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    んまちゃん

    @yummyyummy02052

    んま(pixiv:76667149)です
    ドラロナ/周作やwebイベの展示

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    んまちゃん

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    20220807-0808
    赤い退治人をねらい撃ち!2
    展示物②
    9月発刊予定のドラロナ短編小説集、収録作品
    サンプルとしてどうぞ

    #ドラロナ
    drarona
    #赤い退治人をねらい撃ち2
    #0808狙い撃ち2
    0808AimingAndShooting2

    決して厭うべからず あっと思ったのは、とある花曇りの夜のことだった。
     肌寒さが残るから今晩はお鍋にしようと言ったドラルクが、どうやって手に入れたのかも知らないような立派な土鍋と格闘し始めて、もう半刻程が経ったろうか。休日、宵の口。
     昼過ぎにフットサルの練習へと出かけたジョンは、まだ帰らない。もうすぐ試合があるのだとヌンヌン意気込んでいたから、長引いているのかもしれなかった。だからここに居るのは人間一人と、吸血鬼が一人と一尾と一台だ。優秀な門番はおやすみモードで、そのせいかいつもは騒がしい筈の室内は極めて静かだった。包丁がまな板に触れる音と、エアーポンプの音だけが聞こえてくる。それでいて米の炊ける甘い匂いと、出汁の含み豊かな香りが漂うばかりなのだから、鼓膜が、静寂の形を保っていくのが分かるようだった。
     俺は、男が鶏肉だの野菜だのを手際良く準備していくのをぼうっと見ていた。
    何をするでもなく、じっと見ていた。
     何てことはない。まだ幾分か先である締め切りに向けて、計画的な執筆作業を進めようと思っていたのに、未だディスプレイに浮かぶのは白と、白と、白だけであるという話だ。
     自身の両の手はキーボードと仲良くする気はありませんと言った体で、だらんと身体の横に垂れ下がっている。私事で申し訳ありませんが、全くもってやる気が起きません。
     思考の片隅で仕方がないだろう、と言う声が漂っていることだけが事実だった。俺によく似た声色のそれは、泡がゆうらりと水面に浮かび上がるように、辛いんだとぼやいた。 
     やらねばいけないことへのやる気が起きない。ぼんやりとした倦怠感が身を包んでいる。
     というのもここ最近、何だか胸焼けのような症状を感じているのだ。もやもやとした明け方の霧にも似たそれが、俺の胸の内に巣食いだしたのはいつからだろう。一週間前のようにも思えるし、三ヶ月前のようにも感ぜられる。或いは、生まれた時から抱いていたようでもあった。つまり刹那ほど短く永遠よりも長い間、それはずっと俺を苛んでいたのだ。
     退治人の仕事をしている時は然程気にならないのに、中々どうしてそれは決まって、家に居る時にばかり俺の身の内に牙を突き立てるようであった。特に、料理をしている男を見ている時に多いような気がする。菜箸で卵をかき混ぜている男の骨ばった手や、揚げ物の油跳ねに驚いて死んだ砂の山、それから出来上がった一皿を恭しく運んで来る得意気な笑顔。違和感は、男を見る度に降って湧いたように起こってはややもすれば治まる。
     てっきり、食べ過ぎか何かだと思っていたのだがそういう訳でもないらしい。現に俺は、空腹に腹の虫が鳴くのを聞きながら胸を摩っていた。今日は朝から食べ控えていたというのに、やはりと言うか何と言うか、じっとしていても尚、一向に良くなりやしないのだ。
     今日は特に症状が長引くなあと首を傾げていると、不意にねえと声がかかった。顔を上げれば、エプロン姿のドラルクが佇んでいる。タオルで手を拭いているところを見るに、食材の準備がひと段落着いたのだろう。なんだよと問えば、男は僅かに眉を寄せてみせた。
    「何だよじゃなくてさ、具合はどうなの」
    「いや、相変わらず。何なんだろうなこれ」
    「ポンチな吸血鬼のせいか、はたまた風邪の引き始めか」
     考え込むようにうむ、と唸るドラルクが徐に手を伸ばした先は俺の元だった。水仕事で冷えた掌が前髪をかき上げ、額に触れる。常であればさらりと乾いた陶磁器のような指先が、僅かに湿り気を帯びているせいか、しっとりと吸い付くように生え際の辺りをなぞっていった。くすぐったくてぎゅっと目を瞑れば、己の浅く速い呼吸が耳についてなんだか気恥ずかしい。自身の、突っかかるような途切れ途切れの呼気が嫌だった。風邪の引き初めにしては元気だし、ここ最近、他人の体調を左右するような敵性吸血鬼には遭遇しなかったと思うのだが、本当に何なのだろう。火照りが、思考の邪魔をする。
