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    きうみ

    @N0O9ic
    mhyk 20↑ フィと賢者様推し

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    きうみ

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    フィガ晶♂ 逆トリ 捏造に次ぐ捏造
    プロローグと衣食住編まとめ

    夜辺プロローグ フィガロがやってきた。

     会社の帰り道、奇妙なものを見た。街中の道路の真ん中、月の見えない暗い夜の中で、白い布がはためいている。白衣だ。近くに病院や研究施設があるわけでもない、周りに怪我人がいるわけでもない。それなのに白衣を着た人物が堂々と立っていた。首には聴診器もかけてあった。
     その人物がこちらを向いた。晶を見つけて、きゅっと目を細める。背が高く、整った顔の男性だった。
    「やあ、賢者様」
     脳が呼ばれたと認識した。日常では聞く機会のない単語なのに妙に馴染んで、それが自分のことを指しているのだと知っていた。途端に流れ込む記憶。その量と濃度に、脳みそがパンパンになって、気持ち悪くて、どこかの血管が切れた音がした気がして、喉が焼けるように熱くて、ツンと刺激臭がして、耐えられずに胃の内容物を吐いていた。
    「おえぇ…」
     道路に座り込んでぶちまけた吐瀉物を眺める。あの人が近寄ってくる気配を感じるが、まだ頭の中がぐるぐるとしていて声を聞き取ることができない。こんな姿を見られるなんて嫌だな、恥ずかしいなと考える。こっちに来ないでほしいとすら思う。けれど無情にもあの人は晶の元にたどり着く。晶の背中を撫でながら呪文をとなえると、途端に吐き気が去っていき代わりに眠気が訪れる。呪文。魔法の呪文だ。
    「君の家にお邪魔させてもらうよ。なんせ俺はこの世界に寄る辺がないからね」
     遠のく意識の中、最後の力を振り絞って鞄から家の鍵を取り出した。差し出す気力はなかったが、体温の低い手がそれを受け取ってくれた。
     律儀だな、とコメントする声を聞きながら眠りに落ちる。

    ===

     いい匂いがする。出汁と卵の匂いだ。まだもう少し寝ていたい気もするが、それ以上におなかがすいた。晶は目を覚ますことにした。
     目を開けると、そこは自室のベッドの上だった。どうやって帰ってきたのか記憶を辿ろうとした時、部屋の扉が開いた。入室してきたのは白衣姿の男性だった。
    「おはよう。気分はどう?」
     まるで医者のように優しく声をかけられた。違う、実際に医者なのだ。冷たい海にも似た青い髪、グレーとグリーンの理知的な瞳、柔和な笑み、白い肌、高い身長。どれも見覚えがあった。覚えていた。思い出した。
    「フィガロ」
    「そう、君の魔法使いさ」
    「魔法使い…」
     晶は賢者で、フィガロは賢者の魔法使いで、賢者と賢者の魔法使いたちは厄災と戦ったのだ。無事に厄災を退けることができて、それで…それで?
    「う…」
     また頭が痛くなる気配を感じて、考えるのをやめた。そういえば、道端で吐いて眠ってしまったのだった。家まで連れ帰ってくれたであろうフィガロに申し訳なく思う。
    「良くなさそうだね。無理しないで」
    「大丈夫です。すみません、迷惑かけて」
    「迷惑だなんて思ってないよ。フィガロ先生を頼ってね」
     ぱちん、と上手なウインクをする。その茶目っ気に少し笑って、頭痛はすぐに治まっていた。
    「ありがとうございます。…あの、でもごめんなさい、覚えていないことが多くて。俺たちは厄災に勝ったんですよね?皆は無事ですか?」
    「大丈夫。俺たちは厄災に勝って世界を守った。他の魔法使いたちも多少怪我はしたけれど、生きているよ」
     晶の肩に手を置いて、フィガロは目を見てそう言ってくれた。安堵に息を吐く。
    「でも、気がついたら君はいなかった。そのタイミングで元の世界に戻ったから記憶が曖昧になっているんだろう」
    「そう、だったんですね。すみません、バタバタしてるタイミングで」
    「そんなことは気にすることじゃないよ。君のせいでもない。誰しもが寂しがってはいたけどね」
     フィガロは親し気に晶の肩を叩く。ぽん、ぽん、一定のリズムに嬉しくなる。嬉しいことに申し訳なくなる。誰かが寂しいのが嬉しいだなんて。フィガロも寂しかったですか?なんて口から出ていってしまいそうで、代わりに言い慣れた謝罪を口にする。
    「すみません」
    「いいんだよ。それに、お互い様だろう?」
     フィガロが、緩やかに視線を外す。
    「君だって寂しかったはずだ」
     心臓を掴まれたようだった。言われてその通りだと気が付く。別の誰かにも寂しくあって欲しいと思ったのは、自分が寂しかったからだ。自分独りで寂しがっていたくなかったからだ。自分勝手な想いを言い当てられたのに、心を暴かれた不快感はなかった。それより、気が付いてくれたことが嬉しかった。
    「…はい、俺も、寂しかったです」
     吐いたせいか、喉が痛い。上手くしゃべれていない気がしたが、懸命に言葉を紡ぐ。
    「忘れたくなかったのにって思っても、覚えてなくて、」
     頭を、フィガロの肩に押し付けられる。白衣の濡れる感触で、晶は自分が泣いているのだと気が付いた。
    「もう寂しくない?」
     白衣を掴んでしがみついた。首を横に振る。
    「まだ足りない」
     自分の声が耳の奥で木霊する。聞き分けの悪い子供のような声をしていた。

