負けと告白 最近のフィガロと晶の関係を形容するならば「ちょっといい感じ」と言えると思う。そんな感じの人に休日出かけようと誘われたなら、それはデートと呼んで差し支えはないはずだ。オシャレしたくて髪をいじったり、いつもより念入りに歯磨きしたりしてもおかしなことはない。「ねえ、告白されちゃったらどうする?」服の相談をしにいったとき、西の魔法使いに言われたことを思い出してにやけたり我に返ったりと忙しない。浮かれている自覚はあるけれど、抑えようとする理性は働かない。賢者と賢者の魔法使いだって、たまには色恋に呆けたっていいじゃないか。
待ち合わせの10分前に到着すればフィガロはすでにそこにいて、彼もいつもよりオシャレしてくれていて特別にかっこいい。晶の頑張った部分に気がついて「素敵だね」と褒めてくれるのはもはや見事としか言いようがない。晶はテンプレ通りに照れて喜んでしまう。経験差を感じないでもないが、それすら悪い気はしないのだ。しどろもどろになりながら「今日のフィガロも素敵です」と伝えた。
スマートなエスコートに乗っかって街に出る。今日はフィガロがデートコースを考えてきてくれた。「君が好きそうだと思って」そう言って案内してくれたのは魔法使いの催しで、背もたれが水平近くまで倒された状態の椅子に座ると、天球上の屋根に幻影の魚たちが映し出された。プラネタリウムと水族館を合わせたような施設だ。頭上の海で半透明の魚たちが泳ぎ回り、ベッドより大きな傘のクラゲが揺れて、宝石のように輝く甲羅のカメが横切る。遠くで鯨が長く低く吠えていた。
そのどれもが美しく瞬きも忘れて見入った。熱中し過ぎたらしい。開きっぱなしになっていた口の端を、隣の席から伸びてきた手がつついた。びっくりして恥ずかしくて、でも上映中だから文句を言うこともできなくて。フィガロのイタズラっぽく笑う瞳を見つめるしかできなかった。あんなに綺麗だと思っていた幻影を忘れて、灰と榛の色に目を奪われる。この人の瞳はどうしてこんなに美しいんだろう。ずっと見ていられる。ずっと見ていたい。つついてきた手を握って離さなかったのは、イタズラ防止のためだけじゃない。
観覧後はディナーに招待された。特に人気店というわけではないが、珍しい食材を使っていて、フィガロはそれが好きなのだと言う。フィガロの好きなものを教えてもらえるのは嬉しかった。好きなものを教えたいと思ってもらえたのなら、もっと嬉しい。真っ白でふわふわでさらさらなそれは、生クリームと雲の中間くらいの存在感しかない。口の中に入れるとしゅわりと溶けて爽やかな風味が広がった。見た目からの予想に反して、柑橘系の味と香りに近く、魚料理とよく合う。この店の料理はどれも絶品だった。
お酒にも合うんだと言ってフィガロがワイングラスを傾けるから、晶はどうしても彼と同じものを飲んでみたくなってねだった。「一口だけだよ」と言って晶の口へグラスを傾ける。「自分で飲めます」と反抗してみたけれど、グラスは渡してもらえなかった。仕方なくフィガロの手でワインを飲ませてもらった。なんとなく、倒錯的だ。そのせいか、たった一口で酔っ払ってしまった。顔が熱くて、心臓がどきどき、気持ちがふわふわする。視界はずっときらきらしている。フィガロを見ているからだ。
お店を出て、酔い覚ましに散歩しようと手を差し伸べられた。反対の手にはいつの間にかに箒を持っている。空は快晴、満点の星空。まだ帰りたくなくて晶は喜んでフィガロの手をとった。二人並んで箒に乗る。密着する体温を高く感じるのが、気のせいでも独りよがりでもありませんようにと願う。街の人の様子が見えなくなって、街の人からも二人が何をしているか見えないであろう高さに到達した。二人きりだ。せっかく星空の散歩に連れ出してもらったのに、風景を楽しむ余裕がない。フィガロの手が晶の手と重なった。あっというまに、手を引っ張られる。
そして、箒の上から引き摺り出された。
「えっ?」
足元ではびゅうびゅうと風が吹いていた。今まで気にならなかったのが不思議なくらいの風速だ。酔いは覚めた。ぶらーん、と宙吊り状態になっていた。寒く感じないのは、そういう魔法をかけてくれているからなのだろう、一応。支えはフィガロと繋いだ腕一本のみである。本来なら人一人分の体重を支えているはずなのに、フィガロは涼しい顔をしている。
「ふぃ、」
「ねえ、賢者様」
こんな状況でもフィガロの声は甘く響く。まるで世界一大切な宝物を見つめるような瞳をしているのに、同一人物の指先がいつでも手放せるんだぞと圧を放っていた。
「俺のことが好き?」
口の中に風が吹き込んで乾いていくのが感じられる。驚いて口が開きっぱなしになっていたようだ。昼間のようにつつかれることもなく、晶が自分の意思で動かさない限り口内は風にさらされ続ける。意識して口を閉じ、ごくりと唾を飲みこんだ。選択肢は他になく、また嘘をつく必要もないので頷いた。顔は引き攣っていたと思う。
「好きです…」
「そっか」
フィガロは満足げに微笑む。体を引き上げられ、彼の膝の上に乗せられた。考えるより早くフィガロにしがみついてしまう。ぴったりくっついた頭上から笑い声が降る。フィガロの腕が晶の背に回って、ぎゅっと抱きしめられる。夜の空の匂いは薄まって、今はフィガロの匂いでいっぱいだ。
「俺も好きだよ。嬉しい?」
「嬉しいです…」
あんな素敵なデートをしておいて、最後の最後でこれとは。言わせるにしたってもっとマシな方法があると思う。そっと見上げると、フィガロの顔が近い。突然の暴挙に驚き呆れていたはずなのに、それだけで心臓が言うことをきかなくなってしまった。どきんどきんと跳ねる音は、死の恐怖を感じていた時よりうるさい。
「地上で、聞いてくれて良かったのに」
なんとか、震える声で文句を言う。フィガロのペースに任せきりだったのも悪かったのかもしれないけど、それにしたって。いつだってどこでだって答えたのに。
「だって、絶対に振られたくなかったんだもん」
かわいい。咄嗟に浮かんだ単語はそれだった。大の男をかわいいと思ったらもう後戻り出来ないと聞いたことがある。大人のくせに子供じみた言い方をするところがかわいい。常人とは倫理がずれているところですらかわいい。それでいてかっこよくて魅力的で、思えばさっきのだって圧倒的強者ムーブでかっこよかった気がしてきた。もしかしたら許しちゃいけないことだったのかもしれないが、フィガロの膝の上にいられるのがどうしようもなく嬉しい。余裕そうに見える表情の中で実はぎらぎら光ってる瞳も、強く抱きしめてくる腕と冷え切った指先も好き。
仕方ないな、と思う。フィガロも、自分も。惚れたら負けっていうのはこういうことなんだろう。せめて一矢報いるため、晶は首を伸ばしてフィガロの唇に自分の唇をくっつけた。