椒モのまとめ仮出会い、過去の日常、バージョン2.5の話
※なんでも許せる人向け
◆序
星神、薬師という神を祀る「豊穣の民」彼等はその信仰により不老不死の恩恵を受けたという。豊穣信仰、薬王秘伝の蒔者たち信徒にモゼは育てられた。曜青にとって薬王秘伝は敵だ。子供の頃はそんな事なんて知らなかった。
「その時が来たら、互いに意志を継承しようではないか」
ただ家族が望むから、家族になれるならと、読める訳じゃない意味が分かる訳じゃない何かの文章を、それでも文字の形を覚えて書き、音を覚えて声に出せるようにもなった。
「蒔者は一心なり、共に仙道を登らん。苦難を乗り越えし者は、勝利すなわち生を得る」
家族は言う。蒔者になりたければ決闘で勝てと、そう言われて最初は偶然に野獣の牙を赤い口を避けて、手にした匕首が奇跡的な一撃を与えた事で死ななかった。周りに人がいた気がするのに、仲間だと家族が言っていたそれらが野獣に喰われたらしい真っ赤に塗装されたような床が朧げな記憶の中にある。
次は蒔者になりたい奴だったか、その次は家族を辞めたい奴だったか、その次の次は知らない奴だ。その先は覚えていない。
相手は獣だ。みんな獣だった。
二回目は毒を塗った刃が運良く相手に当たって勝った。三回目は武器を折られたせいで、素手で無抵抗になった相手が動かなくなるまで殴る必要があった。四回目は相手の刃が俺の腕を切り裂いたが、毒が塗ってなかったおかげで反撃して奴の喉に匕首を突き立てた。その先もそんな事を延々と繰り返して、勝てば食事のような物が与えられていた。
俺の服の赤く染まった部分が茶色く変色して、水ではそれが落とせなくなった頃から食事ではなく"薬"を与えられるようになった。
「薬王の慈悲、建木よ健やかに。蒔者は一心なり、共に仙道を登らん」
家族は言う。蒔者になりたければ病を治す為に薬を飲み干せと、そう言われて薬王の慈悲だと口の中に詰め込まれた薬物が吐き気と痛みを与えて、苦しくて苦しくて痛くて……?
最初は抵抗したような気がする。何日も続けば腹が減って口に入れられれば何でも良くなって、それでも薬の痛みと吐き気と飲んだ後の症状にずっと苦しんで?いたかも知れない。よく分からなくなって、無様に喘ぐ口をひたすら懸命に閉じていた。
「薬王の慈悲があらんことを」
うずくまって息を殺し気配を断つ。そうして小さくなっていれば痛くても、それが最小限に済むのだと信じていた。
次は何時ヒ首を握るのだろうか、次は何時あの薬を飲むのだろうか、毎日毎日毎日毎日毎日何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も家族が口にした言葉が、頭の中で反響したように響く。
何かを前にして、あれは獣だと言われれば手の中にあるヒ首で敵を終わらせてきた。
言われた通りに何も考えず、獲物を握った手が相手の息の根を止めるまで戦えばいい。
それなのに飛霄と呼ばれた、曜青の将軍は彼女を殺そうとした俺をいとも簡単に倒し捕まえて、この場所に連れて来た。
「おれに、さわるなっ!」
力の限り噛み付いた相手の腕から血が滲む。口の中に鉄錆の味が広がると怯みそうになる心を無視するように、噛んだまま息を吐き出して空気を吸い込んだ。
「気は済みましたか?君は随分と興奮しているようですが、そのままでは息苦しいでしょう?口を離してはくれませんか?」
狐族の男はそう言って俺の目を見た。痛くはないのか、それとも顔に出さないだけなのか、喰らい付いたまま男を睨み返す。
「椒丘あなた噛まれてるじゃない。モゼ、ひとを噛むのは良くないって言ったわよね?」
そう言って飛霄将軍が飛んでくると、噛み付いていた俺に男の腕を押し付けるようにして力尽くで口を開かせてから引き剥がす。二の腕を掴まれて距離を取らされたその拍子に、身体が空中で振り回された感覚と、どの怪我か分からないが痛みが走って一瞬目を瞑って耐えた。
「飛霄様、怪我人だと貴方が連れてきたのに患者に乱暴はしないでください」
「思った通り!やっぱり椒丘はそうでなくっちゃ」
「なんですか藪から棒に」
「はなせっ」
振り解こうとめちゃくちゃに暴れても、飛霄はびくともしない。
「そんなに暴れたら痛いでしょう?お願いですから、傷を見せてください」
「……っ!」
飛霄に椒丘と呼ばれていた男が、彼女から俺の腕を外させると此方を観察するように覗き込んだ。それが何か、家族が俺に薬を与える時に似ていて不快感を感じると顔を背ける。
「分かりました。飛霄様、彼のことはお預かりしても?」
「元よりそのつもりだったんだけど、この子のこと頼むわね」
「俺は、たたかえる!」
男に何か告げてこの部屋から立ち去ろうとする飛霄の背中を追いかけると、突然立ち上がったからか足がもつれた。身体が上手く着地出来ずに、部屋の移動棚だろう金属製のそれにぶつかってから床に再度転がる。
痛い。
何処が痛いのかわからない。
痛みが強くなったのか、息を詰めて熱さと間違えそうなほどのズキンとした痛みが脈打った。ズキズキと痛いのに震えが止まらない。
「動かないで、痛かったでしょう?もしかして動けないかも知れませんが、僕は君を治療したら離れますので、どうか怖がらないでください」
おまえなんかこわくなんてない。そう口にしようとした声すら出なかった。呼吸が上手く出来ないまま、近付いてきた狐族の男に倒れた身体を支えられて起こされる。腕を回された場所が痛くて、痛みに反応した腕が勝手に男を殴っていた。もう自分でも何がなんだかは分からない。
いつもなら匕首がこの手に握られていて、こいつが獣ならもう殺している。
「痛かったですね。すみません」
何を言われているのかすら理解できずに、視界が揺れてグラグラと歪む。迫り上がってくる気持ち悪さに耐えられずに、口を閉じようとしても痛みで唇が戦慄いて無駄な足掻きだった。
目の前の人間に口から出したものを吐き掛ける。
自分のその動作すら何処か遠くに感じた。こんな事をしたら殴られるか最悪殺されるだろうとも思ったが、吐いても身体の震えは止まらずに腹の中に何もないくせに良く分からない体液を口から嘔吐するのは止まらないようだ。