    ===



    衣食住編 

    ~食~

     それから、晶は丸一日寝込んだ。異世界に来て早々、フィガロに看病をさせてしまった。でも冷たい手が気持ち良くて、遠慮でもやめろとは言えなかった。次の日も大事をとって休むよう言いつけられ、職場に嘘をついてさらに一日休みをもらった。「仕事のことは心配しないで。自分のことをお大事に」電話口で同僚は優しい言葉をくれた。もう体は大丈夫だったので罪悪感はあったが、晶にとってフィガロはどうしても休まないといけない事情だった。
    「今日は俺がご飯を作りますね」
     フライパンを掲げて宣言する。あの世界で、フィガロは料理している人を見かけた時、手伝うより応援するねと言うタイプの魔法使いだった。それなのに昨日は持ち前の観察眼と推理力でキッチンを掌握し、晶のためにおじやを作ってくれたのだ。異世界の台所事情がいかに異なり、苦戦を強いるかということは身をもって知っていた。
    「ありがとう。でも張り切っちゃってどうしたの。俺のおじやはそんなに酷かった?」
    「まさか!とても美味しかったし、嬉しかったです。ただ、慣れない場所で看病させてしまったことが申し訳なくて」
    「気にしなくていいのに。君だって召喚されて早々、ファウストを助けてくれたんでしょ」
     今のように他の魔法使いの名前だったり、あの世界で体験したエピソードだったりを急に出されると、ピンとくるのに少し時間がかかる。晶はまだすべてを思い出したわけではなかった。数秒考えてから、自称陰気で根暗な、真面目で優しい魔法使いのことを思い出した。猫好きで、東の国の先生で、元革命軍の聖人で、フィガロの弟子だった。忘れていたのが悲しいのと、思い出せたのが嬉しいのが半分半分だ。
    「…でも、やっぱり気になります。それに、俺もフィガロをおもてなししたいので」
    「じゃあお願いしようかな」
     フィガロは笑って、呪文を唱えた。青色のエプロンが現れる。この家にエプロンはなかったはずだが、彼の私物だろうか。エプロンは踊りに誘うように晶の周りをくるくる回って、腕を通させて腰の後ろでちょうちょむすびをした。
    「魔法、使えるんですね」
    「そりゃ魔法使いだからね」
    「そうですけど、東京にも精霊がいるのかなって」
    「とうきょうってこの土地のこと?」
    「はい」
    「いるよ。南の精霊とも北の精霊とも勝手が違うからやり辛さはあるけどね」
     自分の故郷にもあの世界と同じように精霊がいて、不思議の力が発現しうるのだという話はいやに心に残った。テレビでやっているような心霊現象のいくつかは本当に魔法なのだろうか。この世界にもフィガロのような魔法使いたちがいて、晶たち人間の目を欺いて生きているのだろうか。苦労を強いていないだろうか、生きづらさを感じてはいないだろうか。存在するかどうか分からない人物に心を寄せながら、野菜と肉を炒める。チンした冷凍ご飯と作り置きの味噌汁を添えて完成だ。
    「すみません、簡単なもので」
    「急に来て豪華な食事を用意しろなんて言わないよ。あ、これ、みそしるだ」
    「はい。魔法舎でも何度も食べましたよね」
    「水筒につめて依頼にも持っていった」
    「おにぎりといっしょに」
     思い出話に、二人して自然と笑顔になった。ふっと肩の力が抜けるのを感じる。どうやら自分はこの状況に緊張していたらしい。いただきます、と手をあわせて食事を始めた。
    「お口に合いますか?」
    「美味しいよ」
    「よかった」
     お世辞が含まれていると分かっていたが、それで十分だ。フィガロがうちで野菜炒めを食べている。不思議な光景だった。
    「フィガロ」
    「なあに」
    「どうして、この世界に来たんですか?」
    「君に会いたかったからさ」
     フィガロは手の中のフォークを揺らしながら言った。野菜炒めのキャベツを見つめている。
    「…というのは嘘じゃないけど、異世界へ移動する魔法なんて、オズでも扱えない高度な魔法だからね。おいそれとはできない」
     狙ったキャベツをフォークで刺して、顔をあげる。目が合った。箸は一膳しかなかった。割り箸はあったが、フィガロにはフォークの方がいいだろうと思ってそれを渡していた。
    「俺たちはあの後も世界各地で厄災の影響を調査していて、その時に高濃度の厄災の魔力に触れてしまったんだ。おそらくその影響で…世界の狭間とでも言うのかな?そんな場所に入れてしまった。今なら賢者様の世界に行けるんじゃないかと思って、それで、来ちゃった」
    「来ちゃったって」
    「ムルじゃないけどさ、不思議じゃないか。俺たちの世界のことなのにわざわざ異世界から賢者様を連れてきて世界を救ってもらうなんて、どんな理屈があるんだろう。それを解き明かすことができたら、もっと楽に厄災を倒すことができるかも」
     フィガロの瞳は不思議な色をしている。瞳の中心の緑色に見つめられると、胸の奥で様々な感情が煮え立つ。羞恥、好意、安堵、疑心。ただ晶に会いに来てくれたのかもと期待していたことに気がついて恥ずかしくなった。なのに同時にほっとしていた。他に目的があってくれて良かったと思う。「そうやって君は君をすり減らすんだね」気まぐれな猫のような、世紀の知恵者のような声が囁く。
    「俺にも手伝わせてください」
    「ありがとう」
     フィガロがキャベツを口にいれた。フィガロの一口は小さい。晶はそれを密かにかわいいと思っている。