    「うわ。熱あるんじゃない、君」
    「え、まじで」
    「いやあ……しかも多分これ、結構だよ。ちょっと待ってて」
     男はそう言うと、慌てて踵を返した。向かった先には吊り戸があり、そこに片づけられている薬箱の中の体温計を取りに行ってくれたようだった。脇に挟めばものの三十秒ほどで体温を測ってくれるそれは、いつだったか男が買って来たものだ。包帯と消毒液、それから痛み止めの錠剤ばかりが詰まった乱雑な薬箱を見た男が、目を三角に吊り上げ小言を諾々と垂れ流しながら、近くのドラッグストアへと急ぎ買いに行ってくれた一品でもある。
    「どう? もういいんじゃないの」
     男の声と、軽快な電子音が重なる。寛げた胸元から体温計を取り出し目を向けると、ちいとばかし都合の悪い数字が表示されていた。三十七度八分。自分では気づいていなかっただけで、風邪を引いていたということなのだろうか。確かに朝夕の寒暖差が激しい時期ではあるが喉も痛くなければ、鼻だって啜っちゃいないのに。知られると面倒だと電源を落としたが、僅かに間に合わなかったのだろう。男の咎めるような声が聞こえた。
    「大丈夫、微熱だ」
    「なんで嘘をつくんだ、普通に発熱してるだろうが!」
     ぎりぎりと歯軋りをせんばかりの男からそっと目を逸らす。男は、俺の言う大丈夫を一切信用しないのだ。以前は、例えば此処に押しかけて来た当時などは、心底興味なさげな様子でそうかいと言っては放っておいてくれたのに。ばつが悪くなりだってと呟くと、枯れ枝のような指が俺の手に触れた。いつの間にか固く握り締めていた拳を、ゆっくり解いていくように指が通される。熱を帯びた自身の掌は、酷く汗ばんでいたが、男は特段気にしていないようだった。手袋をしていない青白い手が、指が、俺の掌の皺をなぞる。
    「今日はもう休みなさい、いいね」
     男は慣れた手つきでソファを倒すと、いつも俺が眠る時のようにベッドを用意してみせた。ブランケットと、枕をきっちりと並べ用意をして、それからまた俺の手に手を伸ばす。
     手首の骨の窪みの所に、細い指が絡みついてまるでリードのようだと思った。然程強くもない力だ。凡そ脆弱と言ってもいい。それは周知の事実であり、俺もよく知るところであった。唯、どうしても振り払えなかった。男の親切が形を成したものだという事が、痛いほど分かっていたからだ。男はソファベッドへと歩みを向けた。お鍋はもう少し具を小さくしてから作ってあげるから、出来上がるまで休んでおくと良い。後で起こしたげる。
     ころりと寝転がった俺の頭を、男の手が撫でてゆく。髪を梳かれるのが心地良かった。
    「おやすみ、ロナルド君」
     錆びた銅の色をした瞳が、ふっと緩められる。俺を若造と呼ぶこの男は、俺のことをちいちゃい子だとでも思っているのか、時折こうした視線を向けた。子供は慈しむべきであるとするような、そんな眼差し。宵の住人の瞳に春の日差しを思うのはちゃんちゃら可笑しな話であるが、少なくとも俺はそのように感じていたのだ。それから、優しさの形を見る度もういい大人なのになとする不満が目の奥にぽこぽこと湧いていった。八つ当たりのような不満から目を背けるように瞬く。すると睫毛に男の指が触れた。涙を拭ってくれたのだろう、男の指先が濡れている。そういう、親が子供にするような慈愛じみたことも何だか嫌なのだ。他人に触れられたことへの嫌悪感ではない。では、ならばどうして。
     あっと思ったのは、その時だった。点と点が繋がる様に、気怠さに塗れていた思考が開けてゆく。胸焼けと、微熱のような症状。もやとした愚鈍な脳内と、子ども扱いに傷ついた心。男にだけピントが合った日々の視界。それからやけに浅くなる呼吸と、指先の冷たさ。風邪の熱に浮かされ凍えたのではない。これは決して体調不良などではなかった。否、病であることには間違いないのだろうが。感情が高ぶり、瞬きの度に再び睫毛が濡れていく。男が密やかに笑い、それをもう一度冷たい指の背で拭ってくれたのが分かって、そうなるともう、駄目だった。患いを、長くて短いと感じたのはきっと、それよりも前のことを上手く思い出すことが出来なくなっていたせいだ。今ならば分かる。至極、簡単な事だ。
     俺は、男に恋をしていた。
     恋は盲目とはよく言ったもので、俺はドラルクと言う男に恋をし、正しく世界を見失い、そうして初めてその言葉の真意にようやっと気づいたのだ。まさに盲目。
     真実に気付いたせいだろうか、視界に色が溢れていく。ぎゅうと閉じた瞼の内ら側では、暗闇の中に極彩色が羽を広げていた。白よりも余程眩しい黒。嗚呼、世界が揺れる。