今殴られたら流石に死ぬかも知れない。
腕を上げた相手の気配にビクリと肩が跳ねる。目を瞑って身体を出来るだけ丸まらせれば、予想していた衝撃ではなく背中に触れた大きな手がゆっくりと何かを確認するみたいに触れた。
「まだ吐きそうでしたら、苦しいかとは思いますが我慢しないで吐き出してください」
その声に息をするよりも、まだ外に出たがっている食道を迫り上がってきた物を相手に再度吐き掛ける。やっと出せるものが無くなったせいかゼエゼエ荒く息を吐き出して、それを落ち着かせるように暖かい手が背を摩っては優しく俺の呼吸を誘導した。
「息を吸って、吐いて、怪我の痛みがあると思いますが、ゆっくり呼吸してください」
鈍い痛みの中で、その手の感触だけ際立つような鋭さもないが、どうしてか痛くない。
息をする度に口の中が気持ち悪くて、また気分が悪くなりそうになっていれば、男が持っていたらしい携帯ボトルの口を近付けられる。それが家族が薬を与えてくる時に似ていて、唇を開いてしまってから中身が何であれ、もしかしたらずっと何かで口を濯がせて欲しかったのだろうかと今更気が付いた。
ただの水が口内にゆっくり流し込まれる。
少し温いそれを口に含むと、濯いだら吐き出していいと言われた。何処にと思えば、俺が倒した棚に腕を伸ばしてそこから洗面器を出した男がここに吐いていいと言葉を続ける。言われた通りに口の中の気持ち悪さを解消して容器の中に吐き出せば、少し息がし易くなった気がした。
「お水は飲めそうですか?」
そう声を掛けて来た男に無抵抗に身体を持ち上げられて、その浮遊感にもう抗う事も出来ずに口を開けると、同じようにボトルの水を与えられて今度はそれを飲み下す。
水が欲しかったのだとそうぼんやり思いながら、さっきより少しずつ口に含ませてから俺が飲んだのを確認してそれを繰り返された。
何度かそうされて、水が無くなったのか俺が男にもういらないと拒否したのか、どちらか分からなくなったまま瞼が重く閉じる。声を掛けられているのはわかっても落ちるように意識を手放して、"敵を殺せもしなかった"だから死ぬのだとそう思った。
◆◆◆
十王司になんと言って飛霄が子供を連れてきたのかは知らない。
薬王秘伝は十王司の律条が定める七つの大罪を起こしている。
薬師を信仰する豊穣、その薬王秘伝の信徒がこの子供「モゼ」に服用させていた薬は、施設内の資料を飛霄たちが調べたものを特別に閲覧させてもらった限りでは「龍蟠蛟躍」それのようだった。もしかしたら類似の薬かも知れないが実験台と脳裏を過った思考に、この戦争の前では孤児もこういった事態も珍しくもないことだとも思う。
椒丘の記憶の中では知識として存在しはするものの龍蟠蛟躍については、丹鼎司の医士が知っている程度の知識しかない。長年戦場に身を置き続けているせいもあるが、薬王秘伝のこの薬はいくら調べたところで解毒剤が存在しないものとして、どうやっても助からない事だけは分かっている。薬王秘伝が子供を実験に利用して、彼らの言う妙薬とやらを完成させる為に無辜の命を傷付け続ける行為は到底許される事ではないだろう。
慈悲深い薬王の恩典だと薬王秘伝の信徒は口にするが、短命種に服用させれば身体能力を一時的に強化した後に衰弱死させる猛毒だ。だから飛霄が子供を連れてきた時にはもう随分と衰弱していたし、それでもなお暴れて吐いて噛み付いてくる様子に椒丘はこの命を生かしてやらねば自分は医士ではないだろうと点滴を与えて傷を手当てした。免疫反応による高熱は解熱剤の投与によって和らげはしたものの、気休めでしかない。
飛霄は子供を自分に似ていると言っていたが、椒丘からしてみれば自身の医士としての手の届かない現実を突き付けられているようだった。
「打てる手は全て打つ、それしかありませんね……」
飛霄を襲ってきた子供を彼女が返り討ちにした際に出来たらしい打ち身の打撲は、彼が栄養失調な事もあり骨折はしていないようだったが酷く痛むだろう。それ以外も全身傷だらけで、飛霄を殺そうとした事が最初の一回ではないと分かる。考えたくはないが洗脳により子供に殺しを強要し、食事を与えず薬を飲ませ続けて死ぬまで使い潰す。その薬も飲み込むのすら、かなりの苦痛を伴うらしいものだった筈だ。溜め息を吐き出しそうになると、椒丘は誤魔化すように子供に繋がれた点滴の官に水滴の落ちる速さを確認した。
眠っている彼を触診したところ内臓が弱っている様子をみれば、食事をするにしても固形物を接種するのは今は無理だろう。一時的に点滴で栄養を取らせたが、自身の身体に針が刺さっている事に起きて気が付けば動揺して暴れるかも知れない。戦場の兵士ですらパニックになる事は稀にあるくらいだ。子供、それも医士にかかった事がないような人間なら、なおさら治療と攻撃との区別が付かないのは想像に容易い。子供を大人しくさせる為だけに、鎮静剤の類いを矢鱈に投与するのも出来るだけ避けてやりたかった。
飛霄の話では、元気良く動いていたと聞いている。体力があれば、服用された薬が予想したものと違っていたら、もしかしたらと、どうすれば最善か考えるしか出来ない。
不意に吊るされたままの点滴が視界で揺れた気配に、緊張感がはしる。
「薬王の慈悲、建木よ健やかに。蒔者は一心なり、共に仙道を登らん」
子供の声にしては無機質な感情の一切宿らない不気味な呟き、それは椒丘が戦場で嫌と言うほど聞き覚えがある薬王秘伝のものだった。
一瞬の事だ。
針のような細く短い武器は、まず狙うならば生き物の部位で一番柔らかい眼球に攻撃を与えるのが常套句だ。致命傷、もしくは行動不能の決定打が打てればそれに越した事はない。得物が短く管が繋がったままだった事と、振り回してきたのが子供の腕の長さのおかげで助かった。
淀み無く殺すことを目的として鋭利な先端を利用した突き、それが目に届く前に不安定な簡易ベッドの上でふらついた腕を掴んで勢いに任せて押し倒す。点滴を吊るしていたスタンドが、子供と椒丘のやり取りに管を強く引かれた為けたたましい音を立てながら床に倒れる。目下、周りにある即凶器になりそうな物は床に落ちた。