    ===



    ~住~

     さすがに三日連続で仕事を休むのは気が引けて、フィガロには申し訳ないが今日は出社することにした。フィガロは気楽に笑って大丈夫だよと言ってくれた。誰が君を看病したと思ってるの、と言われれば納得と感謝しかない。暇つぶしになればとテレビとリモコンの使い方を説明して家を出た。
     家を出たところで声をかけられた。このアパートの大家さんだ。晶はこの大家さんが苦手だった。いつも晶が何か悪いことをしている前提で疑っている、ような気がする。
    「最近騒がしいけど、ペットでも飼ってるんじゃないでしょうね」
     晶が猫好きと知られた日からいっそう当たりが強くなった。猫はかわいい。かわいいけど野良猫に餌をやるのはマナー違反だ。晶はそれを理解しているし遵守している。何度それを伝えても信じてもらえたことはない。
     騒がしいというなら、今は部屋にフィガロがいるからだろう。確かに人間ではないがペットでも猫でもない。人並み以上の知性を持ち合わせた魔法使いだ。晶もフィガロもうるさくするタイプではないし、騒がしいと言われるほど騒がしくした覚えはなかった。単身者用のアパートは壁が薄いので隣人の話し声や生活音が聞こえてしまうのはお互い様だった。
    「騒がしかったですか?すみません、友達が遊びに来てるんです。ペットはいません」
    「他の住民の迷惑になるから、気をつけてくださいね」
    「すみません」
     一つ二つ小言を投げて、気が済んだのか大家は去っていった。当たりを見回す。誰にも見られていない。フィガロにも。こんなところをフィガロに見られたくなかった。
     元来疑い深い人なのかもしれない。性善説に乗っ取っていてはやっていけないのが大家業なのかもしれない。あるいは、晶の方こそ勝手に疑いすぎているのかもしれない。けれど、隣室が騒音をたてていても下の階の住人がゴミの日を間違えていても何も言わないのを見ると、晶が弱弱しいから攻撃していいと思われているではないか、と身構えてしまうのだ。そういった扱いに、身に覚えがあったから。
     早めに家を出たはずが、就業ギリギリの時間になってしまった。それでも職場の人たちは晶と会うと心配してくれたり回復を喜んでくれたりした。今まで仮病を使ったことなんてなかったから、休んだその時よりも復帰したタイミングの方が罪悪感に苛まれるのだと初めて知った。仕事の罪は仕事で償うしかない。一生懸命働くことにする。

     早くフィガロのいる部屋に帰りたかったのに遅くなってしまった。良い職場に恵まれている。お世話になった同僚のためにも働きたい気持ちと、異世界から来たばかりのフィガロを一人にしたくない気持ちはどちらも本物で、バランスをとるのは難しい。それでも職場を出れば、もっとフィガロを優先するべきだったのではないかと後悔する。自分が異世界に召喚されたときは、手を伸ばせば誰かしらが側にいてくれて、不安を払拭してくれていたのだから。デパ地下で少しいいお惣菜でも買おうかと思ったが、それより早く帰ることを優先した。今日の所は、スーパーの安い総菜で許してほしい。明日は土曜日だから、明日ならいっしょに買い物や食事にいける。必要な日用品を買いそろえて、フィガロの好きなお酒だって飲ませてあげたい。
