鹿の園「わざとだろ」
冒険者はグ・ラハを睨みつけた。
「何が」
グ・ラハはいたずらっぽく笑い、開いていた本をダイニングテーブルに置く。
冒険者の小さな家でのことだ。
夜半は疾うに過ぎている。同じ部屋で、それぞれに過ごしていた。正確には、冒険者がクラフト仕事をしているところに、グ・ラハが訪ねてきたのだ。グ・ラハは冒険者の仕事が終わるのを待つつもりで本を開き、いつの間にか待つ者と待たれる者が逆転していた。
冒険者はグ・ラハの傍に座り、グ・ラハが顔を上げるまで根気強く待っていたらしい。そうする内に日が変わったのだ。
部屋の中には間接照明がいくつも配置されている。趣味良く照らされた空間で、グ・ラハはやんわり首を傾げる。
何を指摘されているか、分かっているつもりだ。
「学生をダシにするな」
冒険者は念押しするように言った。昨日のカ・デラの訪問に物申すつもりなのだ。グ・ラハは口を尖らせる。ダシにしたつもりはない。あれは社会見学だ。
「あいつ、興味津々、って顔するんだ」
「初心なんだろ」
「だろうな」
はあ、と溜息をついた冒険者はグ・ラハの傍にカップをひとつ置く。湯気を上げているのはハーブティーだ。すでに深夜である。もう寝よう、という冒険者の意図を察して、グ・ラハは唇に短く礼を乗せた。「ありがとう」という声に、さらに短い応答が「ん」と返ってくる。
「腹に据えかねてるなら聞く」
冒険者は静かに言った。何かに怒っているのか。問われれば否だ。グ・ラハは首を左右に振って明るく応じる。
「別にないよ。ただ、ちょっと刺激」
「刺激?」
冒険者は怪訝そうだ。グ・ラハは得意になって、首を傾げて見せた。
「若くて初心なミコッテの雄、好きだろ」
だから、カ・デラを冒険者の元に使いへやった。冒険者が彼に興味を持てば面白いと思った。だが、この手の気遣いはいつも冒険者を怒らせる。
「俺がキレそう」
キレそう、といいながら、冒険者は額に青筋を浮かべている。それはもう憤怒しているのと変わりない。グ・ラハは今度こそ声を上げて笑った。
「冗談だよ」
「どうだか」
これまでに数回、グ・ラハは冒険者の元に学生を送り込んだ。結果は奮わない。冒険者は誰ともそう仲良くならなかった。グ・ラハはそれを、口惜しく思う。
「あんたがああいう子たちをさ、ちょっとしたフィールドワークに連れ出してくれたら、面白いだろうと思って」
それだけではないことは、お互い百も承知だ。だが、冒険者はこの額面上の言葉を、ひとまず受け入れてくれた。やっと笑って頷いたのだ。
「……そうだな」
どこか曇った笑いだった。
「足、また痛んだのか」
グ・ラハは冒険者に問うた。薬棚の痛み止めが減っているのは確認済みだ。困ったようにうなずく冒険者の体に頭を寄せて、彼の背を叩く。励ましの意をこめて、何度も。
「義足の調子は?」
「悪くない」
「そっか」
ラザハンの錬金技術で作られたそれは、ほとんど生身の足と変わらない動きをする。冒険者は、行こうと思えばどこへでも行ける筈だ。
だが、彼の旅は少しずつ短くなっていった。
一月の放浪が二週間になり、一週間、三日、最近では、この家にいる時間のほうが長い。時々長く出かけることはあるが、家を訪ねれば、おおむね会うことができる。
別におかしなことではない。いまでも、グ・ラハと比べれば冒険者はよく出かけている。けれど、そうではないのだ。
「なあラハ」
冒険者はおもむろにグ・ラハの背へ腕を回した。そうして脇の下に抱きしめられると、グ・ラハは今も、陶然とした気持ちになる。
「なんだ?」
応じながら、ぴったり体を寄り添わせる。
よく馴染んだ体同士、互いの凹凸を知り尽くしているようにかみ合った。こうしていると互いの顔は見えない。ただ、体を通して、声帯の震えが伝わってくる、
「外へ出ない俺はつまらないか?」
「そんなことない」
これには即答できた。
「助かってる。カ・デラや、ほかの留学生の教材も、作ってるのはあんたじゃないか」
「……そうか」
「なんだよ。不安になったのか?」
「お前を煩わせてないかは不安だな」
「俺? なんで?」
「俺が若いやつになびけば満足か?」
「ああ……」
こだわるのか、と思った。
だが、そうだ。
グ・ラハは少し笑った。自嘲の混じった笑いだった。
「俺が、あんたを引き留めてるんじゃないかと思ったんだよ。昔ほど、身軽じゃなくなったから」
「それは違うな」
冒険者は短く言った。
「ただ、痛みにやられてるだけだよ。痛むと、お前を思い出す。お前がいたら、と思う」
「……何もしてやれないだろ」
「いてくれればいいんだ」
応えは短く、明確だった。
グ・ラハはぐっと呻いて、冒険者の体に頭を刷り寄せる。そうする以上に何もできなかった。頬が熱い。
「わかった」
何度も頷きながら、冒険者の手にそっと指を触れる。するり、と指が絡まった。
「お前、明日の予定は」
「休み」
「よし。出かけるぞ」
「どこに」
「ラザハン。義足の調整に」
「……付き合う」
短く応じながら、絡ませた指を握ったり、離したりを繰り返す。そうして指先で戯れていられるのが、ひどく幸せだった。