まだ全く体調が回復していない子供の動きは散漫で、彼を完全に潰して仕舞まわないように気を付けなければ、と椒丘が思考する余裕すらあったほどだ。
子供の身長が椒丘の腰くらいまでしかないうえ、力が強くても華奢で体重がない事も幸いした。寝台に張り付けられた小さな身体が暴れようとしているが、椒丘の大人の重さは流石に持ち上げられないらしい。
握り締められた彼の指を一本一本無理矢理開かせて、点滴の針を手から放させると床に落とす。これで二人死なずに済んだ。良かった。
「まだ熱も下がっていないのに、怪我も痛むでしょう?こういう事は元気になってからして下さい。出来れば僕を殺そうとしないで頂けると助かるのですが」
めちゃくちゃに暴れて逃げようとした彼に蹴られても、この程度なら戦場では日常茶飯事だ。殺し合いになるよりはいい。彼の息が上がってきた様子に、子供の体温が上昇してしまったような気がする。触れている手首すら熱い。
また吐いたりしなければいいが言葉も出ないような意識の混濁状態で、それでも尚敵を殺そうとしている姿は恐怖のせいだろう。針が怖かったにも関わらず、それを使って椒丘を排除しようとした。自分自身はそういう存在だと洗脳されて、訳も分からず殺しをただ選択している。
子供の抵抗が弱くなると錯乱しているのだろう、鈍い視線を彼が椒丘に返した。
びくりと揺れた肩と、彼の着ているズボンの辺りにシミが広がり子供が目を瞑って何かに耐えるように息を吐き出す。
無防備なそれは幼く、失禁させてしまった事に椒丘は自分の選択が彼を傷付けたのだろうと分かってしまった。
それでも救いたいのは傲慢だろうか、傲慢ではあると思っていても椒丘にはそれ以外を選択するつもりはない。医士として絶対に患者を諦めたりはしたくなかった。
点滴の投与の後に結構汗をかいていたようだったが、圧迫されたせいというよりは精神的なものと、普段摂取していない水分がいきなり大量に子供の内臓を通ったせいもあるだろうと結論付けて流れてしまった水の量を確認する。
恐怖なのか顔を歪めて身を守るみたいに頭を肩の方へ縮こまらせた子供の姿に、これはこういう事があれば、殴られるなり周りの人間たちから害されていたのだと理解してしまう。最悪な集団への怒りを顔や態度に出さないようにしながら、彼からゆっくりと離れて距離をとる。
濡れたままでは気持ち悪いだろうに拘束を解かれると身体を丸めて小さくなった子供に、今から駐屯地の設備のシャワー室を使うのも連れて行くには、起きてからずっとパニック状態の彼を怖がらせるだけのような気がした。幸いなことに兵の治療や傷口の洗浄、消毒用に湯が必要な事が多い職場な為に、野外でも基地内でもある程度の給湯設備が常備されている。暖かい濡れタオルで身体を清潔にするくらいはさせてあげたい。
彼はじっとしたまま乾くまで待っているのか、何時もそうなのか、震えていて丸まっているのは寒そうにも見える。
動かなくなった子供から目を離さないように気を付けながら、備品を収納しているパレットラックに積まれた輸送箱を開き必要なものを雑に取り出して近くにあったキャスター付きの医療用ワゴンの上に置く。ワゴンの棚に常備として収納されていた洗面器を持って、室内の子供が寝ている寝台から一番離れた位置にある手洗い用の給湯システムまで移動すると、温度をパネルに片手で触れてから必要な熱さに上げて容器の中に湯を満たす。
棚に出しておいた服とタオルを腕に掛けるように持ち、ワゴン棚に普段から置いてある医療用の軟膏をポケットに仕舞った。
ワゴンを通用口の方に寄せて、洗面器にタオルを数枚浸す。手で触れて熱いくらいだが、それを絞ってその状態で幾つか持ったままタオルが冷える前に彼の元に戻った。
「辛いですね、少し宜しいでしょうか?」
もう今更遅いだろうが怖がらせないように彼に声を掛けて、此方に顔を向けさせる。
暴れたせいで更に具合が悪化したのか、怯えを含んだ表情はさっきよりも顔色が悪い。触ると嫌がるかも知れないが、立ち上がれもしない様子に手を貸してベッドに座らせ直す。
「濡れたままだと気持ちが悪いでしょう?ですから、これで拭いて此方の服に着替えて頂きたいのですが、僕のことは嫌ってくれて構いません。手を貸したいので嫌でも少しだけ我慢してください」
返事はなかった。意識が朦朧としているようで、脱がせますねと椒丘が声を掛けても泣くのを堪えているみたいに荒く呼吸を繰り返していて、返事どころではなさそうだ。治療をする為に彼が寝ている間も服を一度脱がせはしたが、ボロボロのこれだけがこの子供の唯一の持ち物であるのに結局取り上げる事になってしまった。
寄りかかるものがあった方が楽だろうと、彼を自分の方に抱き寄せて下履きまで服を脱がせる。さっき治療した時はここまで見なかったが、被れや子供自身で皮膚を引っ掻いたのだろう跡が痛々しい。刺激をあまり与えないように気を付けて恐怖に震えたままの彼の身体を手早く拭いてから、腕に掛けていた乾いたタオルでもう一度拭いてやり、軍の備品の一番サイズが小さな服を着せた。それでも痩せた小さな子供には布が余っている。
使用した布類は子供の服を含めて寝台の上に纏めていれば、彼の方から体重を支えきれなくなったようでより身体を預けるみたいに寄りかかってこられると、都合が良いためそのまま腕に乗せて抱き上げた。診察室と然程遠くない位置に、椒丘の幕僚としての仮住まいとして充てがわれた部屋がある。そこまで子供を歩いて運ぶと、移動する時にもう一枚手に取って来た濡れタオルで彼の顔を優しく拭いてやった。瞼のやにや吐いた時の涙の跡を拭かれて気持ち良かったのか、先程よりも和らいだ表情になった様子にホッと息を吐き出す。
椒丘を恐れているというよりは、パニックになるほど過去の出来事から反射的な恐怖を感じているのかも知れない。