     アパートの前に着いた。階段を登ろうとして、過去の違和感に気が付く。晶が賢者として召喚される直前のことだ。晶はエレベーターに乗っていて、それがあの世界につながっていた。うちはエレベーターのあるマンションでなく、二階建てのアパートなのに。エレベーターに乗る以前からすでにおかしかったのだ。いったいいつから幻だったのだろう。
     過去のことを気にしても仕方がない。切り替えようとして、…それができなかった。過去の話だと、言い切れるのだろうか。今は、フィガロは、晶の部屋にいるのだろうか?
     地面を蹴る。コンクリートと靴底のぶつかる音が、警告のように鳴る。一階分駆け上がるのに、そう時間はかからない。201号室。晶の借りている部屋の扉の前。扉の鍵を求めて鞄のポケットに手を入れるも、目当てのものが見つからない。ポケットを、隣のポケットの中身も、書類の隙間もペンケースの中も探る。それなのに鍵がない。扉を開けられない。フィガロに会えない。焦りで指が震えた。
     ガチャ
     触れてもいない扉が開いた。部屋の中の明かりが暗い夜に射す。逆光を浴びている背の高い人物がいる。
    「おかえり、賢者様」
     開いた扉の先に、フィガロがいた。
    「賢者様?」
    「あ…すみません、鍵を、なくしてしまって」
    「呼び鈴ってないの?」
    「あっ、あります!」
     自分で自分の家の呼び鈴を鳴らす機会がなかったため、当たり前のことを忘れていた。鍵がないと慌てていたのが馬鹿みたいだ。
    「鍵ならテーブルの上にあったよ。君が出ていった後に気が付いたんだ。ちゃんと返してなくてごめんね」
    「そんなことないです。俺が外で落としたわけじゃなくて安心しました」
     フィガロが現れた日に、気を失いながら鍵を渡したのだった。だから、いつもは使ったらすぐに元の場所に戻す鍵が見つからなかったのだ。単純な答えだった。
    「まあ、とにかく入って。ごはん食べるでしょ」
     部屋の主の風格で、フィガロが身を引き晶の入る道を開ける。促されて、晶は部屋に入った。
    「ごはん、準備してくれたんですか?」
    「うん。嬉しい?」
    「すみません、お惣菜買ってきちゃいました。これは明日食べましょう」
     明日はちょっといいものを食べさせてあげたかったのにな、なんて。少しだけうつむいてしまう。俯いた先、廊下の隅に埃が積もっているのを見つけて気が滅入る。
    「俺たち同じことを考えてたんだね」
     だけどフィガロの笑い声が聞こえた。
    「俺は仕事で疲れてるであろう君にご飯を食べさせてあげたかったんだけど、君だって不慣れな俺を気遣ってご飯を買ってきてくれたんだろう」
     顔をあげれば、フィガロは悪戯っぽく笑っている。その表情にほっと息が漏れた。
    「同じだね」
     同じなのだろうか。同じだったら、嬉しい。
     隣の部屋で、大声で電話している声が聞こえる。今まで気にしたことはなかったが、このアパートの壁は薄い。ここは同居不可の単身者用アパートなのだということを考えながら、ネクタイを外した。