     俺は、強い眩暈を感じた。横たわった身体はしっかりとソファベッドに触れている筈なのに、男が未だ梳いてくれる髪の生え際の辺りから、じんわりと痺れるような感覚が漏れ出してくる。その痺れが男への愛しさを模していることは言うまでもないだろう。幸福がどっと押し寄せて、起きていられないような睡魔と、心地の良い倦怠感に揺蕩っていくのだ。頭の先、或いは脳髄の奥から豊かと言えるほど滲み出した温かな何かが心臓を通り、血管へと溶け込み、手足の先までじわと染みていくのが分かる。
     世界には俺だけがいるようで、でもそんな俺は男に恋をしていて、ならば世界には俺とお前しかいないような気になるという訳だ。或いは素晴らしい愛のイデアであるところの丸、ジョンがそこにいる程度。嗚呼、けれどどうか笑わないでほしい。小説家のくせに陳腐な思考だということは、俺が一番分かっている。でもこれは、初恋なのだ。俺の初恋は、吸血鬼ドラルクへと捧げられた。目が回る。それはまごう事なき、知恵熱であった。


    ♢♢♢


     あれから一ヶ月程が経った。時が経つのは早いもので、もうすっかり桜は散っていたが、生活は変わらずそこにあった。俺と男は唯の同居人のまま、或いは良き隣人のままである。
    「ただいま。ドラ公、腹減った」
    「おかえり。もう少しで出来るから、先にお風呂入っちゃって。お湯溜めてあるよ」 
     俺が男に恋をしたと言っても、日々の片隅に自身だけが抱える、そっとはにかむような照れ臭さがあるだけで、特別何かが変わったという訳ではない。俺は穏やかに、そして密やかに恋心と言う名の癌を慈しんでいた。気持ちを伝えるつもりはない。微塵も、である。
     冷静に考えてみたのだが、メリットが皆目思いつかなかった。寧ろ先に想うのは焼け爛れた襤褸のような未来ばかりだ。居候と言う形で男たちが事務所に転がり込んで来た時は、一体どうしてくれようかと憤ったものだが、今となってはなんて素晴らしい幸運だったのかと神に感謝を捧げたくなる程。気持ちを伝えなくても男はそこに居て、俺の為にご飯を作り、俺の為に洗濯物を洗ってくれている。勿論、便利な家政婦が出来たことを喜んでいるのではない。好きな人が、自分の為に何かを成してくれることが嬉しいのだ。好意を言葉にして関係が壊れてしまうリスクを取るよりも、現状を維持し、手が届く範囲の幸いに甘んじることを俺は選んだ。温い幸福が皮膜のように纏わりついて、引き剥がすなんて到底出来っこなかったのだ。癒着したそれを剥がすのは、酷く勇気のいる事であったから。
     男は、クラシカルなタイプの吸血鬼だ。その血統は高貴であり、人間社会に帰化している訳ではないが、話から察するにどうやら身分も、社会的な地位もそれなりにあるようだった。その為か所々に古臭い、言わば埃を被ったような価値観が伺い知れた。マントを羽織った装い、ぴっちりと撫でつけられた射干玉の髪、それから、異様とも言える執着心。
     特に所有物、靴下を奪われた時の弱体化は近年の吸血鬼よりも余程顕著だ。享楽主義であり、新作ゲームに対する情報ならば貪欲に仕入れているくせに、男はその実、価値観としての話をするならば決して若くないのだ。良く言えば保守的。悪く言えば変化を受け入れ難いとする臆病者。それが俺の、吸血鬼ドラルクへと下した評価だった。
     そもそも、男の好みは項の綺麗なうら若き処女である。まかり間違ってもむくつけき成人済みの退治人ではない。俺が処女かどうかは別として、最早それ以前の問題であった。
     大前提として性別が違う。であれば、告白なんて出来る筈がないだろう。
     だってそうだ。どう足掻いても、俺は男なのだから。
     風呂上がりの洗面台の前、髪から滴る雫が落ちる。鏡の中の像を見据え、水滴を辿るように目で追うと、そこにあるのは傷跡に塗れた男の身体だった。身体が資本の退治人である以上、鍛えた肉体に弛みなどなく、一切の恥もないが、けれどこれではないのだと思う。
     マイノリティにも理解をと謳う現代では同性間の恋愛に理解のある人もいるだろう。パートナーシップ制度を利用する人が増えてきたことも知っている。テレビの中、同性間での結婚を合法化しようと言う活動に従事する人が映ることもある。
     それでも俺はそうはなれない。社会がどれだけ良い方向に変わっていっているとして、世間がどれだけ寛容になっているとして。しかしそんなことは微塵も関係ないのだ。
     つまり結局、これは俺の問題だ。俺が勝手に憂いているという、それだけのこと。
     明け透けに言うなら振られるのが怖く、嫌われるのが怖い。お前のような男など好きじゃあないとする真実が、無残にも目の前に突き付けられるのが怖い。男はあれでいて気の良い奴だから、もしかすると酷い事を言わず優しく諭してくれるかもしれない。それは、君の気の迷いだよと。けれどその後、男は瞬きの内に事務所を出て行ってしまうに違いない。そして二度と会う事はないのだ。世界の中で、俺とお前が交わらない。お前が居なくなった伽藍洞な事務所を想像するだけで、身の毛がよだつ。それは酷く悲しい事だった。