点滴を無理に引き抜いて出血していた部分は血が固まっていたので、かさぶたを彼が爪で傷付ける事がないように粘着式の傷用のパッドを貼った。他の怪我も軟膏が乾いてしまっているところだけ塗り直して、出来れば水も飲ませたかったが、眠そうにしているのを無理に起こすのも忍びない。自分の使っている寝台で申し訳なく思いつつも、汚れた部屋よりはいいだろうと子供をそこに寝かせて布団を掛けた。
まだ最後の抵抗と、重くなった瞼を瞬いて眠りに落ちないようにしている姿に苦笑して、怖がっている相手を極力触らない方がいいと分かっているのに嫌がる素振りがないほどぐったりしている子供の額の辺りに手のひらをあてて祈る。
椒丘の体温につられるようにして瞼をやっと閉じた彼は、熱はあるもののまだ点滴の効果が効いているおかげで安らかに眠りに落ちていった。
このまま死んでしまいそうだ、とも思う。
椒丘が出来るだけのことをして、手を尽くしても、命というものは儚い。
彼が薬王秘伝に服用させられていた薬が予想したものでない事を祈りながら、このまま回復してくれるようにと小さな命を見詰めた。
◆◆◆
調整中
◆回想
その子は素裳だと椒丘が言っていた。同い年くらいの髪の長い子供、女の子の事は良く分からない。素裳にはお父さんとお母さんがいるらしく、椒丘がよく彼女の母親に怒られていたのだと話していたのを覚えている。彼女に聞かれて飛霄と椒丘は俺にとって何なのか、よく分からなかった。
だから彼女に俺は何と答えたのか覚えていない。
俺にとって家族とは、薬王秘伝の"家族"それを指す言葉だ。
鉄錆の匂い。そう、何時になっても慣れはしない血の匂いだと気が付けば手にした匕首から血が滴り落ちているのが分かる。そして水滴が落ちていく足元に広がった赤と、今はもう生きてはいないそれが床に転がっていた。
状況として、俺が殺したんだろう。
立ったまま眠っていた様子の自分の腕に、なんとなく手答えが残っている気がした。
生臭い匂いが全身にこびり付いている。
長い夢をみていた。妄想のようなそれの余韻を家族の声が打ち切らせるように俺を呼ぶ。まだ終わっていないと、新しい獣が目の前に放されて武器を確かめるみたいに握り直した。家訓だから?こうしなければならない。そういう決まりだからだ。
何かを発している獣のそれは聞こえない。俺には理解出来なかったと言っていい。距離を一瞬にして詰めると、相手の急所を狙う。姿勢低く足の関節部分に切先を突き立ててから、一気に振り抜く。また血が自分に掛かった気がしたが気にしている余裕はない。体勢を崩した獣に今度こそ最後の一撃を与える。そのつもりだった。
空振りした訳じゃない。刃が水を切ったように肉や骨を断つ感触がなかった。
え、と口から逃げた声に続いて、敵の姿がぐにゃりと地面に広がるように崩れていく。何度も見た事があるはずなのに俺は何を驚いているんだろう。ブツブツと言葉なのか分からないものを繰り返しているソレは、まだ生きているらしい。そうだ生きている。だから俺が家族を煩わせない為に、この状態になる前に息の根を止める必要があった。
この状態になったソレは、じきに勝手に死ぬ。
目や髪、歯を何度も再生して原形を失って死んでもなお、まだ生きているつもりのソレは薄々何なのか、もう本当は分かっているのに俺は考えるのを止めた。汚れた袖で匕首の刃に付着したものを拭き取って、刀身を鞘に戻す。
家族は俺がこのぐちゃぐちゃのソレの息の根を上手く止めなかったからだろう、怒鳴るような声が何かを責め立てて、それから治療だと俺にその行為を喜ぶように口にした。命のやり取りとは違う意味合いの緊張が身体を支配する。
何時ものように手渡された後に即、口の中に含んだ"薬"に恐怖で血の気が引くように震えると、凍り付いてしまった喉が痙攣して腹の中身が口からその場にぶち撒けられた。止めることも出来ずにただ吐き戻す息苦しさに耐えながら、周りにいる家族の叱咤が聞こえてくる。
俺は病気だから治療が必要なんだと、そう言われても苦痛を苦痛だと自覚してしまえば耐えられない。耐えられたはずなのにどうして、自分でも分からない。
あんなに飲んでいたのに、嫌だと暴れている自分が良く分からない。口から貴重な薬を吐き出したからだろう、怒り狂った家族に殴り付けられて蹴られて、動けなくなれば床を雑に引き摺られて連れて行かれる。汚いと罵詈雑言が投付けられたと思えば雑に水を掛けられたそばから、それが髪先で凍った気配に今度こそ死ぬかもなと思う。
血生臭さと嘔吐や排泄や諸々の匂い混じった悪臭が、身に付けていた服や自分の髪が水分を含んだせいで濃くなった気がした。それにすら気分が悪くなる。
力尽きたせいか手を動かすのも億劫だと抵抗を諦めて、良く分からない理由でもう二、三殴られてから口を無理矢理開かされた。舌の上に薬の味が広がって吐きそうだと思っても、今度はそれを許さないように"家族"達が俺を押さえつけて飲み下すのを見届ける。気持ちが悪い。
治療だと繰り返されるコレを当たり前のように受け入れながら、粘度の高いそれが身体の中を通っていく感覚が気持ち悪い。内側から食い破られてしまうのではないかと錯覚しそうな痛みと、息苦しさに喘いで宙に手を伸ばす。
耐えれば良かっただけのそれを、どうして俺は拒否しているんだろう。
拒絶したからか、視界がぐるりとまわる。腕を地面につこうとしたそれがベシャリと崩れた。悲鳴は声にならない。必死になってそれから逃れようと暴れてもばたついた足が、胴体が、床に投げ出された全てが、ぐちゃぐちゃに床の血に混じるように広がった。俺だったものが形を失っていく。きもちがわるい。
いやだと、そう最後に自分が叫ぼうとしたような気がした。
瞼を開けば、見慣れた椒丘の家の自分の部屋の天井が見える。
飛び起きてドクドクと煩いくらいに脈打つそれを無視するように立ち上がると、鼻を手や腕に押し付けて自分の匂いを確認してみても、夢の中の生臭いあの異臭がまだ残っているような気がして気持ちが悪い。
身体がここにあるのは本当なんだろうか、そう考えればいまにも地面の方へと崩れていきそうだとも思う。