    ===



    ~衣、食も住も~

     今日は待ちに待った週末だ。友人たちとの食事の予定は、申し訳ないが晶抜きで行ってもらうことにした。その他の細々とした用事は来週の平日の隙間時間にどうにかしようと決める。賞味期限切れのスーパーの総菜を朝ごはんにしながら、今後の予定について話し合う。
    「厄災について調査するのって、何から調べればいいんでしょうか」
    「うーん、俺も当てがあるわけじゃないんだよね。まずは賢者様の世界のことをなんでも知りたいな」
    「それなら、今日のところは買い物に行きませんか?色々必要になるでしょうし」
    「そうだね。案内してね、賢者様」
    「たいしたものはお見せできませんが…とりあえず、服とか歯ブラシとか日用品を買いに駅ビルに行きましょう。デパ地下もあるし」
    「たいしたことあるよ。ほら、もう俺の知らない単語が出てきた。楽しみだな」
     フィガロはフォークとナイフでアジフライを切り分けている。せっかくだから箸も買おうか。フィガロなら少し練習すれば使いこなせる気がする。食器は一人分しかないから買い足した方がいいだろう。服は魔法で清潔に保てると言っていたけど、やっぱり何着かは必要なはずだ。
    「ああ、でも、服も日用品も自分でなんとかできるから、君の負担になるようならいらないんだよ」
    「魔法で?」
    「うん」
    「服とかも作れるんですか?」
    「クロエほど達者じゃないけどね」
     西の魔法使いの彼のことを思い出した。自分の好きに一生懸命で、痛みを知っていてもなお優しくて、いつか賢者様の世界に行ってみたいと言ってくれた、魔法舎の仕立て屋さん。彼が国一番の仕立て屋になるのを見届けられないのを悔しく思う。
    「でも、せっかくだからこの世界のファッションも見てみてください」
     フィガロの服装は、この世界の常識から見ても風変りではない。常時白衣で聴診器を首から下げていたら不審かもしれないが、それらさえ外せば問題なさそうだった。でもせっかくなら現代日本風のフィガロも見てみたいというのが本音だ。晶は顔のいい男にめっぽう弱かった。
    「そう?じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
    「はい!是非!」
    「あと、貨幣を作り出すこともできるけど、それは良くないことだよね?」
    「とっても良くないことですね」
    「だよね」
     フィガロはそれくらい分かってるさ、と言わんばかりにすました顔をしている。

