「うわ……」と心からがっかりするような声に若干悲しくなりながらも、「よろしく頼むよ」と苦笑した。
「足の踏み場がないじゃないか。全く」
「どこになにがあるかは分かっているんだけどねえ」
ブツブツと文句を垂れながらテキパキと片付けを進めていく司くんを見守っていると「お前もやれ!」と怒られた。
30分ほど経ってようやく床に散らばっていたものが整理されて、一息ついたところでリビングから麦茶と2つのコップを持ってくる。
「いやあ、さすが司くんだね。助かったよ」
「頼むから日頃から整理整頓をする癖をつけてくれ……」
「そんなことしたら司くんがうちに来てくれなくなってしまうじゃないか」
「片付けなんて名目がなくてもいつでも行くぞ、オレは」
相変わらず男前な僕の恋人がさらりと言いのけた言葉にキュンと胸が高鳴る。麦茶を淹れたコップを手渡すと司くんはソファに座ったため、同じくコップを片手に彼の隣に座る。
「ありがとう、類」
「こちらこそ。お疲れ様」
ふと目に映ったのは、顎を上げて麦茶を飲む司くんの横顔と――喉元。
コクコクと規則的に動く、喉仏。
サラサラした美しい髪の毛が顔の角度に沿って垂れる。そこに見え隠れする、白い肌。
思わず息を呑んで、じっくりとその様子を凝視してしまった。すぐに視線に気づいた司くんが、ぷはっと息を吐いてコップから唇を離したあとに訝しげに僕を睨んだ。
「なにをジロジロ見てるんだ」
「……ああ、いや……」
「?」
訪れる静寂。
今、この家にいるのは僕と司くんだけ。
ヒクッ、と口の右端が一瞬だけ引きつった。
「…………首を……」
「首?」
「司くんの、首を、絞めてみたいんだけど」
表情筋が麻痺した感覚に陥り、自分が今どんな表情をしているのか考える余裕もない。笑っているのか、狂気に満ちた顔をしているのか、怯えているのか、なにも分からない。
ただ、「まずいことを言ってしまった」と後悔する余裕はあった。普通に考えて、セックスもしていない穏やかな日常をともに過ごしている恋人に急にこんなことを言ったら、引かれるどころか警察を呼ばれかねない。まともに聞こえる言い訳をつらつらと頭の中で並べて全て早口で伝えてしまおうとしたところで、司くんが口を開いた。
「いいぞ」
「…………え」
「いいぞ、と言っている」
タラリとこめかみから汗が垂れた。自分が独特な性癖の持ち主であることは自覚しているが、目の前にいる男も同じくらい異常なのでは、と疑ってしまう。顔色1つ変えずに真顔で承諾するその姿にゾッとした。
「……いいのかい?」
「別にオレを殺したいわけではないんだろう?」
「そ……れはそう、だけど」
「なら問題ない」
コップを床に置いて、司くんは素直にソファに寝転がって、僕と向き合った。
これは、夢か?
おそるおそる伸ばした両手は情けなく震えている。言い出したのは僕の方なのに、平然としているのは確実に司くんの方だ。
明らかな異常空間。
――指先で首に触れて、ゆっくりと手のひら全体でそれを包み込んだ。
「……ッ、ん」
一瞬だけ司くんが喘いだ。くすぐったいのだろう。頸動脈から伝わるドクドクとした振動が伝わってきて、彼の"生"を直接実感する。
「……限界が来たら、なにかしらアクションを起こしてほしい」
ぐっ、と。
「…………ッ、……ッぁ」
整った司くんの顔が今日初めて苦痛に歪んだ。声を出すことすら困難なようで、ただひたすらに眉間に皺を寄せてだらしなく口を開いている。
首は、存外細かった。
ざわざわ。ざわざわ。身の毛がよだつような高揚感が襲いかかり、今まで全く分からなかった、この気持ちを抱いた理由が判明した。
"司くんの首を絞めることでなにを得たいのか?"
「……あは……ッ」
身体を動かせない司くん。逃げられない司くん。苦しむ司くん。涙を流す司くん。呼吸困難に陥る司くん。
僕は、彼の"命"を握っているのだ。
「…………生きるも、死ぬも……僕次第…………ッ」
つまるところ、"征服感"。これが答えだった。
首を掴む両手の力を骨まで折ってしまいそうなくらいに強めたら、司くんは簡単に死ぬ。緩めれば、生き永らえる。
どこまで……どこまで力を込めれば、死の間際へ導けるのだろうか。もっと?これでは足りない?どこまで許される?