夢と現実の区別が曖昧に脳の中でぐちゃぐちゃと混ざり合って、身体の芯がゆらぐようなグラグラとした感覚が、辺りの何もないはずの景色が狭まってきて俺自身がそれに圧迫されているようだ。浮遊感のような不確かな何処に足をついているのかも分からないまま歩く。自分が何処にいるのか訳がわからない。
何かに突き動かされるように駆け出して飛び出すと、視界に飛び込んできた一つの扉から部屋に入る。鍵もかけずに少し戸が開いてすらいたそこは、椒丘の部屋だ。グラグラした視界の中でも、どうしてかこの場所にだけは簡単に辿り着けた。もしかしたら、まだ夢から醒めてはいないのかも知れない。
寝台の方に近付くと眠っているのだろう椒丘の膨らんだ布団に、起こさないようにと潜り込んだ。外と比べるとそこは暖かくて、腕を伸ばした自分が横向きに寝ている椒丘にしがみ付く。しがみ付いてから、どうしてこんな行動をしてしまうの分からなかった。ざわざわとした感情が自分の中で膨らんで、耐えるように身体を硬くする。だとしても暖かいのは気分としてはさっきよりマシだった。
まだ夢の中なんだとしたら俺はぐちゃぐちゃなままなんだろうか、そんな疑問も椒丘の手が伸びてきて何処かにいってしまう。
そっと抱きしめ返されて背中を摩った手のあたたかさにもっと、と鼻先を椒丘の服に擦り付けるようにして呼吸を繰り返せば、鼻腔をくすぐる相手の香りを確認して強張っていた力が抜けていく。清潔な寝具、布、清潔な石鹸や洗剤の香りに僅かに混じったそれは、風呂から上がって自身の手入れをした後の椒丘の匂いだ。普段は椒丘の尾に触れた時によく感じていたそれに、密着したまま布団の中で温く包まれる。
「おやおや、怖い夢でも見たんですか?」
椒丘の問いかけに俺の意識とは無関係なところで身体が震えていて、上手く声が出せなかった。
「じゃあ、そうですね。夕餉は美味しかったですか?」
俺の様子に気を悪くした素振りもなく、椒丘は話を続ける。
「僕としては魚の水煮が良く出来ていたと思うんですが、やはり味付けが上手くいくのは楽しいですね。君も残さず食べてくれましたし、明日は何にしましょうか」
優しい声が身体の内側の何処かをくすぐった。これも夢なんだろうかそうだとしたら嫌だなと、しがみ付いた手で椒丘の服を握り締める。
髪を梳いた手が慰めるように頭を撫で付けて、そうされると身体の震えが指の触れた場所にビクりと反応したかのような違う意味にすり替わってしまう。椒丘の指の腹が俺の耳の後ろの辺りを触って、俺の形を思い出させるように"俺"をなぞっていく。
「最近君は、沢山ご飯を食べてくれるので僕はとても嬉しんですよ」
お父さんは手が大きくて不器用だけど優しく抱き締められると安心するし、お母さんはいい匂いがして、良くやったって褒めて撫でてもらえると安心するんだ。そんな事を素裳は言っていたが、椒丘のこれとは違うような気がした。ただ確かにそばにいると息がしやすい。
暖かい手が、何時も器用に薬を煎じる大きなそれが俺に触れる度に、胸の辺りがぎゅっと痛くなるような感覚を覚える。それが嫌なわけじゃない。本当にそこが痛くなっているわけでもない。熱いのか痛いのか区別が付かない分からない感覚は怪我をした時に似ていて、それでいて何処か決定的にそれとは異なった何か。緊張のような昂りに近く、昂りよりはじわじわと身体に広がる温いような熱が落ち着かないのに、深く身体の奥に積もっていくみたいに感じるのが、心の中の尖っていたざわめきが撫でられて熱の中に溶けてしまった。それが全身を満たしていく。満たされてそして溢れてしまいそうだとも思う。
この暖かさに身を委ねるみたいに、そう大きな手に擦り寄るようにして息を吐くと、その指先に頬を撫でられた。
それのくすぐったいような、甘く柔い触れ合いと椒丘の熱が身体に移ったみたいな感覚に堪らない気持ちになる。
椒丘は一体どんな顔をしているんだろうか、そう思えば顔を上げて身動ぐと夜の中で表情を覗き込んだ。本当をいえば"家族"の事が脳裏を過り、どこか恐れのような気持ちもあったのかも知れない。
俺の杞憂なんて無駄な事だと示すように、覗き込んだ椒丘の表情は小さく笑っていて、いまにも眠ってしまいそうな疲れを滲ませたそれが少しだけ気怠げだ。穏やかな視線が間近で瞬くと、俺を一瞥から閉じられる。僕はもう眠いので、だなんて呟いては髪を撫でるそれに抱き寄せられるまま椒丘の鎖骨の下辺りに頭を預けた。微睡に先に旅立ってしまった椒丘の寝息と、耳を付けた場所に相手の身体から響く脈打つ鼓動が聞こえてくれば、それが自身のものと重なるようにして夜の影の中に溶けていく。ポンポンと一定間隔で俺の肩を叩く手が、段々と散漫になってはゆっくりと止まった。
心の臓の鼓動はまた聞こえているから、椒丘が完全に寝入ってしまっただけのそれにつられるようにして抗わずに瞼を閉じる。
さっきまで胸の辺りをざわざわとしていた恐怖のような何かが、違うものに侵食されて影の中でじわりと温い温度に溶けてしまった。緊張とは違う昂りに似ていて、それでいて椒丘から移された体温に全部溶けて、そのまま俺自身もこの体温に溶けてしまえたら、そうなったらいいのにきっとそうはならない。それが少しだけ惜しいような気持ちのまま意識が眠りの方へと落ちていった。
◆◆◆
調整中
◆2.5
「椒丘にずっと一緒にいて、欲しい」
少し驚いたと目を丸くしてから、椒丘が笑った。モゼの言動に対して笑われた訳じゃないと分かるのは、相手の耳がへにゃりと下がっているからだ。言葉にする前にそうやって椒丘は、モゼが口にした言葉をきちんと受け取っていると何時も教えてくれる。
「ふふっ、すみません。君も飛霄様と同じことをおっしゃるので」
「飛霄様と……?」
「はい、以前にお傍にいるよう命じられました」
「……なんて答えたんだ?」
「はい、僕で宜しければ傍にいます。と、君にも同じように返すつもりだったんですが、モゼ、例え約束なんて無くても僕はここにいますよ」
「いいのか?」
「ええ、僕は構いません」
「……」