    「道が綺麗に整備されてる。これなら馬車でも快適そう。でも道が狭いから御者の腕が問われるね」
     コンクリートの道路を、フィガロはそんな風に評した。
    「確かに…今まで馬車の視点で見たことがありませんでした」
    「この世界にはあまり馬車が普及していない?」
    「地域にもよると思いますが、この辺りで日常使いしてる人はほぼいません」
    「代わりの交通手段はあるの?」
    「車とか、バスとか、電車とか」
    「たくさん出てきたね」
    「俺は通勤には電車を利用してるんですけど、今から行く場所は電車の駅の近くです。人が集まる場所だからお店が多いです」
    「なるほど」
    「それから、あれが車です」
     指さした先、道路を走っていく車の動きに合わせてフィガロの頭が動いた。
    「あれはどうやって動いているの?」
    「ガソリンっていう、えっと、よく燃える油を燃やして、そのエネルギーでタイヤ…車輪を回して走ってます」
    「危なくない?」
    「普通にしていれば危なくないんですけど、事故の時とかは燃えちゃったりします」
    「するんだ」
     フィガロが日本の公道を歩いているのを、今日は太陽の光の下で眺めていた。我が家にいるフィガロ。鍋にめんつゆをいれすぎるフィガロ。テレビに釘付けのフィガロ。どれも見慣れないものだったが、外での彼の姿は隠してしまいたいような気にさせた。日本人離れした顔立ちとスタイルは否応なしに一目をひくだろう。その予想になんだかそわそわしてしまうのだ。
    「そんなに見つめられたら穴があきそう」
    「えっ、わっ、すみません!」
     咄嗟に目を覆う。転んじゃうよと窘められて、フィガロが晶の手を下ろさせた。さらにびっくりして、今度は握られた手を凝視してしまう。
    「なあに、繋いだまま行く?」
    「だ、だめです!」
    「駄目なんだ?」
    「駄目というか…えっと、この国ではあまり男性同士で手をつないで歩いたりしない、ので。目立っちゃうから」
    「そう?残念だな」
     するりと手が離れていった。手は離して二人並んで歩く。今度はばれないように彼の横顔を盗み見た。「フィガロいつまでこの世界にいるんですか?」それはここ数日聞けないでいたことで、同時に聞いておいた方がいいと分かっていることだった。何かきっかけがあれば、まだ聞きやすいのに。

