再会の夜と朝日「ジャン…?」
寝室のドアを抜け細心の注意を払い物音を立てないようにしていたジャンだったが、沈み込んだマットレスの振動で眠っている優を起こしてしまったようだ。
「わりぃ起こしたか」
うっすらと薄目を開けた優がそれにぼんやりした声で答える。
「オカエリ」
日本語だ。優が大学に進学したこの春に二人は結婚し、共同生活を始めた。
長期任務の多いジャンは家を空けがちだが、彼が帰るのはフランスの家から日本の新居になった。欧州圏の任務が多いジャンには移動時間がより掛かる事になるが、彼の中にはフランスに寄ることはあっても「帰る」という選択肢はもはや無いらしい。
帰宅したときの挨拶「オカエリ」と「タダイマ」は一緒に住み始めてからジャンが覚えた日本語になる。
「タダイマ」
ジャンが答えながらシーツと毛布の間に体を滑り込ませるのに合わせて、優が体の向きをジャンに向け両腕でジャンの首に緩く抱きついた。
チュ。と音をさせてキスをする。
優の目は殆ど閉じられていてこのまま眠ってしまう様子だったが、ささやき声がジャンの耳に届いた。
「セックスする…?」
目を瞑ったまま、眠りに片足を突っ込んでいるような優はウトウトしている。
殆ど寝てるくせにナニ言ってんだこいつは。
今からでもできる体力が自分には残っているのをジャンは感じていたが、今は中断させてしまった眠りに優を戻してやりたいと考え直す。
「疲れてるから眠らせてくれ」
チュ。
もう一度キスをする。
「ジャンと…セックス…したい…」
最後は吐息のようで殆ど聞き取れない。
「明日な」
チュ。
もう一度優しくキスをする。優の腕から力が抜けていき、ハタリとベッドの上に戻ったのを見て、ジャンは優を優しく抱き込んで毛布を掛け直し、優の額に自分の唇を押し付けて目を閉じた。愛する存在の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
再び愛する存在を腕に抱けた歓喜がじんわりと体に広がる感覚に、ジャンは深い安堵の息を漏らし、自身も眠りの階段を降っていった。
パチ。
唐突に目が覚めた優は、両腕をベッドの上で大きく滑らせて、自身意外の存在を探した。しかし手応えはなく、今度は腹筋を使って起き上がり、ベッドの周りを確認した。いない。寝ている間に蹴り落としたわけでも無いらしい。
「あれ…?」
予定では帰宅は今日だと聞いていたが、昨夜ジャンが帰ってきて話をしたような気がする。というところまで考えて自分の言動を思い出し、優は自分の顔に血が上ったのを感じた。
抱きついてキスをして直球でセックスを強請った。上に寝落ちしたのではないか。ジャンが任務後に自分のところに戻るために払っている労力など考えもせず、許されて甘やかされるのに慣れてきてしまっている。でもあれはもしかしたらジャンに会いたい自分の願望が見せた夢だったのかもしれない。現にジャンの気配はこの部屋には無い。
優は、ジャンが帰るのは遅くなるかもしれないし、もう少し寝ておくか。と考えを改め二度寝を決め込もうと再度毛布を被りかけた。
つとー。リビングからかすかに食器のぶつかる音が聞こえて跳ね起きた。
寝起きのもつれかけた足取りのまま急いでリビングへの扉を開くと、こんがりと焼けるパンの香りが一気に押し寄せてくぅと腹が鳴る。
寝室から出てきた優に気付いたジャンが片手にカフェオレボウルとして使っている小さめのどんぶりを持ちながら優を見て緩く笑み「起きたか」と声をかける。
ジャンはラフなTシャツにデニムという休日のいでだちで、起きたばかりという感じはない。リビングのレースのカーテンから入る朝日にジャンの金髪はキラキラと光り、昨夜金色に見えていた瞳は空のように明るい青色で優に向けられていた。
ダイニングテーブルの上には、温められて香ばしい香りのするパン、ジャムを2種類盛った小皿、ヨーグルトらしき白いものとクリームらしき白いものがそれぞれ入った器、はちみつ、カフェオレ、ベーコンとハム、一口サイズにカットされたりんご、洗ったばかりの様子で水を弾いているピオーネといったラインナップが並んでいる。
優はジャンと結婚し一緒に住むようになって知ったが、ジャンは丁寧に生活をする。また一緒に住むようになってからというもの、自宅に居る時は特にジャンは優に甘い。
「ジャン!?え?あれ?いつ…」優は、やはり昨夜の記憶は現実だったらしい。と気づいてしどろもどろになる。しかもジャンはいつベッドから抜け出たのだろうか。気付かなかった。
「夜中に少し話したろ。覚えてねぇか」
「あー。うん?うん…」
自分が自分勝手にセックスを強請ったのを思い出した優が歯切れ悪く曖昧に答えると、ジャンは「まぁ寝ぼけてるみたいだったしな」と結論付けて「スクランブルエッグ作ってる間に顔洗ってこい」と洗面所へ優を追いやった。
優は追いやられた洗面所で冷たい水でバシャバシャと顔を洗いながら、もう一度顔に上がってきてしまった血をなんとか冷ましにかかる。
我儘言った自覚があり恥ずかしい反面、ジャンが戻ってきたという嬉しさがこみ上げてきて、鏡に映る自身の顔は洗う前より真っ赤になってしまった。
「おい、卵固まっちまうぞ」
呼びに来たジャンと鏡越しに目が合い優は余計に赤面した。
「どうした?熱でもあるのかよ?」
鏡越しに目線を合わせたまま、ジャンは優の後ろから伸ばした左手の手のひらを優のおでこに当て熱をみる。
「大丈夫、オレ熱はない」
「みたいだな」
ジャンはそう言いながら後ろから優の右首筋にキスをする。
優はジャンに向き直り、昨夜寝ぼけながら言ったセリフを再度口にした。
「おかえり」
「ただいま」
Fin