「僕は君が怖くないように、寂しくないように、寒くないように、自分の足で歩いて好きな場所に行けるように、そう願っています。ここに縛り付けてしまっていないか、とても心配はしていますが、君の意志が尊重されるのが好ましいので」
「椒丘が言ってる事は、よく分からない」
「君が嬉しいと僕も嬉しいです。君が悲しいと僕も悲しい。だから君がしたい事をしてください。本当に僕が君の行動に反対するような事があったら、その時は二人で話し合いましょう。相談してください。それに、もしかしたらこの先、誰かに焦がれて恋なんてしたりするかも知れないでしょう?僕は君の人生からしたら今は大きい存在かも知れませんが、いつかは他にもっと好きな人が出来たりして、他の人の傍が良くなる事だって……」
「俺はそんな話、してない」
「おや、脱線してしまいましたね、すみません。だから今は君が、僕の傍が居心地が良いのなら嬉しいです」
「……」
「安心してください。僕から君の手をパッと離して放り出したりなんてしないと、そう約束します」
「やくそく」
「はい、指切りです」
「これは、なんのいみがある?」
「君が大事なものをもう無くさないようにと、おまじないみたいなものですね。僕は嘘吐きですが、君の止まり木の一つくらいにはなれるでしょう」
「おまえは、うそをつくのか?」
「まあそれなりに、必要とあれば」
「うそは……、いやだ」
「はい、これは絶対につかないだなんて約束はしてあげられない事なので」
「……」
「もし嫌だった時は、今みたいに君の気持ちを教えてください。怒ったって構いません」
「わかった」
「君が僕を必要だと、そう思ってくれる限り傍にいると約束します」
「やくそく」
「椒丘……」
「モゼ……、逃げてください」
そう言われた時に、椒丘が嘘吐きだと言っていたのを思い出した。
調整中
椒丘が膝をついた俺の前に出た。痛みに息を吐き出して、反射的にホッとしてしまった自身を強く心の中で叱咤する。
記憶にある椒丘より随分と小さくなった背に庇われれば、丸まった背中は息を浅く吐き出して立ち塞がるようにゆっくりと背筋を伸ばした。椒丘が怪我をしてるのは知っている。
◆◆◆
なんで椒丘が死ななければならない?どうして、俺じゃなかったんだろうか?
怖い……と、
大丈夫、安心してください。僕が必ず助けます。そう言って暖かな手で、俺を勇気付けてくれた人が今こうして倒れている。
助けて欲しい。椒丘を助けて欲しい。
「椒丘、……」
たすけて、そう縋りつくような言葉が口から溢れると、自己嫌悪に苛まれて死にたくなった。
神様なんて知らない。
ずっとそうだった。怖くて苦しくて悲しい痛いも、心細いと思うことも、傍にいてくれる存在が何時も俺を守ってくれていた。手を握って必ず助けると大丈夫だと勇気付けてくれていた。
今度は俺がお前を助ける、そう思っても現実に打ちのめされて止血しようと椒丘に触れた手が震える。嫌だ。
調整中
霊砂によると、服用した「頂躓散」の毒により椒丘の体内は大量の内出血を引き起こし、そのせいで視神経の機能的失明や免疫系の損傷や増血機能に問題を起こしている。呼雷に噛まれた首から胸にかけて大きな傷は鎖骨にひびが入っているほか、見付けた時は破られた服の上から分かるほど出血が酷かった。
応急処置にもならない気休めの止血をした自分の手から、椒丘の血が滴り落ちるほどだったのを覚えている。
以上の、二つの理由から椒丘の容態は重症、重体、重篤と呼ばれる類のものだった。
現状、内出血は止まったものの内臓や内側の損傷が激しく、内出血を起こしやすいうえ、血液凝固機能が低下している。小さな切り傷ですら命に関わる為に、鋭利なものに触れさせないようにと念を押された。
眠っている姿は何時ものそれよりも、何処かこのまま目覚めないような不安を感じさせる。椒丘の意識はあれから数日間、何度かは戻っているものの長時間起きることは困難なのか、丹鼎司の医士と少し言葉を交わすと直ぐに再び微睡に落ちていたようだ。
椒丘が一命を取り留めたのは龍尊の白露がおこなった特殊な治療と丹鼎司の霊砂の判断のおかげだと、飛霄がそう呟いて眠っている椒丘の様子を何度か確認しに訪れては自身の病室へと戻っていった。
そんな事が幾らか続いた後、流石に疲れがでたのか不意に立ったまま意識を眠りの方に取られて瞼を閉じる。僅かな間のそれがどれくらいの時間だったのかは分からない。
「……モゼ?」
一瞬、夢の中の出来事かとも思った椒丘の声は、瞼を開けると此方に顔を向けるようにして俺がここにいるのか確認しているのだと分かった。
「…………ここにいる」
目が見えていないから、声を発しなければいけないのだとそう思うと上手く言葉が出ない。それでも俺の声を聞いた椒丘は少し笑って、ここにいるのだと確認できた事に安心した様子だった。
「君、怪我は……?大丈夫なんですか?」
いつもの調子でそう口にした椒丘に、一体何を言われたのか分からなかった。怪我人はお前の方だろう。頭が真っ白になって怒りに似た物が込み上げる。ぐちゃぐちゃの思考を、それが熱するように目頭が熱くなって視界が歪んだ。
幾つも管に繋がれて、いまにも死んでしまいそうなくせに、どうして周りのことを気にしているのか分からない。
椒丘は誰にだって優しい。そんな事知っていたし、医士として治療に対する執念だとか、志を貫く強さだとか、怪我だろうが病気であれ絶対に相手を見捨てない責任感?献身的?馬鹿だろう。俺に対してだって、俺がお前の心配をしていたんだとすら言わせてくれない。
お前は、自分自身のことすら誰かに献身的に差し出して満足してる。
それを嫌だと言う資格が俺には無い。嫌だと言って辞めさせたいわけでもない。でも、嫌だった。すごくつらい。ぼろぼろになったお前を見ているとくるしい。
「モゼ?」
視界が歪んで上手く言葉が出てこない。
瞬いて歪みを取り除いても、此方を見ている椒丘と視線が合わない事がかなしい。
見詰めたまま、また視界が歪んでどうしようもなかった。
わかって欲しいだなんて、見えない相手に我ながらおかしいと分かるのに嫌だという気持ちがぐるぐると思考をかき混ぜては立ち尽くすしかない。