     予想に反して、特に注目されることもなく駅ビルに到着することができた。それはそれで肩透かしである。店舗に入って、説明したり質問に答えたりしているときは近くの人の視線を感じることもあったが、特段のトラブルはなく買い物は続いた。小物を購入してから、服屋へ移動する。
    「広いね。それにすごく種類が豊富だ。色んな型の色違いがたくさんあって、これなら必ず自分の好みが見つかりそうだ」
    「このお店は安価なので庶民の味方なんです。シンプルな服が多くて使いまわしもよくって」
     フィガロは興味深そうに店内を見渡すけれど、彼のようないかにも上等そうな人は背景に馴染んでいなかった。
    「フィガロはかっこいいから、本当はもっと高級なお店に連れて行けたら良かったんですけど、俺の給料だとちょっと厳しくて…」
    「俺ってかっこいい?」
     頭だけ拾ったフィガロが上機嫌そうに笑う。
    「はい。かっこいいです」
    「見てて。シンプルな服装もかっこいいって言わせてみせるから」
     フィガロがウインクをして見せてくれる。そういう決め顔をされると、嫌な気持ちが溶けて思わず笑ってしまう。フィガロはきっと自分の見目が整っているのを自覚していて、狙ってやっているように思う。だとしても関係なかった。
    「楽しみにしてます」
     何点か見繕って、試着室を使っていいですかと店員さんに声をかけた。店員さんは商品をハンガーからはずしながらサイズを確認する。
    「お客様、こちらのサイズですと少し大きいかと…」
    「俺じゃなくて、彼のなんです」
     隣のフィガロの方を指さす。店員さんは首を傾げた。
    「お連れ様はどこに?」
    「え?」
    「あっ《ポッシデオ》」
    「え?」
     フィガロが呪文を唱える。何も変わったようには見えないが、店員さんが驚いた表情をしている。
    「い、今…」
    「どうかした?」
    「いい、?い、今…」
    「いま?」
    「…すみません、疲れてるみたいです…」
     急に雑になってしまった接客態度で試着室に案内され、店員さんは青い顔のままスタッフオンリーの扉の向こうに消えた。
    「フィガロ、あの店員さんは…」
    「ごめんね、賢者様は目立ちたくないのかと思って、魔法で姿を消してたんだ。元に戻すのを忘れてたよ」
     栄光の街で、ヒースクリフも同じことをしていたのを思い出した。上品で見目麗しい青年は、人懐こい町人たちに囲まれ辟易としていた。繊細な性質の彼にとっては耐えがたい扱いだったのだろう。ついには姿を消してその美貌を隠してしまった。だからここまで注目されなかったのかと納得する。…いや、それどころじゃない。
    「じゃあ俺今まで一人で話してたんですか!?」
    「君は独りじゃないよ。俺がいるじゃない」
    「いたけどいなかったじゃないですか!」
     店員さんには悪いことをしたと思うが、図太くもそのまま試着を済ませた。フィガロはなんでも着こなして外国人のモデルさんのようだった。ズボンの裾上げだって不要だった。ついでに晶の服も買ったため、二人の両手は荷物でいっぱいになった。フィガロが冗談っぽく笑う。
    「これから毎日ファッションショーだね」
     毎日。毎日っていつまでだろう。今日購入した服を着回すのには一週間もかからない。もっとたくさん何着も買っていればまだ安心できたのだろうか。物で引き止めようなんて馬鹿らしいけれど。

     帰る前にちょっとだけいい和食屋に入った。魚が好きなフィガロは刺身や寿司などの生魚も受け入れることができたし、わさびも気に入っていた。酒の味が分からない晶に代わって親切な店員さんが日本酒を選んでくれて、おかげでそれも口にあったらしい。でも天ぷらの中では甘いサツマイモが一番好きというから、その好みだけは子供のようでかわいいと思ってしまった。
    「君はどれが好き?」
     フィガロは晶の好みも知りたがった。異世界に来たばかりのフィガロの好みを、晶が探るならともかく、その逆はなんだかくすぐったい。
    「うーーん…ナス…?」
    「どうして疑問系なの」
    「どれも美味しくって決められなくって」
     晶は好き嫌いはない方だ。何でも食べられるのはいいことのはずだけど、強い好きも強い嫌いもないのは他人に話して盛り上がる話題ではなかった。面白みがないともいう。
    「決められないのも全部教えてよ。一番じゃないかもしれなくても」
     それでもフィガロは拾い上げてくれる。こんな風に語りかけられると、なんでも話せてしまいそうで心地よく、少し怖い。フィガロの永い経験と積み重ねられた訓練の上に成り立つ優しさだ。不躾に消費はしたくないけど、どうしても嬉しかった。
    「エビは天ぷらの花形なんです」
    「確かに、美味しかったな」
    「あと、定番だとカボチャとかイカとか。今の季節だったらキノコとか」
    「こういうのが定番なんだ」
    「はい。ナスは、うちの実家の天ぷらだと必ずあって。今思うと、父の好物だから毎回揚げてたのかもしれません」
    「馴染みがあるんだね」
    「逆に珍しい方だと、昔一度だけ食べた春菊の天ぷらがすごく美味しかったんです」
    「しゅんぎく?」
    「葉っぱの野菜の…苦味があって、マカロニ菜とちょっと似てるかも」
     あの世界にあった食材のいくつかはこの世界には存在しない。そのことを説明すると、フィガロは「へえ」と呟いた。

