古い書 賢者様がいなくなってしばらく。幸いにも(或いは残念なことに)フィガロはまだ生きている。次の年の厄災を退けるための賢者が召喚された。落ち着いた雰囲気の男性だった。新しい賢者は、去年の賢者の書は読めないと言って本棚に戻した。
「読めないけど、とても丁寧に書かれているのは分かるよ。前の賢者様は皆のことが好きだったんだろうな」
新しい賢者にそう評された書の背表紙を眺める。そこでふと、すでに去年の賢者の顔も名前も思い出せないことに気がついた。通常の記憶消去の魔法をかけられたのとはまた違った感覚がする(かけられるよりかける機会の方が遥かに多い人生だったけれどそれくらいは分かる)。初めから無かったようにスウと溶けていってしまった。
本棚に戻された賢者の書を抜き取る。自分の精神に干渉されたという理不尽と屈辱を忘れないためだった。今代の賢者は別の数年前の書を持っていった。それにこんなにたくさんあるのだから、一冊くらい減っても構わないだろう。そう言い訳はしつつ、でも双子先生たちにばれないようこっそり図書室を出た。
フィガロにとっては3人目の賢者が召喚された。異世界にもすぐに順応しそうな強い女性だった。先代の賢者の書が読める言語で書かれていたようで、それを持っていった。つまり、フィガロを召喚した賢者の書いた書、今はフィガロが自室に隠し持っている書は、3人目の賢者の言語で書かれてはいないということだ。賢者にとって不要なものであるなら、誰にとっても不要なものになる。このまま持っていても問題ないだろう。
フィガロにとっても使い道はないが、夜の晩酌中たまにページをめくってみる。文字は読めない。文字の合間に小さく描かれた絵を眺めたり指でなぞったりする。レノックスのページの羊やルチルのページの羽ペンのように、あの時の賢者は各魔法使いにちなんだ絵を描いていた。ハートが描かれたページ、これがフィガロについて書かれたページだったということは、まだ覚えていた。
「なんでハートなんだっけ」
文字が読めればそれも思い出せるのだろうか。
フィガロにとっては4人目の賢者が召喚された。長い髪を1つに結って揺らすのが様になっていた。10冊遡っても第一言語で書かれた賢者の書がないと嘆いていた。仕方がないので自室に戻って隠し持っていた賢者の書を持ってくる。その頃には40冊遡っていたが未だ読める書は見つからない。しばらく眺めて50冊目に差し掛かったところで声をかけた。
おかげで賢者の書盗難について双子先生にばれた。なぜ盗み出したのかと問われ、異世界の言語体系に興味を持ったからと答えた。その回答に満足がいかなかったようでさらにお小言を浴びる。今まで気付いてすらいなかったくせに、とこっそりため息を吐いた。その上、4人目の賢者は、その賢者の書も読めなかった。怒られ損だった。結局70冊ほど遡って、まだ読めそうな書を見つけ出した。古い書き方で読みづらいが頑張って読むと意気込み、そしてフィガロに向かって言った。
「私も解読を頑張るから、フィガロもこれを解読してみませんか?」
フィガロを召喚した賢者が書いて、フィガロが盗み出した賢者の書を差し出された。良い人はここで頷くものだから、フィガロも頷いた。いっしょに頑張ってくれる人がいたら励みになるのだと、4人目の賢者が双子先生を説得する。その賢者の書は公式にフィガロへ貸し出されることとなった。
フィガロにとっては5人目の賢者が召喚された。大らかな老人だった。それと同時に、フィガロが賢者の書解読のため使っていたノートが消失した。書かれた文字を一つずつ書き出し、特徴を列挙し、類似性を探し、体系的に分類し、内容を予測しようとしている最中だった。分かっていたのは、文字の種類が恐ろしく多いことと、それらがシンプルな文字と複雑な文字に分類できそうだということ。それから、同一の文字を特定するのに苦労がいらないくらい、丁寧に文字を書いていたということ。それ以外のことは、分からなくなってしまった。何度も書き写したはずなのに、賢者の書を開いて文字を眺めても、どの文字も見覚えがないのだ。
理解の蓄積は許されていなかった。過去1年の苦労は徒労に終わった。フィガロにとっては長い時間ではないが、虚しさは拭えない。
「あーあ」
一言呟いた。息を吐く。フィガロを召喚した賢者が書いて、フィガロが貸し出していた賢者の書を本棚に押し込んだ。どうせ読めない。意味がない。
フィガロにとっては6人目の賢者が召喚された。おそらくフィガロが出会ってきた賢者の中で最も年若い。以前の賢者たちの年齢は覚えていないが、ミチルより若い者はいなかったはずだ。妹ができたみたいだとミチルは喜んでいる。いっしょになって6人目の賢者に構っていたら随分と懐かれた。
「賢者様って呼ばれるのも嫌じゃないんだけど、フィガロはいつも名前で呼んでくれるから、嬉しい」
そう伝えてきた幼い賢者の頭をなでて、名前を呼ぶ。良い人がするように。6人目の賢者は笑っていたので、余計なことを伝えなかったのは正しいはずだ。
過去の賢者の名前は覚えていない。試しに書き記しておいたものは次の賢者が召喚されると紙ごと消えるか、その文字のインクだけが解けて消えた。フィガロを召喚した賢者の名前も思い出せない。あの賢者の呼称を「賢者様」しか知らないから、他の賢者を「賢者様」と呼んだらあの賢者のことを完全に手放してしまう気がした。