お前が死ぬのはいやだった。
それなのに、どうして分かってくれないんだろう。
怖かった。
つらい。
かなしい。
「もしかして君、泣いているんでしょうか?怪我が痛みますか?もしそうなら霊砂をお呼びして……」
「ちがう……」
「モゼ……」
俺を見ようとして、困ったように視線を向けたそれがどうしても見詰め返される事はないのだと突き付けてくる。
それがくるしい。
「でしたら、もう少しだけ近くに来てはいただけませんか?」
「……」
室内の壁から背を離して椒丘に近付く。分かるようにと足音をわざと立てれば、手を伸ばされてそれに当たり前のように顔を寄せる。
何時もより低く感じる椒丘の体温と触れ合うと、少しだけ呼吸が落ち着くような気がした。目元を優しく撫でた大きい手が涙を拭う。もう椒丘と手の大きさなんて然程変わらないのにも関わらず、そう思ってしまう自分が子供の頃からの染み付いたような安堵感に抗わず震える息を吐き出した。
「いまの僕は君の表情を見る事は叶いませんが、それでも涙を拭うくらいは出来るんですよ」
椒丘はそう言って止まる気配のない俺の涙を拭ってから頭を撫でる。
俺は椒丘の覚悟だって知っていた。つもりだった。
涙なんてそんなものは、俺の強さが足りなかったからだ。そしてなにより椒丘の覚悟、そのほんとうのところを理解していなかった。それがくやしい。
「君のおかげで、僕は生きています」
椒丘の言葉の通りではあるかも知れない。それでも納得は出来なかった。
「ありがとうございます、僕を助けてくれて。ずっと気掛かりだったんです。君があの場を上手く切り抜けてくれると信じていましたが、生きながらえてくれて良かった。こうやって話せることが本当に嬉しいです」
「おれは、なにもできなかった……」
重ねて椒丘が告げてくる言葉は、やっぱり俺の身を案じたものでそういう人間だと痛いほど分かっていても心がつらい。あれだけ心配していたというのに何処かで俺は、椒丘は死なないと思っていたのかも知れない。俺の中で普遍的に椒丘がいる事が当たり前だったからだろうか、それとも俺の殺しにおいてはずっと椒丘が部外者であり続けたから暴力に晒されて奪われる事を失念していた。
ずっとそばにいて、くすぐったくてあたたかくて、そんなものが続くと馬鹿みたいに思っていたんだろうか。
俺の刃はひとを護るようなものじゃない事は自分自身が一番良くわかっていたのに、今更怖がって悪夢のような現実に恐怖している。刃を凶器を握る手で、優しい手のひらを握り締めて耐えようとしても溢れてくる感情を止められなかった。
「おまえが、しんでしまうと思うと、こわ、かった……」
「そう、だったんですか」
涙と同じように、口を閉じることも出来ずに拙い言葉で椒丘にこの感情をぶつける。
「いやだった。いやだ、椒丘……しぬな……」
「大丈夫、僕はこうして生きていますし。僕自身の体感でも峠は越したようですから、もう流石に簡単にはそんなことにはなりませんよ」
上手く言葉に出来ずに首を横に振ると、見えている訳でもないのに椒丘が俺の気持ちを汲み取ろうとする。汲み取らせるにはきっと色んなものが混ざり合い過ぎて、酷く自分勝手な要求だと自覚もしているのに分かって欲しくて仕方ない。
「もしや、君は僕に最期を看取られたい……、ということでしょうか」
「……お前が、俺より先にしぬのはいやだ」
「きっと僕は、また同じような状況になれば同じような選択をしてしまうでしょう。そうならないように努力はしますから、それで許してください」
「いや、だ……」
子供の頃すら、こんなにも椒丘を困らせると分かっていて言葉をぶつけた事はない。
「おやおや、困りました。じゃあどうしたら許してくれますか?」
「しぬな……」
「ふふ、わかりました。もしかしたら、また不測の事態が起これば、こうやって破ってしまうかも知れませんが約束します。君より先に死んだりしません」
酷いことを言っている。本当はずっと椒丘に酷いことを言って来たのかも知れない。自分だけ置いていかれたくはないのだと、置いていかれる事はないのだと、そう無邪気に思って何も考えず生きてきた。だから椒丘が死ぬかも知れないだけで、こんなにも傷付いたように本人に甘えて約束ばかりねだって、その実この約束を相手がどう思うかも分かってしまったのに強要している。
大切な人が傷付いたらつらい。かなしい。くるしい。置いていかれるのはいやだ。
俺が先に死んだら椒丘がどう思うのか、もう分からないままではいられない。知ってしまったから、自分勝手な言動に自己嫌悪と甘えと了承された喜びでぐちゃぐちゃだった。わがままな言葉の刃物を相手の胸に刺し込んで、どの口が「死ぬな」だなんて言っているんだ。
「……」
ずっと椒丘は例え俺達が天寿を全うしようとも、この医士を置いて先に死ぬと分かっていて許している。今もそうだ。理不尽にこうやって寄りかかって甘えているのに、歪んだ視界を瞬いた先に見えたのは視線の合わない眼差しと笑った口元。
「君が生きていてくれて本当に良かった」
そう言って心底嬉しそうに優しく微笑んだ姿だった。撫でる手が髪を梳いて、子供をあやすように俺を慰める。どうしようもなくなった感情をそっと撫でられて、声をあげずにただ安心して泣くことしか出来ない。こんな子供のまま許されてしまったらどうすればいいんだ。
こうやって曝け出して、自分を明け渡すのはもう椒丘以外に出来るわけもないのに、今更手を離されたら途方に暮れてしまう。ずっと手を離さないで欲しい。
お前が生きていて良かった。
先に言われてしまって悔しい。それが嫌なわけでもないのも悔しい。子供扱いされてホッとしている自分の守れなかったものが、この暖かい優しい存在なのがくやしい。
もしあの時、椒丘が二度と息を吹き返さなかったとしたら、俺は誰を憎むべきだった?飛霄?呼雷?怒りに身を任せて狂って誰にこの刃を向けていた?そうならなかった今尚、この怒りや殺意、衝動が湧き出るように溢れてくる感情を誰に向ければいい?