     ならば、今が幸せなら良いとするより他ないじゃないか。好きな人と、一緒に生活が出来て、好きな人の隣で眠ることが出来る日々の、何処に文句の付け所があるというのだ。
     俺は現状に満足していた。生まれて初めての恋心は、日に日に大きく育っては美しい果実のように輝きを放っている。俺はそれを時折そうっと取り出しては、眺めたりするのだ。
     俺の、俺だけの宝物。一番綺麗なものを心の底に詰めて、俺は今日を過ごしていた。
    「風呂上がった、ありがとう」
    「どういたしまして。丁度良かったね、ご飯も出来たところだよ」
     テーブルの上に箸やその他諸々を並べ、冷えたほうじ茶を注いでいく。ドラルクのお手伝いをしていたのだろう、やり切りましたという顔付きのジョンが椅子に座るのを手助けしていれば、今日の夕飯が並べられていった。ほうれん草のお浸しに、大盛りの親子丼と、油揚げと大根の味噌汁。盆に乗せた椀を運んでいた男が、跳ねた味噌汁に驚いて砂になるのを見て何とはなしに笑う。死んでも落とさないからなと恨めしそうに言った男の、肘から先だけが地面からにょっきり生えてはお盆を握りしめていたのが、可笑しかったのだ。
    「なんかお前あれみたい、沼のさ」
    「なんだ、沼のって」
    「え、あのほら怖い映画の……。いや、風呂だったかも」
    「何、そのふわっとしたの。すごく気になる。沼なのか風呂なのかどっちなんだ」
     そんな映画腐るほどあるんだよなあと言った男の手が、尋常でないほど震え出したのを見かねて、手を貸してやる。砂から再生しようにも、下手に動くと汁物を溢してしまいそうだったのだろう。盆を受け取れば、ぶるぶると砂をまき散らすようにしながら男が姿を取り戻した。少しばかり椀に伝っていた味噌汁を拭いテーブルに並べれば、食卓の完成だ。
    「えーいや待って、ドラ公。なんか思い出せそう。薄暗い、うす、うーん。……薄明るい?」
    「流石にわやわやしすぎじゃないか。何だ薄明るいって。そんな映画聞いたことないぞ」
    「俺も分かんないってなった途端、すげえ気になってきた」
    「ええと、仄暗いじゃなくって? それなら割と有名な邦画が確かそんな名前だったけど」
     男が作ってくれた出来立ての親子丼。シャワーを浴び、部屋着に着替え、さあ食べるぞというタイミング。向かいに座る男は血の牛乳割りを傾けて、傍らのジョンは早速、味噌汁で舌を火傷したのかヌヌヌと眉を寄せている。俺はと言えば、親子丼のとろりとした卵の部分を如何に落とさず掬い上げられるかを試行錯誤していた。そういう何気ないひと時は、確かに幸せの匂いがするなと思うなど。男と、声を荒げるでもないどうでもいい会話を淡々と続けるのが、案外心地の良いものであることを俺は最近知った。新発見である。
    「あるのか! え、観たいみたい。次の休みに観ようぜ」
     浮かれポンチで、映像系サブスクリプションの中にその作品があるかを思案する。仄暗い、なんとか。もしなければ、久しぶりにレンタルしてくるのもいいかもしれない。ホラー映画は恐ろしく、苦手であったが、皆で観るならきっとそれもいいだろうと思うのだ。
     男が口を開いたのは、そんなことをだらりと考えていた折だった。
    「あーごめん、その日はちょっと……。お見合いがあるんだ」
     やっとの思いで何とか上手くレンゲに乗せることが出来た卵が、べちゃりと白米の上に落下する。大振りに切られた弾力性のある鶏もも肉が、卵の上をぼよと跳ねた。じゅわじゅわの汁をたっぷり吸った米と、背筋がひやひやになるであろうホラー映画に思いを馳せていた自身の面は、さぞ呆けていたことだろう。大きく二度瞬きをして、俺は問いかけた。
    「……み、見合い?」
    「うん、まあそう」
    「見合いって、え、なに」
    「うーん。お見合いというか、要は血族同士の食事会なんだけどね。遠縁のお嬢さんが一度でいいから私と会ってみたいと言って、それでまあ、親戚付き合いというか、そんな」
     呆然とする俺を尻目に、男は言葉を続けた。
     曰く、最近吸血鬼になったばかりだというそのお嬢さんは人間だった時分、とても病弱であったらしい。外を走ることはおろか、歩く事さえままならなかった少女の唯一の友は、両親が与えてくれる本だけだった。感涙を誘う恋愛物や、胸躍る冒険譚。ミステリーも神話も、或いは辞書や図鑑と言った物でさえ、両親は深い愛情でもって彼女に本を与え続けた。そんな彼女の一等お気に入りが、有難い事にロナルドウォー戦記であったという訳だ。
    「それで、後から血族に私がいると知って、大変喜んだそうでね」
     男の顔が綻ぶ。聞けばお誘いはお嬢さん本人からだったという。どうぞはしたないと思わないで下さいね、と恥ずかしそうに笑った彼女が、直々に電話をしてきたのだそうだ。