フィガロにとっては7人目の賢者が召喚された。好奇心が強くてあのムルと話が合う変人だった。月と賢者と魔法使いのシステムに興味をもって、魔法使いたちを質問攻めにしていた。フィガロも捕まった。特に過去の賢者について詳しく知りたがった。
「俺はまだ召喚されて日が浅い方なんだ。君を含めて7人の賢者しか知らない。だから、もっと古株の魔法使いたちに聞いた方が有意義だと思うよ」
躱そうとしたのに、よりいっそう興味を持たれてしまった。曰く、召喚されてから何年目を答えられた魔法使いはいても、何人目の賢者なのかを答えられた魔法使いは、フィガロしかいなかったらしい。21人のうち約半数を召喚し、過去最強のおおいなる厄災を退けた賢者という肩書きすら、他の魔法使いたちの中には残っていなかった。あの賢者がこの世界にいたことを示すのはフィガロの僅かな記憶と、かの人の賢者の書だけだった。
フィガロを召喚した賢者が書いて、フィガロが本棚に戻した賢者の書を探した。読めなくても晩酌中にページをめくった覚えがある。何度も開いたお気に入りのページがあったはずだ。どうしてそのページを気に入っていたのかも、表紙の色さえ、本棚のどこに戻したのかすら、記憶がなかった。フィガロはあの賢者の書を見つけられなかった。
フィガロにとっては8人目の賢者が召喚された。突然異世界に召喚されたことにショックを受け丸一日泣いていた。ようやく落ち着いて賢者の書を見繕いにきたところに居合わせて、あの賢者の書を識別できるか尋ねた。分かっているのは、7年前の賢者だったこと。10人の魔法使いを召喚したこと。21人の魔法使いたちと魔法舎で共同生活をおくったこと。過去最強の厄災を退けたこと。8人目の賢者は、最新の書を納めた棚1つ分を確認したが、目当ての賢者の書を見つけることはできなかった。
その話はそれで終わったと思っていた。数か月後、フィガロの前に数十冊の賢者の書が並べられた。8人目の賢者が読めるものは内容を確認して、本の状態が古すぎるものは除外して、残った中でも文章量が多いものをピックアップしたという。
「21人と共同生活だなんて、きっと書ききれないくらい書きたいことがあったと思うから」
仕事の合間にずっと調べていたらしい。あんなに泣いたのが嘘のように意思の強さを見せた。一冊一冊精査したがフィガロを召喚した賢者が書いて、フィガロが見失った賢者の書は見つけられなかった。それでもそれらの過去の賢者の書は他と混ざらないように保管した。
フィガロにとっては9人目の賢者が召喚された。青い瞳を輝かせる快活な青年だった。探しものがあるのだと相談すると、気前よく協力してくれた。分けて保管された賢者の書を確認し、特定には至らなかったが候補を絞った。9人目の賢者は少しデリカシーに欠けたところがあって、軽い調子でその賢者の書を探す理由を尋ねた。
過去の賢者の記憶は曖昧だ。誰一人として顔も名前も思い出せないが、誰もが善良だったように思う。背中を押してくれた人もいた。諦めようとしたものを拾い上げてくれた人もいた。がさつだったり根暗だったり個性はあれど、羨ましくなるくらいに当たり前に良い人たちだった。その中でも特別に1人目の賢者に執着する理由は自分でも分からなかった。執着したところで見返りはないし、毎年新しい賢者はやってくる。彼或いは彼女がただ一つの良い性質を持っていたとしても覚えていないし、かえがたい経験を共にしていたとしても記憶にない。それなのに、
「俺の最初で最期の賢者様ならいいのに、って」
そう思ったことだけが忘れられない。
フィガロにとっては10人目の賢者が召喚された。11人目の賢者が召喚された。12人目の賢者が召喚された。13人目も14人目も15人目も。フィガロを召喚した賢者が書いて、フィガロが取り戻したい賢者の書はまだ見つけられない。今年もまた賢者が召喚される。
フィガロにとっては●人目の賢者が召喚された。優しそうで大人しそうな人物だった。例年のように探し物を依頼する。〇年前の賢者だったこと。10人の魔法使いを召喚したこと。21人の魔法使いたちと魔法舎で共同生活をおくったこと。過去最強の厄災を退けたこと。それから、理由を覚えていなくても、フィガロにとっては特別な人であること。客観的事実だけではなく、主観的な感情を追加情報として加えたのは、歴代賢者たちからの助言だった。捜索にあたってその情報はあった方がいいらしい。フィガロには理解できなかったが、彼らの言うことを信じることにした。
今年の賢者は、迷わず紫色の表紙の賢者の書を手に取ってフィガロに差し出した。
「これです、フィガロ」
どうして読んでもいないのに分かるのか尋ねると、照れたように笑う。賢者の書を開く。それには開き癖がついていて、開かれたページの下部には小さなハートが描かれていた。ただの落書きなのに、見ていると自分の心臓まで早鐘をうつ。上手く息ができないような、指先まで力が入らないような、自分の体のコントロールを失いそうな感覚。それなのに不快じゃない。熱い。声がかすれる。助けを求めるように、目の前の賢者の名前を呼ぶ。
「笑ってないで、ちゃんと話してよ、……晶」