     食後、両手いっぱいの荷物を持って家に帰った。手分けして荷解きをすることになって、フィガロが商品を袋から出してタグがあれば外し、晶がそれをしまっていった。フィガロが服屋の袋から一着の衣類を取り出す。ぱちん、ハサミも使わず魔法の指先一つでタグの紐を切る。
    「はい、どうぞ」
    「ありがとうございます」
     受け取った衣類を箪笥にしまう。元々晶一人用の箪笥だ。これは入りきらないとすぐに気が付いた。ぱちん、次のタグの紐が切られた音。
    「はい」
    「はい」
     これはまだ収まる。収納ケースも買わないといけなかったかもしれない。あるいは、もう古い箪笥なのでもっと大きなものに買い替えるべきか。それとも、いっそのこと。ぱちん。
    「はい」
    「はい。…フィガロ、引っ越しませんか?」
     服を差し出す姿勢のまま止まって、フィガロが晶を見る。厚手のセーターだった。これはもう収まりきらず溢れてしまうだろう。それでも晶はそれを受け取った。
    「どうして?」
    「実はここ、単身者用のアパートなんです。だからニ人以上の同居可の物件に引っ越したいんです」
    「ああ、そういう…」
     フィガロは手を口に当ててしばし思案した後、大きなため息を吐いた。
    「君ね」
    「え?なんでしょう」
    「追い出されるのかと思ったよ」
    「え!?」
     胡乱な目で見られて、晶は自分の言葉を思い返す。フィガロ一人で引っ越してくださいと言っているように聞こえただろうか。言われてみればそうととれないこともなかった。誓ってそんなつもりはなかった。
    「ごめんなさい、紛らわしい言い方をしました」
    「いいよ。以後気をつけてね」
    「は、はい」
     笑顔なのに圧を感じる。思わずセーターを握りしめた。緊張状態にある時柔らかい物を握りたいと思う現象をなんと呼ぶんだったか。
    「追い出したりは、しないですよ」
    「うん」
    「ずっと居てほしいです。その、フィガロが迷惑じゃなければ」
    「うん。迷惑じゃないよ」
     手招きされてフィガロのそばへ寄る。セーターごと手を握られた。フィガロも緊張状態にあって柔らかいものを握りたかったのかもしれない。それはセーターかもしれないし、晶の手だったかもしれない。なんてそんな考えは甘え過ぎだろうか。
    「フィガロ」
    「うん」
    「いつまでこの世界にいますか?」
     その言葉はするりと出て行った。きっかけがあればいいのにと思っていたが、結局大層なものはなかった。フィガロがいて、晶がいて、買った服があって、箪笥が満杯で、そんな日常があった。
    「長期計画のつもりでいるよ」
    「帰る方法はあるんですね」
    「うん。でも君に追い出されるまではいるかな」
    「追い出しませんってば」
    「じゃあ、君が死ぬまで」
     それは、最適解だった。短い逢瀬と別れは寂しい。長い時間共に過ごしてから離れるのはもっと寂しい。でもフィガロを独り残して逝くのは嫌だ。晶がいなくなったら、この世界にフィガロが魔法使いだと知る人間は一人もいない。彼の永い寿命を思うと、そんな世界に残してはいきたくない。フィガロはじっと晶を見つめている。晶は思わず視線をそらしてしまった。喜んでいると知られるのは恥ずかしかったし、気まずかった。
    「えっと、じゃあ、…引っ越しますか?」
    「うん、いいよ」
    「新しい家に入居するにあたって、身分証明とか必要になると思うんですけど、…その、なんとかできますか?」
    「魔法で?」
    「はい」
    「それって良くないことだよね?」
    「とっても良くないことなんですけど…お願いしたいです」
    「いいよ。俺もそうしたい」
     フィガロが甘い声で言った。たぶん、おそらく、今フィガロは機嫌がいいんだと思う。喜んでくれたのなら嬉しい。できればなるべく幸せでいてほしい。馬車の代わりにエンジンを燃やす車が走っていることや、どこを探してもマカロニ菜がないこと。フィガロがこの世界にいること。そういうことがフィガロを傷つけないといいと願った。
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