     人伝か、お手紙の方が良かったのだとは分かっています。随分不躾なことをしているとも。それでも貴方とお話してみたかった。貴方は私の憧れなのです。――といった具合だ。
     生まれたての吸血鬼である彼女が、純粋に自身を慕ってくれるのが嬉しいらしい。憧れのおじさん枠かあ、誇らしいよ、と言う男の声色は弾んでいた。交際とか婚約とかそういうことではなくって、単にファンサービスのようなものだね。まあ久しぶりに出来た血族だから、大切にしてあげたいというお父様のお気持ちもあるのだろうけれど。でもそうか、私が憧れかあ、畏怖欲が満たされるねと血色の悪い頬を僅かに上気させた男が幾度か頷く。
    「ねえ、それでさ、彼女ロナルド君にも憧れているみたいなんだけど、どう」
    「どうって、なに」
    「どうってそりゃあ、君も行こうよって話」
     ざっくりと、胸に何かが刺さったような音がした。
     男のそれは、多分善意なのだろう。残酷なまでに優しい、与える者特有の高貴な善意。病弱だったお嬢さんが自由を手に入れて、叶えられる範囲の幸福がそこにあったから叶えてあげたいとする、優しさ。ノブレスなんとか。お貴族様とか、何かそう言った類のやつ。
     でもそんなのってないと思うのだ。お嬢さんはきっと、本当にドラルクのことが好きで、だから他でもなく、見合いという言葉を使ったのだと思う。お嬢さんは恋をしている。花開く乙女のように。でなければ、態々こんな男などに、直接電話をかけてくる筈もない。
     だからこそ俺は、ヒステリックな悲鳴を上げそうになった。耳障りでみっともない声だ。止めろと殴りつけて、行くなと縋りたい。我が家を壊さないでと、喚き散らしたかった。
     けれどそれは土台無理な話である。何故なら俺と男は、唯の同居人であるから。家族などと言うのは俺の妄言であった。泣き言を押し込めると、唇の端が戦慄く。不自然にならぬように、唾を飲み込むふりをして息を吸い、箸を取り落とさないように必死で力を込めながら、そうして瞼を持ち上げた。俺は、男へと向き直らなければない。それは素敵なお嬢さんの幸福の為であり、男の幸せな未来の為でもあった。嗚呼、解放を祈らねば。
    「でも、それってさ、一応はお見合いって話なんだろう? なら二人で行くのは失礼なんじゃないのか。相手のお嬢さんだって、憧れかもしれないけど、お前を好いてる訳だし」
    「ふむ、そういうものか」
    「多分だけどな。俺は見合いとかしたことないから、詳しくは知らないけど」
    「ロナルド君、見てくれは良いのにどうにもハムカツ男だからなあ」
    「お前マジで覚悟しとけよ、親子丼食べ終わったら砂絵にしてやるからな」
     男はそれもそうかと納得したようだった。あっけらかんと笑って、この話はお仕舞い。
     けれど日々は惰性の如く地続きで、だからなのかその日に納得した筈だった男は、あろうことか恋に破れたこの俺にあれやこれやと当日のことを相談してくるようになっていた。
     本当に覚悟をするべきなのは、俺の方であったのだ。
     当日の留守番の事、当日話すべき内容、或いは当日の手土産について。俺にそう言った経験が無いことを知っているくせに、君にも憧れている子だから一緒に考えてあげてなどと宣う男は柔らかく笑うばかりである。憧れの私たちが用意したものなら、きっと喜ぶだろうからと。そうは言っても俺は花束くらいしか思いつかない男だ。よく考えなくても戦力外である。結局男はその後、あれが良いこれが良いと自身でいくつか見繕ったようで、手土産は日に日にその量を増やし、当日に至るまでにはいよいよアメリカ映画に出てくる感動的なクリスマスのシーンのような有様になっていた。ツリーも吃驚な量だ。男の親父さんも遊びに来る度に沢山の土産を持って来る所を見るに、与えたがりの血筋なのだろう。
     それでも男は、時折相談を持ち掛けた。なんの足しにもならない俺に、である。その度に胸の奥にヘドロが湧く心地がして、俺はのた打ち回る様な痛みを知った。
    覚悟、とはこのことである。俺は、男の幸福の為に、自身を腐らせる必要があった。
    己の気持ちを殺し、三千世界をも焼いてしまわねばならなかったのだ。


    ♢♢♢


    「ロナルド君、ほら起きてもう日が暮れたよ」
     見合いの日。指折り数えて一週間後のその日、俺は休日を迎えていた。前日の退治依頼が長引き、明け方まで出ずっぱりだったせいで、宵口まで寝こけていたのだ。目覚めた時には、もう日が傾き始めているという有り様だった。数日前に親父さんが届けに来た上等な服に身を包んだ男は、もうすっかり余所行きと言った体だ。ぽやりとする他ない俺は、緩んだ口元に、寝ている間に垂れたらしい涎の気配を感じて袖で拭った。男が呆れたように笑う。唇がいつもより鮮やかな紫をしていて、妙な感じがした。身嗜み、化粧の香り。