ぐぐぐ……っと力を込めると、司くんの身体がのけ反った。
「も……っ、と……ッ!」
「――――ッ、……ッッ、ぁ」
理性を失いかけた瞬間、ぺし、と手の甲を叩かれた。
合図だった。
「…………!」
慌てて手を離したあと、咄嗟にソファから降りて司くんと距離を取る。両手を始めとして全身がカタカタと震え始めて、綺麗になったばかりの床に尻餅をついてしまった。
「…………ッ、はッ、ッ、ぁ、…………ッッ」
ソファに弱々しく倒れる司くんは口からボタボタと唾液を垂らして、必死になって酸素を身体に取り込んでいる。声も出せない、文字のない呼吸音。力なく落ちる両腕。一向に起き上がらない彼を心配して近寄ろうとしたが、情けないことに1mmも動けなくなっていた。腰が抜けたのだ。
荒々しく上下する腹の動きが、司くんが生きていると証明している。この空白の時間が、「踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまった」と僕を責め立てていた。
数分後、ようやく正常な呼吸に戻ってきた司くんは顔を動かして、僕を見つめた。
「…………どう、だった」
「…………。思い出すだけで軽く吐き気がする」
「…………すまない」
「首が圧迫されているからか頭全体がなにかに押し潰されるような心地になる。酸素が回ってこないから意識が朦朧とする」
「…………」
「そしてなにより――」
光を取り戻しつつある瞳が僕を捉えて離さない。
「……………………」
「……司くん?」
「……いや……。これを言ってしまっては楽しみがなくなってしまうか……」
「……?」
やけに冷静に説明をする司くんの思考になかなかついていけずに恐怖すら覚える。恋人の異常な頼みを快諾して、苦しい思いをしたにもかかわらず淡々と感想を述べて、挙句の果てには「楽しみがなくなってしまう」と発言を抑制する余裕まで伺えた。
とりあえず、合意の上だったとはいえ苦しめてしまったことに違いはないため謝罪の言葉を口にしようとした、そのときだった。
「――類」
甘ったるくて、淫靡で、脳味噌を溶かすような声。
「セックスしたい」
ダランと床についた左腕が持ち上がって、僕に向かってその手を伸ばした。毛先が重力に沿って頬や唇、睫毛に当たっているというのに一切払おうとしない様子に、この男がどれほど夢中になって僕を誘っているのかが垣間見えて、底知れぬ欲を全身で浴びた。
あまりにも妖艶だった。薄く開いた唇が。恍惚とした表情が。力なくソファに身体を預ける無防備な姿が。
「……な、に、言って……」
「はやく」
「……ッ」
心臓が揺れるたびに、息が荒くなっていく。司くんに引き寄せられていく。だらしなく膝立ちのまま歩いて、ソファに辿り着いて、彼に跨った。
衣服越しでも目視できる膨らみと、僕を映すことで史上最高にドロドロに溶けて潤った瞳。
司くんは、首を絞められて興奮していたのだ。
***
断る理由がなかったから了承した。それ以上でも以下でもない。強いて言うなら、「首を絞めてみたい」と躊躇いがちに言ってきた類の顔が獰猛さを隠し切れていない獣のようだったのが愛おしくてたまらなくなったから、なんでも頼みを聞いてやろうと思った。
結論。呼吸ができることの尊さ、美しさ、ありがたみを感じた。
それからもう1つ。
オレの首を絞める類の狂気に満ちた顔と、肌に触れる手の力強さを感じて得た――――興奮。
"類に命を握られている"というスリル。
「どうだった」と聞かれたときは「支配されている感覚に歓喜を覚えた」と即答するところだったが、こんなおかしな性癖を晒すのはもう少し先でいいだろうと判断して言い留まった。
ドクドクと身体の一点に熱が集まっていくのを止められるはずもなく、というか止める気もなく、本能的に類を求めていた。
さっきまでギラギラした目でオレを見下ろして力任せに首を絞めていた男に快感を与えられる。その気持ちよさと満足感を味わいたくて、早く類に触れて欲しくて、身体の震えが止まらなかった。
キスをされた瞬間、じわりと下着が濡れた。