鍵 扉に手をかけたとき、違和感に気づいた。
鍵がかかっていたのだ。珍しかった。
シャーレアンにありがちな、真っ白い石でできた家だ。滑らかな切り石が隙間なく積まれている。基礎の上には帯状のレリーフが一筋、家をぐるりと囲んでいる。巻貝の匠意が繊細だ。また、扉はきれいな長方形で、両開きだった。水色の木材に緑のタイル飾りが特徴的で、ドアノブだけが金色の金具でできている。この取っ手をつかんで、グ・ラハははっとしたのだ。
冒険者は、一人で家にいると鍵を掛けない。鍵をかけるのは、いつもグ・ラハの役目だ。彼の家を訪ねて、二人きりになったら鍵をかける。それが、ふたりでくつろぐひと時の合図だった。
だから、玄関の鍵に驚いた。
家の周りをぐるりと歩いてみたところ、幾つかある窓もしっかり戸締りされていた。なるほど、外出、それも遠出しているらしいと分かって、グ・ラハはやんわり笑った。
嬉しかった。
合鍵は持っている。玄関に戻って鍵を開け、部屋の中に踏み込んだ。
正面に見えるのはダイニングキッチン。右手側に寝室スペースが続く、一間で生活する部屋だ。そこいらじゅうきれいに磨き上げて、布をかけてある。
どうやら本当に出かけたらしい。
グ・ラハは上機嫌になって、きれいに整えられたベッドの上に、布団もめくらず横になった。
やわらかいスプリングで弾みながら、ふふ、と声を出して笑う。
悪くない置いていきぼりだ。
横になって天井を見上げ、ほうっと息を吐く。
久々に冒険者が出かけた。
これが、グ・ラハにはたまらなく嬉しい。いい兆しのように感じられる。
この数週間、冒険者は家にいた。家で薬を作ったり、細工物をしたりと、それはそれで忙しそうにしていた。
しかし、街の中で繋がれた犬のようにしているとき、彼は沈んで見えた。
楽しそうに細工物をしているのに、うつむいた顔に影があった。
そんな時、グ・ラハにできるのは、ただ傍にいるだけだ。どんな言葉も嘘らしく感じた。励ましの言葉は冒険者の表面だけを滑って、彼の内側に落ちていかないと感じられた。
特別な力をもたないグ・ラハですらそう感じるのだから、クルルなどは冒険者に会ったあと、ひどく悲しそうな顔をする。
冒険者が右足を無くした時のことが、グ・ラハには今でも良くわからない。彼はまともに話そうとしないし、聞かれるのを嫌がった。
足を失った彼と初めて顔を合わせたのは、久々に暁の血盟全体で集まろうと決め、ラストスタンドで小さな会合をしたときだ。
彼はなんでもない風にそこへ来た。足を失ったなどと口にもしなかった。
ただ、ヤ・シュトラが驚いた顔をし、クルルが真っ青になって、尋常ではない事態を悟った。
何かある。気づきながら、解散の瞬間まで誰も口にしなかった。冒険者が一人で去ったあと、ようやく、ヤ・シュトラが重い口を開いた。
「あの人、右足をどうしたのかしら」
彼女の目は、視力でものを見ていない。エーテルの流れで世界をとらえている。だから、一目で分かったのだ。冒険者の右足が、人体と同じ仕組みで動いていないのだと。
クルルもそうだ。彼女の超える力は、人の心を読む。口にせずとも、様々な本音を読み取ってしまう能力がある。
「ラハくん、彼を追いかけてくれる? 体調があまりよくないみたいだから、ナップルームで休ませてあげて」
グ・ラハは慌てて冒険者を追いかけ、森の隅にしゃがみこんだ彼を保護した。ナップルームで向き合った彼は、かつてより少し、小さく見えた。
その「とき」のことは詳しく聞けなかった。
ただ、どこかの戦場にいたのは知っていた。さわりだけを聞いた。
冒険者は自分で足を切り落としたのだ。
がれきに足を挟まれ、転移魔法でも抜け出せなくなった。周囲に危険はなかったが、リンクパールは繋がらず、糧食も尽き、進退窮まったのだという。
足を切り落として窮地を抜け出し、ラザハンへ飛んだ。そこで義足を手に入れ、何食わぬ顔でいた。
会合にしても、足が痛まなければ何食わぬ顔でやり過ごすつもりでいた。
だが、彼の体はそれを許さなかった。
不謹慎ながら、その時グ・ラハは「良かった」と思った。彼の弱さに触れられて良かった、と思ったのだ。
それからしばらく、冒険者はナップルームに居ついた。死んだように眠っては起きる彼の様子を見るに、ひどく緊張して過ごしていたのだろうと知れた。
足はたびたび痛んでいるようだった。
家が手に入るよう手を回したのは、冒険者につられてクルルまで体調を崩しがちになったからだ。
あの時、両手に病人を抱えて、グ・ラハは呆然としていた。培ってきた経験も、人脈も、ほとんど役に立たなかった。ただ、どうにかこうにか、オールドシャーレアンの片隅に小さな家を手に入れた。
後になって周りからさんざんに言われたが、決して彼を囲うつもりはなかった。
だが、こうなってはすべて言い訳だろうか?
冒険者は、安心した顔を見せるようになった。また、職人のような様子で、この家に居つく時間が増えていった。
家など、与えるべきではなかっただろうか。
だが、彼には安息の場が必要に見えた。
そしてクルルにも、自分にも、彼と離れている時間が、必要だったのだ。
グ・ラハは、彼の傍にいすぎると、おろおろする自分を自覚していた。
何もできはしないのだが、何かしてやりたくなる。手を添えたり、傍にいたりするだけでいいと言われても、何かもう一つ、してやれることがあるのではないかと考える。
まるで孫煩悩な爺になったようだ。
学生を冒険者の元へ遣ってみたり、みょうな誘惑をしかけたりしても意味がないことは、十二分に知っていた。
それでも何か一つ、してやりたい。それで彼が、かつてのような快活さを取り戻すならばなんでもしよう。
そんな決意と共に、現実を冷静に見る己がいる。
いまグ・ラハが冒険者のためにしてやれるのは、少しだけ距離を保つことだ。
付かず、離れず、必要な時は必ず助けになることを示しながら、衛星のように距離を保っている。それがきっと、一番彼の助けになるだろう。
理解しているのに手を出しすぎた結果が、この家のように思われた。
薄暗い部屋の中で思案にふけり、グ・ラハは重くて苦しい溜息を吐いた。