    「ほらもう、しっかりしろ若造。お嬢さんの為にサインを書いてくれるんだろう」
    「うう……。起きてる、おきてるから」
     ロナルドウォー戦記の最新刊。先日発売されたばかりのその一冊の、初版と書かれた奥付を開き、ペンを執る。サイン本をプレゼントすればいいと言ったのは俺だった。本当は男に向けて言ったつもりで、サインもドラルクの名になる筈だったのに、それは良いと手を叩いた男は俺に寄越してきたのだ。何を言ってもにこにこと笑うばかりの男に呆れつつ、了承したのは昨日のことだった。お嬢さんへの後ろめたさが、少しでも無くなればいいとする、みみっちい浅ましさが無かったかと問われれば何も言えないが、少しでも喜んで貰えたらと思うのもまた本心だったから。退治に行く前、帰宅後倒れる様に寝ていたせいでこんなにギリギリになってしまったことに焦りを感じながら、それでも何とか、時間をかけて丁寧を心がければ、それなりに見れたものが出来上がった。お世辞にも綺麗とは言い難い字である。寝ぼけ眼ではより一層筆も震えるというものだったが、書き慣れたサインだ、間違えることが無くて良かったと安堵した。滲み防止に適当な紙を挟んで、手渡す。
    「じゃあ、戸締りをしっかりね。ご飯は冷蔵庫に入れてあるから」
     受け取った本を紙袋に入れ、男が立ち上がった。男とお揃いのタイを付けたジョンが肩に上ったのを確認して、扉が開かれる。廊下の向こう、薄暗い闇を背負った男は、うんざりするほど様になっていた。ガリガリで貧相な身体は、今日に限り衣装のお陰かスレンダーと評せるだろう。それから彫りの深い顔立ち。僅かに施された化粧が男を秘密主義の色男のように魅せていた。俺が見た事の無い、男の一面を知る。嬉しいようで、でもそれが俺の為で無いことに落胆する瞬間。手を振る男を見送る。戸を閉めると、静寂が満ちた。
    「なんだ、あいつ」
     呟いた音が反響する。ひとりぼっちの部屋で考えるのは、近くて遠い未来のことだ。
     漠然と、俺たちはずっとこのままいられるのだと思っていた。気持ちさえ隠し通せば、或いは俺が死ぬまで家族のような温かな何かは許されていくのだと。世界が終わるまでジョンは可愛くて、最後の時までデメキンはぶくぶくしていて、電気がある限り死のゲームも存在して、俺が灰になるまでメビヤツが門番をしていてくれる。そしてそこには男の姿もあるだろうと。けれどもし、この縁談が上手くいったなら。そうすれば信じた未来は霞と消える。そして俺には、その例えばがすぐそこまで来ているように思えてならないのだ。
    「なんだよ、あいつ。ちゃんとすれば格好良いじゃん」
     夕飯を食べる気にもならず、戻ってから食べるからと、誰にでもなく言い訳を溢して事務所を出る。どうすればより良い未来になるのかを、多分俺は考える必要があって、そしてそれは、浮かれた思考で放棄し続けて来た愚か者へのツケだった。恐るべき恋愛脳。俺はポンチな吸血鬼共にも負けず劣らずな浮かれ具合だったらしい。見たくない未来を見ずに、信じたいものだけを見ていたこと。けれどいつまでもそうであってはいけないのだ。
     男が離れていく未来を、俺は知らなくてはならない。男には、男の幸せがあるのだから。
     向かう先に宛は無い。唯、もっと静かな、男との思い出の無い場所が良かった。事務所では、男の気配が強く残り過ぎていたから。あそこは、考え事をするには余りに感傷的になりすぎる。非番の呼び出しを想定してスマホは持ってきたが、それだけ。上着のポケットに入ってたのは千円札が一枚と、小銭が少し。行ける所に限りはあるだろう。何処に行こう、何処なら良いだろう。新横浜の夜は賑やかで、それでいてどこか無感動だ。温い風が纏わりついて、さっと通り過ぎていく。それで良かった、それが良かった。
     あてもなく歩いて、一体どの位経っただろう。
     ふと立ち寄った路地裏で、俺は一軒の花屋を見つけた。周りは雑居ビルばかりで、客の姿も無いその店はどこか浮世離れしたような独特な気配がする。けれど、俺が歩みを止めたのはその気配の所為でなく、店頭に並べられた花の中に、見覚えのあるものがあったからだった。黄色い六枚の花弁を持つその花からは、金木製にも似た甘い香りが漂っている。
     それは、ドラルクがお嬢さんの為に誂えた花束のものと、酷似していた。
    「何か、お探しですか?」
     つい、ぼうっとしてしまっていたのだろう。声をかけてくれたのは一人の女性だった。エプロンがドラルクの物に似ていると思っている内に、彼女の歩みは俺の元へと向いた。
    「え、いや、その……」
    「フリージアって言うんです、そのお花。可愛いですよね」