叫び出したくなるような途方もないそれに溺れないように、必死になって呼吸を繰り返せば繋いでない方の椒丘の手が背に回るとぽんぽんと軽く叩いて俺の息を促すみたいに誘導する。
「過呼吸ですね。こんなに泣かせてしまって、すみません」
自分が怪我してることもお構いなしに、俺の頭を肩口の辺りに寄せさせてくるのがたまったものじゃない。体重を掛けないように顔を擦り寄せて、椒丘の手が教えてくれるタイミングに合わせるように呼吸を整えていく。
椒丘は何時だって俺の一番近くに居た。
誰も代わりにはなれないし、きっとこの先もずっとそうだ。
俺は生きる理由なんて幾つも持っていない。
長年に自分の手の中にあった復讐が、形を変えてしまった。
それが嫌で戸惑って先送りにしていたのにも関わらず、いまは強烈な怒りに塗り潰されている。
「君は優しいから自分を責めているんでしょうが、僕はこれで良かったと思っているんですよ」
「……いいわけがないだろ」
椒丘が俺の言葉に謝罪の言葉を呟きながら苦笑したのが分かる。
きっと本人に言えば、この感情を好ましくは思わないだろう。
だから言わない事にした。
言わなければ追及されないと黙って、椒丘からすれば当て付けに感じるかも知れない。椒丘がもし、もう一度俺の表情を見ることが出来ればと気が付かれないことに傷付いてもいる。昔も今も矛盾だらけだ。それすら俺の中では意味もない。
呼吸が楽になると、椒丘の手が背中から離れた。
それを自分から掴むことは出来ずに目だけで追いかけて、恋しがるように息を深く吐き出す。
俺のこの手は既に血に染まっている。
椒丘をこんな目に合わせた存在を、絶対に許す事は出来ない。
これがひとりよがりだと分かっていても、ずっとそうやって生きてきた。今更他の生き方ができるほど器用じゃない。
「モゼにこんなに泣かれるだなんて、本当に思っていなかったんです」
「どういう意味だ」
「そんな悲しそうな声を出さないでください。僕はこれまで充分生きてきて、医士として自分の役目を無事に果たすことが出来ました。この事実と現状にすごく満足しています」
「勝手に満足なんてするな」
顔を上げるように握り締めていた指先に誘われて、視線の合わない椒丘と向かい合う。
「こんな僕でも君たちはまだ必要だと言ってくれる。これほど幸せなことはありません。だから少し欲張りになってしまいました」
「欲張りに……なれば良い……」
「本当にそう思いますか?」
「俺も、飛霄様だって、お前のそばにいる」
「心強いですね」
俺の言葉を聞いた椒丘が、元から合っていない視線を逸らすように考える仕草をした。伏せられたそれは、体調のせいで顔色が悪いからか余計に悩まし気だ。
「不安なのか?」
「それもあります。僕の軽率な行動が、君や飛霄様を深く傷付けることだってあったかも知れない。それは理解しているつもりです」
「軽率だと思っているのか?」
「いいえ、考えに考え抜いて最善を尽くしたつもりでした。ですが、二人からすれば僕に信頼されていないと感じたかも知れません」
軽率だとは思っていませんでしたが、たとえ最良の結果は得られていたとしても重く受け止めています。と話を続けた。
椒丘の忠誠心や覚悟を俺も軽く見ていたわけじゃない。それでも自分の命より他人を優先した事実はどう考えればいいか分からない。嫌だったから、嫌だと告げても、椒丘を間違っていると否定するのも違うと分かっている。
「僕のような人間は、誰かを傷付けないようには生きられない。見えなくなったことで、気が付いた事もあります」
「そんなのは当たり前じゃないのか」
「そうですね。そうかも知れません」
椒丘の繋いでいない方の手が確認するように俺に触れる。骨張った指先は器用に何時も薬を煎じているからか武器を持つのとは違う部分に皮膚が硬くなっていて、それでいて手荒れはしていない手入れされたそれが涙の跡をなぞった。頬から目元、眉毛の辺りをさすられて表情を見られているのだろうと分かる。
「君を抱き締めてもいいですか?」
改めて聞かれると思わなかった言葉に、さっきまでそうしていただろうとは言わずに頷く事で肯定すれば、言葉に言葉で返す事に慣れていないから不自然に押し黙ったようになってしまう。
「…………良い」
「ありがとうございます」
さっきよりも寝台に乗り上げるようにして椒丘に身体を預ける。内出血の話を頭の中で反芻しながら手を付いて体重を掛けないようにしていると、思ったよりもしっかり抱き寄せられて子供の頃のことを思い出す。暗がりで息を殺して心細かったはずなのに、俺を探して見付け出した椒丘に抱き上げられると暖かくて顔を寄せて優しい香りを吸い込むと安心すればすぐ眠くなっていた。反射みたいなものだ。いまも眠気のようなものを感じて息が口の中から自然と吐き出される。それに椒丘が小さく笑った声が聞こえた。