     慣れない場所で声をかけられ狼狽えていた俺に、女性はそっと微笑みかける。穏やかそうな笑顔からは、彼女の人柄が滲み出ているようだった。黄色い花は、フリージアと言うらしい。普段知ることのない知識に、へえと声が漏れる。私もこの花が好きなのだと笑う彼女は、店主であり、一人きりでこの店を切り盛りしているのだと言った。
    「プレゼント用ですか? それともご自宅用に?」
    「いえ、すみません。購入しようと思っていたのではなくて……」
    「そうだったのですか。私の方こそ、早とちりしてしまって申し訳ないわ」
     慌てて首を振ると、彼女も同じような仕草をして見せた。
    それがどうにも可笑しくって、だからだろうか、つい口が滑ってしまったのは。
    「実は俺の知人が、この花を好きなようで、それでちょっと目に留まったんです」
    「成程、お好きなんですね」
    「多分ですけどね。人にあげる花束にも沢山使っていたようだから、そうかなって」
    「嗚呼いえ、そうではなくって貴方が」
     その人のことお好きなんでしょう? 彼女はそう言うと、悪戯っぽく笑った。ちいちゃい子が級友を揶揄うようなそれではなく、年長者がみせるそれ。俺は目を見開く。
    「えっ! いや、そうじゃなくて、何と言うか、違うんです!」
    「うふふ、お顔が真っ赤。隠さなくたっていいのに」
    「隠すとか、そんな……。あいつには素敵な相手がいるから、それだけです」
     彼女は思いも寄らないといった体で口元に手を添えた。あら、と吐息交じりの声がする。
    「片想いなんですね」
    「そんな良いものじゃないですよ、子供じみた独占欲です」
     だから早く忘れてしまいたいのだ。
     俺は、自嘲した。あいつのことを忘れ、頭をクリアにして今後について考えたいとする歩みだった筈なのに、気付けばどうしようもなく男のことを思っている自分がいたからだ。
    「……もし、貴方さえ良ければ、奥でお茶でも如何ですか?」
     俺が気分を害したと思ったのか、彼女は俺の手を引いた。水仕事をしているせいか、その手はひんやりと冷たい。その割りにささくれ等はないから、手入れを欠かさない真面目な人なのだろうと思った。客商売は身嗜みが大切だとはいつかの男の言葉だ。すらりとした、女性の手。白くて細くて、少し筋が目立つ、まるであいつのような手。
    「いえ、あの、俺、もう行きますから」
     気を使ってくれた彼女には悪いが、俺は、一刻も早くここから立ち去りたかった。
     此処には男のことを想起させるものが多すぎる。視界に入れておくのが辛かった。
    「待ってください、ロナルドさん。若き、退治人さん」
    「え?」
     彼女の言葉に踏み出した足を止める。俺は、彼女に名乗っただろうか。或いは顔が割れているにしてもどうして今、このタイミングで? 胡乱げな目を向ける。
    「私は吸血鬼、君が為。きっと貴方の為になってみせます」
     配達に出ることもあるからこれで良いのだと言った彼女は、店先に「暫く店を留守にします」と書かれた貼り紙をすると、俺を連れ、さっさと店の奥へ進んでいった。もし何か御用の方がいらっしゃったとしても電話してくれる筈だから、とは彼女の言葉だ。
     ガラスのケースやバケツ、段ボール箱の隙間を縫うように進んだ先、少しばかり小上がりのようになったそこには座布団が二つ、置かれていた。話をするにはお誂え向きだが、洋風ないでたちの花屋の中で、そこだけが浮いているように思う。どうして此処だけ和風というか、ちょっとばかしレトロチックなのだろう。至極不思議そうな顔をしていたらしい俺に、彼女は私の趣味ですと笑ってみせた。出されたお茶は、湯呑に淹れられている。
    「先に名乗れば良かったですね、警戒させてしまったようでごめんなさい。改めまして、私は吸血鬼、君が為。古い吸血鬼ですが、年の功で思い出話と言うか、ちょっとした知識が多いというだけで、これと言った能力はあまりありません。精々小さな術が使えるだけ。だからどうかそんなに身構えないで。私は、ロナルドさんのお力になりたいだけなんです」
    「力?」
    「私の能力は、辛い気持ちを閉じ込めるもの。貴方の為に、お手伝いさせてくれませんか?」 
     手渡されたのは浅葱色が透き通る、美しい細工の瓶だった。今はまだ、唯のガラスの瓶ですよ。これから私の能力で、その瓶に術をかける所だから。彼女の指が、瓶をなぞる。
     長く、ながく生きてきました。そう私、見た目よりも、うんとおばあちゃんなんです。
     此処に住んでもうどのくらいになるかしら。各地を転々としてきたから一概には言えませんが、半世紀は過ぎたと思います。だから貴方の活躍もよくよく聞き及んでいますよ、若き退治人さん。いつもご苦労様です。若いのに本当に立派ねえ。
     私の一族はヨーロッパの出で、父に一目惚れをした母が駆け落ちをして日本にやって来ました。そこで私が産まれたの。父は人間でしたから、もう随分と昔に亡くなったけれど、寂しくは無かった。母が居たから。けれど、母は父の死をそれはもう酷く悲しんで、そうしてダンピールだった私を吸血鬼にしました。もう誰とも、離れたくなかったのでしょう。けれど、父の居ない穴は大きかった。母は次第に虚ろを抱き始めました。長く生きる吸血鬼にはよくあることです。少し、疲れてしまう。頭がね、少々お馬鹿さんになってしまうの。母もそうでした。私は、そんな母を救いたかった。だから、この能力を得たのです。
    「それから私は、少しでも誰かの役に立ちたいと思って生きてきました。長い一生の中で出会う、身の回りのほんの僅かな人々を助けたい。貴方もそうです、今日であった貴方」
     力を悪用し、警察の御厄介になったことはありませんよ、そう言う彼女に陰りは無い。
    「それって、どういう」
    「私は純潔の吸血鬼ではありません。獏は分かりますか?」
    「えっと、あのアリクイみたいな、夢を食べる?」
    「そうです、よくご存じでしたね」
    「職業柄、一通りは調べてありますから」
     本当はドラルクがやっていたゲームに登場したから知っていただけなのだが、何となく言い出せなかった。小説家先生ですもんね、と言う彼女にいたたまれなさが沸き起こる。
    「私の祖先には獏がいます。獏と交わった吸血鬼が子を成し、幾代か続いた後が私です。姿は吸血鬼ですが、力は受け継がれた。だから私は血の他に、人の悪夢や感情を食べることが出来るのです。不安や、苛立ち、焦燥。叶わない恋への切望も。術もまた同義です」
    「気持ちを食べる、術?」
    「ざっくり言えば、吸い取る為の瓶を作ります。消臭剤とか除湿剤のようなものですね」
     手の中に納まっている瓶を見つめる。中には何も入っちゃいない。
    「いつもは良くない夢を見るからと不眠に悩まされている方や、緊張しやすく不安症な方にお渡ししています。お花を買いに来てくれたお客さんや、知人の紹介ですね。とは言え数はそんなに多くありません。気持ちを食べるって、何だかちょっと怖いでしょう?」
    「そんなことは……。吸い取ったものは瓶の中に?」
    「はい、結晶になります。瓶が一杯になったら渡して下さい、私が責任をもって頂きます」
     瓶に吸い取られたものは結晶となる。消えてしまう訳ではなくて、要らなければ彼女に渡すという形らしい。そうすれば彼女が食べてくれる。悪い夢でも、要らない感情でも、綺麗さっぱり食べてくれるというのだ。人にもよりますが、その大きさの瓶でしたら一ヶ月程で丁度一杯になる方が多いですね。お代は結構です、私のご飯になるだけですから。
     彼女は瓶を、綺麗な巾着に入れてくれた。夜明けのような薄い水色をした巾着。
    「気になるようでしたら、いつでもいらして下さい。日が暮れたら、お店を開けますから」
    「ありがとう、ございます」
     見送ってくれた彼女に手を振り、帰宅の途に着いた。辺りはもうすっかり闇に染まっていて、路地裏は不気味なほど静まり返っている。場所を覚えておく自信が無くて、マップに登録をしておこうとスマホを取り出せば、時刻は十一時を過ぎていた。知らぬ内に、随分と時間が経っていたらしい。客商売の手を止めて申し訳なかったな、と思っていると、スマホが震えた。ドラルクからのメッセージのようだ。何かあったのかと急いで確認する。
    「……今日はこちらに泊まります、凄く楽しいよ、君も来れば良かったのに」
     お土産を持って帰るからいい子でね。
     全く、心配して損をした。ご丁寧に、蝙蝠が躍るスタンプまで添えられているのを見て、溜め息を吐く。そりゃあ楽しいだろう。好意を寄せてくれるお嬢さんとの食事会だ。
     それでも、何となく嬉しかった。楽しい食事会の最中でも、俺のことを気にかけていてくれるということが。また一つ男を好きになって、そしてそんな自分に落胆する。
    その時、不意にからんと音がした。何か固い物を転がしたような音。それは俺の手元から聞こえたように思う。手の中には、空色の巾着。その中には、浅葱色の瓶が一つ。
    「本当に、結晶だ……」
     そっと取り出した小ぶりな瓶の中、透明な石のような物が見える。暗くて少し見え辛いがころんとした小さな結晶だった。疑っていた訳ではない。唯、何と言うか感慨深かった。
    「これなら、きっと」
     俺が瓶に願ったのは、恋心を吸って貰うこと。
    男への想いが少しでも無くなれば、男の門出を心の底から祝ってやれると思ったのだ。
     活路が見えたような気がして、気分が高揚する。
     結晶は、まるで吉兆の印のようだった。

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